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檻の中の獣


 飛び入り参加の冒険者仲間と共に、やってきたのはリゾート地!? 椰子の実ジュースに娯楽極楽。青い空に白い雲、そよぐ風まで高級感。貧乏人にゃあ縁ない場所さ。リゾート地で出会うサーカスが、百発百中リシュエント・ルーと片腕の斧使いカールの間に、暗い影をさしかける。見守るレタスとウサギも複雑。ちょっとテイストが違う話です。


 どっどっどっどっと滝が流れ落ちるような音を立ててスコールが降り注いだ後、凄まじい土砂降りでなんも見えなくなっていた空は、一点の染みもない青を取り戻す。

 それにしても強烈な青だ。太陽の強さのせいか、それに張り合うように青は濃く強く広がり、きつい太陽も周囲の濃厚な青もどちらも目を痛めた。

 辺りは風にも攫われそうなほど軽く乾いた砂がしきつめられた浜で、その上をむぎゅむぎゅ踏んで、薄着の老夫婦だの金持ちそーな兄ちゃん姉ちゃんだの、行楽ムードの人間が楽しげにあるいは気だるげに行き交う。

 渡る風はいっそもう清々しいほど熱い。その風がやってくる海の向こうは熱でぐらぐら大気が歪んでる。

 巨大なバナナの葉で編まれたというでっけえキノコみたいなかさがつくる濃い影の中、リシュエント・ルーはくかーと寝てる。メイス・ラビットは全然焼けない白い肌を濃い影色に染めて、椰子の実にぶすっとさした中が空洞になってる茎をくわえてなにやら難しい顔をしている。

 なにこのリゾートムード。上を向いても下を向いても一色。

 俺の傍らに荷物と一緒に腰掛けているでっかい岩。もといカールだけが、青い海とも白い雲とも光る風ともまったく無縁にそこにあるが。リシュエント・ルーのすこやかな寝息を聞きながら、椰子の木の下の俺は。

 なんで緑って青いっていうのかなあ、

 とか考えていた……。もういいレタスだ。




「いやあ、あの時代。幻惑のルーン石像の中に入れるのは流行ってんだね」

 それがここ一ヶ月とちょっとの間の俺達の必死の苦労の末に出た、たった一つの結論だった。

 美術史的にはちょっとした発見かもしれんが、俺達の目的は美術史に名を残したり、彫刻家の経歴に傷をつけることではない。

 赤い光を放つ玉というのをリットとカールに調べてもらったところ、一個二個とあっさり出てきて、それがぜーんぶ彫刻ネタだったからやな予感はしてたんだが、そろいもそろって聖ウィンリと同じネタ、幻惑のルーンが中に入っていたということがもろもろでわかった。

 それ以外は全部ドラゴンの目ネタで、最新の学説がどうの、エフラファでの竜の目はやっぱり抜けていたのどうの。

 中には竜の目を手に入れたどっかの領主がいる、とかいうネタもあったけど、あんまりにも胡散臭いので調べるのはやめといた。竜ネタは受けるからその手のガゼネタはいつでも一つ二つは情報に入ってるもんだ。

 そもそも竜の目なのか、赤い光を放つ玉ってのは。石像を見に来ていたコルネリアスのことを考えると、それだけとも限らない。

 エフラファ以外で他にいくつか確認されているドラゴンサークルもあるが、ものがものなんでホイホイいけるわけもないし、それがエフラファの時のような異変がおこっているわけでもないし。あー……。

 青い空のバカやろう。白い海のバカやろう。輝くバナナの影のバカやろう。あれなんか間違えたか。ま、どうでもいい。

 そういう宛てのない捜索の徒労の後、目の前でいかにもリゾートくりひろげられると、鬱屈とした身としては苛々してくる。そこでリットがうーとなにやら寝ぼけながら身を起こし、いまだにうん?という顔で椰子の実ジュース飲んでるメイスを見てあ、それいいね、と呟き、明るく

「カールちゃーん、僕も欲しいー」

 散財するな小娘ども!

 俺の胸中の怒鳴りも聞こえず(当たり前か)カールがすっと立ち上がる。……っ……っ!!

「お前はリットに甘すぎる!」

 浜をあがり、往来に出たところでカールに囁いて入った路地裏で俺はようやく言いたかった言葉を吐いた。多少は表の人間にも聞こえるだろうが知るか。

「甘やかすばかりが教育じゃねえぞ!」

 無言でしゃがむカールを前に、俺は憤りのせいで最近ついに体一個半の高さを達成したジャンプ力でぴょんぴょん飛びながら

「いいか、メイスは後で俺が言い聞かせられるが、ああいう場合いつものパターンで「メイスちゃんも」とか「僕も」とか言われて、どっちかがやっててどっちかがやらせねえわけにはいかねえだろ! しめしがつかねえんだよ! 両方徹底しねえとならんのに、そこでなんでも言うこと聞いてどうする! 悪循環だ!」

 カールは無言で聞いている。

「正直、お前らに旅費もってもらってる状態でこういうこと言いたかねえしだけどさ、金がないだろ。前確認しただろ。なのにお前はリットにそれも伝えないしそのままずるずるとここまできて」

 カールは無言で聞いている。このテンション下がること間違いない沈黙を保ち続けるカール相手に怒鳴りっぱなしというのは正直何人もできん。ので俺はちょっと調子を落とし

「なあ、お前、生活面や態度にはちゃんと言うじゃないか。なんで金銭面だけそうめちゃくちゃなんだ。お前まがりなりにも客商売してんだろ、金にはきちんとしてる方だろうが。あんな金銭感覚身に付けさせといたら、後々困るのはリットだってわかってるだろ? な?」

 一文無しが面倒見てもらってる相手にこんなこと言うのはひどく滑稽だとは思うが、カールのふるまいを見ているとリットが軽く十万ディナール欲しいーとか言いだしたら、自分を抵当に入れてもカールは持ってきそうな気がして、俺はついに言いたいことを全部言った。

 お前ベッソンでしこたま稼いだだろ、とか言われそうだが、ナディスで気付いたらあの性悪魔導師にメイスが持ってた有り金全部奪われていたという、もう噴飯ものというか、どうしようもない目に遭った。(なまじ一度ももっていない方がマシだったかもしれん)

 ともかく、いつまでこの捜索が続くのかわからないんだから、贅沢を許している場合ではない。

 なのに。

 まったく。

 それくらい、共に旅してみて、カールとリットのこの点だけがとんでもなくぶっ飛んでいることが初めてわかった。ジュース一つでけちけちしたいわけではないが、ともかくこの感覚はあまりにひどい。

 はあはあはあ、とレタスには切れるはずもない息を(気分で)切らしている俺の前で、カールは瞳だけは涼しげに俺を見ている。熱心に聴いているように、見えないこともないが、やはりわからん。

 やがてカールはうつむき

「……お前の言うことは……正しい…」

 と言って俺を持ち上げて立ち上がり、路地裏を出てけれど引き返さずに白い泥を固めた壁でできた建物の影にいる、地べたにござひいて椰子の実並べた売り子の兄ちゃんに近づいていく。……。

 馬の耳に念仏。馬耳東風。あー…っ。

 椰子の実が山となった横に、暑さでぼへーと座り込んでいた兄ちゃんは、自分をすっぽり覆った影に気付いて、藁でできた帽子をひょいとあげた。

 見上げた先で佇む大男の姿に兄ちゃんは目を剥いた後、すいません売り上げ全部差し出しますんで命だけは勘弁してください、って顔をしたが

「一つ……くれ」

 とカールが言うと、ようやく客だと認識したのか慌てて大きいのを引き抜いて差し出す。カールはスリでも絶対狙わねえよな、という懐から金が入った皮袋を出して。

 しばらく無骨なそれからは思いもよらない器用な指で中を探っていたが、動かぬ顔に馴染みにしかわからないほどの変化が現れた。

 ―――……まーさーかー……

 皮袋をひっくり返したカールに、俺は自主的にそのたくましい腕から落ちた。

 地面に転がった先から、椰子の実の山と、カールと、太陽と、空と椰子の実売りの兄ちゃんの麦わら帽の下の濃い影がかかった顔が見える。

 青い空のバカやろう。白い太陽のバカやろう。カール・ケントの大バカやろう。

 ……椰子の実ひとつ買う金もなくなって、はれて俺達は一文無しになった。




 カールという男は余計なことはいっさい言わないという俺にとっては比較的楽な部分が多い特徴を持っていたが、余計でないこともあんまり言わないという困った面もあったわけだ。長所と短所は紙一重か。あーそうだろ。けどさ、けどさ、これはあんまりにもひどくねえか!? 金がなくなったのリットに言えねえんだってさ! だってさ! あ―――!!

 っと胸中で一度だけ怒鳴って、とりあえず収めて戻ってみると、都合のいいことにリットは再び影の中で寝ていて、メイスは全然堪えない顔でそーですかーと言ってこれからすることを聞くと、去りいくカールを変な目で見た。ほらメイスからですら、お前の行動は変だぞ。

 メイスは変な顔をしていたが、そこまで興味をひくことでもなかったのか、俺を持ってきびすを返しカサの影で寝てるリットのそばにしゃがんでゆすって起こし、ちょっと寝ぼけてるリットに事の次第を伝えると、リットはあっはっはと明るく笑った。

「あ、やっぱ? そろそろなくなると思ってたんだけど、路銀」

 ん?

「メイスちゃんもごめんね、つきあわせちゃって。ま、でも、メイスちゃんを飢えさせるようなことはしないから、安心してね」

 リットはこきこきと首を鳴らした後、しゃきっと手を交差させた。交差させた手にはまるで奇術のように二本の鋭く研がれたナイフが握られている。物騒な輝きに俺は少々びびったが、刃の向こうのリシュエント・ルーはニッと白い歯を剥いて

「まあ、お手並み拝見あれ」




 リットというのは滅茶苦茶器用な奴だ。いや、裁縫とかそういうのはからきしだが、ナイフや弓矢にかかればまるで体の一部のように操れる。

 その気になれば暗闇でも、寸分違わず標的に命中させることができるし、足の指を使って林檎の皮を一つ繋がりに剥くこともできるらしい。後者はなんの意味もないし、やってみせようかといわれたところ、やめろ誰が食うんだ、と全員でとめたが。

 まあともかく。機敏さと俊敏さと身の軽さはピカ一だが、体力腕力ともに不利な子どもの身で、冒険者やってこれたのは偏に、その神技にも近い投げ技の腕があったからだが――

 あ、それ、こーいう使い方もできたんだな、とさっきまで思い思い行き交っていた行楽の人間が足をとめ、人垣を作り皆一様にほーと感心の顔を向けている中心で俺は思った。

 人通りが多い広場までやってくるとリットはまず呼び込みもせずに、ナイフをしゃきしゃきだし、周りの人間が突然の白刃にぎょっとしたところで、四本のナイフを使ってジャグリング、というかそういう投げ技をふんふん言いながらし始めた。

 それで注目が集まったところで、おお、と歓声があがり、俺もへええと思ったのだが、リットは足を使ってそれをし始めた。つまり手で回して、あ、とりそこねた、というポーズで落とした一つのナイフの柄を爪先で跳ね上げて、綺麗に弧をかいて手元に戻した。そっからは両足の爪先使ってのジャグリング。

 まあすげえ派手というわけではないが、これはちょっと滅多に見れないような技だ。一歩間違えればナイフが足に刺さる。

 そんな紙一重の技を危なげなくこなすリットに、遊びに関しては目が肥えた観客が、その非凡さに気付いて食いついてきた。実にリズミカルに、きらきら輝く白刃を自分の周りにまとわせてリットはたっぷり技を見せた後、観客が飽きる前に次に移った。

 観客の一人から鮮やかなオレンジを借りてきて、メイスの掌に持たせると自分はちゃかちゃか距離をとって、そこからナイフを一本投じさらに続けて二本目を投じた。

 俺はメイスの近くにいたんだけど、風をきって飛んでくるナイフはマジで迫力があった。けどメイスは無感動に腕を動かさず、ナイフは二本ともあたってぶしゅっと液体を前後から吹きださせたが、他で見るような芸とは違い刺さりはせずに、カランと地面に落ちる。

 リットは悠々と近寄って行って、メイスの手をよく見えるように掲げさせると、均等にパカッとオレンジが四つ切に――

 え?

 一瞬の沈黙の後、あがった大歓声は確かにそれだけのことはあった。えええ? 投げナイフで物を遠くから十字に切る?

 興奮の中で、うるさそうに顔をしかめるメイスにリットが耳打ちをして、それからリットが見物料を請うと観客が次々に、握り締めるなり財布から出したりな硬貨を投げつける。

 瞬間。

 メイスが小さく呪を唱える声が聞こえたと思ったら、まるで縫いとめられたように投げられた硬貨が落ちずに空に浮かんでキラキラ輝いた。

 それはなかなか見物の光景で、あ、すげえ、中には百ディナール硬貨もある。大きなどよめきと共に、硬貨は最初の二倍も降った。




「ざっとこんなもんだよ」

 涼しげな店に入って、わずかな間に大金を稼いだリシュエント・ルーは椰子の実ジュースをすすりながら言った。な、なんか男として甲斐性傷つくなーという意外や意外な事態だが、リットはなんでもないような感じだ。

「ま、メイスちゃんに手伝ってもらったからだけどさ」

 にぱっと笑うリットに、メイスはちょっと目を細めて

「あのオレンジですが……」

「あははは。メイスちゃん、やっぱ気付いてた?」

 あ、それは俺も気になってた、と向けるとリットは笑って不意に目の前の椰子の実に向かって「なにか」した。

 あ。

 リットはそのまま何事もなかったかのようにずずーっとジュースを最後まで飲むと、一拍おいてぱかっと椰子の実が十字に割れる。……かなり硬い殻だがさらされた白い椰子の実は恐ろしいほどの切れ口だ。

「初めにちょっと客の気引いといて、隙ついて最初から切っちゃうのさ。いくらなんでも遠くから投げたナイフでああいう風には切れないよ。そんでその切れ目にうまくナイフを通すわけね」

 ま、簡単なトリックトリックと、それでも衆目の前でオレンジ切って気付かれない素早さ、細い切れ目に寸分違わず通す腕、十分すげえ技術だ。

 ……――あ、あー、あと、技術も確かだが、今の技をきいてリットは観衆の呼吸というかショーの手管をよく知っているな、と感じた。

 技も凄いんだが、物を見る人間心理を利用したり、観客の手ごたえをはかりながら、自分の技をどれだけ効果的かつ刺激的にプロデュースするか心得ている。

 最後のおひねりなんてリット自身は正直なんもしてないが、メイスの簡単な魔術で一大ショーにしたてて本来注がれる金額の二倍も三倍もふんだくったんだ。人心という奴を心得ているというか。

「他の場所じゃこんなうまくいかないけどね。ここ目が肥えてて暇もお金も余ってる人多いから」

 スプーンで椰子の実の内部をほじって食べながら言うと、メイスはちょっと見て

「……以前も、ああいうことを?」

「うん、僕、サーカスの出だからさ」

 ……。リットがわずかに眉根を寄せたメイスを見て笑い

「サーカスって知ってる? 知ってるみたいだね」

「……動物を檻にいれて強制的に芸をさせて見世物にするところだと」

「そ。僕も、檻の中の動物の一匹だったの」

 殻の内側にへばりついた、椰子の果肉をスプーンで食べながら、リットが言った。時間はずれのせいか、人が少ない店内は急に影を濃くした気がした。

「檻から出してくれたのがカールちゃん。カールちゃんは僕が動物じゃなくなるように色々してくれたけど、でも僕はお金のために見世物にさせられてたわけだから、今でもカールちゃんはお金に関しては僕になんにも言えないんだ」

 僕は言って欲しいけどね、じゃないといつまでも僕はカールちゃんにとってサーカスに飼われてたかわいそうな子のままだからさ、とスプーンをくわえながらリットは言った後、きゅぽんと口から引き抜いてしばらく考えて

「でも、それは僕のわがままか」

 メイスはその言葉を一瞬吟味した後「なぜですか?」と聞いた。するとリットも少し考えた後、スプーンを片手に頬杖をつき

「――。なんていったらいいかなー。カールちゃんはさー。カールちゃんは、僕のことで傷ついてるんだよ。僕が檻に入ってたことでカールちゃんも傷ついたんだ。傷つけたのは僕の存在だから、僕がそういうことは言えないよねえ」

 優しい目をしてリシュエント・ルーは言った。カールを一番わかっているのは、間違いなく明るい髪のルーだった。

 ……傷つけてる、か。どうしても被害者に目を向けてしまうから、カールのそんな心境には気付かなかった。言えずに去っていく背中を思い出す。確かにあれは傷ついたもののとる、どうしようもない行動なのかもしれない。

「あなたは気になさっていないのに、カールさんは傷ついているわけですか?」

「そー」

「……?」

 メイスには理解不能らしく、眉根を寄せる。

「あ、またなんか難しいこと考えてるね、眉と眉くっつくよ、そのうち。えーと。そ、そ、そーせーじ性だっけ?」

 なにそれ?

「相対性?」

「あ、それそれ。えーとえーと、レザーちゃんがお人よしなのは僕らがいるから、で、あー、だから、えっと……」

 にわかに頭の中を走る糸がこんがらがったように、リットも眉根をよせた。眉がくっつくぞ。

「え、えーとつまり……。メイスちゃんなんか他の人とか他の動物とかかわいそーって思ったことある?」

「……あまりありませんね」

 あまりっつーか。……一度でもあるのか?

 あ、それは強いね、とリットが言って

「カールちゃんは僕を見てかわいそう、って思ったんだよ。でもそれは基本的には僕のせいじゃないと思うんだよね。カールちゃんは僕をかわいそうって思ってそのおかげで、僕、今幸せだからそのかわいそうは大変ありがたかったわけだけど、かわいそうから始まっちゃうとなかなかそれから抜け出せないもんでさ、僕はもうかわいそうより、別がいいんだけど、かわいそうから始まると、ややこしいっていうか、いや、かわいそうと思うのと、傷つくってことは違うのかな」

 思いつくこと全部口にしているせいか、リットの言葉は支離滅裂で、メイスも結構まじめに聞いていたので、こんがらがってきたようだ。

「ちょっと待ってください。己が傷つくということと、他をかわいそうと思うことに、少しでも類似点が見られるとあなたはそう思うわけですか?」

「る、ルイ辞典?」

 なんの辞典だ。

「似ている場所がある、ということです」

「あ、それね。えーと……あるんじゃないかな。いや、これ僕が勝手に思ってることでルイ辞典とかソーセージ性とか名前ないと思うけど。なんかね、ひどい状態の人を見て、傷ついちゃう人っているみたいなんだ。優しい人が多いかな。それはかわいそう、ってのとよく似てる。かわいそう、をもっと強くしたら傷つく、になるのかも。カールちゃんは僕を檻から出したんだけど、そん時のカールちゃんの傷はまだ治ってないんだ。僕がいる限り治んない気がする。僕は、カールちゃんが、一番好きだよ。感謝もしてるよ。でも、好きだからかな、僕自身がそんなカールちゃんの傷になってるのがちょっとね」

 メイスはしばらく黙って考えた末に

「……つまり、その、傷になっていることが、今度はあなたの傷になっていると……?」

 リットはひょいと目を見開いて、あ、あーと呟き、それからううむと考え込んだ。

「……あ、そっか……そういうことにも……なるのか」

 そうしてちょっと遠い目をした後、張り詰めた糸が切れるようにリットはふにゃと崩れて机に顎をのせた。

「あー……考えるのしんどい。飲んだばっかなのに喉が渇いてくる」

「……それは同感ですね」

 どっちも疲労したような二人の間、俺も俺の存在を知らないでメイスに話すリットの話をつい聞きいってしまって、バツの悪い気持ちになった。……しかしまあ……なんの問題もなさそうな二人だけど、内に入れば色々あんだなあ。

 もしかしたら、グレイシアのところに寄ったのも、俺達と旅をすることにしたのも、二人っきりの旅の限界を二人とも薄々感じ取っていたからかもしれない。仲間内にいるときの二人は微塵もそんな気配を感じとらせないが、一対一になったときに初めて俺が思いも寄らなかったような暗い影がのぞいたのか。

 そんな沈黙が落ちる店内に、不意にからんとドアが開く音がした。こっちに忍び寄ってきた光に目を向けると、頭のてっぺんが禿げかけてきてて、残りの灰色の髪を横でくるくる変なカールにさせた、茶色い上着を着た変なおっさんが立っていた。

 おっさんはこっちを見つけると、あっと陽気な声を出してずんずん歩を詰めた。間近で見るとおっさんの顔は異相だった。目も口も鼻も、顔のパーツ全部、何もかもが大きい。おかげでずいっとこっちに飛び出してくるような錯覚さえ伴う、なんとも個性的な顔つきをしていた。

「いや、失礼。お嬢さん。失礼。突然ですが、先ほど広場でのショー拝見させていただきました。いや素晴らしい! 実に素晴らしい! 他の観客は気付いておられなかったかもしれませんが、あれは大陸でもトップクラスの技でしたよ! しかもそのお若さでだ!」

 パンパンと厚い掌から発せられた音が、景気よく人のいない店内に響いた。

「私、この街の外れでサーカスの団長をしているものですが、一目会ってお話したいと思い、無礼を承知で押しかけた次第です」

 まだ男の発した拍手の余韻が残る店内に、一拍おいた沈黙の後、

「スカウト?」

 よくあるんだよね、とリットが言った。数多の誘いには飽きた、それ以外の響きは声にはなかった。お察しがよくて、と男は言って

「わずかな間でもかまいません。いえ、一度でいいからテントに見物だけでもどうでしょう。我がサーカスは一見の価値はありますよ。なにしろ花形はワーウルフですからな!」

 モンスター!?

 不快半分、無神経さへの苛立ち半分で聞いていた俺もぎょっとした。巡行のサーカスというのは結構あるだろうが、モンスターを使ってるってのは初耳だ。ってか、え?

「へえ。面白そうだね」

 リットが無邪気に言った。「その気なかったけど、興味湧いてきたな。とりあえず一度見に行ってみようか」

「ぜひ」

 パンッと一際大きく手を鳴らして、男はくるりときびすを返す。リットはメイスの腕にそっと触れて小さな声で

「行ってみよ、メイスちゃん。なにがあるか見といた方がいいよ」

 メイスはちょっとリットを見て、男の後姿に目をやり複雑そうだったが頷いた。けれど立ち上がる前に

「カールさんには言わなくていいんですか?」

「いいよ。どうせカールちゃん、お金稼げる仕事見つかるまで、帰ってこないもん」

 男から目を離さない厳しい横顔のまま、リシュエント・ルーはそう言って席を立った。




 案内された町外れの真っ赤な巨大テントの中は、物凄く獣くさかった。ただでさえ熱がこもりやすそうな幕の中、むっとするような獣の臭いが充満していて、無性に背筋がかゆくなる。

 鼻がいいメイスは露骨に顔をしかめて、入るのが苦痛そうにうぅと小さくうなった。薄暗い幕の中には大小様々な檻があり、その端でうずくまったなにかの動物の影が時たまきらっと光った。

 おっさんだけはこの臭いに気付かないようにせかせか歩いて、一つの檻の前でその足を止めた。仰ぎ見るような巨大な檻だ。檻はここに数あれど、これ以上に大きいものはない。その檻にはテントと同じ色をした赤くぶ厚い布が、深々とかけられている。近づく際、こらえきれないようにメイスが小さくうめいた。

 檻の前で止まった男は満面の笑みでこちらを向き

「驚かれるかもしれませんが、まあ見てください。当方サーカス最大の見世物でございますよ」

 おっさんが赤い布の端をつかんで思いっきり手前に引き寄せた瞬間。メイスが両手を咄嗟に耳にあてたので、俺は思わずその腕から滑り落ち。

 ウオオオオオオオオオオオッ!!

 一瞬、頭の中が真っ白になった。気が弱い奴の心臓なら止まっていたかもしれない。凄まじい咆哮があがり、目の前に突然おたけびをあげるワーウルフが出現した。

 俺だって冒険者の端くれ。ドラゴンサークルに何度も挑戦してることもあり、ワーウルフぐらいむろん見たことがある。しかし、こんな間近でこんなに怒り狂ってそしてこんなに――無残なワーウルフは見たことがなかった。

 盛り上がっている巨大な肩は瘤のようにさらに膨れ上がってまるで三つの頭が並んでいるようだ。流れる濃い灰色の毛並みはところどころ引きちぎられたようにはげて、基本的に四足歩行のワーウルフは後ろ足だけで立ち上がり、その身体を倍も巨大に見せている。

 ギシギシと鉄がうなる音がする。前足後ろ足そして首に太い鎖がはめられて、それが檻の角とがっちり繋がってその動きを制限しているのだ。

 そんながんじがらめの状態でもワーウルフの抵抗は凄まじかった。歯を剥きだし、瞳をぎらぎら光らせて、この世の全てを憎むようにわめきたてる。それは人間が想像する化け物だの怪物だのの枠にぴったりと当てはまる壮絶な姿だった。

 団長もさすがにうるさくなったのか、パンパンとあの腫れ上がったみたいに厚ぼったい手を打ち鳴らすと、テントの奥から団員らしき数人の男達が出てきて、赤い布を手分けしてぎしぎしうなる檻にかぶせた。檻はそれでもしばらくぎしぎし揺れていたが、やがて嘘のように静かになった。

「動物は飼いならせるものですが、モンスターはなりません。知性は高いといわれていますが――しかし、だから見世物になりえるのです。どんな皮肉屋や享楽を尽くしたお金持ちもこれを見せればぴたっと口が閉じますよ。生け捕りのワーウルフは、大変値が張りますがね、それでも飼うことはやめられませんな。うちの一番の目玉ですから。こいつはまだ新しいので、いきがいいでしょう」

「……新しい?」

「ええ、こいつで――もう、三匹目でしょうかな、我がサーカスのワーウルフは」

「前の二匹が見えないようだけど」

「死にましたよ」団長は笑顔で言った。「どうにもね。ちゃんと餌はやってるんですが、長くは飼えないもののようですな。どのワーウルフも段々衰弱していきまして。しかし面白いもんですな、本能というのか。ワーウルフは衰弱すればするほど、その暴れっぷりに拍車がかかるんですよ。凶暴ではないワーウルフなどまあ見世物にはならないもんですから助かりますが、それが寿命を縮めるというのも確かで。しかし、最期は見物ですよ。どちらもショーの最中に息絶えたのですが、あんまりあれでしたので、役所にお叱りを頂いたくらいで。しかし、それでウチのサーカスの名が売れましてな。ワーウルフの最期のショーをもう一度やってくれ、とかもう無茶を言うなという要望が五万ときましたよ」

 おっさんは絶好調で語り終えて、それからふと神妙な顔になり

「まあ、因果な商売でございますが、こいつのおかげで私ら食べていけるわけですからな。感謝はしておりますよ」

 おっさんは檻に向かい、パンッと弱めに手を合わせた。




 昨晩本当に帰ってこないカールを探して人に戻った俺は街をあっちこっちほっつき歩き、港の方でいきなり日雇いの人足やってたカールをやっと見つけて引っ張ってきて、でも途中で止まったカールをもうどうしようもなく、近くの飲み屋に連れ込んだ。だだっ子ならともかく、こんな馬鹿でかい野郎を無理矢理連れ帰るのは無理だ。

 とりあえず入って腰を落ち着けたはいいが。そのテーブルに展開されたのは、まったく恐ろしくなるくらい陰気な酒だった。

 俺はどっちかというと、その場をほがらかにしたりするような飲み方が好きだ。

 半分くらいそのために飲んでいるので、別にそれほど酒単品が好きなわけではないが、どよよんとした空気が上空に渦巻いて、そろそろ魔王でも魔物でも召還されんじゃないかって感じのあの陰気さには耐えきれず、結構杯を重ねてしまった。しかもことの説明が説明だからまったく。

 不意打ちで聞いてしまったリットの心情とかは抜かして、とりあえず事実を羅列したものに留めたが、サーカスの件はさすがに強めの酒二杯はあおらないと言い出せなかった。沈黙は金とかいうがあの沈黙をはらすためなら金払ってもいい。

 そういう切実な酒であることも理解されず、戻ったメイスに酒臭い酒臭い酒臭いと大顰蹙かった。

 いつもは素敵な匂い~とかうっとり言われるところを、掌を返したように臭いから近寄るなと言われると結構ショックだ。料理法にはあんのにさ、酒を使ったレタス蒸しとか――なんの話だ。

 すげえ嫌そうな顔をしたメイスが俺を水桶に入れたり、沈めてみたり(おい)色々してみたおかげか、朝になると酒の匂いはとれてきたようだが、それでもメイスの機嫌は直らず(多分まだかすかな臭いがとれていなかったんだろう)つんつんする相方にため息を吐きつつ、昨晩、あれだけ杯を重ねてもたった一言しか喋らなかったカールの言葉を思い出した。

 ――俺は、リットと共にいない方がいいのかもしれん。

 声には激しい感情は含まれず、どこか達観したような諦めの響きだけがあった。何度取り出しても、はふとため息をついてしまいそうな調子の言葉だった。

 長年一緒にクエストだ付き合いだのやってきて、事情もだいたい察していて、気心知れてるとたかをくくってきたけど、なんもわかっちゃいなかったんだなあ、と残った酒気が憂鬱に染まる。

 カールは、カールのあれは確かにうまいやり方じゃない。逃げ回っていることを察せられないほどリットは鈍くないし、うまく誤魔化せるほどの口がカールにはない。

 だけどカールの臆病な言い分も、正直わかる気がするんだ。あいつは一番悲惨だった頃のリットをよく知っている。

 傷つけたくない傷つけたくないと、と萎縮した心が全ての元凶だ。リットの言うように同じくらい傷ついているのなら、リットのために我を捨てろなんて怒鳴って終わりにできるような簡単な状況じゃない。

 桶の中の水に揺られながら考えていると(まだメイスが外に出るの許してくれない) 唸っている俺を不審に思ったのか、ちょっとメイスがのぞきこんだ。

「二日酔い、とやらですか」

 好きで飲んだわけじゃねえ、と反論したいが、絶対何倍返しでこられるな、と思ったので何も言わずちょっと縁に寄ってメイスを見上げ

「お前は、平気なのか」

「平気なわけないでしょう私はサラダにドレッシングをかけられるのが大嫌いなんですよ知っておられたでしょうに!」

「は?」

 くわっとメイスが空を向いて

「好物が台無しになっている状態ほど悲惨なものはありません。食べられたのに食べられるものが食べられなくなるなんて耐えられませんなんで人間はそんなに愚かなのですか!」

「誰がそんな話をしとるか!」

 ようやく何に対して言っているのか勘付いて俺は声をあげた。メイスがこんなに酔っ払い嫌いだとは……いや、酔っ払いではなく、俺が酔って酒気を帯びているのが許せないということがうるさいとは。あー。もう。

「昨日のワーウルフのことだよ」

 言うとメイスもようやく少し矛をおさめてああ、と呟き

「ま、確かに気分のいいものではありませんが。別にそれ以上は」

「……」

「複雑そうですね」不可解そうにメイスが言った。「じゃあ、レザーさんはあの団員がワーウルフの肉を純粋に食料として食べていれば問題はないと?」

「……」

「善とか悪とか、人はよくわからない定義を設けていますがね、何をどのような形で食らうのか、どうせ全てはその範囲のことでしかないじゃないですか。だから根源は同じです。何かを食べずには生きていけない、それが生物の共通項で、自分の生に関わらない以上、他が生を維持していくための行動をあれこれ寸評してどうなりますか?」

「それは――……」

 不意にカコココンッ! と啄木鳥が忙しなく幹をつつくような、えらい速さのノック音が響いた。これはリットだな、と思って俺が水に漂いながら見やると、予想通りに明るい髪の、悩みの影などひとつも見せないリットが姿を見せた。

「メイスちゃーん」

 リットはなぜかやたら楽しそうに笑っている。その後ろにカールもいた。少しは折り合いつけたのだろうか。そんなことを危惧する俺の前でリットはひょいと入ってきて言った。

「あのさ、メイスちゃん、よかったら一緒にサーカス見にいかない?」




 サーカスの天幕を訪れると、あの顔のパーツ全部がでかい団長が喜んで迎えてくれて、俺達をちょうど鉢状に作られた客席の最前列につかせてくれた。

 滞りなく他の客も入り、ショーは始まって、他の猛獣や動物達の芸もうけて、無念と憎悪の雄たけびをあげるワーウルフの登場にはみな息を詰め、その後大歓声で。

 盛況のうちにショーが終わった後、案内された楽屋であの団長が誇らしげに

「どうでしたでしょうか、我がサーカスの興行は」

「盛況だったね」リットが言うと団長は相好を崩す。「でもさ、もう少し考えさせて。明日もきていいかな。様子みたいんだ。あの席取っといて欲しいな」

「はいはい。それはもう喜んで」

 愛想よくうける団長とリットの姿を、見ているカールの顔を俺は恐る恐るうかがった。そしてそこにあったものにげっとして、話してるリットと団長、二人の隙をついてメイスの腕からカールの腕に飛び移る。

 ジャンプ際にメイスはちょっと移動した俺を見たが、カールがきびすを返すと、それ以上は追わずにその場にとどまることにしたようだ。カールは俺が腕に乗っても気にせずに、足早にテントを出て、まだ少したむろしていた客を横目に、今日も灼熱の太陽が照らす街を歩き、歩いて歩いて歩いて。

 そんでついには浜の方まで来てしまった。海に馬鹿野郎とでも叫ぶ気か。

 海が見える街路の端に、あの最初の日の椰子の実売りが座っていた。向こうは早い段階からこっちに気付いていたらしく、一瞬ひやっとしたようたが、あ、あれと意外そうに目を開き(やめときゃいいのに)だ、だんなー、と声をかけてきた。

 カールは立ち止まり、風を切って歩いているときと同じ表情で、椰子の実売りを見下ろした。声をかけてきた兄ちゃんはほっとして表情を緩め、どうですか、今日もおひとつ、と大きな椰子の実を差し出してくる。カールはそれを片手で受け取った。

「今日はずいぶんご機嫌が良さそうですねえ、なにかいいことでも――」

 兄ちゃんの言葉途中でバカッと変な音がして、綺麗に並べられた石畳に滴る乳白色の汁と共に、粉々になった硬い椰子の実の欠片がぼたぼた落ちた。え? と何が起こったのかわからない顔を兄ちゃんはする。

 風を切って歩いていたときと同じく、カールの顔は変わらず穏やかだ。微笑みを浮かべてる、というほどではないが、それが浮かんでもおかしくないような顔をしている。

 カールみたいに表情が変化する奴はほんと珍しいと思う。この点に関してはライナスも敵いやしない。山賊も逃げ出しそうな顔が穏やかになると。

 それは。

 ぶちきれる直前だ。




 最後まで意味のわからなさそうな兄ちゃんの前で(あいつはその方が幸せだった)カールはとりあえず椰子の実十個ばかし素手で割った後、その分の代金をちゃんと兄ちゃんに払って、何事もなかったかのように宿に戻った。

 戻るとメイスだけがいて、四分の一カットのキャベツを片手になんか魔法書を読んでた。カールはメイスに俺を無言で渡すと、そのまま部屋を出てどっかへ行ってしまい、俺とメイスだけが取り残された。

「どうしたんですか、あの人」

「……きれそうになったのをなんとか自制してきた」

「へえ、ホントに怒ってたんですか」

 メイスが意外そうに言ったので、俺はその口ぶりが気になり

「どういうことだよ」

「いえね、リットさんがカールちゃん怒ってたね、と申しましたので。私には妙に機嫌が良さそうに見えましたが」

 わざと怒らせたんじゃないだろうか、そんな考えがふと頭をかすめる。

「……リット、あの後、なんて言ってた?」

「――。メイスちゃん、こういうの嫌いでしょ。ごめんね、つきあわせちゃって、と」

「……」

「それと。協力を頼まれました」

「協力?」

「ええ。キャベツではえらく安い気もしますけど、ここいら青野菜があんまりありませんからね。変な味の果物ばかりで」

 言って食べかけのキャベツを睨むメイスに、俺は寝耳に水で「おい、協力ってなんのことだよ」と聞きかけたが、カールとは対照的に軽ろやかな足音がドアの向こうから聞こえてきて口を噤んだ。

「メイスちゃーん、今後の旅費のことも考えて、もう一稼ぎしときたいんだけど、つきあってくんない?」

 と一気に用件を言いながら身体を部屋に滑り込ませたリットは、部屋の中を見回して何かに勘付いたように

「あれ? カールちゃん来てた?」

「はあ、先ほど」

 はれ意外、と呟いてから急に何かに気づいたよう、リットはメイスをまじまじと見て

「そういやカールちゃん、あんまりメイスちゃんには世話焼かないよね」

「え?」

「や、カールちゃんって子ども好きだからさ、すっごい面倒見いいんだけど、メイスちゃんにはそーでもないなーって――ん。ま、いっか」疑問を口にするだけして、リットは行こうよ、ときびすを返す。メイスも何故かリットの提案にはあまり逆らわないが、このときはついていこうとして、そこで立ち止まった。

「腹いせ、とやらですか?」

「へ?」

「そうやって技でお金を稼ぐのは」

 すると目を見開いたリットは珍しくちょっと参ったように笑って、一本ナイフを取り出して自分の黄色い髪の上にその柄を立てて離した。ひょいひょいと頭でバランスをとりそのナイフを空に屹立させながら

「僕さあ、実はこういうの嫌いじゃないんだよ。これやってるときだけは人並みな扱いうけたし、誰もバカにしなかったし。そん時の思い出もあるし今でも自分の技見せて感心してもらうのって、けっこう気持ちよくってさ。――でも、やらなかった。だから、いい機会だからこの際もうちょいやりたいかな、ってところが大きいんだ」

 うん、と頭を勢いよく上げると、上のナイフが跳ねてくるくると空に舞う。それを右手が当然のように受け止めた。……確かに。これだけの器用さがあるなら、今までそういう手を考えなかったことが不自然か。だけど横向きのリットの顔はどこか苦味を帯びている。

「あのサーカスに、入る気なんですか?」

「まさかあ」

 とんとんと階段を素早く下りながら、リットは軽い笑声と共にあっさり否定した。「ごめんね。ししょーさま探ししてるのに、関係ないことで結構ここに長居しちゃってさ」

「いえそれはかまいませんが」

 なぜか急にここの部分だけメイスの口調が早くなった。まて、かまわないことはないぞ。俺が思っているうちにメイスは

「じゃあ、動物を逃がそうとでも?」

「僕はカールちゃんみたいには出来ないよ。カールちゃん正直、凄く大変だったと思うよ。救うってのはきついよ。自分を犠牲にしなきゃなんない。誰だって自分のことだけで精一杯なのに、も一人背負うなんてさ。結構無茶な話だよね」

「それは……まあ」

「いいんだよ、僕は。お金だって芸しないのだって。ただ。――たださあ。カールちゃんが僕のために冒険者やめたこと。あれは、嫌だったな。帰る場所があるとか、定収入とか、色々通りいい言葉はあったけど、僕知ってるもの」

 戸口に手をかけて振り向いたリットの顔に広がったのは、泣きそこないの笑顔だった。

「カールちゃんは僕と、ずっと一緒にいたくなかったんだ」




 欠けるところのない満月だった。

 俺は早々に人間に戻り、そんでリットの目があるから、こそこそ一般客に混じってサーカスの観客席についた。鉢型の中段辺り。あんまいい席じゃなかったけど、リットやメイスがいる場所からは死角になって見えにくいし、服もちょっと変えてきたのでま、なんとかなるだろう。

 場内は興奮があふれ出るように、囁き声があちらこちらから漏れている。内部にランプは幾つも掲げられているが、緋色を孕んだ薄暗さはどうしようもない。

 そんなぼやけた世界のステージの真ん中には、初めから赤い布を被った檻が黙々と鎮座してあまりに不気味な沈黙を保っていた。

 ワーウルフが俺と同じように月の光によって力を増幅させるというのは嘘ではない。ワーウルフが持っている魔力は、メイスのいうところ夜の属性らしく、魔力で作り出された身体は魔力が変化することで変わる。

 具体的にまあどういうことになるのかというと……。満月の夜を選んでワーウルフに喧嘩を売る馬鹿は滅多にいないということだ。凶暴性を見るなら確かにもってこいな晩ではあるだろう。しかし。

 やがてあの癇に障る拍手の音が響き渡り、ステージの四方を囲む巨大な松明が突然ぼっぼっと燃え上がった。油でもしみこませていたのか、凄まじい勢いで火柱はたち、テントの中の全てを緋色に照らす。

 客席の誰かが堪えきれないように声をあげた。嫌なテンションだな、と思いながら俺はそっと席を立った。

 テントの中は明るいのに、この光は熱を帯びすぎて、誰が誰ともわからない。まるで黄昏の真っ只中にいるようだ。太陽を煮た残り汁だと、神話が語るその異質な空の色。

「今宵はみなさま、お集まりいただき――」

 団長の声も熱を孕んで、けれど熱狂の中で歪んで響く。よりよく中心を見ようと立ち上がる人間に思わず阻まれて、これは身動きがとれなくなるかもしれない、と俺の頭に危惧がよぎった。

 瞬間、何かが破裂する直前のような、嫌な緊張感が駆け抜けて、冷たい風が真上からそよいだ。はっと仰ぎ見た先には、テントの天井がぽっかりと開き、そこから黄色の何よりも丸い、月がのぞいていた。何故だか一瞬、俺は呆気にとられてその場に停止し、

 ウオオオオオオオォオオオオオオっ!!

 テントの開いた穴を突き抜けて、地獄から湧き上がってくるような雄たけびが、のぞく月を強烈に叩いた。視界には、あげられた人人人の手が乱舞する。周囲はもう熱狂状態だった。

 狂ったように跳ねる人間を、俺は仕方なく押しのけて、階段を進む。振り上げられる無数の腕の隙間から、月の光に冷たく光る檻が見えた。檻が唸る。ギシギシと。毛皮が振られて、人はそれに大喜びだ。

 ウオオオオオオオオオオ!!

 ウオオオオオオオオオオ!!

 息つく暇もなく、獣が檻の中で喚いている。憎悪を声にすれば、こう聞こえたろう。凄まじい力で引かれて鎖が唸る。

 新たなショーが始まったのかと、熱狂に包まれるテントの中が少し静まった、――それを待っていたように、キィィィッンと最後の抵抗を音に乗せて、ワーウルフの瘤のような肩の先に延びた前足の鎖がはじけた。

 それは隅についていた鉄檻の一部をもぎとって、ガッと鈍い音を立て檻の内部に落ちた。一つが耐え切れなくなれば、残りの崩壊はあっという間だった。ひゅんっと強い引きでもう片方の鎖ももぎ取られ、檻が軋んだ。

 後ろ足はさすがにとれないようだが、歪んだ鉄檻の隙間からワーウルフの体が見える。剥き出しになった白い牙には血の泡がこびりついている。その表情は少し笑みのように見えた。

 ウルオオオオオオオオオ!!

 瞬間、奴が出したスピードは、月と松明の光がぼやけて混ざるこの場で完全にその姿を見失わさせた。客席に向かい爪がかかる半歩前で、がくんっとその体が引き戻されて舞台に叩きつけられる。しかし、めりめりと後ろ足に繋がれた檻も耐えかねたように、徐々に分離していってる様が見てとれた。

 一拍後、凍りついたテント内に、まるで示し合わせたような複数の悲鳴があがった。興奮は伝染するように、混乱もまた伝染する。テントの中の観客は、獣のように口々にみな思い思いの畏怖を吐き出して踵を返す。

 あまりに急な転換をはかったのでよろめき崩れる人間が続出し、起き上がるのを待たずに後ろからさらに人が殺到する。どの顔にも色濃い恐怖とパニックが浮き上がり不気味な陰影をつけた。そこに刻まれた意思はひとつだ。他を押しのけて踏みしだいてもステージの上のあれからなんとか遠ざからんと。

 瞬間、階段の辺りで悲鳴があがった。見やると将棋倒しになって次々に人が絶叫をあげて倒れていく。けれど悲鳴が押しつぶされる前に、折り重なった人間達はふわりと空に浮いた。メイスだ。わずかな安堵の瞬間も与えてくれず、舞台で再び甲高い悲鳴があがってせわしなく視線を向ける。

 月光が照らす舞台は新たな展開を迎えていた。人の束をまとめて襲いたかったワーウルフは、引き戻された衝撃から復活したらしい。四足歩行で頭をもたげ、檻の範囲にいる人間を見つけて口を開いた。そこからだらっと大量の唾液と血が滴り落ちる。

 その細められた目の前には、団長が一番手前にいて、その後ろに団員たちがいる。凍りつく人間を前に、解き放たれた月夜の獣は、もう誰の熱狂も呼びはしない雄たけびを、けれど初めて本望のように吐き出しのぞく月を仰いだ。

 喉は高らかに月にむかって張られる。降り注ぐ月光がそれを照らして。この夜、最大にして最高に開放された、耳を傾けるに足るだろう壮絶な雄たけびが終わる直前、ひゅん、と小さくけれど研ぎ澄まされた響きで風が鳴った。

 月の光は細部まで忠実に真下の狂騒を差し出す。ワーウルフの喉に何かが突き出ている。その喉笛を正確に射抜いた尾羽だ。月光が照らし出す舞台の縁にリットがすっくとたっている。弓矢をかまえて、冷たい顔をして。

 ワーウルフがうっと首を下ろすと、すでに番えられていた新しい矢は放たれ、その額に深々と刺さった。ワーウルフは苦悶の表情を見せなかった。少し月の色に似た、黄銅色の目はどこか不思議そうにリットを見下ろした。

 無感動に矢筒から取り出して番えた尾羽を離すとき、初めてまともにワーウルフを見たように

「ごめんね」

 とリットはそれだけ言って。

 三本目の矢を再び喉に受けて、ワーウルフが倒れふしたのはその一拍後だった。




「怪我がなくてよかったね」

 とりあえず怪我をした観客を手当てして、訴えてやるとか、この落とし前はどうつけるのかとか、抗議する客をなだめすかして帰して、一旦静まり返ったテントの中。

 まだワーウルフの死骸がステージの真ん中に冴え冴えと横たわる前で、リシュエント・ルーは軽く笑って団長と団員に向かい言った。

「でもちょっと注意不足だね。ワーウルフは、月の光を浴びて力を増すのに、誰も鎖があんなに痛んでるのに気付かないなんてね」

「しかしあの鎖は……」

 まだ納得できないように抗議する団員の一人に

「ワーウルフは知恵があるよ。自分の糞尿や汗が鉄を錆びさせるってことぐらい、そのうち思いつくさ。あんなひどい臭いの中じゃ、それも気付けなかっただろうけど」

 もう一言も返せず団員はうなだれた。調教師の一人なのだろうか。リットはステージと客席の境目に座って、笑っている。

「今回のことでだいぶ評判は落ちるでしょうな……」

 団長がしんみりと言った。それから周囲の団員の暗い顔に気付いて、その厚い掌を打ち合わせようとしたが、途中でやめてステージのワーウルフを見やり

「あんな無様な見世物を出してしまうとは、サーカス失格ですなあ…」

「そお?」

 調子をはずしたよう、陽気にあがった声に団長が顔をあげると、リットがけらけら笑って

「僕は楽しかったな。あんな見世物久々だよ。キーキー飛び跳ねて集団で顔真っ赤にしてるかと思ったら青ざめて一目散でさ。あん時の様子! 僕、あれ以上面白い見世物になる動物ってないと思うなあ」

 何も言わずに佇んでいたカールが顔をあげ、メイスもさすがに振り向いた。

 団長は目を見開いてリットを凝視していたが、やがてどこかでふっと悟ったように、諦めの笑みを浮かべた。

「そう……でしたか。不覚でしたな、そんなことにも気付かずお誘いして。あなたは――」言いかけて団長は途中でステージに横たわるワーウルフを一瞥し「あなた方…、は、私どもがお嫌いなんですな」

 リットの笑顔に少し漣が走り、細められた目は徐々に疲れきったような色を見せながら開かれていった。

「うん。僕は、嫌いなんだ」

 行こう、カールちゃん。高いステージの境目から飛び降りてリットが言った。一度も振り向かずに観客席の階段をあがる。影にいた俺に、メイスが近寄ってくる。団員だけが取り残されたテントの中に、パンパンと二回、力のない拍手が鳴った。




 生ぬるい夜をルーはゆっくりと歩く。途中で月が沈んでレタスに戻った俺は、メイスの手からその後姿を見る。

「オキャクサン、って獣みたいだなあってのは昔から思ってた。顔真っ赤にさせてキーキー喚いててさあ。動物が獰猛なとこ見せると喜んだけど、その時動物とかわんなかったって思う」

 小さな背中はゆっくり歩いたが、巨体のカールも、健脚のメイスも、それに追いついたり追い越そうとはしなかった。

「もう少し後でも、間に合ったよねえ」

 誰ともなくリットが問いかけて、あははと笑った。

「ワーウルフにあの団長たち殺させてから仕留めてもさあ」

 カールが突然、小柄な体の横を抜き、その肩を引っつかんだ。並んだカールにリットは立ち止まって穏やかな顔を向けた。

「僕の中にも獣がいるさ」

「……」

「でも、檻を作ったよ。僕の獣は檻から出なかった。出て人を殺さなかった。僕、自分で檻作ったけど、カールちゃんがいなかったらできなかった。僕は弱いけどさあ、それはできたよ」

 ――何をどのような形で食らうのか。

 それの違いだけだと言ったメイス。善も悪も倫理も正義も全てその範囲に収まってしまうのだろうけど。だけどそれは。人が他と一緒に生きようと思って、作ったと思いたい。なるだけ多くが一緒にうまく生きようとして。互いの中に檻を作るように、傷つけあうことをなくそうと、そういう思いが拘りを生んだ。弱くて不完全でそれが逆に傷つける有様でも。

「僕は獣を殺せないけど、もっと檻を強くするからさ」

 うつむいて囁くようにリットはそう漏らし、続けて垂れ下がり顔を隠す明るい前髪の向こうから、たった一つの願いを口にした。

「一緒にいてよ、カールちゃん。僕といてよ。カールちゃんといれないのはやだよ」

 青い夜の中を、佇む男に向けてどんっと小さな体が頭からぶつかった。

 どんな奴の中にも、本能のままに振舞いたいと、雄たけびをあげる獣がいる。野放しにされたそれが、他を無差別に食らって傷をつける。その獣を閉じ込めるために作ったはずの檻は、求め合う手をも時に阻む。

 だけど、強固に張られた檻の向こうから。

 そっと伸びてきたたった一つの手は、目の前で震える明るい髪に、いたわるように静かに置かれた。




「まあ、お金なんてさ、パーッと使っちゃおうよ。どうせあぶく銭だし。メイスちゃん今度はキャベツ一つとかせこいこと言わないよ。なにがいい?」

「……レタス。お酒の臭いがしないレタス、酒抜きレタスがいいです」

「え? レタスと酒?」

 散財小娘どもの声を後ろに、あっつい中をやっぱりカールと街に買出しに行く羽目になって。

「なんだよあのあてつけ! ってかいつまでこの街にいる気だ!」

 陰険なメイスとことの運びに俺がキーキー声をあげると、カールが器用に俺を載せたまま腕を折り返して、ぽんぽんと宥めるように叩く。一人だけすっきりした面――いや、いつもと同じだが、ともかくしやがって。

「無駄遣いだぞ! 無駄遣い! 今度こそ注意しろよ!」

「……しかし、これはリットの稼いだ金だ」

「いいんだよ! お前が保護者だろう!」

 怒鳴っていると、角を曲がった先で、なにやら人だかりが見えた。椰子の実が積み上げられた山が見える。あれは――。中の一人がひょいと顔をあげ、ぱっと顔を輝かせて手をあげ

「ダンナぁ! いいところに!」

 と呼び寄せる。なんだなんだと人だかりがこっちを見ると、その人垣を突き破るようにあの椰子の実売りが身を乗り出して、カールの手になぜか椰子の実を押し付けながら

「こいつらにダンナのこと話したんですがねえ、信じやしないんですよ。椰子の実素手で割るような男なんて、って言いましてね。それでだ、ちょっとこいつらに見せてくださいよ。さあ、お前ら、目ん玉かっぽじって――」

 ぼかっと言葉途中にカールの手の中で、椰子の実はあっさり砕けた。一瞬沈黙が落ちたが、椰子の実売りの兄ちゃんはひゅーっとはしゃいで腕を振り回し勝ち誇りながら周りの奴らに

「どうだ! 本当だったろ! このダンナにかかれば椰子の実の一つや二つ!」

「ま、まじかよ」

 と呟いて男の一人が椰子の実を掴んでカールの汁まみれになってる手に再び押し付ける。バカッ。

「すっ、すげえ!」

「本物だっ!」

 一様に男どもは声をあげ、驚きがさめると感心の色を浮かべて

「こりゃすげえもんみたな」

 と口々に言ってなぜか硬貨をカールの手に押し付けてくる。それを見て椰子の実売りは慌てて

「おい! なんで掛け金全部俺によこさねえんだよ!」

「見物料だよ! こっちに渡すのが筋だろ。いやー、厚い手だなあ。こんな手なら割れんのか。いやー、帰ってかかあに話してやんねえとな」

「オイ!」

 ぞろぞろ去っていく暇そうな男たちに、椰子の実売りが追いすがっていく。取り残されたカールはじっと掌に載せられた硬貨を見て、それから俺を見て一言だけ言った。

「稼げた」

 ……

 ……

 青い空。白い雲。輝く太陽。二日酔いにも似た頭痛。そういうものを全部抱えて。


 男って予想以上に悲しい生き物かもしれないと、山となった椰子の実の隣で俺は思った。





 <檻の中の獣>完

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