土鍋と過去とスポ根ドラマっ!(二)
さあっと辺りの世界が変わるように、薄い窓ガラスの向こう側から一切の熱を持たない硬質の光が差し込んでくる。
青白い光に闇が追い払われると幼い少女だけが眠る部屋には、寂しげな部屋の様子を描いた絵画の空白部分にまるで誰かが新たに描き足したにも似た静けさで、そこには一人の男の姿が加わっていた。
横合いから侵略するように差し込める光がその身体の線を描き、背中に垂れた一つくくりの髪が前に流れて、男がふっと身を傾けると照らし出す光もまた彼の輪郭をこぼれ落ちる砂のように斜に流れる。伸ばした手で静かに眠る少女の肩元まで薄いかけ布団をあげた。
用を成して布団から離れた手の、骨ばった長い指先は少し思案したように宙にとどまる。
寄る辺のなかったそれは、しばしの時を有してからやがて覚悟を決めたらしく動き出し、触れるとそのまま絡みつくような弾力のある巻き毛を、くしゃっ、とかきあげ一撫でしてから、男は音もなく部屋を出て一階に降りていった。
まだ帰らない子ども達を待っているのか、薄明かりを点す礼拝堂の入り口近くの椅子に腰掛けて、頼りない一つのローソクだけで編み物をしていた老シスターは顔をあげ、こちらを見て驚いたように目を細める。
「親愛なるシスター。貴女の家に無断で入り込んだことについてまず深く謝罪させてください。このような状況でお目にかかることの無礼は弁解のしようがなく、貴女が不信感を抱くのも当然のことかと存じます。ですが、私は私の命と同等の重みをたくした剣と、永久の尊敬を誓う聖カリスクの名にかけて。この教会に関わる全てのことにたいし不埒な思いを抱いてここにいるわけではありません、どうかそれを信じてください」
まるで高貴な女性を迎えるかのように、片膝をつき、左手でマントを掴み横に広げて、恭しく述べる姿に彼女は目元を和らげた。
「信じましょう。神の家で偽りの言葉を吐くには無理なほど、あなたの言葉には誠意が溢れているように思いますわ。――ただ、私にまことの名を告げられないことだけが、少し不思議です。その佇まいに、振る舞い、お姿はここが薄暗いせいでよくは見えませんが、あなたはその名を持つことを一切恥じる必要のない、高潔な騎士の方であることに間違いがないと思います」
立ち上がり薄闇の中を歩み寄って、極めて丁重に男は頭を下げてから言った。
「騎士ではありません、私はレザー・カルシス。何一つとして定まった肩書きなどは持たぬ、一介の旅行者です。無作法にも突如現れ、このような不躾な質問であなたを戸惑わせることについては幾たびの謝罪を申し上げても尽きぬこととは存じますが、一つお尋ねしたいことがあるのです。この教会の子ども達に関わることです。無礼をお許しください、シスター。少しあなたのお手間を割いて、それを尋ねる許可を私に与えてはくださいませんか?」
一拍を置いて、編み棒を掴む手がそれをそっと机に置いた。彼女は立ち上がり、それから唐突にこの教会の内部から現れた身も知らぬ青年を招いた。
海の香りをのせた風が吹いた。
青い空、青い海に降り注ぐ良く晴れた太陽と鮮やかに描かれた光景には少しそぐわない、触れれば消えてしまいそうな、雪色の細い髪がさらりとそれにさらわれて後ろに流れる。
それがくすぐる頬も、一瞬眼前を塞いで切なげに揺れる赤い瞳も、白い霞は途切れさせてしまう。
道路の向かい側にいた三人組みの青年達は彼女に気付いた瞬間に、どこか落ちつかげなく互い互いをつつきあい、顔を見合わせあって興奮したように話し出した。
「おい、あれ見ろよ」
「――可愛い。こんな田舎町には珍しいな。ちょっと若いが、全然許容範囲だ」
道の端の方で立ち止まり身体を反転させて、たとえ言葉を発せずとも、雄弁にその憂いを語る表情で来た道を振り向く少女は、雑多な街中で自分の在り処や自分の意志を見失うまいと必死にしがみつく故に周りを見ることがほぼ不可能に近い人々の視線をも捕らえて心を揺るがす。
凛と上品に整った横顔は彼女の外見上の幼さを全くなくして、どこか遠い所を見る眼差しは不思議に透き通りそして霧霞む。
堪えきれなくなったかのように、道の横側からずかずかと彼女をめがけてやってきた若者達が少女に声をかけた。
少女は初めは拒否しようとしたが、どうやら冒険者らしいと見てとって軟化した。言葉巧みに、身振り手振りや多数での気さくさを持って懸命に彼女の注意を引こうとする。
「ねえ、君、一人旅? 危ないよ。この街は結構、揉め事が多いらしいよ」
「そうそう。さっきの広間の事件知らない? あのアシュレイ・ストーンが大騒ぎ起こして怪我人まで出したってさ」
しかし少女は反応を見せなかった。高名な冒険者の名を出してもきかないかと、一人が方針を変えて
「街の孤児院の奴らが凄く質が悪い真似ばかりするとかさ、ともかく一人は危ないみたい」
「孤児院……?」
それまで肩を落としていた少女はふと顔をあげた。
「私、先ほど大切な物を子ども達に盗られたのですが……」
「あーっ、それきっと孤児院の奴らだよ。な? 質悪いだろ」
「あの、孤児院とはどちらに? どうしても取り戻さないと……」
「それは難しいと思うな。奴ら、逃げ足も速いし、すぐにうっぱらったり壊したりして、盗られたもんで、戻ってきたものはないってさ」
その言葉に少女は完全に打ちのめされたようだった。青ざめても綺麗なその白い顔は小刻みに震えて唇を噛み締めた。
「な、一人旅がどれだけ危ないか、分かったろ」
「君みたいな可愛い子がさ」
「……一人旅ではないですー。連れがいたのですが、この街ではぐれてしまいまして」
ショックで彼女は泣き出しそうにも見えた。赤い瞳が鮮やかさの膜を被ったかのように煌めいて潤む。可憐な少女にここだとばかりに畳み込んで
「そりゃあやっぱり心配だよ。ね、元気出して。じゃさ、俺達が君の連れになるから。一緒に旅しよ?」
「あ、それがいいよ。俺達は役に立つよー。なんたって冒険者だし」
「役に立つ……」
ぽつりと虚ろに繰り返した少女にうんうんと笑顔で頷いた彼らだが、しかし瞬間にそれまでがっくりと肩を落としていた少女はキッと顔をあげた。
「役に立つとおっしゃりましたが、ではあなた方は一人で何十人の盗賊に勝てますか? 都合よくも私の実験体として適するお師匠様の魔法にかかっていますか? レザーさんはその二つの条件を見事にクリアして有り余るほどの方でした」
言い切って突然の迫力に押された彼らなどを気にせずに、メイスは新たな衝動に突き動かされるように
「いいえっ、そんなことはどうでもいいのですっ! たとえ子ども一人にも勝てなくても、実験体として価値がなくてもいいのですっ!! ああっ、いなくなって初めて気付くなんて私としたことがまったくの即物的である自らがそれを俗物と呼び現ししかし誰もがそうであることを不自然に隠してその行為自体が隠すべき恥辱であることにも気付かないような愚かな人間と同じ事態に陥るなんて! ―――けれど、過ぎてしまったことを悔やんでも仕方ないのですそう私はこのように愚かしき人間の轍を踏む事態に陥ってから初めて気付きましたっ! 私がどれほど、どれほどレザーさんをっ……」そこで握りしめた二つの手を力を入れすぎるあまりぶるぶると震わせて、少女は容易に振り切ることは出来ぬ無念がとぐろまく声音で言い放った。
「どれほどレザーさんを食べたかったのかっ!!」
人が溢れる街中を少女特有のかん高い声がくわんくわんと響く。
「食べたかったんですっ! 一口でも良かったっ、ああっやっぱりかじっておけばよかったですっ、レザーさん自力で転がることが出来たから一口下手に味見をして警戒されればことが面倒だと変に二の足を踏んだのがまずかったのに私としたことがそれほど臆病になるほどにレザーさんが食べたくて食べたくて仕方なかったというのにっ!!」
ひとしきり喚きが静まると、彼女に声をかけてきた青年達はその前から姿を消していたが、それは特には気にならずメイスは、何かを恐れるようにこちらを見やる人々の中を、億劫げに足を動かした。落胆と絶望の欠片がぽろぽろと可愛らしい口からこぼれ出る。
「人ごみで匂いは分からないし、お師匠様の力もさすがに薄れて来ていますし、本当になんて忌々しい街なのでしょうか。元来人はウサギ小屋などと兎の住処をもっとも卑しく貧しい家の比喩表現として用いますが、非効率的でごみごみと固めあったこのような場所が彼らの言う居心地の良い住処であるとしたなら、そのような言を作り出したことは全く持って失礼かつ自らの愚かさの露呈行為以外の何者でもないところですー」
言って忌々しそうに立ち並ぶ家々を、行きかう人々を、今、港から出るのであろう先に見える白い帆船の帆を全てをメイスは睨みつけた。それから再び歩き出す。
「どうしてこのような街にわざわざ寄ってしまったんでしょうかー。レザーさんとははぐれてしまいますし、手がかりは一向につかめませんし……」
ぶつぶつと呟きながらふと彼女は何かを感じ取ったように足を止めて、辺りを見回した。やがて小さな顔がぴたりと止まった先は、簡易の雨避けの布を骨組みに被せただけの瀬戸物市だ。
滝下から泡が生まれるように、メイスは唐突に先ほどまで自分がぼやいていたこの街に寄った理由を思い出した。
足を踏み入れる。間違いようもなく、自らにもかけられた師の魔力の気配は近くなっていた。吸い寄せられるように奥に進んで行ったメイスはそこでばったりと彼女を引き寄せたものを発見した。
「……お師匠様の……魔力」
どこか呆然とした呟きが消えぬうちにいつの間にかにゅっと横から
「はい、綺麗なお嬢さん、何か気に入ったものがありましたかね? こんな可憐なお嬢さんに使われるならば商品も本望というものでしょう。特別お安くしておきますよ、さあいかがですか?」
「え、ええっと……」
メイスは白い髪をかきあげ、いまだに「それ」から視線を外せないように少しぎこちなく、けれどやがて「それ」を指し示し
「……あれを、ください」
「はいっ、毎度ありっ!! いやーっ、さすがにそんな綺麗な瞳であらせられる分にはお目が高いっ、これはいいですよ、叩いても落としても罅一つはいりゃはしません。一生持っていけること請け合い。お嬢さんがそりゃあ綺麗なお嫁さんになられるときももちろん持っていけますとも、何かに包んだ方がよろしいですかね」
「い、いいえー。そのままで……結構です」
受け取って金を払うと、威勢の良い店主の声を後にメイスは「それ」を抱えてふらふらと外に出た。
行きかう人々の熱気を浴びてようやく我に返ったように今度は幾分かしっかりとした瞳で両手に抱えた「それ」を見下ろす。少しだけ複雑な気分になった。
「………今度は食べ物ではなくて、残念です」
それからふと、彼女は気付いてぽつりと付け足すように呟いた。
「そう言えばこの街、素焼きの産地で有名でしたっけ……」
この地方では一、二を争う栄を誇る港街ウォーターシップダウンの市日の道路の真中で、大きな土鍋を抱えた少女が呆然と突っ立っていた。
世の中に溢れている何事にもありがちなことではあるけれど、それは最初はほんのつまらないことだったらしい。
もはや今更言うまでもなくここは近隣一の栄える港街だ。川の流れにも似て、人も物も珍しい生き物だってどどどっと集まって互いにすれ違い別れて行く。
習慣も価値観も違う行きずりの奴らがすれ違えば、見たことがないもの使い勝手も分からないものがやりとりされれば、街が奔放自由に栄えれば栄えるほど、そこには大小のトラブルが生まれる。
そのうちの一つが、奴らのせいにされた。まあ実際に些細なことだったらしい。した方だってまさかこんなことになるとは思わない、軽い気持ちだったんだろう。
流れただ通り過ぎていく者達が放り出した小さな揉め事や厄介ごとはぽいと放り捨てられると、水が高地から低地に流れるように、一番弱い立場であるこの街の孤児達に集まっていった。
それだけの話だ。だけどそれが便利だと目をつけられた。あんまりこんな言い回しは使いたくはないが言おう。
つまりやつらはこの街のゴミ箱にされたんだ。こんなちっぽけな一つの紙くずだからと、誰もがなんの良心の呵責も覚えずに自らのゴミを放って投げ込むゴミ箱に。
この街でなしたことは小さな悪戯からいささか洒落にならないことまで全部が奴らのせいだと囁かれた。他人から聞いた話に、自分のささやかだと思っているゴミを追加してまた誰かに渡して。
それは続けられるうちにとんでもなく勝手に広がってしまった伝言ゲームだ。しかも意図的に内容を変えてる奴もいるんだから質が悪い。
それで街の奴らは、ゴミ箱だと思っているから追加のゴミも好き勝手に投げ込んでいい。ゴミ箱だと思っているから、好き勝手に蹴飛ばしても構わない。そう考えたらしい。
お偉いさんのゲームの中の、世の中のことなんて知らねえよとお気楽極楽冒険者でも、いつも人に戻りたいと叫ぶ俺だってたまには人間が嫌になる。人間であることも嫌になる。メイスの人間蔑視から来る意見にだって賛同してしまいたい時がある。
けどそこで立ち止まってもいられない。
俺はやっぱり人間であるわけで、虐げられたあいつらだって人間なんだ。そこのところはきちんとわきまえて、人間不信で目をそらす前に、まずは物事を見据えなきゃならん。
「ってわけで、お前ら、起きろ!」
置かれた棚の窓からさんさんと朝の白い空気が入り込んでくる部屋の中で俺は大声で、けれど一階のシスターには聞こえないように叫んだ。
まあ、あのシスターは今は外に出て教会の周りを掃除しているから大丈夫ではあるだろう。
メイスは結局、見つからなかったようで残りのガキどもはすごすごと本当に夜が更けてから帰ってきて、シスターにこっぴどく怒られた。
なかなか厳しいところもあるもんだと思ったけど、確か教会なんてもんは朝の礼拝とかがあるはずだから、とっくに日が上がったのにまだ寝かされている辺り、睡眠時間が足りないと大目に見ているんだろう。
面々はまだ眠そうに身を起こす気配がないが、ちゃんと定時に眠ったファイバーは元気に飛び起きて来て
「おはよう、レタスさん」
「レ、ザー、さ、ん。もう一度、嬢ちゃん」
「ふぁ、い、ばぁ。もういちど、レザーさん」
にこっと笑われるとどうにも弱い。最近、どこぞの鬼な嬢ちゃんばっかり相手にしていたせいか、純粋に可愛い嬢ちゃんは面食らう。
「……おはような、ファイバー」
「うん」
ぶかぶかのカーディガンを引っ掛けたファイバーは、みんなを起こすの? とまだベッドで呻いている仲間を見回した。
俺が頷くように前方に少し揺れると、ふわああと不明瞭な感嘆の声をあげただでさえでかい目をさらに大きくさせまるで讃えるかのよう手を叩いてくれた。……嬉しいような、悲しいような。いや、悲しいか。はっきりと。
「みんなーっ、おきてよっ、レザーさんがなにかいってるよー。しかもうなずいてるよーっ」
どっちかと言うと、俺の要請よりかは自分が目撃した後者の事実を知らせる方に興奮して声を強め、ファイバーが東方に伝わるワニの背に乗って島を渡った白兎、という伝承のようにベッドからベッドへと飛び移り、そこにあるふくらみを踏みつけていく。
しかし、手ごわい奴らは踏まれても呻くだけでぴくりとも起きようとしない。
そんな中、ぼさぼさ頭でそれでも真っ先に起きたのはヘイズルだった。
ベッドに上半身を起こし、もろにわき腹を踏んづけたファイバーの肩を掴んで引きとめ、利発そうな目も今は少しとろんとしている。
「はいー……?」
「起きろっ、全員起床! やることあんだからさっさと起きて、服を着替えて、飯を喰えっ!」
「えーと……」
しばらく目をごしごししていて、ようやくヘイズルははっきりと目を覚ましたように
「何か不都合でもありましたか? レザーさん。ファイバー、お前、ちゃんと霧吹きやったか?」
「いらない、っていったよ?」
「霧吹きは関係ないっ、起きろっ、いいから全員を起こせっ」
俺の突然の要請にヘイズルは戸惑ったようだが、訳があるのだと了解してくれたのかファイバーに何事か言った。
するととてとてとファイバーが駆けて行って、すぐにたっぷりの水を入れたふちの広い桶を持って帰って来た。……危なっかしいな……。
うん、と頷いてヘイズルがファイバーを呼び寄せて、一番手近なベッドで寝そべるガキの毛布を剥いで後頭部をひょいと鷲掴みにすると、なんといきなりファイバーが持つ桶にそのまま突っ込んだ。
一瞬の声にならない悲鳴と、がぼっと何かがあわ立つ音がする。それと共に頭を突っ込まれた奴の身体がじたばたと動き始めた。おいおい……
それを見計らってヘイズルが抑えていた手を緩めると、すぐに桶からびしょぬれで顔を出したそいつの頭に、タオルを放る。
咳き込み、何事だと辺りを見回すそいつの目には確かにもう睡魔はどこにもない。なるほどこれなら顔洗いと髪洗いと起床とが一気に出来るな。にしてもたくましいというか荒っぽいというか……。
見事な連携プレーですぐに奴らは目覚めて俺の前に並んだ。
ファイバーとヘイズル以外に、髪からぽとぽとと雫を垂らしているのがほとんどだったが、奴らはあまり気にしていないようなので俺も気にしなかった。
「で、なんですか? レザーさん」
「とりあえず五分で飯喰え。それから、全員っ、即効でシスターの手伝い始めろっ!」
俺の一方的な言葉に一瞬奴らは不思議そうな顔をして、それからぴんと思い当たったように髪から飛沫を飛ばしていっせいに窓に駆け寄った。狭い隙間に押しかけるものだから、おかげで幾人かはベッドの狭間で潰れている。
「あーっ、もうっ、シスターいいって言ったのにっ」
窓の外から一目見るなり、ガキどもはくるりときびすを返して我先にと部屋を飛び出して廊下をがたがたと駆け下りて行く。それで誰かが足を滑らしたんだろう、ちょっと耳を塞ぎたくなるような激しい音と悲鳴が巻き起こった。
「あーあ」
もう諦めているのか、ぽつんとここに残ったヘイズルが少しそばかすが残る頬をかいてため息を吐き、ファイバーがよいしょと俺を持ち上げた。
それから気付いたようににこっと笑う。俺も笑った。見えてなくても、レタスには笑いを表現する器官がなくても、俺は笑った。
人間に絶望すれば人間に救われる。それは一進一退でどちらも極端に決められやしやしない。
様々すぎて区別するにも疲れる人間達を静観してるのは疲れるが、やっぱり、一くくりに完全に完璧にそんなにすぐは、見捨てようとするもんじゃないんだって思い出しただけで、とりあえず今は充分だ。
昨日は薄闇がかかっていたせいでよく分からなかったが、教会を取り巻く壁は結構に惨憺たる有様になっていた。
灰色の漆喰のそれは一部が崩れ、後は一目でそうと分かる嘲笑や罵倒の文字が折り重なるようにしてそこに描かれている。
それがこいつらに向けたものだと分かっている以上は何一つとして口にしたくはないが、死ねとか消えろとかなんて類の言葉はまだ大人しいって基準くらいは言っとくか。
こんな下らんことで、書くという行為を貶める馬鹿どもは、当然文字の強さを知ろうともしやしない。奴らの耳を引っ張って僧侶であり聖筆とも呼ばれたソルド・ティナーの言葉を聞かせてやりたいもんだ。
「文字を記すという行為は、果てしなき力を秘めて、尊く、反面とても恐ろしい行為でもある。言葉は耳に届かなければかき消える。けれど今、書き出した私のこの文字は私が神の元へと旅立った後も、何百年立とうともこの地に在り、誰かに良き影響も悪き影響も与えることが可能なのだから」
ま、偉い坊さんの言葉を、こんな下卑た行為に当てはめようとする時点で坊さんに失礼か。
立派な奴が立派だと讃えた行為も使い方と使う者次第で、ただの悪意と身勝手な鬱憤の晴らしどころにまで貶められる。
人は多分、反面、誰かを傷つけることがとても好きな部分があるんだろう。だけどそれは社会的にも人道的にもそして自分にだって認められず、いつもはこっそりと押し隠しているけれど、ちょうどいい生贄が見つかって正義を背負った気になった瞬間大攻勢になる。
遠くから石を投げて傷つけて、当然なんだと有頂天で世論に乗って、自分の目では何一つ判断しようとはせず、尻馬を叩いて誇る。
俺の今までの経験から言えば孤児院のガキってのは馬鹿では決してない。
正式な学こそないが、他の子供よりも生きることに困難であり、強かであることが奴らに年不相応な知恵と鋭さを身につけさせる。たとえ文字が読めなくとも、この行為の裏の悪意を感じ取ってない奴はいないだろう。
しかもここのガキどもは尊敬すべき婆ちゃんシスターの下で読み書きを習ってるんだから、こういう時は知識も仇になる。
知らないふりは、ちいと疲れる。人間は他人を偽る生き物ではあるが、それに輪にかけて自分自身をも平気だよと偽らないといけない時は、疲れる。
でもガキどももシスターもそれを続けて、壁に描かれた悪意を笑って平気なふりで流していく。手を貸してやりたかったが、なにしろ出来ることと言えば表面の葉をひらひらと揺らすくらいの、手も足も出ない悲しきレタスの身。
それに万一手伝えたとしてもこいつらは拒むかもしれない。
確かにシスターとガキどもが力をあわせて壁を掃除する光景はどこか、邪魔をしてはいけないと、神聖さをもって他を拒むようなところがあった。
力も背丈も足りないで、直接的な壁磨きは手伝えないファイバーが俺を持ってくるくると壁を見回って、特にひどい箇所を指摘して他の子どもに知らせている。
唯一、多分、ファイバーだけは書き殴られていることの正確な意味が分からないのだろうが、それでもその文字という攻撃で塗りつくされた壁から向けられるものを感じ取るのだろう。
たまにぎゅっと怖そうに俺を抱えた手に力を込めて壁に向かって居心地が悪そうに後ずさり、けれど思いなおしたように再びひどい箇所を捜したり、を繰り返していたが、教会の真後ろに周りこんだとき、ふとファイバーは止まり「それ」をぽかんと見上げた。
「レザーさん、あれ、なに?」
「ん? なんだ」
よいしょとファイバーが俺に見せるように頭の上にまで両手で俺を押し上げる。まるでそれ自体が紋様となった壁の中で薄汚れた手書きの紙が貼り付けてあった。
それもまた中傷の類かと俺は身構えたが、そうではなかった。それは個人への攻撃ではなく、ただの大多数への発信だ。
いささか場違いに思えるそれは、きっとだいぶ前に張ったのだろう。
「別にたいしたもんじゃねえよ。ただ――……」
言いかけてふと俺は言葉を切る。
「ファイバー、この紙、取れるか?」
「えーと」
ファイバーは押し上げていた俺を降ろして、紙を見上げた。そんなに高い場所に張ってあるわけではない。
それから左手に俺を抱きこむと、覚悟を決めたようにぴょんと垂直に飛んだ。あどけない手がひらひらとはがれかけていた端を掴んで壁からその紙がはがれる。
「わっ」
小さな足で着地しようとしたファイバーがその瞬間、バランスを崩して、引っ繰り返った。
咄嗟に両手を広げたせいでぽーんと放り出された俺は、地面に叩きつけられると覚悟したが、背後でさっと気配が生まれ固い石畳ではなく誰かの腕に受け止められた。
「大丈夫ですか?」
ヘイズルだ。こちらに向かってくる途中だったヘイズルが、放り出された俺を見て膝を曲げ低くしゃがみ込んで両手でしっかりキャッチしたらしい。いい動きだ。
「なにしてるんだ? ファイバー」
くるりと後ろ向きに地面に横になってるファイバーはヘイズルを見て身を起こし、こっちに駆け寄って来て両手を差し出した。
「レザーさんは、ファイバーがもつの」
返して、とでも言いたげなしぐさにヘイズルは一瞬面くらい、それでいて複雑な目で手の中の俺と一心に手を向けるファイバーを見返して俺をそっと返した。
手の中に俺が戻ってきてファイバーは嬉しかったようだ。ヘイズルには何も言わずにきびすを返して、たたたとかけて角を曲がってから俺に少し誇らしげに、掴んでいた紙切れを見せた。
「ね、レザーさん、ファイバー、ちゃんととったよ」
「おー、よく届いたな。」
「えらい?」
「偉い」
くるくると丸まった黒髪がかかる頬で、にこっと笑ってファイバーは地面にそれを広げて興味深そうに目を光らせてしゃがみ込んだ。小さな身体がのしかかるように邪魔して俺にはよく見えない。
「えっと……ス、ト……ば、しょ……」
途切れ途切れに読んでいたファイバーはちょっと難儀していたようだったが、急に顔を輝かせて立ち上がった。
「わかった、これ、知ってる。」
「ん?」
「これ、知ってる。ゆうめいなんだよ」
「なに? なんだ、これの何を知ってるって? 嬢ちゃん」
「ファイバー」
「ファイバー、それでこれ、有名なのか?」
「うん。あのね、これは―――」
ところどころで舌が回ってなくても、ファイバーはだいたいの要点を踏まえて説明してきた。ふーむ? ファイバーからそれを聞き終えた俺は少し機嫌がよくなった。
「どうしたの?」
「いや、ファイバー、これ持っといてくれ。ちゃんと失くさないようにな」
「うん」
ファイバーに大きすぎるんだろう、裾や袖を何重にも捲り上げたズボンのポケットにそれをしまいこんで、お手伝い再開しようね、と言った。異論はなかった。
そんなちょっとした俺とファイバーのしたことにも気付かずに、壁の回りにへばりつきせかせかと駆け回るガキどもはそろいもそろって本当に、すばしっこくて身が軽い。見てるだけでさしもの俺も目が回りそうだ。
さすがにこの人ごみの町で育っただけはある。俺はそれをじっと見ながらある考えを形にしていた。
そうこうしているうちに、とりあえず壁は文字がもう読めなくなるところまでになった。まあ滲んだような汚れ自体は仕方ない。
本当なら上からペンキで塗りつぶした方がいいんだろうが、何度もやられているらしく、ペンキ代が勿体無いのだそうだ。嫌がらせという頭に血が上りやすい状況の中で経済的、現実的な判断ではあるな。
皆で一汗流してから、朝飯を取る頃には机についたガキどもの中、シスターが俺をちょっと不思議そうな目で見てきて、どうやらガキどもの中で俺の持ち係に確定したらしいファイバーに、そのレタスは食べないのですか? ファイバー、と聞いてきた時は、尊敬に値する人物ではあると思うし、無理もねえと分かってるんだが、それでもやっぱり食料にうつっているのかと思うと悲しい。
しかし、滑稽丸いレタスには悠長に黄昏ている余裕もありゃしない。いいよな、人間は情緒や悲哀に浸れるだけの暇があってさっ。
ファイバーがそれにうんと頷いて答えた次の言葉に、俺は憂愁を帯びた世界から引き剥がされた。
「うん。たいせつなレザーさんだからたべない」
「レザー……?」
「そう。たいせつなつかいま――……」
さんと言いかけたところでヘイズルが素早く、片手を脇の下に差し入れてファイバーを椅子からすくいあげるようにさらった。ナイスだっ、坊主っ!
そして引っ込みどころがつかなくなったのか、上手く言い訳できる自信がなかったのか「じゃ、じゃあ、シスター。行ってきますっ」と口早に言って慌ててそのまま戸口へと駆けて行く。それを見てた他のガキどもが慌てたように
「行ってきますっ」
「行ってきますっ」
「行ってがはっ」
誰かまだ食い終えてないのがいるぞ。
若干、咳き込む奴も見られたが、ヘイズルに続いて次々に席を立ったガキどもが後を追う。
ヘイズルが掴みあげるファイバーのぶらぶら揺れる手の中から、どんどん遠ざかるシスターはあれあれと呑気そうにこちらを見ても、今日はみんなちゃんと時間通りに戻ってくるのですよ、とだけ言った。
はいはい。それはきちんと責任持って俺がさせますからご安心を、シスター。
しかしそれにしても。ふいー。カミサマに守られる神聖な教会の中でも、レタスの身は疲れるもんだ。
ようやくに抜け出してきて、慌てて追いかけてきた(中にはパンを片手に持った奴もいた)皆が合流すると、ヘイズルはほっとしたようにかつぎあげたファイバーを降ろして、
「ファイバー、シスターにはレザーさんのことは秘密だぞ」
「しみつ?」
また舌が回ってないが、ヘイズルはうんと頷いて
「そう。俺達があれだけ慌てたみたいに、シスターがびっくりしちゃうだろ。だから黙っておくんだ」
ファイバーが昨日の皆の驚きぶりを思い出したのか、やがてこくりと頷いた。こいつらの教えの聖母リディア信仰では、確か黙秘もまた罪かなんかになるような気もしたが……。
まあ、ガキどもを宗教の教え一色にするってのもぞっとしないからいいか。リディアだって母親だ。ガキがなにより可愛いだろうし、大目にみるさ。
街中は朝の海からやって来る潮の匂いがする霧に包まれて、まだ沈むように霞んでいた。
人々の数もまばらでたまに昨夜酔いつぶれてどこかの路地裏で眠ってしまったのかぼさぼさの風体の船乗りがふらふらと港へと向かって行く姿が垣間見るだけだ。
そんな街を朝っぱらからお子様は元気に特にあてもなく歩いていく。たまには霧の中に見える人影にびくっと身体を震わすガキもいたが、なんとか。
それから段々とどうして自分達はこんなことをしているのかな、と思い当たったようで俺を見てきた。全員の関心がこちらに向いたところを見計らって俺は奴らに向かい
「お前らは多分、大人に頼らずに生きる習慣が身についてるだろ」
へ? という顔が一様に浮かんだ。細い肩を寄り添わせて、それでもどこまでも駆けて行けそうな焼けた手足をしたガキどもを見回す。
「頼れるときは奴らに頼れ。だがな、頼れんときは自分らの力でどうにかしろ。それができるだけの根性も体力も精神力もお前らにはあるはずだ。なにしろ、そこいらのなよなよ坊ちゃまとはキャリアが違うからな」
「あの、レザーさん……?」
「やられっぱなしをどうにかしようってのは、悪くない方向転換だったが、その要素に不貞腐れを入れたのは駄目だった」
「……」
メイスから俺を盗ったことを言っているのが分かったのか、奴らの顔にさっと気まずげな後悔の色が浮かんだ。
「俺はメイスに関係があるが、別にメイスの物ってわけじゃない。だから盗んだことはもう俺、当事者が許すから不問にする。」
ヘイズルが覚悟を決めた顔で踏み出して背筋を伸ばして俺に頭を下げた。
「――ごめんなさい。レザーさん。俺が言い出しました。全部、俺の責任です。本当に申し訳ありませんでした」
口先だけじゃない謝罪はその奥に秘められた早熟な知性を感じさせた。人の中の時間は必要によって急かされ早められることがある。
「分かった。もうそのことはいい。やったことは結果的に感心しなかったが、方向性としては間違っちゃいなかったんだ。やられっぱなしで黙っているな。だだし噛みつくんじゃない。噛みつけばまた噛みつき返されるだけだ。お前らがすべきことは証明だ」
「証明?」
面食らってヘイズルが呟く。
「そうだ。ファイバー、さっきのあれを出してくれ」
言ったのでファイバーが四角に畳んだ紙切れを出してそれをはらりと広げた。なんだと見ようとしてガキどもが危うく押し合いへし合いになるが、さっとヘイズルが手を広げてそれを阻む。
「この街で開催される本格的なストローボールの大会。町長が主催者で、結構、大規模な催しらしいな。観光客も見物に来るんだって? 好都合だ。日にちは今から十日後。これが今ひとつだが、なんとかなる。」
「レザーさん、何が言いたいのですか?」
ヘイズルが聞いたので俺はにやっと笑った。……気分だけ、な。
「お前ら全員、これに出場して」
俺は一つ言葉を切って様々な顔を浮かべるガキどもをじっくり見回してから言った。
「優勝を掻っ攫うんだ」
降り注ぐ太陽がその赤銀色の髪に跳ね返り、青い空の下でひときわ華やかに見える。
その輝きに心惹かれた街の少女達は互いの袖をつつきあい、少し頬を染めてそわそわと指差し視線を交し合っている。
乙女達の慎ましやかな注目を浴びる、青年は憂いているようだった。
清らかな、けれど幾分塩味が混じる水を空に打ち上げる噴水の縁に腰掛けて、座り込む足の横に垂れる手は力なく、茶色の瞳が切なげに揺れている。
青年が空をあてもなく見上げる姿は一枚の絵画のように様になり、少し苦味の残ったため息を吐き出すたびに辺りの少女の心を騒がせている。
けれど彼女達の心をときめかせる一時を無残に破る無粋者が現れる。邪魔な辺りの人間を乱暴に脇に寄せてずかずかと近寄ってくる男だ。
押しのけられた彼女達は一瞬顔をしかめて、それから男の様子に気づくとぎょっとしてそそくさと身を引いて行く。
「アシュレイ・ストーン」
声は低く唸るようだった。赤銀色の髪の青年はちらりと声の主を見やり、ふーっと深い失望のため息を吐き出し首を横に振った。
「誰だか知らんが、今は放って置いてくれ。」
「置けるわけがねえだろう。昨日の報復、お前が泣いて這いつくばって謝るまでたっぷりとさせて貰うぜ」
昨日、の言葉に茶色い瞳をつまらなげに細めて
「ああ。誰かと思えば、昨日の迷惑バカか。怪我人に謝り倒してきたか? どうした? 顔が昨日よりも膨れ上がってるような気がするが。一日で不細工にも拍車がかかるのか」
そこでまたため息を吐き出して、見たくないと言うように視線をそらした。男はカッと気色ばむ。
「ふざけんなよっ、アシュレイ・ストーン! お前の奇行で欺いて隙つくようなこすい戦法はもう見えてんだよ」
「顔を近づけるな。悪いな、昨日の昼までなら別にお前が豚のような顔をしようが、眠りかけの牛のような姿だろうが、気にならなかったんだが」
ひらひらと追い払うように手をふって
「レザーを捜し求めている状態の俺の、存在の美意識にお前はあわない。レザーの姿を思い浮かべている目にとっちゃ、お前は視界の暴力だ。とっとと俺の視界から消えてくれ」
もはや男は言葉もなく、昨日の一撃で膨れ上がったこめかみの瘤がきゅうっと赤くなり、全身が怒りに震えた。
居合わせた誰かがあげた悲鳴と共に、振り上げた動作から一拍の間を置く事もなく襲来した拳を、赤銀色の髪の青年は腰掛けたままろくに見もせずにひょいと首を傾ける最小限の動作で避けた。拍子に後ろに吹き上げられていた水の柱に拳が触れて細かな丸い水滴が散る。
そこまで目を細めて気のなさそうに動いていた青年はふと何かに思い当たったようにやる気のない表情が一変してさっと立ち上がり
「――って俺が昨日、レザーを見失ったのはてめえのせいじゃねえかっ!」
急に激した怒鳴り声とともに左足でよろめいた男の軸足を払うと、身体をひねって飛び上がり無防備にさらされたその後頭部を体重をかけて蹴り飛ばした。
ふわり、とまるで体重がないような身のこなしで着地した赤銀の髪の青年とは対象的に、鮮やかなとび蹴りを喰らった男はなすすべもなく噴水の中へと倒れこんで、派手な水しぶきとぶくぶくと生まれる白い泡によって姿が見えなくなった。
「今度俺とレザーの邪魔しやがったら、重石つきで海に沈めてやるからな」
それだけ言い捨てると青年は憤然と歩き出したが、怒りが生んだ覇気も一時期のようで、やがて気落ちしたよう肩を落とす。
ぱしゃぱしゃと水を噴き上げる背後の噴水の中、後頭部にしこたま強い一撃を喰らった男からの動きはない。
「レザー……」
はあ、とまた一つため息をついて青年は足を止めた。昨日からすでに一ヶ月分のため息は消費したと思った。
「どこにいるんだ、一体……」
気弱さに包まれた頭が馬鹿な考えを生み、一瞬あれは幻聴だったのかともよぎったが、即座に断固と首を振った。その拍子に、財宝のように輝く赤銀の髪が落とされた日の光をぎんっと斬りかかるよう攻撃的に、辺りに跳ね返す。
「いいやっ! レザーが俺を呼ぶ声を、俺が聞き間違えるものかっ! 幻じゃないっ、錯覚でもないっ! 俺の耳はなんのためにある? 俺の目はなんのためについている。偉大な過去の王、イゾルデ=ラドクリフ一世に誓う、どんなざわめきの中でだとてレザーの声は聞き逃さないっ、どんな群集の中でだとてレザーがそこにいれば俺は見つけ出せるんだっ!!」
まだ日もあがりきっていないうちから、誰かが沈んでいるのかぶくぶくと泡が生まれ波紋で揺れる噴水で、一際目を引く容姿の青年が叫んでいるその数十歩前、何事か思案するように顔をしかめたまちまちの年齢の少年少女達がぞろぞろと通りかかっていた。
中で一番前方を歩く幼い少女はその両腕でしっかりと、一つの丸いレタスを抱えていたりする。
「なんか噴水の方、騒がしいね」
ぽつりと灰褐色の髪のガキが口に出したが、本人も特に気を引きたくて口に出したわけじゃなさそうだ。
思案が生み出した沈黙が少しでも紛らわせたらとの配慮だったが、賛同する者も興味を引かれた者もなくそのままとぼとぼと奴らは歩いて行く。
まあ、確かに。正当な反応だとは思うさ。少なくとも奴らは笑い飛ばしはしなかった。ただ重い荷物を背負わされたように、表情が冴えずに誰もが無口になった。
しばらくして誰ともなく街角で立ち止まる。ファイバーだけはいつも通りにてくてくと歩いていて、後ろの皆が急に立ち止まったことに数歩気付かずに進んでそれから振り向いてきょとんと首をかしげた。
「どうしたの? みんな」
無邪気な問いかけに、全員が顔を見合わせてそしてやっぱりヘイズルが出てきた。
「レザーさん。あなたのことは本当に、幾ら謝罪しても償いようのないことだとは思います」
いいと何度言ったって、こいつらはすまないと思うことはやめない。ここいらはガキらしくない。責任と権利が分かっている者の態度だ。
「でも、その、先ほどの申し出はあまりに突拍子というか、その、俺達には……」
「話がずれてるぞ。俺にすまないと思うから、申し出を受けたり、それを断るのに恐縮してどうする」
「……」
ファイバーがキョーシュク?と呟いて首をかしげた。
「――無理、です」
一言に、万感を込めてヘイズルは言った。
「情けない、言葉だな」
ヘイズルは頭を垂れた。言い返せばいいのに、何かをぐっと中に押し込める。
「無謀で無鉄砲で、がむしゃらで、そういうものも必要だぜ、何かを破るときには」
「……――僕はもう、これ以上、みんなに辛い目を遭わせたくないんです。そんなことをしたら、衆人の目にわざと触れさせるような真似をしたら、もっとどんなことになるか分からない」
「臆病なまま生きていくには、お前達は正直すぎる」
もう一度だけ言ったが、後は続けないつもりだった。その道を選ぶならば、これ以上の言葉を投げつけられるのは酷だ。
俺はいい加減踏み込みすぎている。楽な生き方は楽しい生き方と同義ではないし押し付けることは時に暴力だ。
「じゃあ、レザーさん、あっちなら今はふねがついてないから場所、あいてるよ」
不意ににこやかに微笑んでそう言ったファイバーに、全員の視線が集まる。
「港?」
「れんしゅうする、広い場所ひつようでしょ?」
その意表をついた言葉には俺もえ、と思ったが、ヘイズルはぎょっとして
「な、なにを言ってるんだっ、ファイバー。まさかお前、やろうって言うのかっ!?」
「え? なんでやらないの?」
きょとんとしてファイバーは逆に聞き返した。ヘイズルが絶句して、子供たちは呻いた。
「レザーさんがせっかく、案だしてくれたのに。楽しそう。ゆうしょうはむずかしいかもしれないけど」
「それだけじゃないんだっ、ファイバー」
苦々しくヘイズルが言って、駆け寄りかがみこむと、それから躊躇いがちに細い首筋辺りをそっと触り、そこにあるアザを目にしたのか顔を辛そうにしかめた。
「みんな、分かってくれないんだ。分かってくれてないんだっ。そんなことしたら、俺達は公の場所に顔を出さなきゃならなくなる。もっと、ひどいことを言われたり、ひどいことをされたりするんだ」
ヘイズルは多分、ファイバーがそこいらを分かっていないから言えるのだろうと思っていたのだろうが、けれどファイバーはヘイズルをよいしょと押しのけて平然としていた。
「もう一度、なぐられたり石を投げられたりするのはすごくやだけど、それやってたらがまんも今よりいっぱいできるし、そんなに痛くないと思う。もう怖くもないもん、レザーさんもいるし、レザーさんが考えてくれたことだから」
言われた俺もなんだかえらく信頼されているというか、懐かれたなあ、と思ったもんだが、ガキどもも同様だったらしい。
半ば唖然と自分を見てくる連中を、ファイバーは無垢な瞳で見上げる。
「なにかしたかったよ。でもおんなじことのしかえしはやだ。なぐられると痛いもん。けられてもいたかった、やだ」
その言葉に誰もが息がつまったような顔をした。
この嬢ちゃんの首にはアザがある。勝手に転んだり、擦りむいたりしたわけじゃないアザ。
それは、いいシスターの元で、すくすく育ったこいつらにまでその信頼を欺いて駆り立てさせた元凶。繰り返すさ。――人間は、時に、死ぬほど情けない奴らもいる。
「ストローボールはなぐることでもけることでもないでしょ? それにたのしいし。」
ファイバーはにこっと笑った。それを見た瞬間、俺はなんとなく自分の勘違いに気付いた。
こいつらを仕切っているのは、リーダーであるヘイズルだと思っていた。が、本当の主導権を握るのは、俺を抱えてるこの一番、ちゃっちゃな嬢ちゃんなんだ。
その嬢ちゃんは圧倒的な強者の、とどめの一撃を笑顔のまま放つ。
「なんでやらないの?」
噴水の縁にそっと乗せて、視線を合わせるためにしゃがみこみ、彼女はそれをただじっと眺めやる。瓜を思わせる少しなだらかな曲線に、外側は飾り気ない素焼きのままの土の色だ。
少女の目の前には土鍋があった。何の変哲もない、それではある。
あえて言うならば、大きな蓋の部分に少しばかりの異質が見受けられる、巨大な蓋が開かぬようにと両極端に不思議な文様が墨で描かれた紙の封がしてあることだろう。
メイスはそれをじっと見つめて、顔をしかめる。
「お師匠様の字に、間違いはなしと」
呟いて確認すると余計にそれが邪魔苦しいものに思えて仕方なかった。手の平をすっと向けて何事かを口元で呟く。
傍目には何も起こらなかったように見えたが、彼女は目を見開き渋々と手を降ろした。
「魔力も感じられる、と」
それから今度はおそるおそる手を伸ばして表面を、何かを確かめるかのようにすっと撫でて、それから思い切ったようにこんこんといくらか叩いた。
音の感触は、素焼きの表面であり、空洞の器を叩いたものとなんら変わることはない。
そこでメイスはふむと隣に腰掛けて俯き加減に腕を組んだ。白い髪が思案する少女の頬にさらりと流れる。
「……どうやら、レザーさんのように人間であったり、もしくは別の生き物が姿を変えられた、ということではなさそうですねー」
幾分かはそれに安心できたが、そのかわりとでも言うように今度は別の疑惑が飛び込む。
「嫌な感覚がするのですよね、この感触。何かを閉じ込めている――しかも、何かを魔力で凝縮している。まさにお師匠様でしょうね。まったく私が軽蔑してやまない人間達全ての存在を合わせたよりも、お師匠様一人をこして薄く広げたほうがよほどに世界の質の悪さは上昇の一途をたどることが分かりきっている魔導師になる前にせめて人間になってくださいませと頭をさげてもいいくらいに切に望まれたお師匠様らしい手土産に違いはありませんねー」
呟いて、少し息を補充する。
「一体、これをどうしたらいいものでしょうかねー。ね、レザーさ…」
と何気なくメイスは辺りを見回して、辺りにあるのは横の土鍋とそしてただの異邦人の群れだと気付いてから、ふっと我に返った。
「――……そうでした。レザーさんはいなくなってしまったのです。実に惜しいレタスを食べ逃しました…。でも強くならなければいけませんし未練も断ち切らねば私はレザーさんを食べれなくても何かを食べて生きいつかは兎に戻っていかなければならないのですし、実際に人間世界などいらぬ物だけが溢れに溢れ出た私達から見ればゴミ山のような場所ですが唯一の利点として食べ物ならばいっぱいありますー」
言いながらリュックを降ろして中を探り、おもむろに一本の細い人参を取り出してそのままがりがりと食べだした。
辺りを行き交う人間は、凄い音を立てて生人参を食する少女にいささか恐れるような目を向けるが、意に介さずに土鍋の隣に腰掛けた少女は食事を続け、瞬く間になくなり萎びかけた葉も丁寧にぺろりと食べてしまうと、うんと頷いた。
「お腹が一杯になったら、少しは未練も消えるでしょう。」満足したように、噴水を囲んで並べられた縁石から腰を上げて、そこでふと縁に貼り付けられた紙に気付いた。少し気を引かれ並べられた文字に目を通し、その内容を理解すると笑って
「人を落とすな、ですってー。要点を掴まずに意味を成さない文句ですね。誰かをこんなところに落とした愚か者がいるのでしょうかね」
ころころと笑い、そこでしばらく言葉を切ったメイスは、自らが作り出したにも関わらず訝しく思えた沈黙を経て、自分の意見への返事を無意識に待っていたことに気付いた。
困ったように軽く舌を出して
「未練を無くす前に、いないことに慣れないといけませんねー。考えてみればレザーさんとは結構にご一緒していましたね。人間でお師匠様以外であれほど長くいた相手はいなかったですし、早いところ調子を取り戻さないと。どうやら土鍋さんも喋ってはくださらないですしー」
土鍋を持ち直し、苦笑いをしようとして自分の異変に気付く。
「あら?」
空腹が満たされても一向に、自分がレタスの姿を捜し求める未練は消えていなかった。ぐるぐるととぐろを巻いた蛇が呻くように、食欲ではない何かが疼いている。
「あらー?」
どことなく気分の悪い胸に手を置いて、メイス・ラビットは首をかしげた。
そうと決まれば奴らの切り替えは早かった。あ、という間に散らばって、い、と続ける前に一抱えのわらを持ってきた。それを地べたに座り込み、先を足で押さえ込んで器用にするすると編んでいく。
実は俺はストローボールの作り方は知らないので、ほーと珍しげに見ているうちにいくつかのボールが完成して道に転がった。たいした早業だ。
奴らもボールが出来た辺りから、急にわくわくし始めたようで目に輝きが宿り、すぐにもやりたそうな勢いでなんとなく可哀想だったがひとまずそれはお預けだ。
まずは基礎からと、ちょいとこいつらの特性を知るために人の少ない港で短距離をやらせてみた。まずまず。
次はジャンプ力と機敏性と最後に長距離走をと言うと、ガキどもは不服そうにしていたが、ヘイズルだけは妙に理解を示して
「有意義なことだよ」
言って頷く。
「レザーさんの案は凄く、効率的だと思う。そもそも、俺たちのことをレザーさんは知らないんだ。なにが得意か、何が不得意かとか。ストローボールではどんな点が武器になるか、とかね」
こいつに任してると何も説明しなくていいような気がするな。
「なら、俺はキャッチだよ。皿洗いの時の皿飛ばしも、一つも受け止め損ねたことないんだぜ」
栗色の髪の小さな坊主が誇らしげに言ってくいっと自分を指す。へえ皿洗い当番の時、そんなことしてたのかお前、とヘイズルが冷たい声でいい、あ、と口を押さえた遅いガキの頭にごんと拳が振り下ろされた。
ヘイズル自身は気付いてないようだが、そのやり取りの間、他にも後ろめたそうに視線を彷徨わせてた奴らが何人かいた。ま、いっか。ガキが何人か集まればそれくらいはやるのがむしろ当たり前だ。
栗色の髪の坊主がうーと頭を抑える横で、気を取り直したように
「俺はジャンプ。木に引っかかったボール、俺がとんで取ったろ」
赤毛がぴょんととび上がった。次々に小さな手がはいはいと上がるが、ヘイズルは首を振って
「自己申告は当てにならない。それに、ほら、こういうのを総合的に見てもらって分かる、隠された長所だってあるかもしれないし」
説得のつぼを心得てるなー。思っていたより楽だ、これは。
それでもガキどもはちと渋っていたが、不意に
「なんで俺がシルバーになんかに負けてんだよっ」
あがった声に全員の視線が集まった。見ると、みなの結果を拙い字で書いているファイバーの張り紙の裏を見やって、ガキの一人が不服そうにしていた。
ええっと。黄銅色の髪に負けん気の強そうな顔、ブラックベリか。奴は挑戦的な目つきできっと俺を振り向いて、
「タイム、間違ってるんじゃないのか。時計もなしでちゃんと測ってんのか」
「あいにくだが、俺は動体視力と体内時計には自信がある。十分の一秒単位までのタイムならまず間違いない」
「だよ。レザーさんはちゃんと計ってるもん」
地べたに寝転がって書くファイバーが見上げて言うと、ぐう、と詰まったような顔をするブラックべリの肩に後ろからぽんと小さな手がかかった。
「まあ。一緒に走ってないからな、はっきりと結果が見えないと自分のとろさがわかんないって言うかさ」
ブラックベリとはほとんど同い年らしいので、よくやりあうシルバーが、やれやれと芝居がかかったように首を振っている。
「誰がとろいって?」
「お前」
しれっと言ってシルバーはべえと舌を出すが、目が笑っている。けど嘲笑うってほどではなく、からかうってくらいの。しかし、さすがに同い年。レベルは対等だったようで、いきなり沸騰したりはせずにブラックベリは剣呑な目つきでじっとシルバーを見やって
「前、犬に追いかけられて悲鳴あげてた臆病もんは誰だよ? お前だ」
痛い点を突かれてぐっとなり、けれどシルバーは持ち直して
「あれは、俺だからあれだけの傷ですんだんだよ。お前が追いかけられてたら、もう駄目駄目大惨事だったさ」
「ふん、あの後泣きべそかいてシスターに甘えてたのは誰だったか? お前だ」
「泣いてなんかねえよ、この洟垂れっ」
「いつ俺が洟垂れたっ!」
「こらこらー」
泣こうが洟垂れようがどうでもいいとは流せないのが、男の意地だ。かなりつまらん内容だが。
真剣になるのはいいんだがなればなるとで、流せない悲しさがある。鼻と鼻を突き合わせて睨む二人は、そこでふんっときびすを返して背中で「勝負だっ!」と叫んだ。
臆病もんで泣いてて洟垂れまで発展した話が、なんでいきなり勝負に戻れるのか。ガキには特有の不思議な理屈がある。
「短距離は一回でいいんだ」
「あれが俺の実力だと思うなよっ」
「計りなおせば下がってるのがオチだよ」
「聞けよ、話を。」
聞かないままに、スタート位置までなんだと言い合いながら、並ぶ。ああ、もう勝手にしろ。
見放して、俺が転がって他のガキどもに目をやると、他の奴らもシルバーとブラックベリのやりとりを見て、なんとなく煽られたのか、はたまた自分のタイムが気になったのか、文句を言うのをやめて我も我もとファイバーの書いている紙を見に集まり――予想はしていたが、いっせいに騒ぎ出した。えーっ、俺こんなに遅くないよとか、嘘だっホリーに負けたなんてっとか文句があがる。
俺は奴らのもとまで転がって行って
「ほら、短距離はもういいんだよ。ここで負けてたら他で勝負しろ」
未練がありそうにしてる奴をほれほれと追い立ててると、レザーさんっと声がした。
見やると、ちょうど走り終わった後なのかそろってぜえはあと肩を上下させるシルバーとブラックベリが立ってた。汗だくで息が乱れたままなのに勢い込んで声を見事にハモらせ
「どっちが勝ってたっ!?」
「すまん、見てなかった」
言ってやった奴らの様子はちょっと見ものだった。はっきりと本人達がわからないってことはほぼ同着ゴールだったんだろう。
そこで素早く次の反復横飛びで勝負しろ、と論点をすりかえると、ようやく息を整えてそれから指を突きつけて宣戦布告をしあった。お前ら無邪気でよろしいというべきか、お手軽すぎるというべきか……。
「うまいですね。のせるの」
ボールを手に持ったヘイズルが感心したように言った。うーん。
「のってくれてる、ってのもあるかな」
言うとヘイズルはちょっとこちらを見て、それからどこか淋しげにくすっと笑った。大人びた顔をする奴だ。
ファイバーがどこから持ってきたのか、結び目がついたロープ(航行中の船の速さをはかるのに使う)で距離をはかろうとする用意途中に、うんと伸ばしてしまったそれに半分絡まりながら、それでも測定が始まるとぶんぶん手を振ってがんばってねー、と叫ぶ。
たまに知ったかぶった奴が子供は遊ぶのが仕事だとか言うが、そりゃ間違いだ。子供は生きること自体が遊びなんだよ。仕事どころの話じゃないさ。
そんな風にして一日中、走らせたりぴょんぴょん飛ばせたりしせていると、さすがに元気なお子さま達もくたびれたようで、シスターとの約束があるのできりきり歩いて帰れと言うととぼとぼ歩き出した。
そーいや結局、ブラックベリとシルバーの決着はどっちがついたのかとふと思い出してちらりと目をやったが、全ての測定に張り合い続けて、今は口を利くのも億劫そうに黙々と並んで歩く二人の様子を見ていると、なんとなく予想がつき聞くのもむごいのでやめといた。
ちとやりすぎたかなと疲れた顔の奴らと無言の道行きを見て俺は思ったが、暮れかけの街角の噴水で、一休みすると奴らは汗と土で汚れた手足をばしゃばしゃと洗っているうちに、空に水を跳ね上げたりかけあったりして歓声をあげはじめた。……――ちと見通しが甘かったな。まだまだ充分に余力はある。明日はもっとしごいてやる。
オレンジと赤を混ぜた暖色に包まれる街の中、賑わいのほとんどは船乗りや異邦人によるものであるためか、ここみたいな住居区からはすっかり姿を消して穏やかだ。
みんなの様子を見てファイバーは俺を脇に置き、噴水の縁に登って腰掛けようとして高さがきついようでもがくように格闘していると、ヘイズルが後ろからふわっと抱き上げて乗せてやった。乗った途端きゃあっと言ってファイバーはガキどもの中に飛び込んでいった。
噴水の水が無数に空に舞って、夕日の朱色にきらりと輝く。ガキどもの笑い声だけが夜の天秤へと傾きかけた街中に響いている。こりゃ汚れて帰りそうだ。
ふと、へりにちょこんと置かれた俺の隣に、ヘイズルが座った。手持ち無沙汰でぶらぶらと揺らす足がぶつかって靴の金具が少し尖った音を立てる。
「あの、レザーさん」
「なんだ?」
聞き返すとヘイズルは噴水で遊び仲間たちを心配げに見やり
「レザーさんのやり方は凄く合理的なものだと思います。今日一日で、よく分かりました。あなたの指導は優れているものだし、僕らだって同年代の子供には絶対に負けないだけの自負があります」
そこで歯切れが悪く、大人へと向かいかけたこけた頬に苦味が走る。
「ただ、その、あの大会は凄く大きいもので、会場だって街の闘技場でやりますし、賞金もそれなりに大きな額がでます。……だから、参加者の多くは大人なんです。僕らよりもよっぽど背が高くて力も強い……」
言わんとすることは分かった。俺はにやっと笑った。――心情的に、な。
「百も承知さ。ヘイズル、お前、いくつだ?」
「? ……十四、です」
「いいか、奴らに歯向かうんだったらよく覚えとけ。力がある、背が高い、それだけで大人は子供に勝てると思ったら大きな間違いだ。坊主、お前は確かに同年代のガキより多分、いろんな多くのものに恵まれてる。持って生まれた資質とかそういったもので。だけど、そのせいで一つ、穴にはまってる。いいか。」
「……穴?」
「それがなにかは今いうことじゃない。ただ――諦めるな。時に下手にちょいと頭がいい奴に、ただの馬鹿が勝つのはそのためさ。諦めるな。世間なんてあの港に浮かんでたでっかい船みたいなもんさ。ぷかぷか浮いて安定しない。決まりきったことなんて、少なくとも自分が考えてるよりかは少ないもんなんだよ」
不意にはじけるような笑い声と共に俺はひょいと持ち上げられた。う?
「レザーさん」
ファイバーが濡れて艶やかな黒髪から雫をたらし、見下ろしてくる。
「どした?」
「あのね」
ファイバーはくすくす笑って、ヘイズルの前から俺を持ち出し、縁に沿って細い噴水を囲む石の上を、器用に走る。――と、大丈夫か? それから裏側に来てぴょんと飛び降りると
「見て」
小さな指が示したのは、縁石に貼り付けられた妙な張り紙だった。奴らが跳ね上げた噴水の水でいささか濡れてはいるが充分に読める。
『フンスイニ、ヒトヲオトスベカラズ』
「なんじゃこりゃ」
「おかしいでしょ?」
「まあな」
確かに変な張り紙ではあるが、別に腹を抱えて笑うほどのものではない。けれど、どこかツボに入ったのかファイバーは震える手で俺を噴水の縁に置いて笑い続ける。
鈴を転がすような子供らしい屈託のないそれに他の奴らもつられたのか何人か笑い出して波紋のように広がった。
俺はころりと一回転して噴水の向こう側に立つヘイズルの方を見た。ぱしゃぱしゃと吹き上げる水に断片的に映るヘイズルの顔。奴は立ったまま、こちら側のファイバーの元に来ようとも、脇でいまだに楽しげにはしゃいでいる仲間の元へと行こうともしなかった。
ヘイズルののっぽな肩の向こうに、赤々と燃えた夕日がかかって、街の家々は黒く実態のないただの影に見えた。
逆行でこちらを向いているヘイズルの顔には褐色の影がかかって、はっきりとその様子を判別できはしなかったが。
俺は苦笑した。
俺にもそれは覚えがある。まあどいつもこいつも一度くらい、そういう道を通るもんだ。
可愛げのない若造だと、一瞥して思う。
目の前のソファに腰掛けた青年は、まるで生まれてこのかた笑ったことなどないように、端整な顔はむっつりとしかめられて、赤銀の髪がちらちらとかかる茶色の瞳が放つ光は不快の一言に尽きて揺るがない。
中年にさしかかって腹が出て頭がはげあがった隣の町長はあたふたと丸みを帯びた顔によれよれのハンカチをしきりにこすり付けながら頼み込んでいるが、たかが少し名と顔が売れただけで思い上がった世界の屑は、一向に気のある反応を見せず、時おうごとに刻々とその機嫌は悪化の一途を辿っているようだ。
「で、ですから、アシュレイ殿にはですね、いっ、一週間後に」
「行われるストローボールの大会に来賓として出て欲しい」
青年は腕を組み瞳を閉じたまま素早く言葉尻を捕まえていい、それから半分だけ目を開きじろりとこちらを睨んだ。
「四回目」
同じことを繰り返すしか能が無い町長にはこれはいい攻撃だった。うっと詰まってそれかしどろもどろとおちょぼ口が紡いだ言葉は不明瞭で小さかった。
(見ていられないな……)
心の中で舌打ちして、ふと従業員が呼ぶ声がドアの向こうから聞こえたのでこれ幸いにと礼をして席を立った。
こんな奴と二人きりにさせられると青ざめ縋るような町長の様子にも知ったことかとドアを後ろ手で閉めると、ふうと息を吐き出して、パイプを取り出した。すると、受付で働いている若い職員が小走りで近寄ってきた。
「エルさん」
「なにがあったんだい?」
タバコを詰めながら聞くと
「その、大会の概要と申し込み用紙を取りに来た方がいらっしゃって……」
「こんな時間にか」
パイプを持って外を見やる。とっぷりと日が暮れて窓からは煌々と輝く銀の月が見えた。少し斜め上が欠けていたが、ほぼ満月に近い。マッチをすり、パイプに火をつけた。心を落ち着かせる匂いが鼻腔をくすぐる。
「ええ。受付時間は終了したのだと言ってもこの時間にしか取りにこれないと言い張られて」
なんだと思わず笑ってやった。別にたいして手間がかかるわけでもなく、受付の者もこうして残っている。時間が外であるくらい、なんだというのだ。わざわざ取りに来た相手に門前払いを喰らわせる必要は全くない。
こんなところは手際の悪いお役所仕事らしいと思い、
「お渡ししてさしあげなさい」
言うと少し驚いたようにいいんですか? と聞いてきた。頷くと、はい、と答えて近くの机の棚をあけ
「でも珍しいですね。冒険者の方が参加条項を取りに来られるなんて」
「冒険者?」
浮かべた笑みに亀裂が入ったが、受付嬢は気付かずに書類を引きずり出すと、はいと相手にしているもう一人の女性へと渡した。
「申し込み用紙と大会の概要を記した説明書はこちらになります。では、受け取りにはこの紙に署名をいただけますか。これは入館署名と同じになっております」
ここからではカウンターの向こうの主は覆いで見えずに、机に差し出された紙がすっと下がっていって、受付嬢から羽ペンを受け取る男の骨ばった手だけが見えた。
「はい。署名を確認しました。では、どうぞお持ちください」
差し出された書類を羽ペンを握っていた手が受け取り、
「ありがとう」
一言だけ手の主がそう言った。姿を見ずともそれを聞くだけで、声の主が穏やかに微笑んだのが分かるような、真摯で耳にじんと響くいい声だった。応対していた受付嬢がほわりと顔を赤らめる。
冒険者めとくわえたパイプに歯を立ててふかしていた町長秘書エル・アライラーもそれには毒気を抜かれて、どんな相手かとひょいとカウンターに身を乗り出してみたが、一足遅かったようで目にしたのは無人のドアが閉められた拍子にぶらぶらと数度定位置を通り越して交差するそれだけだった。
受付嬢は白い手を少し赤らんだ頬に添えて
「礼儀正しい方もいらっしゃるんですね、冒険者って」
「例外だろうさ、そんな奴は」
ぼやいてパイプの火を消してしまいこむと、また町長の部屋へと戻った。部屋の中の事態は一向に進んでいないように見えた。
石像を固めたかのように揺らぐことの無い不機嫌なその横顔は確かに整っていて、そこにぽいと置いておけばいい客寄せにはなるだろう。
仕方なくエルは腰掛けて
「アシュレイさん、私どもも大会の成功を祈っているのですよ。なにしろ、孤児院が犯罪まがいの真似を繰り返して街の治安は悪くなるし、ほら、先日は街中で通行人が将棋倒しになり怪我人が続出という嫌な話もあったばかりでしてね。うちの街についた悪いイメージをここいらで一つぱあっと大会を盛況にさせることで一掃させてしまおうと思っていまして」
不意に確かに人目を引く赤銀の髪の青年は、こちらを見やった。ようやく茂みから飛び出して来た獲物を迎える、熟練の狼のような瞳だった。
「つまり責任の一端を含んだ俺に、その償いをしろ、と?」
「そこまでは言ってませんよ。」
はははは、と笑った胸のうちでそこまであからさまにはな、と付け足す。
「俺は知り合いを探していて、それを聞きにここに来て、今、不当に留められているのはストレスだ。あいにくと、権威や権力とはそりがあわなくてね。自由を何より愛する冒険者なもので」
「ははは。どうも説明下手なもので伝わらなかったようですね。この街が冒険者に、ということではなく、我々があなたに、ということで「お願い」をしているわけですよ。不当とはいささか。ご高名なアシュレイさんなら、その名に付きまとうこの手のことは多いでしょう」
「――うぜえんだよ」
急にぼそりと呟かれた声の低さと、それが含む物騒な気配に、相手の発する言葉を半ば無視して一気にまくし立てペースをもぎ取ることを得意としたエルもその滑らかな舌を強張らせた。
「俺は知り合いを捜しに来たんだ。てめえの二枚舌なんか聞きに来たわけじゃねえ。」
そう言って見事な赤銀の髪に無造作に手を突っ込んでかき回す。こらちをむいた男の唇は、かすかに笑うように薄く開いた。
「ただでさえ見つからなくてむしゃくしゃしてるのをつき合わせて、これ以上、つつくようなら聞くぜ。火遊びの覚悟は、ちゃんと出来てんだろうな?」
ひっと隣の町長が喉奥から情けない声を出したが、それを吐き捨てることはできなかった。自分の固まった頬に一筋の汗が流れる感触がする。
自らの言葉が与えた効果をろくに見ようともせずに青年は立ち上がり、きびすを返した。固まったままの耳に、事情を知らない受付嬢が呼び止めて退出の署名を求めている。
時間が止まったままなんとか身体を動かそうと、喉奥に唾を押しやると急に閉められたドアの向こうからどたばたと慌しい足音が響き、吹っ飛ばされそうな勢いでドアが開いた。
てっきりもう帰ったかと思った赤銀の青年は、明らかに先ほどとその様子を異としていた。目の色を変え、こちらの前まで駆け寄り、唾を飛ばさん勢いで
「参加者リストの閲覧許可をよこせっ!!」
一拍置いて、はげかけた頭にたらたらと汗をかく町長の、隣に腰掛けたエルは
「――はあ?」
「その大会とやらの参加者リストだっ!!」
何を言っているのかにわかに理解できずに固まったままのエルに、アシュレイの後ろから慌てて追いすがった受付嬢が
「あ、その、す、少し前に案内をとられにきただけの方ですから、おそらくまだ参加者リストには……」
ばっと赤銀の髪の青年は振り向いた。その勢いにエルは思わず身構えたが危惧に終わり、まだ若い女性相手には乱暴な態度にでるようなことはせずに、青年はいささか気を落ち着かせて
「案内を取りに来たってことは参加するのか?」
「え、あ、まだ決まったわけではないと思いますが……少なくとも興味はおありかと」
その言葉に半ばぶんどるようにして脇に抱えていた署名と顔を突き合わせる。食い入るようなそれは、ある一線を越えて不意にさあ、と素顔のまま晴れやかな笑顔になった。
「レザーっ!」
言って愛しげにひしっとそれを抱きしめる。銅を薄目に伸ばして出来た丈夫な板が、腕の中でぐにっと曲がるのが見えた。
「……」
もはや生気のない操り人形のようになった町長の横でエルはすっくと立ち上がり
「どうでしょうか。アシュレイさん。特別席は観客も選手もそれはよく見える場所を用意させますが」
「その来賓の件、受けよう」
ろくにこちらを見ようともせずに、腕の中のそれに書かれた素っ気ない一つの名をうっとりと見やる青年に
「ありがとうございます。これで大会も盛り上がるでしょう」
よどみなく応えたエル・アライラーはその瞬間、次回の町長選にうって出ようと全く根拠のない自信を得た。
闇の中でふと誰かに呼ばれた気がして、少し足を急がせていた青年は立ち止まり振り向いた。急激な動きに束ねた髪が背中で踊る。
一瞥して背後にはただ明かりを灯す家々が立ち並ぶだけだと分かり、再び身を反転させ彼は空の月の位置を見た。そこからおおよその時間を割り出してタイムリミットを悟りふう、と息をつく。
「アシュレイはともかくとして、メイスは捜しちまいたかったが……」
放浪の最中街に入れば宿に泊まる自然さをといて、最近ではメイスも従うようになってきたのに、また野宿癖が出たのかと渋面になる。どの宿屋を回っても人目を引く白髪赤眼の少女は話にも登らなかった。
その事実の先にあるものは、今もまた野宿癖が再発してどこかの野原にいるのか、それとも情なしとは言わないが人とは感性が異なるメイスが自分に見切りをつけて、もう街から出てしまったという、あまりたどり着きたくはない結論である。
この身に理解ある保護者を失ってしまえば、単身その後を追うことは極端に困難なことになる。呪わしい身にはやはり、いささか保護者自身が危険としても互いに依存すべき相手が必要だった。
それに。
自分と関わることで不必要に彼女を高名にしてしまった。目立つ少女の一人旅にこれまで以上の厄介事が降りかかることは必死だろう。
ただの少女ではないが攻撃手段はあまりない。飛びぬけた足も、大勢を相手にすれば、どこまで通用するかはっきりとはわからない。
そこまで考えてふと苦笑して、青年は同意を求めるように自分に確かな輪郭を与えてくれる月を見上げた。
「一緒に旅をしてりゃ羊だって、狼に情がわくもんかね……」
月は身に沁みるような白い光を投げかけても、答えをよこしはせず夜の城にただ穏やかにたたずんでいた。
地面に横たえた身体は、なだらかな野原と輪郭を一つとして、つややかなシルエットとしてそこに存在する。そう離れていない場所にある海はざざっとよせる音を繰り返し、それすらも取り込んで夜は静かだ。
けれど闇にきらりと光る、恍惚と禍々しさを同時に覚えさせる、赤い瞳が瞬くことなく開き、闇の野から星のように輝いていた。夜風も慣れない潮の香りを含んで海の近くは、ざわざわと音立てるその波が休ませはせぬというように心を乱し騒がせる。
無理矢理にこのような不恰好な人の姿にしたてられて、師の手に引かれて人の世界へと出た。
人の中に群れて様々な奇妙なものを見たが、海ほど驚いたものはない。故郷の森の中はこんなにも圧倒的な青の塊はついぞなかった。
その海も今は昏い。手招きするように、蠢く闇色の波が寄せて返す。
寝入られずに横向きに立てた身体をむずがように転がして仰向けになり、数度、瞬いた目に、ほんの少し欠けているが、ほぼ満月に近い月が空に巨大に輝くのが見えた。
頭の斜め上には、どこにでもあるような土鍋が無造作に置かれている。
ちらりとそれを見やってから、愛想をつかしたように顔をそらして再び反転した。決して柔らかくはない大地に身を縮めて傷ついた獣のごとくその身体はじっと動かない。
どれだけの時間を、間近に寄せることで濃厚な土の匂いをかぎ取れるその状態で過ごしたか。
身動き一つしなかった少女はなんの脈絡もなく、がばっと身を起こして服についた草がはらはらと落ちる中、足元に放り去ったナプザックを掴み、乱暴な手つきで中を漁って丸い塊を取り出した。
それを闇に光る赤い目でじっと睨み、少女はしばらくその形をひたひたと手で確かめていたが、やがて力なく手をおろしまだ夜明けには程遠い空を仰ぐ。ぐっと目を閉じて白い首筋が無念だとでも言うようにそらされた。
「……もしかしたら、まだ、食べられていないかもしれませんー」
散々に捜した結果の末に、ここにいる以上は、決して可能性が高い言葉ではなかったが、わずかな期待は生み出された途端、ぐるぐると身体中を回り、うるさく喚きだした。
「戻って、みましょうか」
ぽつりと何気なく呟いた言葉は、口に出すと驚くほど胸を軽くさせた。
決心が固まれば彼女の行動は早く、躊躇いがなかった。メイスは素早くナプザックを肩に引っ掛け、土鍋を持ち上げるとまだ闇が深い中を歩き出す。
左手に土鍋を抱え、不安定な視界をものともせずに細い足で颯爽と歩く少女の後に、空に広がる星星と月は従者のように恭しくついてきて、彼女が歩きながら先ほどナプザックから取り出したレタスを齧る音が、ぱりぱりと静かな夜に響いて溶けた。