像と試験と夢見る王女(1)
コルネリアスの消息を求めてやってきました宗教都市ナディス。芸術鑑賞、宗教談義、王女殿下のご乱心。神殿稼業も大変と、第一巫女はため息をつく。冒険者仲間も乱入で、聖母リディアの膝元で、繰り広げられるは怪奇の像にまつわる一騒動。試験勉強にぐれそうな、うさぎの相棒抱えつつ、教育に恋に数多の謎に! 向かうレタスの奮闘記。
宗教都市という場所は、他の都市と比べて結構異色であることは、誰もが認めるところだと思う。
まずはすごく文化水準が高い。全国的に見ても高い識字率、学問というのはいまだ一部の特権階級のみに与えられるものだという世間の認識を振り切って、一文無しでも能力と意欲があれば最高級の教育を受けることも可能な制度。叡智の恩恵を受ける人々が住む建物や街のつくりも非常に洗練されている。
鳥の目で見れば非常に整然としていることがわかるだろう、計算され尽くした街並みの中に、美しい石造りの家々が立ち並んでいる。中でも一際大きな建物はその街の中央に座する、聖母リディア教カースリニ大神殿。
総本山はこの宗教にはないが、実質総本山として捉えられている。リディア教の信徒には神聖にして侵せざる場所で、その心を裏切らないよう、連なる白峰のようにどこまでも天を目指して高く壮大に神殿は街の中央にそびえ立っている。
二番目にでかい建物は一般開放もされている大図書館。これは大神殿とは趣を変えてそうまで高い造りはしていないが、その分だけ地面にぺったりと広く、その書庫に納められた本の数は世界でも五指に入るほどの規模らしい。
そして三番目にでかい建物は、ここ。神殿から続く大通りを東にまわるとその姿を露にする、確か百年前の巫女長の名前をとってつけられたというファエナ美術館。
そこにいま、俺たちはいる。
古来から芸術と宗教というのはひどく密接なもので、宗教都市であると同時にこの街は芸術の街でもある。それを証明するように、三つの建物はとことんまで凝ったつくりをして訪れる人間の眼を楽しませる。建物なんてしっかり立ってりゃそれでいい、という認識が世界的には一般的な中、この街では美術館自体が芸術の一つだというように。
もちろん、外側だけに限ったことではない。かなり安い入場料を払って、扉をくぐればハガリーニ王朝形式、クラーク形式、ソシャーナ形式、ロクセンブルク形式、エトセトラ。呆れるほどの種類と数の、絵画だの彫刻だのが広大な内部に所狭しと展示されている。
俺は数度この街に来たことがあるが、何度来てもすごいところだ。見飽きるということがない。というかできない。
そんな世界の美術愛好家垂涎の的、数々の名画、名彫刻をメイス・ラビットは一応足をとめて見て、そして大いに呆れた顔をした。
「手間と時間がかかっていることはわかりますが」
「よくこんな無駄なことができますよね」
「よほどすることがないのでしょうね」
それが文化の結晶とも言える場所にたいして、メイスのただ一つの感想でウサギの鑑賞眼にため息をついたのは俺、レタスだ。
メイスは壁にかかっている絵を素通りして、人が少ない彫刻のエリアにある椅子を見つけて座った。俺はそこでちょっと呻くように
「……お前なあ。ああいうの見て何も感じないのか」
「手間と時間と大いなる無駄な労力とそのことに対する呆れは感じましたね」
と物凄い切り捨てをした。それからつくづく不思議そうに先の広間に置かれた彫刻を眺め
「人間ってほんと、おかしなことをしますね」
そう呟くメイスが見ているのは、大彫刻家グレイ・バーグ作「聖使徒ウィンリ像」
超がつくほどの有名作で、平日のこの時間で内部に人が比較的少ない中でも、それが置かれたエリアは盛況だ。
ま、聖使徒ウィンリってあれだ、青い瞳に金の髪の美青年、っていう女受けするビジュアルだったせいか、一般人気は凄く、模写で一番売れるのもこの像だって言われてる。
もともとバーグがとある大富豪の令嬢のために作成したって代物だから、まあ最初からそういうもんだったってことなんだろう。専門家の芸術的価値云々で言えばバーグの傑作は、もう少し奥の部屋にあるはずの神話に出てくる巨人ゴリアテ像なんだけど。
俗世の人気の高さに比例して、数々のスキャンダルを起こしてきた像とも言われてる。なんだよそれ、と最初に聞いたときは、俺は思いっきり苦笑したけど。その馬鹿みたいな話もちりも積もればなんやらで、聞けばなかなか数が多い。
これを贈られた令嬢から端を発して、令嬢が自分の物となったこの石像に恋してしまい決まっていた婚約を跳ね除けそれでバーグはパトロンの不興をかって追い出されたという話を皮切りに、この石像に恋をする女の逸話は後を絶たない。
俺の目から見たら、片手に叡智の本を持ち、もう片方の手には聖母リディアに仕える証であるシンボルの錫杖を高々と掲げ、優雅な立ち姿を決めるウィンリはちょっと繊細すぎる気がして、野卑だけど一見でびびるような迫力満点のゴリアテ巨人像の方がいい気がしたもんだが。
しかし、ウサギの目と感性でここまでばっさり切られては、逸話には苦笑してゴリアテの方が、と思ってた俺でさえ、なんとなく弁護してやりたくなる。
それでじっと見ていると、石が刻まれただけの目なのに、妙に俗っぽくみえるときがあるとふと気付いた。あれっとなって見直してみると、やはりこれぞ聖人という文句のつけどころのない立ち姿。指先の一本一本まで漲るような神聖さがある。
けれど、どこかの一点を超えると、急にそこには悪知恵を持つような、野卑というわけでもないけれど、高潔さだけではない抜け目のない影が見え隠れする。んー?
端整にくしけずられた輪郭を視線でなぞり、そこで俺はふと唐突に、この像の中には、二つのものが、狡猾さと超越が混在していて、それが神聖さと俗世という相反する、人と神の間に立つ不思議な境目を造っていることに気付いた。
神話の中ではウィンリは確かにはっとするような美青年ではあったけど、全ての男の恋人と称えられ、どの男も虜にすると言われたルーシーの双璧の位置に並び立つことはできなかった。
『女』になってはならない『母』であるリディアの絶対性のために、その傍らに控えているウィンリが全ての女を虜にする、なんて神では困ったのだろうし、その性質上知恵を司るストイック性がなければならなかったのも確かだから、そういう要素はあえて排除されたのだろうと言われている。まあ、その割にはあっさりルーシーに惚れてたんだけど。
そこいらはロドリゲスに惚れたルーシーのよう、神話上の矛盾だと思う。神話ってのは、よく聞いていると、結構つじつまがあわない箇所が出てくるもんだから。
が、この像には緻密な技の表面に隠れて見えにくくなっていたが、神話が見せる、知を司りながら、神でありながら、美貌の女神にも心を奪われてしまう、そんな相反するウィンリの存在全部をともかく詰め込んだ無茶苦茶さがある。
そんなことをしたら綻ぶ矛盾のように、崩壊してしまいそうなもんなんだけど、技巧のせいか別のなにかのせいか、ウィンリ像はぎりぎりのところで完成している。
誇り高さと時に端整な双眸にのぞく弱さ、どこか危うさを感じさせるバランス、見方によってどうとも解釈できるような姿で屹立し、額と眼の部分に落ちる石像の影が生きたそれのようで妙な凄味がある。
……へええ。
民衆とか女の眼って一番あなどれないものなのかもしれないなあ、と俺が結構見直す前で、メイスは石の身でありながら数多の女を虜にしたと言われる芸術品からあっさり目をそらした。俺は改めて感服したところだったからムッとして
「あのなあ」
「あのですね、レザーさん。確かに聖母リディア教の予備知識は得られましたから」
宗教と芸術という二大理解不能事項の金字塔を掲げられ、どちらかというとメイスの方が耐えかねるという口調だ。さも無駄ですけどとでも言わんばかりの含みが入った言葉で続ける。
「こういう場所で無駄な時間を過ごさずに。――グレイシアさんに会いに行く件はどうなったんですか」
うっと俺は言葉もなくつまって、聖使徒ウィンリを見返してみるが、どんなに表情で語りかけていた石像も、声を出して俺をフォローしてくれるわけではなかった。
宗教都市ナディス。
東大陸のちょうど真ん中辺り、海も山もない平地に居場所を陣取ったここは、周囲の国から女神の住まう街とも言われている。国ではなく、完全に独立した自治都市で、どの国の干渉も受けない、地上のユートピアの一つの完成型でもある。
大陸中の少なからぬ人間が心の聖域とする場所であり、故にどの国も牽制しあう形で下劣な手出しはできない。この都市も他国への政治干渉はせずに、教えを厳格に守りながら、すべてにおいて中立を保っている。
……ってのが、表向きの綺麗事だが、まあ裏はそんな綺麗なもんではないだろう。いくら宗教の街とはいえ、人がここで生活している。排泄しない人間がいないように、汚いもの、穢れたものを、完全に切り離して生きていくことはできまい。
しかし、ともかく。それでも建前というものは、結構力を持っている。明確な人殺しや傷害犯以外、例えば他国では不可解に思える罪をくらった奴。兵役拒否者、不敬罪、政治犯、危険思想犯など、特に国家にたてついて本国にいられなくなった奴の、格好の逃げこみ場になっている。どんなにその国の権力者にとっては噴飯ものの罪をおかしたものでも、一旦ナディスに入った以上、表向きは他国が勝手な手出しはできない。
で、そういう奴の中には、結構ずばぬけた才能や画期的な考えを持つ者がいて、ナディスの政治面、自治面の強化や芸術の開花に一役買っていることが多い。美術館の独特な建物も、一昔前、どっかの国から逃げ出してきた前衛なんとかって流派を作り出した大工が設計したものらしい。
他宗教の者でも頓着しないで迎え入れるこの街の懐の広さは、聖母リディア教の寛容さとも一致する。
過激な奴にはあまり好かれない宗教だが、この世界の者はみーんな私の子ですから、という女を掲げる宗教は相当異質でも人の深い部分に共鳴するところが確かにあるんだろう。
俺は全然熱心じゃないし、別に信じてもいないので、基本的に無宗教、不信者になるんだろうけど、一応形はリディア教になる。まあ宗教の話をされると困るんだけど。「信じるということは自ら進んで盲目になるということだ」とか喧嘩売った先達もいるし。もともと冒険者と宗教は縁遠いもんだ。
しかし、いくらそう腹の中で思ってたからって、場の空気を読んでやんわり自制したり取り繕う処世術くらいある冒険者と違い、宗教概念がまったくわからない、というメイスはきつい。
いくら寛容な街でも、何かを盲目的に信じるということは、思った以上に視野が狭くて過敏でヒステリックなものだ。まったく思いもしなかった何気ない一動作、一言がどんな起爆材になるかわかったもんじゃない。名うての冒険者や傭兵だってその怖さは身にしみてわかっていて、熊のいる藪をつつくような、馬鹿な真似は決してしない。
そこいら辺の危うさが、メイスにゃまったくわかっていないんだ。芸術をけなすならまだいいが、信者の前で無遠慮に宗教をけなしたら、よってたかって殺されたっておかしくない。
宗教も規模が大きくなれば一つの世界を内包するように、いくら穏やかといったって中にはあれそれ教えと矛盾してね? とゆーような過激な解釈で暴力を実行する者もいる。実際、リディア教も一枚岩ではなく、いくつかの宗派に分かれてる。
それを証明するよう、これまでの歴史を振り返っても、宗教の闘争ほどヒステリックでたちの悪い暴動は少ないだろう。文字通り宗教は聖域なので、その周囲の土地には多くの暴力と血が飛び散ることになる。聖域ってのは多くの場合、血塗れの中に屹立するんだ。
ナディスに向かうと決定してから、俺はそれをずっと危惧していて、メイスに言い聞かせてきたんだが。
はいはいと頷いても、本当のところでメイスはこの恐ろしさを理解していないと思う。人と獣をもっともわけるのは、確かに宗教と芸術かもしれない。まあ無理もない、と思う一面もあるんだけどさ。俺だって説明しろとか言われたら言葉につまるし。
それでもなんとかできるだけのことはやって、不安が残る仕上げにと……あとちょっと俺の心の準備期間もかねて、遥々このファエナ美術館に来てみたわけだが。
やっぱ無理だろーな、とそのてんで脈のないメイスの態度に俺はため息を吐いた。
なんで仕上げに美術館きたかというと、ここに置かれた作品の実に九割以上が宗教画であり、宗教をモチーフにした彫刻だからだ。一方的に言っても全然聞かないので、別の面からアプローチしてみたらどうだろう、という俺の発想の転換は不発に終わったようだ。
芸術という不可解なものを通して、さらに不可解な宗教というものを理解してみよう、なんて試みは逆効果だったか。メイスはもう完全に理解なぞ放り出している。教育って、難しい。
てくてく、と投げやりに出口に向かうメイスに、俺は
「あのなあ、メイス」
「はいはい。宗教、神さまについて話している人の前では、反論しない。矛盾点を指摘しない。侮辱をしない。つまり喋らない。それでいいんでしょう」
うんざりしたように呟いて、それからメイスはなんの拍子かふと立ち止まって、それまでやってきた道を振り向いた。
俺はその感慨のない眼に嘆息しつつ一緒に眺めやると、さっき通ったひときわ天井が高くなっている広間、ウィンリ像が中央に置かれている場所に、珍しく人垣が途絶えてぽつんと一人だけ立っているのが見えた。
俺がその人影に目を引かれたのは、神官が着る白いローブをまとっているせいだった。女だ。眼の覚めるような赤毛のまだ若い女だ。女は一人で聖ウィンリ像の正面に立ち、恍惚とした表情でそれを見上げていた。頬を薔薇色に染めて、瞳をここではないどこかに飛ばしている。
メイスがこれからも感じることはないだろう歓喜を味わっている女の横顔。通ってきた無限に続くような錯覚を覚えさせる廊下。その廊下を囲む無数の美術品たち。その光景に――
俺はなぜかふと軽い眩暈を覚えた。
メイスはとっとと行けよ、と思っていたようだが、別に俺も個人的な我がままでずるずる渋っていたわけではない。神殿は頑とした時間厳守があって、休息日でもなければ、一般人に開放される時間は非常に短い。美術館に寄ったのは時間調整の意味合いもある。
たどりつくと、もう開放の時間にはなっていて、列に並んで小さな扉から入ることができた。大きな建物のわりには小さな扉だが、それが小さい分だけ内部にぽっかり広がった空間は圧倒されるものがある。迫りくる何もない虚ろさの中には、確かに外界とは遮断された異空間がある。メイスはひょこひょこはいっていって、手近なところにいた神官を呼び止めた。
「あの、グレイシア・ロズワースさんにお会いしたいのですが、どちらに?」
まだ若い神官(見習いか?)は一瞬それは誰だろう、という目をしてそれからハッと顔を硬くさせ
「当教会の第一巫女への面会はそれなりの手順を通していただかなければなりません。休息日の祈りの時にいらして頂ければお言葉を交わすこともできましょう」
やっぱりね、と俺は思ったんだけど、メイスは解せないようで
「なぜですか?」
「巫女様はご多忙です」
「多少は待ちますよ」
「面会は無理です。お引取りください」
神殿の中なので声を荒げることはないが、断固とした拒絶だ。グレイシアもこんなところよく毎年毎年抜け出してくるな。メイスがなおも言いかけ、神官もぐっと内側で臨戦態勢をとったとき、ふいにもし、と第三者の声がかかった。
振り向いた先には、今まで話していた奴と風体はどっこいどっこいだが、ちょっと年長の男がたっていた。相手は諌めるというより、確認するようにメイスをじっと見て
「お嬢さん、失礼ですがお名前をお教え頂けますか?」
「……メイス・ラビットと申しますが」
名前?
俺が首をかしげる前で新たに現れた男はパッと顔を輝かせ
「やはりそうでしたか。巫女様のところに案内させていただきます。白い髪に赤い瞳のメイスというお嬢さんがいつかきっと訪ねてくるはずだから、と託されていまして」
……
さすがはグレイシアだ。おそろしいまで手抜かりがない、と嘆息した息のかわりに、俺はこれから会うグレイシアの顔を鮮明に思い出して、ときめくべきなのか憂鬱になるべきなのかを、ちょっと考えた。
「お久しぶり」
張り切って案内されたわりには、やっぱり色々ややこしいのがあるのか、ちょっと待たされた俺達の部屋に、早足でグレイシアが入ってきた。
パッと広がった嬉しそうな明るい顔に俺は図らずもどぎまぎして、メイスのナプザックの中にもぐりたくなった。
次に会ったときは戻るって誓ったのにー。にー。にー。グレイシアはメイスを見てにこっとして、それから俺を見下ろして
「もうここなら大丈夫よ」
と言った。……うん。どうせ神殿内は食べ物の持ち込み禁止だしな。俺は観念してころろと机に置かれたナプザックから転がりでる。息せきってやってきたグレイシアに、メイスが意外そうな顔をして
「どうして私達がここに来るとわかったんですか?」
その話し方は他人行儀と知人と、微妙な境を漂うような感じだった。
「だってあなた達、すぐに行ってしまったから。きっといつかあの方のお話を聞きに来るだろうと思ったの。ずいぶん、急いでいたみたいね。アシュレイ、ちょっと不機嫌だったわよ」
「あー……アシュレイにはいつか詫びをいれんとなあ」
グレイシアがちょっと苦笑した。その可愛らしい笑みに、話してしまってもいいじゃない、というような声が見えてやーだーよーと思った。
「アシュレイにはまた、手紙書いてあげてね。きっと今頃不機嫌だから。クエストがあんな形で決着したからね」
アシュレイって奴は独特のこだわりをもった奴であるから、確かにあんだけ噂になったら、そろそろきれかけているような気がする。乱闘騒ぎとかおこさなきゃいいけど。
「他の連中は?」
「リットはカールの店に少し留まると言っていたけど。竜の鱗を飾ったでしょ、珍しく忙しくなったみたいで。ライナスはアシュレイのお守りね。まだ一緒に旅しているかはわからないけど」
ライナスと二人旅。……傷害事件とかおこさなきゃいいけど。
俺がついついもっと話しかけようとしたとき、不意にくるりとグレイシアはメイスを見た。あ。うっかり置いてけぼりにするような真似をしていることに気付いて気まずくなる。
「あの方のお話を聞きにきたのね?」
メイスはちょっと読めない表情でこくんと頷いた。するとグレイシアはかすかに首をかしげて、珍しく参ったような顔をしてうーんと言葉を選び
「あなた達がくるとは思っていたけど、このタイミングで来てしまうとはね…」
といった。
ん?
「実は、先客がいらっしゃるの」
「どなたが?」
その問いはさらにグレイシアを困らせたようだ。凄く無理に笑ったように、グレイシアは顔をひきつらせて
「あの方――コルネリアスさんが」
ででででででででで、と受付に再び入場料を投げつけて、走らないでください、という声を遥か後ろに、突き進んだ先。高い天井の区画の奇しくもさっき見ていた聖ウィンリ像の前で、名画が無造作に置かれているように、コルネリアス・ウィンパーはすげえ普通に立っていた。
走ったメイスに持たれていただけの俺でさえ、動転のあまり息切れする中で、コルネリアスは腕を組み、じっと使徒ウィンリ像を見上げている。前見たときと同じ黒いローブをまとい重たげな黒髪をめちゃくちゃ適当に後ろで一つにまとめている。そのちょっと後方で姿を見つけて立ち止まり、俺とメイスは言葉もなく息を切らしていた。
「お、お師匠さまっ…!」
メイスが呼びかけると、コルネリアスは奴の癖かなんか知らんが見上げたまま
「聖ウィンリ像。作者と制作年代」
「共通暦六百五十年グレイバーグだ馬鹿野郎!」
メイスが聞く前に俺がきれて人目も忘れ怒鳴る。柳に風というように、コルネリアスは反応しなかった。
「お、お師匠様……」
メイスが歩を詰めて近づくと、ようやく奴は首を動かしてメイスを見下ろした。一瞬その眼がきつくなる。「お前が答えろ」
「は、はい……」
刺すような低い声音の後、ぎくりとするような動きでコルネリアスは間合いを詰め、組んだ腕をほどき骨ばった手を――。
あ。
ひょいと俺はナプザックごと持ち上げられた。
「邪魔だ」
その声が聞こえた瞬間、周囲の風景がぽっと消えて、え? と認識するより早くどさっとどこか低いところから落ちた感覚があった。
あれ?
ナプザックの中に沈みこんでしまって、俺が慌てて袋の口から顔を出すと、苦笑いのグレイシアと目があった。
「お帰りなさい、レザー」
気付くと俺は、俺だけがさっきグレイシアと対面した、あの応接間に戻っていた。




