土鍋と過去とスポ根ドラマっ!(一)
師匠の影を追いかけてやってきました人がごったがえす港町ウォーターシップダウン。流れる人々の間でふとした拍子に離れ離れになってしまったレザーとメイス。
一人になった先で土鍋と遭遇するメイス。街中で叫ぶレザーの過去を知る男。そして当の無力でおかしな我らがレタスマンは辛い現実から熱血の世界へと逃げた!?
レザー・カルシス! 今度もいきます、歌って見せます、男の根性レタス節!
その日は、馬鹿みたいな晴天がどこまでも広がっていた。
太陽がお前なんでそんなに張り切っているんだと聞きたいくらいに、輝かしく誇らしげに白い雲なぞ欠片一つない空に浮かんでいて、横合いにゆったりとなだらかに並ぶ山々もその下で生き生きと人生を楽しんでいるようだ。
これまででっけえ蛇がぐでーっと伸びていたような細い街道は進むにつれ段々に太く広がり、さあ、こっちだとでも言うように見事に真っ直ぐに伸びる、いま立つこの場所のより目をやる視線が少し下がったその先に、ここいら近辺じゃこれ以上の大きな街は望めないほどの規模の街がふんぞり返っている。
小高いこの場所からだと様々な色をした四角い屋根が、まちまちと並んで精巧なおもちゃのように見えた。そちらから寄せる風は久々に嗅ぐ少し据えた潮の匂いをのせている。
港街、ウォーターシップダウン。
中心となる大きな港に海の向こうからこちらに吹き付ける風の流れはそんな匂いと一緒にアリア海に置かれた船をもここに運んでくる。それに詰まれた品物や人もついでに運んでくるって寸法でこの街の栄えになる。
おかげでこの地方の文化の流通の発祥地でもあるし、ともかくここいらなら全てのものがこの街から来ると言っても過言じゃない。
船の来航に合わせた月に四回の市開きには、まだ見ぬ異国の品物を求めて多くの人がごった返す。
見知らぬ匂いに充満した太陽の熱で暖められた大気の中を、街の向こう、遥か彼方にすっと綺麗な横線を描く海が、きらきらと光って俺達を招いてるように見えた。
前方に遥か広がる、海は青かった。海だからだ。
上空に幅をきかせた、空は青かった。空だからだ。
両脇をどしりと固めた、山は青かった。山だからだ。
そして街道を行く、俺は青かった。――……レタスだからだッ!
ざわめきが辺りを包んで、人が立ち代りに前方から現れては後ろに流れて行く。
メイスの小柄な身体なんぞその波の中には溺れて見えやしないだろうけれど、それを逆手にとってひょいひょいと騒音の中をくぐって行く、こいつも並みの身のこなしの持ち主じゃない。
メイスは軽やかな足取りで人の障害物をさばき、それからん、と止まって呟いた。
「愚かな人の群れが大量に渦巻く中に身を置いていると自分もそれの一員と見なされることにいささか気分が悪くなりますー」
周りの奴らに聞かれなかっただろうかと思うが、人の流れは小さなメイスの声なぞどどっと流してしまうらしい。
それでも俺はなるだけ声を潜めて
「ほんとに、ここにあるんだろうな。」
「ええ、私やレザーさんから漂うお師匠様の力が見えますー。お師匠さまは人嫌いを気取りながら人が多いところに出没することが多いのですよ。自己顕示欲がとても強い――どれだけ顕示したところで見るものにとっては見たくもないような自己を提示させるなど、視界の暴力と言っても過言ではない迷惑だけを撒き散らす私この世でいらない者は何かと言われればまず真っ先にあげるでしょうお師匠様の特性ですね」
「……」
俺の名前は、レザー・カルシス。
質の悪い魔法使いに運悪く変な魔法をかけられて、目下、不幸街道まっしぐらな人生の修正を加えようと奮闘中の一介のレタスだ。レタスだ。繰り返させるな、聞き返すな、レタスだって言ってんだろ。
で、自分の師匠に向かって暴言吐きまくるこっちはメイス・ラビット。まあ家名なんてこじつけでうさぎのメイスとでも思ってくれればいい。なんでうさぎかって? だからうさぎだからだよ。
人間の身としてレタスに、野生のうさぎの身で人間になってしまった俺とメイスは、同じ目的を抱く身としての縁でここしばらく共に旅を続けている。
俺はこの身体になってからはもはや何の役にも立ちはしないが、元は一介の冒険者で、メイスはその元凶の魔導師コルネリアスの半強制的な弟子で必然的に魔法使いなんだそうだ。
――魔導師、魔術士、魔法使い、と俺にとっちゃ似たような者の呼び名だが、ちゃんと使い方の違いがあるらしい。
しかし、メイスと旅を続けて結構たつがいまだによく分からない。魔をいじくる奴らはともかく秘密主義なもんだから。
まあ、そんなわけでメイスは一応、魔に接する身のため、自分で魔法を構成して俺達にかけられた術を解く術を作っているんだが……失敗した。
まだまだ改良の余地があるみたいだ。そして俺は二度と実験体にはならんぞ。なんでだって? 聞くなっ。
ともかくそんな紆余曲折を経て、そこでつまづいてしまった俺達は、それまでは選択肢が幾つかあったため、あまりはっきりした目的を見定めてなかったんだが、他の手がかりが極端に乏しい今やっぱりこの世でただ一人、確実にこの魔法が解けるであろうかけた張本人、メイスの師匠コルネリアスを捜すかという結論に落ち着いていた。
「しっかし捜すとなると見つからんよな……」
「そうですねー。本当ならそろそろ見つかってもいい頃ですし、私が捜し回っても見つからない場合お師匠様はなぜか一定の時間が立つと私の前に勝手に姿を現すことが多いのですよ。あの極悪醜悪卑小な存在で寂しがり屋などとほざくなら私息が詰まるまで笑ってしまいそうですね」
あっはっはっは、と声をあげるメイスに俺はこの師匠にして弟子ありだと呟く。メイス、お前の場合は「わらう」と読んで「嘲笑う」と書くんだよ。
だけど笑うと聞くと思い出すよなー。そろそろ結構、立つもんだけどあいつら元気にしてるのかね。
ちょっと思い出にひたっていた俺の前に、誰かが連れてたやぎの顔が突然横合いからにゅっと出て瞬間に冷水をぶっ掛けられたように現実に返る。
ヤギは俺を見て横たわった三日月の目をにいぃと満足げに細めた。ぎゃっ!
素早くメイスが自分の背中に隠してくれたので俺は空恐ろしいヤツとそれ以上、対面せずにすんだ。
背中に隠されると、メイスのしっとりとした白い髪が絡みつくように身体にかかる。
しばらくメイスは持ち前の顔に似合わない毒舌で飼い主とヤギを糾弾して
「失礼なやぎさんですこと。人の食料を狙うなんてっ!」
飼い主に謝られてもメイスはぷんぷんとした様子で言った。……失礼な嬢ちゃんですこと。人を食料に狙うなんて……。
さっきも言ったが、俺はこんなもはやもう何も言いたくないような姿になる前は、一介の冒険者だった。
世間で地道に働いているような奴らから見ると、特別に名でも高くない限りは、ふざけていいかげんで真面目な奴がいないってのが通説で、芸人とまではいかなくてもいささか軽蔑されがちな面もある。
だが、こちとら大事な命を洒落と浪漫にかける大馬鹿家業。ふざけた奴もいいかげんな奴も、命がかかればその部分だけは真面目になる。
それがもっともよく現れるのが、冒険をつるむ仲間達の選別だ。
人間一人の力なんてやっぱりたかが知れていて、気ままな一匹狼気取りがうじゃうじゃいるように世間からは思われていても、冒険者は互いに仲間を作って仕事をこなすことが多い。
こいつらなら命を預けてもいいし、預かってもいい、って心の底から思えなけりゃ冒険なんてやれはしない。
その目が肥えてない新人がたまに悲惨な目に遭うこともあるが、一度定めた仲間意識とその信頼はどの職業にも負けないだけの自負が冒険者にはある。
だから当然、自分を虎視眈々と狙っている奴なんかは仲間になりうるはずがないんだ。
というわけで言っておくが、俺とメイスは仲間ではない。被害者、という単語がつくならば仲間と言ってもいいが。
俺のそんな思考はさすがに嗅ぎ取れないメイスは辺りの空気をくん、と匂って不快そうに顔をしかめた。
「人の熱気と潮の匂いで鼻が馬鹿になりますー」
多少は落ちたとはいえ、うさぎであった頃の五感を今でも備えるメイスは人とは感覚が違う。
ただ過ぎるとそれも害悪で、この雑多な町の中は鋭敏なメイスの嗅覚には致命的だったらしい。
「人の匂いは嫌いです、私」
ま、な。うさぎにとっちゃ人なんざただの捕食者にしか思えないんだから、好きだと言う方がおかしいさ。
なんつーか捕食者にたいする餌の気持ちが最近、身に沁みいるようにわかるんで俺は胸中で頷いた。
「でもレザーさんの匂いは好きですよ」
不意に不機嫌さを一掃させて、白い花が咲くようにこちらを見下ろしてメイスはにこっと笑った。
外見は可愛い嬢ちゃんに好きだと言われて羨ましいって? そんなことひがむ必要はまったくないと思うぜ。
ところで、俺は魚が好きなんだ。それも川魚が好物だ。いきなり何を言うかって? ――メイスのそれは、俺が川魚が好きだ、と言う意味とすんぶん違わぬ「好き」ってことだ。
「だって素敵なんですもの、心が震えるほど新鮮で陶然たる香り。どこぞの暴虐で浅慮でこのようにふらりといなくなってはただ他人の負の感情を煽る、けれどかと言ってどこかに長期滞在すればするだけその場所に果てしない迷惑と不快を撒き散らすもはや人間生ゴミと言い表すことがもっとも的確かと言う腐臭そのものであるお師匠様によって私、諸国を回らされた件でよく見てきましたがレザーさんほど素敵なレタスはどの市場にも畑にも並べられていませんでしたー」
……お前の「素敵」は「美味しそう」と言い換えれるんだよ。市場や畑に並べられる冒険者……どこまで虚しいもんと比べられてるんだ俺は。
「――んで、その「お師匠様」の力はどっからしてんだよ」
悲嘆に暮れながらも、ちょっと話をそらさねばやばい感じになってきたので、さり気なさを装って俺が言い募る。
「はいー、えーっとですねー。」
のほほんとした様子でメイスが辺りに視線をめぐらしたその瞬間に、唐突に背後でざわっと空気が動いた。
「メイス、避けろ。前に」
少しの猶予があったため、俺の声は落ち着いていた。
メイスが前方にとびのくと同時に、連なる悲鳴があがった。
とびのきざまにメイスが背後を振り向くと、死屍累々、と言った不吉な四文字熟語に相応しい有様が俺達の目に飛び込んでくる。
メイスがそれまでいた場所を中心に一直線に、敷き詰められたように人が倒れて重なっていた。
おそらく何か衝撃があって、その際にこの広間に詰まるようにしていた人間が将棋倒しになっちまったんだろう。
この人でごった返す街中は存外、危険が多い。ちょっとしたことで崩壊を招くとあわや人の下敷きになる。
傍目には愉快でおっちょこちょいな図にも見えるが、これが危ない。下手に潰されて内臓が破裂する奴もいるし、ガキなら呼吸困難で死ぬ奴だって出る。
「あららー」
「メイス、手伝ってやれ」
うめき満ちるそこに慌てて周りの奴らが助けに入る中、呑気に呟くメイスに横から言った。
「面倒ですよー」
「いいからやれ」
するとぷくっと白い頬を膨らませて
「レザーさんって結局のところお人好しなんですからー。それでそのように手も足も出せない状態なのですからその皺寄せが私に一気にくるのですよ。そのことを分かっておられるならともかくそのように当たり前な態度でされると人とは違って心が広く穏和な私としてもいささか不快ですー」
前の褒賞だったレタス食ったのも役人から賞金貰って好き放題野菜買い食いしてたのも全部お前だろうがっ!
と言う言葉はぐっと飲み込んだ。渋々ながらも、メイスがこっそりと呪文を唱え始めたからだ。
瞬間にふわりと重なった人間が浮かび上がって、互いに身体がずれてゆっくりと地面に横たわる。浮かび上がった奴も周りの奴らもぎょっとしている中でメイスは素知らぬ顔だ。
メイスは朝の属性とかいう性質の魔法使いであり、攻撃魔法や荒事は得意じゃないため、あまり自身の魔法をありがたく思ってはいないようだが、この運搬技術だけでも相当に役に立つと俺は踏んでいる。
誰がやったのか分からない力を目の当たりにしてざわざわと周りのざわめきが耐えない中で、急にはしっと響き渡った声がそれをぴたりと止めた。
俺達も目をやると、そこには人が作った生垣の中の空間があり、中心に二人の人影が見えた。遠目でよくは分からないが、ありゃ冒険者だ。
それで奴らの立っている位置と将棋倒しが及んだ範囲を考えると、この人間ドミノの原因はおそらくあいつらだ。全く……また冒険者の肩身が狭くなる。
渋面になった俺に(悪かったな、レタスに顔なんてねえよっ)しかし、事情はちょいと分かりやすいものではないようだ。
対峙しているかと思った二つの影はどうもそうではなく、一人はくるりと相手に背を向けていて、背を向けられた相手はしきりにそいつを激しく罵倒しているらしい。
不思議に思ってメイスを見上げ
「あいつら、なにしてんだ? メイス」
「えーとですね。なんか勝負をしろとか臆病風に吹かれたのかとか言い合っているみたいですよ」
うさぎ特有の聴覚を持って聞き取る。うーん? 荒くれ者も多い、同業者で冒険者同士のいざこざは決して少ないわけではないが……
「ただもう一人のその、挑まれている方ですか? これが全然反応してないで周りの倒れた方々に目を配っているみたいですー。レザーさんと一緒でお人好しなのですかね」
よし。冒険者への好感度向上に向けて頑張ってくれよ、同輩ども。
「ちょっと近づいてくれるか。ここからじゃ遠すぎて聞き取れん」
「はいー。」
メイスも興味をかられたのかひょこひょこと近付いていく。メイスの手に抱えられてる状態じゃ四、五歳のがきくらいの高さの視点しかもてないためか、本当に見難い。
人々の行き交う隙間にわずかにそれが見えるだけだが、くるっと影が初めて喚きたてる奴に向かい合った。
「あ、あちらさんも怒ってるみたいですねー。えーと、少しでも頭を動かすことを知ってるならこんな場所でこんなことをすればどうにかなるかくらい分かっただろう、この馬鹿、って言ってます。あ、言われた方が剣を抜きましたね。あら、えーと今度は人ごみでお前みたいな馬鹿で剣の扱いも知らない奴が抜くんじゃない、百年早いぞ赤ん坊からやり直して来い能無し、とか怒鳴っておられます。あー、お相手さんも赤くなって赤くなって。蛸のようですね」
やり取りが面白いのかメイスがくすくす笑う。しかし、すげえ、相変わらず。
俺にはかろうじてしか見えんし、声なんぞ周りの奴らのざわめきで全くだ。
この飛びぬけた五感に、運動神経も抜きん出てるし、力がないのを差し引いても、ちょいと鍛えればメイスは相当な格闘術の使い手にもなると思うんだが。
物見高い奴らが集まっていく中、メイスも流れに従って人の隙間を縫って近づいてくる。
その頃になると俺にもようやくわずかに聞き取れるぐらいになっていたが、いかんせん周りの奴らの声ですぐに途切れる。えーと?
やはり聞き取れずにメイスの実況中継に耳を傾ける。
「つっかかっている人が、言ってます。変な口上で勝負放棄かよ、骨なし野郎、こんな腰抜けなんてがっかりだ、アシュレイ・ストーンもたいしたことなんぞねえな、と」
俺は一瞬、それを聞いてん、と止まり、次の瞬間、人ごみも忘れて思わず叫んでいた。
「アシュレイっ!?」
奇妙な場所からの突然の大声に周りの奴らがはっとして発生源を確かめようとする、けれど次の瞬間、メイスの両手からぱしりと俺は攫われていた。
「アシュレイっ!?」
人のざわめきの渦の中から、一筋の来光のようにさっとその声を耳が捉えた瞬間、全身を電撃が走ったように感じた。
向かい合う全ての事象も目の前の馬鹿もぷつりと意識から消し去って、煌くような赤銀色の髪を揺らし青年は急いで振り向いた。
茶色の瞳がそれまでには生じなかった真剣さで辺りを巡るも、こちらを見やる人々の中に、鋭いそれを宿した瞳が探る何かは見えない。
ただこの混乱のさ中に手荷物をスリにでも奪われたのか、甲高い少女の声が「こらーっ、私の非常食を返しなさいっ」と怒鳴っているのが聞こえた。
戸惑いけれど誘われるようにそのまま駆け出そうとした彼の身体を、がっしりとした手が留めた。
「待てよ、おい、アシュレイ・ストーン? 今度は敵前逃亡かよ」
留めた手の主はこれ見よがしな長髪を肩にたらした一人の男で、薄汚れた旅服に革の胸当てといった風体が冒険者であることを示している。軽薄な顔つきに浮かんでいるのは自分の優位を確信した、増長の笑みに他ならない。
それを肩越しに振り向いてきつく見据えた青年は、一瞥すればまだ少年めいた身体の線を持っていると言って良かった。
成人男性としては少しばかり物足りない上背と、繊細な骨格の身体つき。首襟にかかる赤銀色の髪は、暁に染まる月のような見事な色合いで、白い首にほっそりと影を添え華奢さを演出している。身体もおそらく引き締まってはいるのだろうが、かなり痩せているためまとっている服のあちこちで布が余り、その後姿はいたいけにすら見えた。
しかし振り向けばその印象はがらりと変わる。頬に浮かんだ若々しさとそこにありありと描かれた脈動する野性味が、痩せた狼のように凶暴でそして強烈な魅力となっている。いささか荒削りではあるがぎらぎらと整った顔の中の、若木の幹を思わせる柔らかな茶色の瞳が今は半眼の荒んだ様子で自らの行動を阻んだ男を睨みつけ、彼は不快そうに鼻をならし簡潔に要求を言い放った。
「離せ」
「離すわけにはいかねえよな。いくら話だけのこんなちびの腰抜けだと分かってもお前はアシュレイ・ストーンだ。これだけ多くの証人の前で、この俺に惨めに倒されてもらわなきゃ」
な、と最後に言いかけた言葉は不自然に横にぷっと飛び出した。目の前に留めた青年の固めた拳が、こめかみに強烈な勢いを持って炸裂したためだ。
そのまま流れるようにして、ぐらついたそこを一見華奢に見えるほどに引き締まった足が何気なく顎を蹴り上げる。
うめき声もあがらないままに、大きく後ろに崩れ落ちた相手の右手を踏みつけて剣を手放させると、放り投げるゴミほどの価値も見出してはいないように頭から存在を抹消し、慌てて背を向けて人ごみに視線をめぐらしたが、先ほど見当たらなかったものが今捜して見つかるわけもなかった。
茶色の瞳にその事実がさっと悲哀を彩る。
「レザー……」
力なく呟き、次の瞬間そんな自分の弱気に打たれたようにはっとして顔をあげぶんぶんと横に振った。
「いいや、まだ近くにいるはずだっ! レザーっ」
自らに言い聞かせるように叫んで青年は軽く身を翻し人ごみの中に駆け込んだ。
――実際の話、唐突だとは俺も思うが、お前らはストローボールってスポーツを知ってるか?
六人対六人でチームを組んで藁で出来たボールを走りながらパスしあい相手を出し抜いて、地面に線を一本ひいたゴールの向こう側までそれを持っていけば勝ちって言う、準備も道具も要らないお手軽スポーツだ。
馬鹿でも分かるルールと道具の手軽さに、結構普及しているゲームで大陸中のどこでもガキ共が町外れの空き地や、質が悪けりゃそのまま街中でやっている姿が見れると思う。
俺は実はこれをやったことがない。別にやりたくなかったわけじゃない。ガキの頃はそれをやっているのを見るたびにひどく羨ましく感じたもんだ。
通りの景色が流れていく馬車の窓から身を乗り出して、俺はじっと未練がましく同い年のガキ達が、街中で広場で楽しげに子犬のようにかけまわる姿を見ていた。
ガキの頃の俺は確かにやりたかった。ゲームに参加したかった。それは認めよう。しかし俺はガキ達の間で飛び交うボールとして参加したいなんて思ったことは一度もねえぞ馬鹿野郎っ!!
俺を両手で挟みこむように掴んだそいつは、きゅっと地面を靴でこすって一つ跳ねて軽やかに
「パスッ!」
俺は人の頭を超えて高く放り投げられた。瞬間に横合いから掠め取るように小さな手にキャッチされる。
すると息着く暇もなくまた人の波から細い手が突き出されてこちらに振られる。
「こっちこっち!」
「あなた方っ! 待ちなさいっ」
メイスの追ってくる声が聞こえるが、一人ならともかくこういう、つまりストローボールのごとくに次々と別の相手にパスすることによって翻弄され、しかも状況が人ごみとあっては俊足で鳴らすメイスでも歯が立たない。
「こらーっ! 私の――……を返しな……」
メイスの叫び声が人のざわめきとこの距離にかすれていく。
ついには完全にメイスの声も気配もなくなり、ガキたちは大通りの横に無数に伸びる路地裏の一つに入ると、途端に嫌な静けさと薄暗さがかかるその場で息をつき、瞬間にわっと歓声があがった。
「ざまあみやがれっざまあみやがれっ!!」
「思い知ったかっ、あいつらっ」
興奮がまだ収められないのか、よく分からないことを叫んで無意味に壁を蹴ったりしている奴もいる。
けれどやがて、奴らは俺を最後に持っていたガキの周りに興奮した面持ちでぐるりと集まってきた。
「やったね? へいずる」
「ああ、心配ないって言っただろう? ファイバー」
ガキどもが形成する輪の向こうでちょいと年長の坊主と、この中では一番小さいんじゃないだろうか黒色の髪のガキが、ぱんっと両手を打ち合っているのが見えた。
「評判の魔導師の水晶だ、高いんだろうな」
「でも変だな……なんだか、ただのレタスみたいな感じ」
「カモフラージュに本物そっくりにしてんだよ。魔導師ってほら、用心深いしな」
ガキどもは口々にそう叫び、俺を持つガキは熱心に何かの鍵を探るみたいにさわさわと全身を撫でる。
……いや、実際のところ、俺はよくもったほうじゃないか? 突然に攫われて、ボールのごとくにぐるぐると乱暴に投げ交わされて、それであたかも戦利品を前にしたかのごとく(ってかそのまんまなんだろうが)わいわいと品定めに騒がれて。
人間としての尊厳を自覚している身としては、よく我慢した方だと思わないか? 別に分かってくれなくても構わん。非難するならお前もされてみろっ!
俺は次の瞬間、煮え繰り返った心地で出せうる限りに奴らに向かって怒鳴りつけてやった。
「いいかげんにしやがれっ、くそがきどもっ!」
俺の怒声が響くと、ぴたりとその手が止まった。
すす汚れた黄色の髪をしたガキは一瞬の硬直の後に、俺を見下ろす。声を発した俺を確認して、他の小さなガキ達もひくっと痙攣した。俺に触れている手の部分が震えだした。
「え……?」
愕然と呟き、それからさあっと青ざめた奴らの顔を見ていると、俺はこの状況で何が一番効くかを敏感に察した。ので、地を這うような声で一言、こう言ってやった。
「お前ら全員、呪いをかけて俺と同じ姿にしてやるっ……」
次の瞬間に
「キィヤアアアアアアアアアっ」
とぬか釘でガラスを引っかいたような、甲高い物凄い声があがった。持ってた小さな手は俺を放り出し、地面にころりと転がると、群衆の中に蛇を投げ込んだような有様の連中の様子が見えた。
逃げることも忘れたようにその場でへたりこみ泣き喚き始めたガキとか、慌てふためき走り回って互いに正面衝突してぶっ倒れる奴らとか、それでも連中を庇うように前に乗り出したのっぽのガキが拍子に誰かを蹴倒したりと、その場は一種の集団ヒステリーみたいなパニックに陥った。
それを見てちょっとやりすぎたかと一瞬俺は反省した。
まあ事情を知らないガキ相手に俺も大人気なかった。
ところで、そこまで慄き怖がるほど、自分がレタスになるって人間として凄く絶望的かよ嫌かよ……そうかよ、そーだろーなー……………ふんっ。
悔しいので俺はしばらく路地裏に転がったまま、そいつらの狂乱を収めようとはしないで不貞腐れてみていた。
人ごみの中を懸命に少女は波間を縫って駆けるが、大海に落とした一つの指輪のように一度見失ってしまったものを再び見出すことは、ひきりなしに現れる人々の群れの中では、困難なことに思えた。
苛立ったように立ち止まりくんと匂いを嗅ぎ取るも、大量の人々の流れは込み合い混ざり合い凄まじい刺激臭として嗅覚を打ち、その中のたった一つの匂いをかぎ分けるなど限りなく不可能に近い。
「ああっ、私の貴重な実験台でボディーガードで最後には類を見ない香り高き非常食としてどこまでもお役立ちのレザーさんがレザーさんがレザーさんが」
頬に添えた白い指がぶるぶる震えて、さすがに青ざめてメイスは辺りを見回すが、一向にそれは見えはしない。
この瞬間にもあの気が遠くなるくらいに素晴らしい芳香を放つ非常食を、奪った相手が食べようとしているのではないかと思えば、きりきりと嫉妬にも似た激しさで胸が軋んだ。
「私以外の誰かがあれを口にしようなんて許せませんっ!」
何よりも強い食い物の恨みを抱いて、架空の相手に対する怒りに燃える少女の横を不意にさっと一陣の何かが通り過ぎた。
尋常ではない動体視力を持つメイスも一瞬捕らえられなかったそれは瞬間に、がしりと前方にいた誰かの肩を掴んで無理に振り向かせている。
「レザーかっ!?」
ぴんとその名前に反応して注視したメイスの前で、輝くような赤銀髪の男はふりむかせた男に鋭い一瞥を投げかけた。
面食らったように振り向いたのは蒼い髪をして、少しだけ間延びした愚鈍な輪郭を描く中年の男だ。
次の瞬間、赤銀色の男は嫌なもので見たかのように舌打ちしてさっと手を離し顔をそむける。
「違うっ、俺のレザーはもっと顔がいいっ! こんな団子が歪んだような顔じゃないっ」
呼び止められた男が青筋が立つようなことを言い放ち、再び横をすれ違った相手にはっとして風のような速さで回り込む。「レザーっ!?」
けれどそれも失敗に終わったようで、ぎょっとして目を見張る青年を前に落胆と身勝手な憤りを持って喚いた。
「違うっ、俺のレザーの髪は深い蒼だっ!!」
「ちがあああうっ! レザーの身体はもっと引き締まってるっ、なによりあいつは自分の剣を肌身はなさず持っているんだっ!!」
どう考えても無茶な勘違いを抱きそして即座に自ら否定を放つ、その繰り返しを次から次に飽くことなく続けて、はたから見れば錯乱しているとしか思えない若い青年の周りには、身に覚えのない災害を避けようと徐々にごった返すこの中でも空間が開いてきた。
メイスは少しの間それを見ていて、やがて肩をすくめてくるりと騒ぎ立てる青年を見限り背を向けて、彼女の様々な事情において二重三重にも大切な相手を探すために駆け出した。
ガキってのは、ここまでやると誤解されそうだが、俺はそんなに嫌いじゃない。確かに質が悪いところはあるが、なんとなく憎めない存在ではある。
俺が多少はガキを認める点のひとつに、時に拍子抜けするほど素直ってところだな。そしてけろりと根に持たないところも、たまには好きだ。
「ごめんなさい、まさか大魔導師様の使い魔だったなんて知らなかったんです」
俺を大切そうに持つ、鳶色の目をした年長のガキはヘイズルって名前で、居並ぶ七人の他のガキの名前も聞いたんだが、とりあえずいっせいに喚きたてられても、俺は十人の話を同時に聞き分けたっていうガーディ地方の歴史に残る名宰相ショナでもないんだから分からん。
えーと、一番ちっちゃな巻き毛の黒色の髪をした嬢ちゃんがファイバーって名前なのだけはなんとなく分かった。
さっき俺を囲んでいた連中から一人外れてヘイズルとぱんと手を打ち合わせてた子だ。最初は坊主かと思ったが、よくよく見れば嬢ちゃんだったらしい。
片手のひらに包めそうなほどちっちゃい頬に、くるくると修復不可能なくくらいに丸まった黒色の前髪の向こうから、びっくりするくらい大きな黒い瞳が覗いている。
今はどこもかしこも薄汚れているが、綺麗にしたら可愛くなるんじゃないだろうか。まあ、ガキは小汚くても可愛いもんは可愛いもんなんだが。
「知らなかったなら仕方ねえ、もういいさ」
素直に真っ直ぐ謝ってこられると怒りも消えた。ただちょっとした懸念に俺は考え込む。
メイスの噂は段々、侮れないくらい広がってきたようだ。
あの街中歩いているときは誰も気にした風ではなかったので、さすがにここまで届いていないかと心中ほっとしていたんだが、来訪人はあの人ごみの中じゃ誰が歩いていても気にもとめないらしい。
――アシュレイだって、あれで相当、名と顔が売れてるもんな。あいつ、目立つ奴だし。もっと早くに騒ぎにならなかったのがおかしいくらいだ。
アシュレイか。久々に見たが、変わってねえなあ、あいつ。
ちょっと思い出して、せっかくばったり会ったのに結局話せなかったなと胸中で呟き、それから俺ははっとした。
ち、違う違う違う。こんな姿であいつと会ってどうしろってんだよ。抱腹絶倒で地面にぶっ倒れ笑い飛ばされるだけだぞ。
なんたってあいつは俺に笑わせて貰うのが生き甲斐だって公言して憚らない、質が悪い奴だ。本質はいい奴ではあるんだが、今の俺にはきつい。
となると、結果的には攫われて良かったということになるな。うーん、人間万事塞翁が馬とか長ったらしく言うが、確かに何が幸いになって不幸になるか分からん世の中だ。しかしレタスになることで幸いなことは一切ないからな。
考えてるとなにを誤解したのか深緑の髪のガキが心配げに横から
「その……魔術師様には、取り直してくれるってほんと?」
「ああ、事情話せば分かるだろ。あいつも悪い奴じゃないからな」
いい奴では決してないが。
「でも変わってるね、まじゅつしさん。レタスさんをつかいまさんにするなんて」
レタス、好きなのかなと、ファイバーが下からくりんとした目で俺を覗き込む。魔術師、の部分がちょっと舌が回ってない。そして言ったことも当たらずとも遠からずだから質が悪い。ああ、好かれてるよ……好物、としてな。
「いいや、そうでもないよ。東方では、ほら、吸血鬼だってスイカやかぼちゃを使い魔にすることもあるって本で読んだことがある」
さすがに吸血鬼と一緒にされるのは魔導師も気の毒だが……スイカ? よっぽど東方ってのは蝙蝠やら狼やらがいない場所なんだな。
諸国を回り続けている俺もとんと聞いたことのない事を言ったのはヘイズルだ。
少し見ただけですぐにこいつがこの中のリーダーだってことが分かる。のっぽで痩せた身体に賢そうな目をした奴で、喋り方もまたはきはきしてる。
面倒なんで俺は今度はメイスの――つまり魔法使いの――使い魔ってことにしてる。前は水晶だったが、好奇心たっぷりのお子様に水晶でなんか映し出せって言われても困るし。ってかさすがに無機物はどうも、ただのレタスよりかは使い魔の方がましだ。
多分、俺を手に入れて売り飛ばそうとしたんだろう、この街の孤児院の孤児達だと名乗った奴らを俺は見やって
「――お前ら、なんか困ってんのか? 飯がないとか」
「……」
俺の質問に、がき共は俯いてそれからちらちらと困ったように視線を交わした。
一目で古着とわかるつぎはぎだらけのサイズのあってない服に、すす汚れたところが目立つ髪や肌。皆、一様に痩せている。
――が、それほどひどくもない。俺は色々な街のガキ達を見てきたから分かるが、普通のガキよりかは痩せているものの、こいつらには飢えの色がそうは濃くない。最低限の飯は食ってる奴らだ。
「別に」
ちょっと反抗的そうな色の薄い髪のガキがしばらくしてぽつっと呟いた。
「つまんないから、やろうと思っただけだよ。理由はそれだけ」
それはまた単品で見れば殴り飛ばしたいほどのむかつく理由だが。
「なんでつまらないんだ?」
枯れた葉の色を、朽ちたそれを思わせる褪めた目をしていたガキどもが、その質問につと鳩尾を突かれたようハッとして、こっちを見た。それから少し奇妙な顔をしてみせる。……悪かったなッ、シリアスな空気が似合わないレタスでっ!
「メイスのことはまた後でいい。」
俺は言って奴らを(心持ち)見回す。
「お前らもそこいらのガキよりは物を知ってるだろ? そっちの話を聞かせて貰おうか? それは正当な被害者としてのこっちから見れば当然の権利だよな」
賑やかな街の奥の奥、しまいこまれて忘れられた片隅にその教会はあった。割れた部分に新しいガラスははめこめられず、内側から布で覆われている。
くすんだレンガはそれでも綺麗に磨かれていて、人の手は端整にこめられているのが見て取れる。それはこのガキどもの手なのかとちらりと思う。
「レタスさん、きりふき、いる?」
俺ののった机に右頬をつけてファイバーがにこっと笑って言った。邪気のない笑顔と共に手の中に植物の鉢植えに吹きかけるための小瓶。
「いらない」
さすがにこんだけ小さいとやいやいと怒鳴るわけにもいかないで、俺は渋面で答えて
「レザー、俺はレザーだ。今度言ったら答えんからな」
「れざぁさん」
素直でよろしい。いささか舌足らずだが。
しばらくファイバーはれざぁさんれザぁさんと繰り返してようやくレザーさんと言えて微笑んだ。
俺は今、この教会の二階の小さな部屋の窓脇に置かれていて、一人留守番に残ったこの嬢ちゃんの相手している……――いや、相手をされてる、か。虚しい。
ガキ共は結局、俺の話を聞かないで事情もがんとして話さないで、メイスを探してくると街中に散らばっちまいそれまでと俺は奴らの孤児院であるここに案内されたわけだ。
可愛くねえな。確かに孤児ってのは独立心が強いから意地を張るもんだが。
「みんな、かえってこないね」
椅子をよいこら持ってきてその上に乗り、窓の外にぺたりと顔をつけて、薄暗くなった外を嬢ちゃんがのぞく。
「見つからないのかな? だいまじゅつしさん、目立つのに」
「あー、えー、嬢ちゃん?」
「ファイバー。ファイバーはファイバー。レタスさん、こんど言ったらこたえないよ?」
不思議そうに彷徨う瞳をこちらに向けて首をかしげる。……な、なんか面食らうな。こういう子も。
「分かった。ファイバー、その、なんでなんだ? 嬢ちゃんの仲間達、みんななんか意地張ってるようだが」
聞くと嬢ちゃんの顔も負けずに頑固に強張っていた。
「ヘイズルも、ブラッドベリも、シルバーも、ホリーも、ブルーベルも、ピプキンも―――、みんな、わるくない」
言ってちょいとだけ泣きそうになる。
「レザーさんを、だいまじゅつしさんからとったのはいけないことだったけど」
「あ、いや、それは別にたいしたことないから、な。な。」
苦手なんだよ。泣く生き物はどうも。
「だからなんか理由があるんだろ? な?」
すると急にパタンとドアが開いて俺は咄嗟に口を閉じた。ドアの向こうの主は、あら、と声をあげた。
「ファイバーだけですか? 他にどなたかの声がしたような気がしたのだけど」
ここの主人なんだろう、物腰が穏やかな年老いたシスターだ。
小さなボロの眼鏡をかけた顔には、優しげに皺が刻まれて、目元にも深い笑い皺、人生を有意義に過ごしてきたんだろうってのが一目で分かるいい婆ちゃんだ。
婆ちゃんシスターはファイバーの様子を見て取って、それから近寄り包み込むように小さな身体を抱きしめた。
「みんな困った子達ですね、泣いてるあなたを一人にしているなんて」
ううんとファイバーが首を振る。
「ちがうよ。みんな、わるくないのわるくないの」
「悪いなんて言っていません。あなた達、みんな。みんな、ね」
シスターの腕の中、堪えきれないようにかみ殺したすすり泣きが漏れる。
俺がちいと居心地悪いまま黙っていると、婆ちゃんシスターはしばらく嬢ちゃんを思う存分泣きたいように泣かせて慰めると、それからベッドに寝かせた。
しばらく聖職者らしく神の希望の教えを幾つか語り、嬢ちゃんの気分が良くなったのを見てとると、優しく笑って部屋から出て行った。
パタンとドアが閉まるのをじっと見送ってから、ベッドに横たわったまま、嬢ちゃんはこっちを向く。泣きはらして少し目元が赤いが、黒くてでかい目だ。そこから嬢ちゃんはえへへへと笑った。
「シスター、やさしいでしょ? みんなのね、お母さんなの」
「ああ」
懸命に、ファイバーはなぜだか懸命に言い募る。
「いい匂いがするんだよ、シスターはね。ね、すごくやさしいの。すごく、すごくね、シスターはね、りっぱな人なんだよ。シスターはわるくないのぜんぜんかんけい、ないの。わるくないの」
「ああ」
やがて沈黙が来た。来てから小さな手を組み合わせてファイバーはしばらくして俺を呼ぶ。
「……レザーさん」
「うん」
こくり、と小さな喉が唾を飲み込んで苦しげに揺れた。それからゆっくり震える声で言葉を紡いだ。
「ごめんなさい」
……
「いい。許す。もう遅いから寝ろ」
言うと幼い顔が歪んだ。安堵ではない、それだった。それからふっと顔を背けたその瞬間に、傾けた細い首筋に生々しい色をした、大きな一筋のアザが見えた。