像と試験と夢見る王女(2)
飛ばされた、という事を認識してから、慌てて周囲を見回してメイスの姿を探したが見当たらず、俺がただ一つの答え、メイスがあの美術館にコルネリアスと取り残された、ということにたどりついた瞬間、俺は自分でもついぞ味わったことがないほど狼狽した。
袋の口から飛び出すと、グレイシアめがけて「メ、メ、あっ、頼む!」とまあ凄く情けない声を出してしまった。満足に言葉も紡げない俺に、グレイシアがさっと手をかざして
「レザー、レザー、落ち着いて」
「落ち着けない! グレイシア、美術館! そこに! メイス!」
「レザー、落ち着いて。どうもなりはしないわ。あなたに会う前、あの方はメイスさんとずっと旅をしていたんでしょう」
すう、と、急激にそれは浸透していった。俺はあんまりの転換にころっと机から転がり落ちそうになる。
……
……
……そうだ。
俺がどんだけあの黒髪の魔導師を最悪の人物と考えていたか図らずも思い知らされた。まあそれは仕方ない。俺は奴にろくな目に遭わされてこなかったし、それ以上にエフラファで見たあの姿は、忘れようと思っても忘れられない。
しかしメイスの場合は人でなしでも師だ。今さら二人っきりにしたところで、たいした危険にさらされるわけではない。あー……。
まだ俺をガタガタ揺らした動転の衝撃は残っていた。口から心臓が飛び出しそうな衝撃とは、ああいうことだろう。
うー…。いくらか納得したが、だからといってふう一服ともいかず、とりあえず美術館につれていってもらおうとグレイシアを見上げると、グレイシアは戸口に立ってドアを開いていた。とんとんと、続いて響いたノックの音にも気付かなかったらしい。
「どうぞ」
とグレイシアがノブに手をあてて、俺に片目をつぶって見せてから、ドアから誰かを招いた。
これじゃあすぐ向かえない、とそわそわしながら、とりあえずレタスになっている俺は入ってきた人影を見てあれ、と思った。
入ってきたのはまだ若い――小娘と言ってもいいような年の、神殿の巫女が着ている白いローブの女だ。頭からかぶったフードから、鮮やかな赤い髪がのぞいている。ちょっと見忘れにくいような……そう、えーと。そう、どこかで見たぞ。
「また美術館にいらっしゃったのですか?」
「遅れまして申し訳ありません、ロズワースさま」
女はぴんと一本筋が通った調子で言った。生まれてこのかた、こういう物言いをしてきた人間の口調だ。
グレイシアの問いかけに、俺はあ、と胸中で声をあげた。そーだ。美術館だ。去り際に眺めたウィンリ像の前で女が一人恍惚とした表情でそれを眺めていた。鮮やかな赤い髪。その時の姉ちゃんだ。
なんかこう美術館に縁がある日だな。そこにいたって俺はやっぱりいまあの中にいるだろうコルネリアスとメイスに意識がいって、無意識に揺すりそうになる体を必死にとどめた。
しかし、念じる俺に逆らうように、グレイシアは「どうぞ」と姉ちゃんを中に招き、えー、と思っている俺をナプザックで隠すよう机から持ち上げ
「レザー。色々と関係があることなの、メイスさんは大丈夫だからここにいておいて」
と小さく言った。俺はうむむ、と口の中で言葉をこねて。そして無理に自分を納得させた。危険がないのは、多分、確かなんだ。……でもあいつら接触させると、よくわからん気まぐれで俺を殺せとか命令されてたりするんだけど……。
些か飲み下せないものは残っていたが、棚に置かれた俺は腹をくくった。んで目の前のことに向き直った。見て聞いて欲しいことがあるというなら、聞こうじゃないか。
赤毛の女の態度は年のわりには堂々としていたが、そこに幾分かの虚勢が姿をのぞかせることもあった。
にしても、グレイシアが茶をてきぱきいれているのに、様子を伺うわけでも気まずそうにするわけでもなく、当たり前のようにそこに座りっぱなしの態度。
……身のこなしもあわせて、おそらく身分が高いな、と見当をつける俺の前、グレイシアが湯気たてる茶を差し出すと、女は一言軽く断って、なかなか様になる感じに茶を飲んだ後、そこで初めて気付いたようにグレイシアをぶしつけに眺め
「ロズワースさまはどうして召使いのように、自らこんな些事をなさりますの?」
あ、やっぱり。
見当をつけてたから、呆れるほどではなかったけど、やっぱりな、と思った。有力者の娘か、貴族の娘か。とりあえずこの調子なら俗世に触れたことなどないだろう。
フツーそれ失礼だろ、という言葉にもグレイシアは小さく笑って「神殿の者はみな多くの仕事を担っておりますから、些事で煩わせたくないのです」と答えて不思議そうなままの娘を見た。
「それより殿下。美術館はどうでしたか?」
娘はパッとその問いかけに顔をほころばせたが、俺はグレイシアの呼びかけにちょっと驚いた。殿下――つーことは、王族か。誰かの妃には見えんから、王妹なのか王女なのかは知らんが。
「変わらず、素晴らしくありましたわ。いいえ、何度足を運んでも、以前よりさらに素晴らしく見えます。まさに人類最高の宝ですわね。前にするだけで、わたくしいつも心が震えます」メイスに聞かせてやりたいような台詞を吐いて、殿下は胸の前で手を組み、瞳をきらめかせてどことも知れぬ場所をうっとり見つめた。「特に――特にそう、あのウィンリさまの像。幾度見ても見飽きませんわ。風が吹けばたなびきそうな御髪、今にも震えてお言葉を紡ぎ出しそうな唇。そしてあの眼差し。なんて美しいのでしょう。この世にあんな素晴らしい方がいらっしゃるなんて」
若い姉ちゃんの例に漏れず、王妹なのか(若いけど王姉って線もあるか)王女なのかはわからん殿下は、ウィンリ像に夢中のようだ。
王族の殿下にとってもああいうのが「王子様」なのかね。俺はそんな軽口めいたことを考えたが、ふとグレイシアがこちらを見やり、一瞬ひどく鋭い顔をした。ん? 何事かと思った俺は異変に気付いた。
それまで、娘らしいね、と微笑ましく思えないでもなかった、殿下の様子が徐々に変化していっていた。
張り上げていた声は小さくなり、殿下は両手を組んでうつむきがちに瞳を閉じている。ちょうど祈るような格好だ。やがて赤い睫毛の端から、涙が滲んできた。
「ほんとうに……なんて美しいのかしら……」
どこか苦しんでいるように殿下は言うと、やがて手をほどき、涙をさりげなくハンカチで拭い
「感極まってしまいましたわ。お恥ずかしい。でもわかってくださいね、ロズワースさま。すべてあのウィンリさまの魅力が私にそうさせるのです。ああ……」
ほう、とため息をついた殿下の緑の瞳が、けぶる霧の向こうから急に鋭さを見せた。「……あんなにすばらしいものですもの。我が国に譲っていただくわけにはいきませんわよね?」
否定形で言ってはいるが、声音は了解の返事を虎視眈々と待ち構えている飢えた響きだ。
しかしおい。どこの王族だかしらないが、無茶言うな、というところだろう。グレイシアもそんな響きなどちっとも気付きません、という風に
「それほどお気に召していただけて、我が街も光栄ですわ。あの像はこの街のシンボルでもありますから」
すると急に殿下の中にあった光はしぼんでいき、ええ、本当に、と言って席を立ち、出された茶の礼を言うとさっさと出て行ってしまった。
「誰だ、あれ」
「アマーリア・ジュゼ・リスト殿下。リスト国の第一王女殿下よ。行儀見習いと称して神殿でお預かりしているのだけれど……」
「……ちょっと、尋常じゃ、ねえな」
犯罪の一つでも犯すことを辞さないほど、あの像に執着していたように見える。
「レザー、あなたは見た? あの像」
「……見た」
「どう思った?」
「……昔より、凄さはわかるようになったが……」
しかしあんな眼をさせるほどの魅力はわからん。グレイシアが小さくため息を吐く。
「私にも、わからないの。でもあの像に興味を示していたのは殿下だけじゃないわ」
「……コルネリアスか?」
「そう」
グレイシアは疲れたように、もう一度息を吐いた。
メイスが戻ってきたのは、夜もとっぷり更けてからだ。幾度となくグレイシアに諌められ、諭され、最後にはかわされて、俺は無理矢理自分を納得させた形だったが、戻ってきたメイスは俺の不安を体現したように青ざめやつれ、身体はよろめいて目元には涙のあとがあった。
うひゃあ、と俺は狼狽してど、どうした大丈夫かなにされたかと、思わずメイスの周りを無意味に転がりそうになったが、それは人間の矜持でぎりぎり思いとどまり、おろおろする前でメイスはグレイシアが貸してくれた部屋に一歩一歩重い歩みで入り込み、奥のベッドの前までいったところで、いつもとは違う見たことがないナプザック(なにしろ俺、ナプザック入りでこっちきたわけだから)が垂れた肩から滑り落ち、なぜかどすっとやたら重そうな音をして床に転がった。
そしてメイスはがくりと膝をつき、ベッドに伏せておいおいと泣き始めた。俺はもう転がってなんとかなるなら何百回でも転がりたかったが、その前にぐるぐる回る頭でメイスの後ろから見上げると、突然メイスはむくっと顔をあげ
「お師匠様の×○△ーっ!!」
メイスの雄たけびを聞いた瞬間、俺はぶっと噴き出した。神殿で――つーか、どんな場所だろうと若い娘が口に出す(それも大声!)言葉では絶対無い。物騒な路地裏で横行しているような強烈なスラングだ。
「お師匠様の×○△×の△×□××の○○○の×××―っ!」
続けられるスラングのオンパレードに、俺はもう泡を吹いて倒れそうになったが(いっそ倒れたかった)この放送禁止用語の嵐を止めねばと
「メイスストップストップストーップっ!!!」
気付くと、メイスの頭の上で、必死にジャンプして止めようとしてて(後から考えてもどうやって飛び乗ったんだろう?)メイスがようやく口を噤むと、俺は呼吸困難でむせそうになりながら前のベッドに飛び降り
「そんな言葉どこで覚えてきた!?」
「図書館から帰るときに、大通りの端の路地裏辺りで知らない人たちが盛んに言ってきましたけど」
「―――!!」
固めた拳が脇の柔らかいベッドにめり込んだ。後ろではそよそよと冷たい風があたるが、激した頭は全然冷めない。おんどれら人様の娘になにふきこんでやがるこの○○×△×野郎どもっ! 怒りのあまり胸中で似たようなスラングをぶちまけて俺はメイスをにらみつけ
「いいか、今の言葉は絶対金輪際もう使うな! 頭の中から消し去れ意味も考えるないいな消しとけよ、俺用事があるからでてくる!」
投げつけてベッドを飛び降りて狭い廊下をダダダダと駆ける。角を曲がると向こうからグレイシアが歩いてくるところだったが、もう怒りで言葉をかわせそうになかったから「野暮用!」とだけ通り抜けざま言い放つと、グレイシアが「レザー、その姿で神殿に出入りするときは気をつけ――」
の最後はあんまり頭に血がのぼっていたから、気付かなかった。
はあはあとまだ息をきらしながら、俺が窓から部屋に戻るのと、月が夜の深い場所に沈むのは同時だった。開いた窓枠からぽんとレタスに戻って柔らかいベッドの上に転がると、部屋にいたグレイシアとメイスが俺を見ていたが、息があがってそれどころじゃない。俺は今夜は乱れっぱなしの呼吸を整えながら二人を見た。
およそそれは変な構図だった。グレイシアが椅子に腰掛けて小さな黒板を抱えていて、メイスが布きれを敷いた床に座り向かい合っている。
グレイシアは俺を見てにこっと笑って、それからその笑顔のままメイスに向かい
「考える時間を、たくさんあげてしまったわね。さあ、答えてみましょう?」
まだこっちを見ていたメイスが、その言葉にばっとグレイシアに向き直り、笑顔にぶつかって青ざめていく。
「難しいかしら?」
もうメイスは身体を縮こませることでこの世から消えられるなら消えそうだ。するとグレイシアは笑顔のまま、俺の方を黒板ごと向いて
「じゃあ、レザー君、この答えはなにかな?」
あれ? なんで君付け?
状況がよく飲み込めないまま、板書されていたのは簡単な地理だったんで、俺は答えようとして――
いきなりメイスが俺に体ごと飛びついて抱き上げた。
「レザーさんは黙っててください!」
なんかしらんが鬼気迫る表情で迫られて、俺はえ? と思うが、メイスは「それから金輪際! 私に出された問いに勝手に答えないでください! レザーさんが答えるとろくなことにならないんですあの後私がお師匠様にどんな目に遭わされたと思うんですか気が遠くなるような本の中に無理矢理引きずられていってあろうことかこの棚のもの全て覚えろ三日後に頭の中に入ってなかったら鍋か乾し肉くらいは選ばせてやるですよ! 鬼ですか鬼ですよ鬼でないはずがない! お師匠様の×――」
メイスが例のスラングを使いそうになって俺が慌てた前。白い指先がとん、とメイスの鼻を優しくつついた。びっくりして涙目で見上げたメイスの前。笑顔がぶつかる。
「メイスさんなら、がんばれるわ」
ね? と言ったグレイシアにメイスは凍りついた。あ、昔、こーいう光景見たことがある。リットにテーブルマナーを教えてたときだと俺は妙な既視感を覚えて――
「さあ、もう一息よ。大丈夫。朝までまだたっぷりあるから」
微妙に矛盾した台詞を口にするグレイシアに、メイスは半泣きで重たげな膝の上の本を広げた。
……
結局その勉強会が終わったのは朝どころかグレイシアが勤めに出る十時くらいだ。呼びにきた神官補佐の声によくがんばったわね、とベッドに伏せてぴくりとも動かないメイスの頭を、付き合って徹夜したはずだがちっとも疲労の色を見せないグレイシアが撫でて立ち上がり、やっと終わりを告げた。
グレイシアが去った部屋は全てが死に絶えたかのような沈黙が満ちて、伏せた石像のようなメイスを見下ろして俺はあ、あーと言葉をもてあまし
「その……なんだ。コルネリアスが鞭だったら、グレイシアはなんつーか、飴っつーか」
動かないメイスの肩にぴくりと力が入った。そして指先がぎこちなく動き、シーツを物凄い力で掴む。
「アメなもんですか――あれが」
あげられたメイスの頭に俺は固まった。それをさらしながらメイスはぐぐっと上半身をそり、地の底から響くような声で
「アメの形をした鞭ですよっ……!」
……まあ、そうかもしれない。
それでもグレイシアが多少、飴の甘いところもある、というのは死んだように眠った後、部屋に届けられた色艶のいい野菜籠を前に、渋々メイスも納得したようだ。
巫女様手ずから裏の畑でお作りになられた野菜です、と運んできた神官補佐が言ったが、素人が作ったとは思えないほど立派なもんばっかだった。
そういやグレイシアは裕福とは言え農家の出だったな、と俺が思い出してる横で、メイスは丸々と太ったキャベツを端からぱりぽり食べ始め、おいしいです、と悔しそうに呟くと、いきなり萎れた青菜のようだった身体をがばっとおこし、物凄い勢いで食べ始めた。
キャベツのきれっぱしが飛び芯が飛びニンジン白菜その他諸々の食べくずがあたりに猛烈な勢いで撒き散らされる。これが女のヤケ食いという奴か、と俺は手当たり次第のその勢いに、久々に身の危険を感じて後ろに転がる。
なんか最近、あの変な殿下といい、女の怖い面ばっか見ている気がする。や、グレイシアはいいんだけどな、俺知ってたし。
何かに必死に言い訳してる俺の横、メイスは恐ろしいことにボール一杯の野菜をばりばりばりと食い尽くした後
「少しは気が晴れました!」
と台詞の割には怒ったように言って立ち上がり、ナプザックを重たげに持ちあげた。あれには借りてきたぶ厚い本が入っている。
「? どこいくんだ?」
「図書館です! 棚の本はまだまだあるんですから! それでお師匠様が時たま見張りにくるっていってるんです!」
なんか怒り腰のメイスに口を開けば問答無用でごめんなさい、と言ってしまいそうで俺は無言でナプザックの縁に飛び乗った。硬い本が下にごつごつしていて、本当に上にかろうじて乗っているという感じ。バランスとるのむずかしい。
そんな俺の苦労など知らず、神殿の立つエリアを抜けて、芸術の街とも言われる整然とした街並みを横切り、風をきってメイスはずんずん歩いていったが、ふと広場の辺りにきて人ごみに気付いたように立ち止まった。あ。
路地裏の付近を、何人もの町人が囲んでいる。メイスはひょこひょこ近づいていって
「何事ですか?」
と手近なおばさんに聞くと、おばさんは振り向いて怪訝そうに
「あ? なんだい?」
「なにがあって集まっているのですか?」
すると純朴そうなおばさんは
「いや、なんでもね。ここの路地裏、夜になるとタチの悪いごろつきが集まっててね。中には傭兵崩れの奴もいるから手が出せなかったんだけど」
傭兵ってのは戦争がない時は盗賊やごろつきと同義語になったりする。だから冒険者は傭兵と一緒にされることが一番我慢ならないんだが、傭兵側は傭兵側で戦争にはいっさい参加しないで、夢ばっかり追ってる俺達を心底馬鹿にしてる。
昔は傭兵にも回ってきたモンスター退治や村の護衛が最近、村を荒らす傭兵を嫌って冒険者を選んで依頼されることが多くなってるから、向こう側もむかついているようで、仲の悪さは悪化の一途をたどっている。
「それが昨日の朝見てみたら、ごろつきがみいんなのびてるんだよ。今、役所の連中がつれていったんだけどね」
今まで何もしなかったのに、相手が目を回していると聞いたら、とんでくるなんてねえ、とおばさんは言う。
それを聞いてメイスは何かを考えるよう微妙な表情でその通りを眺め、それから俺を見た。レタスってこういうとき、頭を横に向けて口笛吹いて誤魔化したりできないからあれだな、と思って素知らぬレタスでいると、一体誰がねえ…とおばさんの呟きに、急に横にいた男が振り向き
「聖ウィンリ像だ!」
と叫んだ。結構若い男は興奮したように
「ほら、ファエナ美術館の、聖使徒ウィンリ像だよ、それの仕業だ」
俺とメイスはなんのことかわからなかったが、おばさんはからからと笑って
「あんた、若いのに昼間から飲んでるのかい? あんなの、子どもを寝かせつける怪談話じゃないか」
「いや、あながちそうでもないかもしれねえぜ?」
いきなり当たり前のように会話に参加してきたのは、おばさんの反対側にいたひげ面のおっさんだ。
「ここは美術館も近いし、俺たち忠実な信徒はここの連中にいつも困っていたじゃないか」
「まあ、あんたもそんなこと言い出して。なんでウィンリ像が暴漢叩きのめすんだい。それならゴリアテ像が動きだした方がまだ納得いくよ」
なんか今ひとつ話についていけないが、おばさんの言は一理ある。聖ウィンリはもともと知の徒なんだから、暴力とはあまり関係がないし、イメージにもそぐわない。それならまだ筋骨隆々のゴリアテ像の方がマシだろう。……いや、まあ……
……俺なんだけど、やったの……。
なんか夜中でハイテンションなときにやった馬鹿を、朝で正気に戻ったときにつきつけられたような、話が変な方向にいっているので余計居たたまれない気持ちになって俺は小さくなったが、飛び入りしたおっさんが声をひそめて
「あんたも聞いてないわけじゃないだろ。ここ数ヶ月のあの像にまつわる噂を」
すると俺がひそかに応援していたおばさんもちょっと決まりが悪そうに
「そりゃ、まあ、聞いているけどね……。だからって、そんな、ねえ」
「他の都市ならともかくここは聖母リディアの恩寵もっとも豊かなナディスだぞ。そんな奇跡がおこっても不思議じゃない」
宗教人の理屈というのは、あんまりよくわかんねえな、と俺は思う。リディア教って聖母リディア自ら世界中どこだって私の聖地よー、おほほ、とのたまわって特定された聖地の存在をはっきり否定してんだけど。
神話を読んでも、あまりにもこの大陸のどこの場所も登場してないんで、あれは別の世界から持ち込まれた宗教なんじゃないかってとんでも説もある。まあ確かに色々異質な宗教で、他の宗教の過激どころからは、悪魔の教えとののしられることもあるんだが。
「なんの話ですか?」
メイスも俺の仕業だな、と思っていたことが妙な方向に転がっているのを見て、さらに聞いた。
「いやね、まあ、巫女さんに真剣に聞かせる話じゃないと思うけど」
「いや、話してやれよ」
おっさんが言って兄ちゃんも頷いている。別に信じてるお前らが話せば? と思うんだが、けど何故かおばさんが折れてメイスに向かい、実はね、巫女さん、と言ってきた。格好のせいかメイスは巫女だと思われているらしい。
「……まあ、聖ウィンリ像にまつわる話ってのは、昔からあったんだよ。なにしろ色々言われてる像だからねえ……でも美術館や大図書館はその手の話が他にも多いからさあ」
「その手の話?」
「怪談とか怪奇話だよ。ウィンリ像もそのうちの一つにすぎなかったんだけど、最近また急に騒がれ始めてね」
美術館においてあるやつ、あんた、見たかい? とおばさんが聞くのでメイスがこっくり頷いた。するとおばさんはため息を吐きつつ
「あれ、バーグの作だろ。バーグがあれを作った日にね、作り上げたバーグは机で眠っていたんだけど、何かまぶしい光が差していることに気付いて目覚めて、自分の像を見てみると、赤い光が自分のアトリエを照らしていてね。それはすうっと像の中におさまっていったって。そういう夢を見たって。あれはウィンリの魂の欠片だったって。その話を聞いた人はみんな笑ったけど、ウィンリ像の見事な仕上がりをみると、そういうこともありえるかもしれない、ってみんな笑うのをやめたそうだよ。それからあのバーグが魂の器を刻んだウィンリ像には、まだ聖ウィンリの魂の欠片が入っていて、この世になにかあったらウィンリの魂が呼び寄せられて像に乗り移って、奇跡を行うって」
「前からウィンリ像が夜中に動いたり、血の涙を流していた、とかいう話あったんだけどさ。ここしばらくで急にそれがよく言われるようになって見たって人が何人か現れて、真実味を帯びてきたってわけさ」
どこに真実味があるんだろう、という話を次いだ兄ちゃんは得意満面で補足した。
ごろつきを倒したのが俺だったように、たわいない噂には全部たわいない裏があるだろう。
そもそも、像に乗り移ってまで降臨したこの世の全ての知を司る神の使徒がすることは、夜中にうろうろしたり、こっそり血で泣いてみたりするだけ。その無意味っぷりになにか疑問を抱かないんだろうか。
あまり熱心な信徒ではない俺からすれば、それがどうした、といいたい。血涙くらい俺でも出せる。夜中にうろうろ起き出すなら、掃除でもしてくれた方がよっぽど有益な気がする。
「――殿下もウィンリ像の前に立ったとき、ウィンリ像が自分に微笑みかけてきたって」
それは光の加減と妄想だろう。
聞けば聞くほどたわいなくなっていく話に、改めて聞くと本当馬鹿らしいわ、とげんなりしたようなおばさんと、横で盛り上がる兄ちゃんとおっさんという平和な光景にだまされそうになったが、ふと気付いた。
おっさんの言葉は喋りだしが低く掠れていたので、名は聞き取れなかったものの、王政でもないこの街にそう何人も殿下がいるわけはないだろう。
ウィンリ像、という言葉もセットで艶やかな赤毛の、昨日の王女殿下を思い出す。ちょっと尋常じゃない執着振りをかましていたが、物言わぬ石像が私に微笑みかけてきた――! と周囲に喧伝するほどなのだろうか。それは行き過ぎだと思うけど。若い嬢ちゃんが舞い上がっちまうと、そういう感じになんのかな。いや、男だって完全に拒絶してる女を俺に気があるんだー、とか思い込む奴もいるけどさー。……まあ、俺もそういう時期あったけどさ。
俺がそんなこと考えているうちに、おばさん、おっさん、兄ちゃんの三人とも、話し合うのに忙しくメイスにあんまり構わなくなったので、メイスもきびすを返して人ごみから離れていく。
「聖ウィンリ像もとんだ濡れ衣着せられましたね」
うっ。
そりゃ、まあ。メイスの件でカーとなって飛び出したけど。途中から憂さ晴らしが入ってなかったとはいえないあれだったりする。だって俺も普段からストレスが……。うー。メイスだってストレスで自棄食いしてたりするし。妄想でも憂さ晴らしでも、辛いことがあるとなんとなく逃避に走るじゃないか。
そこで俺はふと思った。
レタスになってからストレスと縁がきれない俺、山のような課題を押し付けられて火を吹きそうなメイス。
石像が自分に微笑みかけたと、そういう夢を見る殿下もまた。現実に何か辛いことがあるのかもしれないと。




