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像と試験と夢見る王女(4)


 開館時間が過ぎたファエナ美術館は、ひっそりとして息苦しい。薄暗く石造りの廊下に響く足音は高く遠くまで響く。

 明かりの中では清廉で華々しい美術品も蒼い闇の中ではその本性を剥きだしにするように、描かれた聖母も掘り出された凛々しい男神も、影の中でいやらしい笑みを浮かべているような気がする。

 一定の時間ごとに見回りの神官が来るが、それ以外に人の気配はない。そうして俺は。どこでどうしているのかと言うと。

 あまり注目されない壁際におかれた彫刻の掌に置かれていたりする。……。

 元の彫刻は天を仰いで苦悩する男が救いを求め狂おしげに掌を掲げている姿なんだが、そこにぽすっと置かれても明かりの中ならともかく影の中では彫刻の一部に十分見えるという理屈はわかる。……わかるが。俺はなんだ! レタスを求める男の彫刻のレタスか! あ!

 リットがいるので文句一つ言えず、運ばれるままに俺は見張り役としてここに置かれた。聖ウィンリ像が置かれている広間はぽっかりと空いているので、人が隠れられるような場所は他にないし。……まあ。理屈はわかる。……わーかーるーがー。

 しんと影と闇が落ちた美術館には人の影もない。暇だし、寒いし、寂しいし。うー。あんまり静かだからか、なぜか詰め所でぬくぬくしている女三人の声が聞こえてきたりする。

「でもさあ、どうもわかんないんだよね」

 リットもかなりマイペースな奴だ。いきなり黒いのが現れたり、夜中の美術館で見張りをしてたりする自分になんの疑問も抱かないのか。

「なんで聖ウィンリ像好きスキーな王女さまへのパフォーマンスにルーシー像? しかもなんで壊すの?」

「――お前はわかるか?」

 一瞬の沈黙の後、低い声がたずねた。

「……」

「わーっ! ししょーさまぁ、メイスちゃん叩かないで。バカになるよ、頭の形悪くなるよ! 頭の形悪くなったら戻るの大変なんだよ!」

 リットはどうしてあんなに強いんだろうか。

「僕、僕が考えるから! ……えっとね、ルーシーとウィンリでしょ。……なんかくるものあるなあ。メイスちゃんなんかわかんない?」

「……聖ウィンリは、神話の中ではルーシーに懸想していると」

「けそーってなに?」

「……恋愛感情とやらを抱くこと……だそうです」

「へえー。神様も恋愛なんてするんだ」感心するようなリットの声が続き「ん? ってことは、王女様はウィンリ君がスキ。ウィンリ君はルーシーが好き。……ん? ってことは王女様は、ルーシーが嫌い?」

「及第点だな」

「わーい、やった。え? でも、石像……だよねえ」

「石像に恋情を抱く相手は石像が恋敵になりえる」

「どっひゃー」

 王女様どうかと思ってたけどすごいね、といまさらのようにリットの声が言った。実際、ウィンリ像と同じフロアにおいてあったルーシー像を殿下は目の仇にしていたらしい。

「噂話を流したのはなんで?」

「――お前はわかるか?」

「……」

「わー! ししょーさまあ! メイスちゃん泣いちゃう泣いちゃう」

 ……認めたくはないが、あの三人、案外バランスがとれているのかもしれん。殿下の見張り役と万一の時の護衛に残ったグレイシアとカールから、この三人で美術館の方を、と言われたときはほんとぎょっとしたんだけど。

「仮に石像に恋情を抱く人間が、その石像が動いた血の涙を流した等の噂を聞いたらどう思う」

「……キショい」

「……魔術の存在を疑う」

「……」

 無言の中からコルネリアスの威圧が漂ってくる。それを向こうの二人も感じ取ったのか、沈黙の後、ふとリットが素っ頓狂な声で

「はっ。メイスちゃん、僕らには、恋する乙女ってやつの視点が欠けているんだよ」

「こっ、こいするおとめってやつ……?」

 恋する乙女って奴。

 難解だ。俺にもわからん。しかしそうだよ! とリットは勢いづき

「例えば殴り合いのことうっとり考えるライナスの目とか――」

 違うぞ。

「例えば海に向かって日々レザーちゃんの名を叫んでるアシュレイとか――」

 ……違う。

「ともかくそういうもんが欠けてんだよ! えーとつまり、――石像動いて便利じゃん!」

「三十五点」

 コルネリアスの声。あの女も暇なのか。

「ついでに掃除とかしてくれたらいいのにな!」

「四十点」

 なぜあがる。リットも全然勢いを失わず

「血涙流す石像っておっしゃれーっ!」

「四十五点」

「あがってる! あがってるよメイスちゃん。もう一息だよ!」

 なんなんだあの暇人どもは。

「メイスちゃん、なんかない?」

 その問いかけにメイスはしばらく沈黙した後、

「……に、人間になる」

「え?」

「石像が……人間になったら……いいな?」

「……六十点」

「わ! すごい! あー……そっか。別に王女様も石像フェチってわけでもなくて、ウィンリ君と恋愛したいわけか。……ってことは、ウィンリさま動くなんてやっぱりあれはただの石像じゃないんだわ。やっぱり特別なんだわハーレルヤー!」

「及第点」

「やったー!」

 盛り上がる詰め所の声はなんらかの魔力で俺の耳に届いているとしか思えない。

 俺はそんなことを虚ろに考えながら、冷たい美術品の中で、明け方まで寂しく石像の手の上で見張ってた……




「結局こなかったねー。ししょーさまもどっか行っちゃうしー」

 不眠の晩が明けたので、昼頃まで眠って起きだしてきたリットが呟いた。隣のカールが

「昨日の今日、だからな」

「その意表をついてすぐにくるかと思ったけど、意外に常識系だったってわけか。つまんない」

 つまんない、の一言で片付けられるもんではないだろうが、朝食なんだか昼食なんだかの席でリットは白パンをちぎりながら

「つーかさー。ほんとにウィンリ狙ってくるのかな。だって王女様って結構世間知らずでしょ。別にほんとに盗まなくてもウィンリもってきました。こっちにありますよーホーイホイでコトはすむんじゃないかな」

 リットの指摘は悪くないところをついていると思う。なにしろウィンリ像は結構でかいし、しかも岩の塊だ。あの上背なら一人で持てるようなレベルではあるまい。

 うまく忍び込んでも持ち出すのも骨が折れるだろうし、持ち出したところで王女の前でほらほら振って見せびらかせるような代物でもあるまいし。

「……あ。でも待てよ。メイスちゃんみたいな魔法使いがむこうにいたらそれもありかな」うん、これもいいとこついてる。リットは身を乗り出してテーブルの向かいで、二人にあわせてパンを食っているメイスに「ねーねー。メイスちゃんの魔術ってマイナー? ポピュラー? けっこー使ってる人いる?」

「……」メイスはくるみが盛られたパンを皿においてしばらく考えた後「そんなにはいませんね。物体干渉の術は、周囲の様子を完全に把握した意識の上で術を構成しなければならないので、人間の身では物体の気配等を認識するまでが手間ですからね、あまり習得する人間はいないようです」

「ふーむ。そんな人、わざわざ探し出すよりは、嘘で騙した方がちょろい気はするなあ」

 はむと片手に持っていたパンをリットが頬張ると、急に白いローブを揺らし、グレイシアが食卓の席に足早にやってきた。

「あ、シアちゃん、おはよー。シアちゃんもご飯?」

「おはよう。昨夜はお疲れ様。ご飯ではないの。食べ終わってから見て欲しいものがあってきたの」

「なに?」

 頬袋に木の実を詰めるリスのようにパンを頬張ったままリットが尋ねると、わずかにグレイシアの顔が曇った。

「どうしても、と言われて断りきれなくて。今朝、神殿に運び込まれてきたの。あまり見て気分のいいものではないけどね……」




 春風にたなびき細い首にまとわりつく、その髪は石でできているはずなのに。さらさらと風にも攫われる軽やかさが、見事に掘り出され表されている。抱きしめたくなるような、若々しさと美しさに弾む肢体は、今にも踊りだしそうな脈動感があり、服や頭上には花の女神でもある証に小さな彫刻の花が散らされている。

 そして、見事にたなびくその髪が覆う顔の部分。そこはぽっかりと空白だ。えぐりとられた岩の生々しさだけが冴え冴えと露出されている。壊されたルーシー像だった。

 作為――いや、込められた悪意を感じずにはいられないその有様は、ただ岩が崩れているだけだと言うのに。生身の人間の惨殺死体に直面した時のよう、うっとくる惨さ、禍々しさがあった。

「……」

 リットがそっと身を引いて、カールの裾をつかんだ。「これ……ひどい」

 グレイシアは何も言わず、机の上に並べられた瓦礫を見下ろす。それは女神ルーシーの像の顔の部分だ。砕かれた岩の上には、まだ美しく、特に丹念に彫ったんだろう顔立ちの一部が載っている。先が途切れた鼻と春を見つめる無垢な片目が見えた。ばらばらになったルーシー像の顔部分だ。

 俺は特に芸術に造詣が深い方じゃあないし、このルーシー像の作者も壊されるまで知らなかった。だけど。

 これはこんな風に扱っていいもんじゃない。と思う。これは生々しい悪意が凝った一つの作品だ。多分、見世物になれる。そんな凄さはある。だけど。

 カールがそっとリットの身体を回して背を向けさせた。俺はメイスを見た。無駄と言い放ったメイスは何も感じ取りはしないかと思ったけど、俺の視界の先で憎悪と困惑が入り混じったような目で像を注視して

「……魔力がこめられている……わけじゃないですよね」

「ええ。違うわ」

「……なんだか、変に……うん。ただの石の塊が崩されただけですが。その割には――……」

 メイスが自分自身不可解だというような口調でグレイシアに続きの言葉を言いかけた瞬間、「わっ」とリットの声があがってかきけされ、反射的に皆の視線がそっちに集まった。

 ある一点を凝視しているリットの視線を辿ってつくその終着点に、遅い早いの差こそあれ誰もがぎょっとしたと思う。

 リットの視点は上向きに、二階の小聖堂をのぞく、窓に縫い付けられていた。そこからのぞいていたのは、一人の赤毛の女だ。女は自身の存在が気付かれることも一向に気にせず、微笑んでこちらを――いや。気にしてないんじゃない。気付いていないんだ。

 うっすらと開いた口元は微笑みを湛えたまま、満足げな愉悦に満ちたその目はただ一点を揺るぐことなく見下ろしていた。ルーシー像だ。惨い作品を眺めて微笑む殿下の姿もまた、それと同等、以上の醜悪な一つの作品のようだった。

 そして女は笑んだまま、踝を返す。その姿が消えてもしばし戦慄は去らずに残った。見下ろしたあの目は愚か者のそれじゃなかった。たった一つの目的のために、鬼にでも悪魔にでもなれそうなそれ。浅はかな虚言などで、あの瞳は騙されまい。

「どうして殿下を外に出したのです!」

 グレイシアの声は冷静に叱りながらも、わずかに悲鳴が混じる。

 ふと俺の耳に昨日聞こえたリットの声が唱和した。王女様はウィンリが好き。ウィンリ君はルーシーが好き。だから王女様は――

 必ず近いうちに、また襲撃はくるだろう、と俺はその時確信した。




 朝食だか昼食だかの食事を終えて、俺とメイスは夜になるまで暇なので、コルネリアスを探すために街に出た。奴は夜の見張り時間になるとどこからともなく現れて、夜があければ消えている。ついでにリットとカールも手伝う手伝うと軽い調子で(それはリットだけだが)ついてきた。性質上、二手にわかれることが容易にできたのでまあいいけど。

 図書館やその他出没しそうなところを回ってはみるものの、明るい日和には似合わないとでも言うようにあの陰気な姿は影も形もない。

 くたびれたメイスが日差しでちょっと萎びた俺を噴水のそばにおいて、自分は市場で買った人参をガリガリと齧り始めた。……せめてスティックとかにしてくれ。前を通り過ぎる人間の目が痛い。

 しかしメイスがそんなこときくわけもないので、俺は諦めて噴水の方を向いた。井戸水を利用して造られた噴水は、青い綺麗な水を噴き上げて、水のベールの向こうには石膏でできた聖母リディア像が立っている。

 俺たちがいま頭を痛めている美術館に大切に飾ってある作品とは違い、野ざらしになっているので知れるよう、これは単なるレプリカだ。元になった石像は――えーと忘れた。

 それでもレプリカの聖母は、少し汚れてはいたものの綺麗だった。館の中ではなく、青い空をバックに明るい日の中で見るから、その石膏の白さが際立って綺麗に見えるのかもしれない。

 この街は石を投げればあたるくらい、こういう聖書だの神話だのにまつわるものがあちこちにあるから、特別目立つというわけではないが、なんとなく気になって見上げてみる。

 レプリカの女神はシンボルの慈愛の微笑みを浮かべ、全ての我が子を迎え入れるため、両手を前に広げている。その様は飛び込んでくるのを待つよりも、むしろ自ら抱きしめにいこうというような積極的な姿勢に見える。

「あの方は――……」

 隣で感慨も感傷もなくばりぼり続いていた、人参を噛み砕く音がやんでいるのに気付いた。メイスがかなり短くなった人参を両手で持って腰掛けたまま、噴水側を振り向いている。

「グレイシアさん。あの方は――なんとなく、仰ったこと以外のことも考えていらっしゃる気がしますねー」

 その呟きに、俺は朝食の後、再びフェリナ美術館の警備を頼みにきたグレイシアを思い出す。

「ごめんなさいね。館にはそう人をかけられないの」

 朝の一幕の後、グレイシアはそう断ったが、それは半分本当の理由で、もう半分の理由は別にある。おそらく王女殿下を安全な場所に留めつつ、像をおとりに不埒なことを企む一味を、なるだけ表沙汰にせず捕まえたいというところだろう。国家が絡んでいるなら、強力なカードに化けるかもしれない。だから俺たちやコルネリアス、リットという部外者をこっちに回したいのだ。

「あの方はなんというか……存外計算高いというか、強かですね」

 国家間の取引だの対外的な問題など、そういう微妙なところはメイスは理解できないようだが、グレイシアの思惑や身の処し方にはなんとなく嗅ぎ取るものがあったようだ。なので簡単に説明したら、小首をかしげてメイスはそうコメントした。

「見た目や雰囲気に騙されやすいけどな」

「――となるとあの方からお師匠様に関して聞くのは難しいかもしれませんね」

 んーとメイスが考え込むように少し眉根をよせる。確かにちょっと無理かもしれないと俺も思う。

「宗教人という方々は、えー、教えだの、神だのをひたすら信じておられる方々、というものではないのですか」

「まあ、そう言えなくもないが」

「ならどうしてああいう在り方を?」

「……」

 もっともかもしれないメイスの疑問に俺はしばし考える。

 整然とした街並み。加護がと喜ぶ住人。揃い並ぶ美術品。青い空に向けて高く威厳を放ち屹立する大神殿。神の恩寵の街。聖母を信じる人間の目には、何が見えて何が見えないのか。俺はそれがわからないけど。同じものを見れないけれど。

「信じるってことも、なにもしないままじゃ、できねえもんなんじゃねえのかな…」

 信じることと、盲目になること。それがイコールと考えるのは、やっぱり浅はかな理解でしかないんじゃないかな。

「わかりませんね」

 膝に肘をついて、メイスはそっけなく言った。「わからなくてもいいと思いますけど」

 俺がメイスを見上げると、メイスは誰かに見咎められたらややこしいことになるが、噴水の奥に立つ聖母リディア像を無造作に軽く小指で示して、何も言えなくなるようなことを言った。

「だってあれは、人だけの神とやらですからね」




 ――来た。

 ヒタヒタと床の上に慎重に足をおろして寄せてくる複数の足音は、波のようだ。見張りの神官ではないことはすぐわかる。さすがに国家ぐるみの犯罪なだけはある。抜かりない人選で来ているようだ。

 さすがにルーシー像を壊した直後は警戒が強くなっているからか、賊が現れることはなかったが、殿下の帰国が迫っているし短期決戦でくることは嫌でも悟れる。そろそろ石像の手の上も定位置になってきた感じの三日目の晩に、ようやく敵さんは動いたわけだ。

 やがて長い広間の向こうから、走る影が目に入ってきた。もう完全に打ち合わせずみなのか、一つのかけ声もろくな合図も見られないのに、組織だった動きで寄せてくる。俺は胸中で強くメイスを呼んだ。

 これで通じんのか謎なんだけど、詰め所の声は俺に届くんだから、逆が不可能というわけではあるまい。そう思って数度メイスの名を呼び、賊の到来を告げる。

 しかし。

 返事もないし、たいして遠くもない詰め所から、一向にやってくる気配もない。……しばし俺が待つうちに、ウィンリ像の足元まで忍び寄ってきた人影は手早くなんか台車を組み立てている。……運び出す気か。

 なにやってんだ! 俺がいっそ声を出して威嚇してやろうかと思った瞬間、闇を裂いて飛んで来た白銀のナイフが、聖ウィンリ像に手をかけようとしていた人影の腕に深々と刺さった。

 うぐっと低い声が漏れた瞬間、俺を持つ腕が冷たい石像の手から生身の手に変わった。俺は慌てて身体を反転させると、そこに薄暗い影が立っていた。闇にも暗いコルネリアスは低い声で淡々と告げた。

「神殿に火がつけられた」

 俺はその言葉に息をとめた。瞬間に再び石造の掌に戻る。どうなっている、コルネリアスはどこに、と思うが、ふわふわっと次々に浮かびあがった賊たちが、狼狽の声をあげて、探索を中止した。姿は見えないが、メイスの術だ。メイスの浮遊から逃れた数人がきびすを返そうとしたところを、足を次々に射抜かれて崩れ落ちる。

「どろぼーさんは、逃さないよ」

 闇に角から進み出てきたリシュエント・ルーが弾むような口調で言ったが――。

 瞬間。

「わたくしの邪魔をしないで!」

 不意にあがった聞き覚えのある声に、俺もリットもぎくっとして振り向いた先、他の人影とは明らかに物腰が違う人間が立っていた。神官服ではない黒いローブをまといながら、己が存在を誇示するようにフードをはずしてその顔を露にしている。

「お、王女さま?」

 いきなりの登場にリットが呟いた瞬間、その隙をのがさずに小柄な体が突然背後からつかみ上げられた。腕をひねられたリットは一瞬もがいて声を出しかけたが、開きかけた口が黒い手に塞がれる。しかし半瞬と持たずに男の小さな悲鳴が散って手が引かれた。リットの口が不当に自身を塞いだ手を、容赦も呵責もなく噛み付いて開放させたようだ。それでも掴みあげられた腕は拘束されたままだ。

 王女殿下は、黒服の仲間がリットをとらえたのを見ると、ふっと微笑んで構えた体勢をただし

「動かないでね。そうしていないとあなた達、わたくしの邪魔をするのですもの」

「ちょっ……王女様! なんでここにいんのさ!」

 捕まったままリットが言うと、王女はまた笑みを誘発されたようにふふと軽やかな笑声をもらし

「ウィンリ様に会いに来たの」

「じゃあ昼間の開館時間にきなよ。こんなのよくないよ。僕つかまえさせるのやめてよ」

「だめよ。あなた、邪魔だもの」

 ふと俺はメイスがいる場所に気付いた。少し離れた柱の影に身を潜めているようだ。リットはメイスの存在にまるで気付いていないようにふるまっている。だけども意識している。メイスも死角に入りながらいつでも動き出せるよう体重を前にかけている。リットが軽口を叩いているのは、メイスから気をそらせるためだろう。

 けど。

 笑みを消して、どこかとても深く暗いところから呟いた殿下の姿に、俺はふと危うさを感じた。そしてリットはもう喋らない方がいいと直感で思った。しかしメイスもリットもそれは嗅ぎ取っていない。だめだ、と咄嗟に思った端、リットが

「あなた、勝手なことしてるよ、王女様。僕だってわかる。邪魔だ邪魔だで全部片付けて自分さえよければ全部正しいって思ってる。王女様の周りの人に迷惑も心配かけて。なのに王女様ただの石像を――」

「お黙り!」

 瞬間、殿下の細い体がぶわっと膨れ上がったように見えた。くわりと剥いた目は血走って揺れる。「お黙り! お前に――なにがわかる。わたくしのなにがわかる。わたくしを勝手ですって!? 勝手なのはみな、わたくし以外の者ではないか!!」

 さっと裾が翻り、鋭利な光が空を切る。王女殿下が右手に握っているのは、懐刀のように短い刀だ。それを真っ直ぐにリットにつきつける。

「ウィンリ様をわたくしをお救いなさる方。侮辱は決して許さない」

 白木の先についたその刃の表面が、ぬらりと赤茶けた油で光っている様が見て取れた。間近のリットはすぐに気付いたようだ。幼い顔が厳しく凝る。

「……誰か斬ってきたの? 王女様」

 くふっ、とその言葉に王女殿下が息を漏らし、ニタニタ笑った。例え端に狂気の光をちらつかせながらも、毅然とした態度を崩さなかった殿下の顔が、しまりなくグズグズと崩れ落ち、口元はいやらしくたるみ、目は笑いに歪む三日月型の白眼に剥かれた。その変化の落差と完成されたものをあわせて、ぞっとするほど気味が悪い笑みだった。

 ふふふっ、と殿下は今から告げることが楽しくて仕方ないよう、リットを見下ろし

「ロズワースさまよ」

 ――……。

「ロズワースさまを刺して神殿からきたの。でもあの方が悪いのよ。初めは優しい方だと思ったのに大違い。いやらしくわたくしの邪魔ばかりするのですもの。勝手なのはあの人よ。神殿の利益のために善人面して。だから刺してさしあげたの。あの人の邪悪なところが少しでもなくなるように。懐刀を抜いたら、そこから血がたくさん出てきたわ。もう――」

 死んでいらっしゃるかしら。

 リットの肩に震えが走って、次の瞬間、顔が激しく歪んだ。

「よくもっ!」

 殿下が笑う。リットは自分をつかまえる人影から逃れようと暴れる。メイスのたじろぐ姿が見える。真っ白な頭の中に、

「足手まといは、伝令にでもいけ」

 忌々しげなコルネリアスの声が聞こえ、夜の美術館の風影がしゃっしゃっと上から下に流れるように消えていく。やがて全てが消えた世界の向こうから、ぼんやりなにかの輪郭が見えてくる。ぼやけた輪郭が、はっきりした線を取り戻し鮮明さを増して、俺の視界にその姿を現したのは、暖色の髪に覆われた顔から優しい目を向ける、グレイシア・ロズワースだった。

「グレイシアっ!!」

 自分の声が慟哭のように耳朶を打つ。「グレイシアっ!! グレイシアっ!!」

 腕があれば抱き寄せていたろう。何もできない分だけ、腹の底から声をあげた。気が狂ったように叫ぶ俺に、目の前のグレイシアは戸惑いをさらに深くする。

「どこを刺された! 怪我は!? 起きていて――」

「私、怪我なんかしてないわ」

 戸惑いながらグレイシアが言う。俺はそこでようやくグレイシアの全貌を見渡した。髪や服が乱れて、煤があちこちについている以外、怪我やどこかを庇うような動きはない。その肩の向こうの、背景は夜空でここは神殿の中ではなく外だ。端に半分煤となった柱がぶら下がっている姿が見えた。

 神殿に火がつけられたという話は、どうやら本当らしい。それは大変なことだろうけど、俺はすぐにグレイシアに視線を戻す。

 乱れた髪や息がきれて紅潮した頬、煙のせいでか少し潤んだ目が幼くて、昔の姿とそのまま重なって、やっぱり泣き出しそうな気持ちがぐっと押し寄せた。

「―――」

「なにがあったの?」

「殿下が……美術館に来て……グレイシアを刺したって…」

 するとグレイシアがきゅっと口を引き結んで

「……刺されたのは、私ではないわ。殿下の身の回りを世話していた巫女見習いよ。一命はとりとめたけど……――あの方、わざと――!」一瞬グレイシアは激しく顔を歪め、息を詰めた悲壮な声を出した。けれど次の瞬間、強靭な意志の力で全てを内に封じ込め毅然と顔をあげ「殿下は美術館ね」

 そうして踵を返そうとしたとき、ほんのわずかな間、グレイシアは気まずそうな顔をして前方を見た。ん? 俺はくるりとグレイシアの手の中で回り、背後を見やってそこにあったものに固まった。

 見上げるような大男がそこに石像のように立っている。普段でかい割には気配が薄いカールの視線は、わずかに見開いた目からじっと俺に固まっていた。……

「行きましょう!」

 グレイシアがとりあえずカールに叫んで踵を返す。この状況ではそれしかないが――。

 ああああ……




 おっとりした風体に騙されやすいが、過酷なクエストを共にできるだけあって、グレイシアは体力も持久力も瞬発力も兼ね備えている。いざという時、瞬時に判断して行動に移れる過程は、下手したらアシュレイとためをはれるくらい素早い。

 そのグレイシアの足で真っ直ぐに駆け出せば、神殿の騒ぎに寝巻き姿で街路に出ている人々の間をたくみにすり抜け、ファエナ美術館につくのは早かった。

 神殿の騒ぎに気をとられているのか、美術館の通りは人影がなく、正面玄関の扉が闇にぶらぶら開いているのがわかって、異変をいやがおうにも伝えてくる。

 扉を横に叩きつけなだれ込む。こんなときでも微笑み、または苦悩しつづける美術品を左右に振り切って駆けた先。あの広間には青白い光が散ってそれで――。

 黒い服をまとった一人の男が、青い光に包まれて浮かびあがっていた。青白い光に照らされた男の顔は苦悶に歪み、わからない異国の言葉でなにかを苦々しげに吐いている。空に浮かんだ四肢は引きつって、まるで見えない大蛇に絡みつかれているようだ。

 その前に冷然と佇むのは黒髪の魔導師。あんまりな光景に度肝を抜かれる広間の端に、ぐったりと小さな身体を膝に抱いて、どこか呆然としているメイスの姿。

「リット!」

 グレイシアとカールが同時に駆け出した。その言葉にメイスとコルネリアスもこちらの登場に気付いた。

「大丈夫です。気絶してるだけですから」

 メイスが血相を変えて駆け寄ってきた二人に呟く。グレイシアはリットの脈と口元に手をあてて、そのようね、と短く息を吐きながら呟いた。メイスがグレイシアを確かめるよう眺め短く

「ご無事でしたか」

「ええ」

 その合間にカールがメイスからリットの身体を受け取り――

 安堵の瞬間も待たずに、どさっと重いものが落下する音がして、音の方に目をやると宙に浮かんでいた男が床でぐったりと四肢を伸ばしていた。

「――吐いた」

 無感動な声音でコルネリアスが言った。賊を縛り上げて洗いざらい吐かせたか。今は敵の立場ではないが、それでもぞっとする。それはこの場の共通の感情だったと思う。

 その時、視界の端でなにかの影がたっと動いた。

「お師匠様っ!」

 メイスが叫ぶのと、黒髪の女魔導師めがけて白刃の光が舞うのは同時だった。コルネリアスは予期していたかのように、慌てる様子もなく身を横に滑らせると、つっこんできた人影がよろめく。揺れる赤い髪。王女殿下だ。

 よろめきかけた殿下の前、黒髪の魔導師は完全にその一撃をかわしたと思った瞬間、護身術でも習得していたのか、殿下は思ってもみなかった軌跡で腕をひねり、ちょうど真下からえぐるようにコルネリアスの首めざしてナイフを突き出した。これは予期できず、咄嗟に魔導師が首を傾ける。けれどよけきれず皮膚に一筋の線が走って――。傷口を刻む首筋はそれでも――

 白い?

 黒のフードが少し翻り、殿下を突き飛ばすと同時に、首を覆った。だけど確かに俺は見た。斬られたのに、血が――出てない?

 殿下は今度こそ本当によろめいてつんのめり、なんとか体勢を整え振り向いた。胸元に変わらず懐刀を構え

「どうしてわたくしの邪魔をするの!」

 髪を乱し、粗末なローブに身をまとった殿下は、それでも先ほど見せた不気味さもなく、正気に近づいて悲痛な声をあげた。しでかした数々のことを知っていても、わずかに憐憫の情も誘うような。しかし。

「貴様が私の邪魔となるからだ」

 相手が悪すぎる。俺はグレイシア、と低く囁いたが、それが届くよりもグレイシアがこみあげてきた全てを吐き出す方が早かった。

「殿下! おやめください! もう――もうやめなさいっ! どんな芸術品も、どんな正論も、あなたが流した血の前では無力です!」

「あなた方の神の前でもね」

 冷ややかに答えて王女殿下は、再び激した様子で

「誰も邪魔をするでない! ウィンリさまはわたくしのもの! ずっと前からそう決まっていたの。わたくしと結ばれる運命だったの。そのためにここにあったの! わたくしをお連れするためにここにいらしたのよ! ウィンリさまがわたくしに、わたくしだけに微笑みかけてくださったときから、わたくしにはわかっていた!」叫びを重ねるうちに殿下は再び正気をなくしていき髪をかきむしり「わたくしはわかっていた! あんないやらしい男とじゃない! ウィンリさまとの未来がわかっていた!」

 ナイフを片手に、殿下は――いや、哀れな女が叫んだ。涙を散らせて叫ぶその言葉は自分自身にこそ必死に言い聞かせるよう聞こえた。そうして像の足元に身を投げ出すようにすがりつく。

「ウィンリさまウィンリさま。あなたのアマーリアがここに参りました。どうぞわたくしをお連れください、ウィンリさまウィンリさま――」

 呼びかけてもなんら変化を見せない石像にわずかに殿下に脅えと震えが走り、両手はせわしなく石でできた裾元を這う。お願いしますお願いしますと殿下はうなされるように懇願するが、微笑みかけたというウィンリ像は何も返さない。絶望に染まって青ざめる顔がすっと手を引き戻し、その手が乱れた髪をさらにわしづかみにして、激しい頭痛でもするように強く顔をしかめて首を振る。次に飛び出したのは紛れもない悲鳴だった。

「連れて行ってっ! ここは嫌! みんな嫌っ! 私の国もあんな国もみんな嫌! 連れて行って! わたくしを! ウィンリさまっ!」

 凄まじい妄執の絶叫は高い天井にまで届いて木霊する。瞬間に、聖ウィンリ像がごとっと動き、内なる太陽を抱えるように像の中から突如として目を焼くような強い光が溢れた。

「――――!!」

 女がもう獣も通り過ぎたような歓喜の声をあげて見上げる先。ガタガタと光の中で像は揺れる。その輪郭がぼやける。見守る者に何かが起きるだろうと期待させずにいられないような、膨れ上がる迫る瞬間。

 全ての夢を打ち破るように、虹色の泡がはじけるように。凄まじい音が響き渡り、物言わぬ美しき石像は粉々に弾けとんだ。

 石像の欠片は中空で四方に弾け、この広間の壁にあたり落ちる。グレイシアがさっと俺たちの前に手をかざしたので、石像の欠片は誰にも当たりはしなかった。

 台座だけが残されたその場で、王女は膝をついている。時が凝結したように固まるその顔はどこか、えぐりとられたルーシー像と通じるものがあった。

 壁にあたって床をすべるように跳ね返り、ウィンリ像の顔部分の破片が転がってきて、ようやく視線が動いた先。その破片を無慈悲な木靴が踏み砕いた。

 王女殿下からは視界いっぱいにそれしか映らないだろう、死神のような女が立っている。

「独りでゆくか、ここに在るか。貴様が選べ」

 他人に自身を委ねているのは貴様だ。

 そう言って女はきびすを返し、片手をあげるとその動きに連動してちらばった破片がぐっと動き、瓦礫の中から鈍い光を放つ赤い玉が飛び出してきた。

 それは小型の水晶のようで、コルネリアスは片手で受け止めて一瞥の後、ちっと舌打ちする。

「幻惑のルーン……」

 グレイシアが小さく呟くと、コルネリアスは無造作にグレイシアめがけてそれを放った。なんの変哲もないルーンはグレイシアの手にぱしりと収まる。

「……それは?」

「……ほんの少しだけ、人の心を魅了する魔力を持つ玉よ。……きっと、バーグが像の中に組み込んだのね」

 ――赤い光が自分のアトリエを照らしていてね。それはすうっと像の中におさまっていったって。

 ふと、広間で聞いたおばさんの逸話を思い出し、そしてコルネリアスの目的を悟ったとき、そこにはもう破滅の化身のような黒髪の魔導師の姿はなく、ぼろぼろに崩れたアマーリアが、床に一人ぼんやりと膝をついていた。

 あれだけ暴れた王女はもう動く気力など根こそぎ引き抜かれてしまったように見えた。黒い影達もみな床に倒れて動かない。

 突如としてここを制圧した圧倒的な沈黙の中で、メイスがグレイシアの手元のルーンを見て、あの、レザーさん、と小さな声を出した。

「……あの像が多くの人間を魅了してきたのは、このルーンが入っていたせいですかね」

 そう呟いたメイスに答えようとして、ふと俺は前を見た。殿下がのろのろと硬く冷たい床の上を這うように身をかがめて、コルネリアスが踏み砕いたウィンリ像の顔の部分の瓦礫を探っていた。

 拙い手先でおずおずと触れ、まだ繋がっていた鼻と右目の部分の瓦礫を探りあてて持ち上げて、殿下はしばらくそれを顔の前に掲げて夢とこの世を彷徨うような顔つきで眺めていた。

 開きっぱなしだった凝った目が、ようやくひとつ、瞬きをする。すると閉じた目の端から水滴が伝う。そっと顔が前に出された。神聖なものに触れるように、石像の瞳に震えるそれで口付けて、急速に痛みが襲ってきたように胸に強く押し付け、凍りついた肩は一拍置いて小刻みに震え始めた。

 あの女に、同情はできないと思う。どんなに自身の境遇が惨めでも、誰かを傷つける権利はなく、罪が軽減されるわけじゃない。だけど。

「それだけじゃないと、思うぜ……」

 女の小さなしゃくりと嗚咽が美術品の墓場を流れ出し、粉々になった石像の欠片がそれを受けて冷たく光っていた。




「やーさあ。もがいてメイスちゃんも力かしてくれて振り払ったはいいんだけど体勢崩して足滑らしちゃって、床でゴンっ! うー。間抜けだー、我ながら」

 目覚めたリシュエント・ルーはそう言ってしごく元気そうだった。シアちゃん心配したよ無事でよかったよーとグレイシアにしがみついて泣いた後、けろりとした様子を見せる。この屈託のなさはまごうことなくいつものルーだと、俺も気が抜けた。

 メイスとコルネリアスがいながら倒れていたんでびっくりしたが、どうもちょっとした事故に近かったようだ。それでももう少し安静にしていなさい、とグレイシアに言われてえーと不服そうに言った後、メイスの袖を捕まえてで、どーなったのメイスちゃん、ウィンリ像壊れちゃったってホント? と矢継ぎ早に聞いている。

 あれは安静というのだろうか、と思いつつ、俺と俺を持ったグレイシアと目覚めるまでリットのそばを離れなかったカールは、部屋をそっと出て、応接間に移ってグレイシアが、対のソファーに挟まれた形で真ん中にあるテーブルに俺を置いてくれて。カールがソファに腰掛ける。……

 ……

「……レザー、か」

 カールは無口な男だが、たまに喋るとその声はどうしようもないくらい通りがいい。どんなに嫌でも聞き逃せない声だ。覚悟は決めていたが、それでも数瞬の葛藤を経て

「……ひ、ひさし……ぶり……」

「……」

 カールは沈黙した。沈黙するのがカールの常態だとは知っているが、今はなんか喋ってほしかった。とりあえず。カールは俺を見つめながら顎をなで

「……エフラファでも……会ったような気がするが……」

「……」

「……」

「……」

 思わず見つめ合って黙り込んでしまうカールと俺だが、グレイシアがわずかに笑ってどうしようもない感じの空気に入り、レザーと呼んで

「カールなら、まだいいじゃない」

 ……確かにあの面子の中で一番知られてマシなのはカールだろう。だけどどっちかっていうと俺はグレイシアにも知られたくなかったんだが……

「……話せば長いことなんだが――……」

 とりあえず重い口を無理矢理こじあけて、一連のことを抑えた口調で語り終えた後、カールは話す前とたいして変わっていない顔で黙っていた。それから俺を見てしばらくしてようやく口をひらいた。

「……大変だったな」

 ……うん。

 なんか話すと同時に俺自身も追体験してしまったような感じで気が滅入り、どよーんと漂う空気にグレイシアもなんとかしようとしたのか

「神殿の火災は、首謀者もつきとめられて逮捕したし規模も大きくなかったからもう大丈夫よ」

「……聖ウィンリ像は?」

「もう修復は、無理ね」

 数多の美術愛好家のうめきが聞こえてきそうだ。そこでグレイシアはふっと遠い目をして

「殿下は――。殿下は、本国からの迎えが数日中に到着するはずよ」

 きっと知らせを聞いて大慌てで来るんだろう。暴かれた首謀者も、殿下の件も、きっとこの街が他国とやりあうときの、手持ちのカードの一つにされることになるんだろうな、と思う。

「……殿下の様子は?」

「……しばらくは、気が昂ぶっていたようだけど。でも、最後には泣き止んで、こう仰っていたわ。あの時、ウィンリさまと共にいかなかったことを決めたのは私です――って」

 砕けた石像との心中。独りでゆくか、ここに在るか。石像と共に精神の死の床までいこうとしなかったのは確かに殿下だ。あの時の瞳は、どちらにも行ける者の目だったから。

 本国に連れ戻されて、殿下を待っているのは多分、即座の結婚だろう。これ以上の邪魔が入れないように、両国は大急ぎで準備するはずだ。あの王女は嫁ぐだろう。国と国の政略として。生身の人間が契約書の印となる。それが王族の結婚だ。逃げ切る強さがないなら、逃避に死ぬ弱さがないなら、ここで生きるしかない。

 結局どちらがよかったのか、誰のためになったのか、そういうことは、わからない。

「いいのよ」

 ふと優しい声が俺の思考に添うように響いた。グレイシアがどこともしれぬ空を眺めていた。「いいのよ。わからなくて」

 空を眺めたグレイシアの横顔が、なんだか少し胸を騒がした。




 ようやく先日の小火騒ぎも収まって、何者かによる聖ウィンリ像の破壊など、街はニュースに騒がしいが神殿には静けさが戻った。神殿の中の一室は机の上につるされたランプ一個の光だけで薄暗く照らされている。

 持ち主の身分を鑑みればずいぶんこじんまりとした自室のドアが二回鳴り、少し待って再び二回鳴る。このドアは叩く者によって微妙に出す音が違う。今響いたのは主の性質を現すよう、はっきりとした歯切れのよい音だった。

 部屋にいた女はわずかに微笑んで、持っていたペンを机に置き、立ち上がってドアを開き「いらっしゃい」と予想していた人物を招き入れた。

 上背のある男の顔までは、心もとないランプの光が届かない。廊下で立ちすくむ姿を見られるわけにはいかないと、男は招きに応じてすぐに中に身を滑らせたが、ドアが閉じられると、青い毛先が揺れる首筋が戸惑ったように振られ、女を見下ろし

「その、今、時間は?」

「平気よ。でも見知らぬ男性をつれこんでいると知られたら、私、破門かもしれないわね」

 冗談だとわかる程度に女ははにかんで笑い、冗談だとわかっても青年はどぎまぎしたよう、余裕なく辺りを見回した後、口元を手で覆い

「その……明日には、たつから」

「見送りに、行くわ」

「ああ……」

 しばらく男は言い出せない言葉を抱えてそわそわしていたが、やがて

「その……俺のこと、嫌いになったか?」

 急激に吐き出してそれから自分のしくじりに気付いたように、戻せない言葉をもてあまして「いや、今の聞き方は卑怯だ。否定するって知ってて言った」

 目の前でこの空気に息切れし続ける男を、見上げてグレイシア・ロズワースはふっと笑った。

「あなたが好きよ、今も昔も。これからもずっと、それは変わらないわ、レザー」

 顔をあげる男の腕をそっと掴み、でも、と少しだけ息苦しさがうつったように、グレイシアは息を吸い

「初めてあなたに会ったとき、私は大役のプレッシャーに怯えきっていて。声をかけてくれたとき。私の手を引いている、あなたしか見えなくなったわ。あなたを好きになった。幸せだった。でも」

 言葉を切ってグレイシアは俯く。その声は珍しく不安と喪失された自信に震えている。

「偶像にすがってどこかへ連れていってと叫んだ殿下と、あの時の私は一緒だったんじゃないかしら? ただぎゅっと力を込めて震えて、外部からの助けを待っていた。あなたは優しすぎるから、私を救い出してくれた。きらきらする目で私を見つめて」

 ふっと男が身をかがめたので、言葉は途中で中断された。流れるように詰められた顔は、けれど間近で止まる。額が触れそうなほどの距離で、

「――駄目、か?」

 どこかすがるように許可を請うた声に、いいえ、と答えた口はその端からふさがれた。

 思いのたけをこめるように口付けは一度強く押し付けられて、すぐに離れた。長いか短いか、どちらにもわからない沈黙の後、耐え切れないようにグレイシアが小刻みに肩を震わし始める。

「エフラファであなたが変わっていないと知って、うれしくて、悲しかった。たとえあなたに助けられる必要がもうなくなっても――……」

 笑いながら彼女は泣きだす。私はずっとあなたが好き、と嗚咽に濡れた言葉は震えて。涙の意味がわからない男を思い、目元を拭ってそれでも泣いて彼女は言った。

「でもあなたは最後には、あなたを一番求める人のところに行く気がするの」




「出発進行――っ!」

 リシュエント・ルーのあげた指で高々と刺された空は青。指と一緒に高々と響いた言葉に異論を唱えるものもいなかった。でかいザックを背負ったカールが無言で頷き、メイスもとりあえず歩き出した。

 歩きながら振り向いてぶんぶんリットが手を振る。その先には神殿の入り口があり、壇上の開いた扉の横にグレイシアが立ってこっちを見送っている。

「シアちゃーんっ! 元気でねー! またくるねー!」

 叫ぶリットにグレイシアは穏やかに手を振りかえした。その姿を見るとつきんと胸が痛む。やがて曲がり角の角ばったレンガが視界に横入りし、その光景をかき消した。

 俺がザックの上でぼーっと呆けていると

「会いたいのか会いたくないのか、どちらなのですか」

 とメイスが急に言ってきたのでぎくっとした。けれど前を歩いていたリットがくるっと振り向き

「うんー? なーに?」

 と聞いてきたので答えずにすんだ。……しかし。

「でさあ、どこ行く? 情報収集すんなら、やっぱ冒険者がたくさんいるとこがいいよね」

「はあ」

 ……なんでリットとカールが一緒に行くことになってんだ?

 今回の件で、コルネリアスがどうやらあのドラゴンの森で見つけたような、赤い光を放つ玉をさらに探しているのはわかった。今回のウィンリ像ははずれだったが、ともかく奴の目的がわかれば少しは指針もできるだろう。……でも。

「僕らそういうのはよく知ってるから、じゃじゃじゃじゃーんじゃん聞いてよ。トレジャーハンター系の冒険者が集まっているとこがいいんじゃない?」

「そうですね―……」

 だからなんでリットとカールが一緒に行くことになってんだ。

 しかも送り出したグレイシアも、歩くメイスもそのことにあんまり疑問を抱いてないし、カールとリットにいたっては当然みたいな面してる。なんで? 俺が知らないところでなにがおこっているんだ? 

 この一行の形成過程、昨夜のグレイシア、殿下、斬られても血が出なかったコルネリアスの存在と目的。わからないことばかり次々に重なる。

 飽和状態で、俺がほけっと視線を虚空に彷徨わせてると、荷物を背負って歩くカールと目が合った。いや、向こうはレタスと目があったことなど気付いていないだろうが――いや、やっぱ気付いているか。

 いつも読めないカール・ケントは俺をじっと見て、何かを了解したようにこくりと一つ頷いた。俺もつられてこくりと頷いて、前を行くメイスとリットの高めの話し声をBGMに、やっぱわかんねえなあ、と青い空を見上げて思った。





 <像と試験と夢見る王女>完

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