続)ドラゴンの森で(5)
苛立たしいことに、竜の左目が回復していることは、飛び出してすぐにわかった。左目の視野に入った俺たちに竜はすぐに反応を見せたからだ。
走りながらメイスが両手を広げて、大人がなんとか腕を回せるほどの岩を二つも持ち上げ、竜の顔のそばを漂わせる。
すると、度肝を抜かれるような敏捷さといきなりさで、竜は視界にちらつく二つの岩を顎のあたりで強烈にどついた。しかし、もともと重力を遮断している岩は、竜の衝撃の力も遮断されることになる、らしい。俺の視界でも竜の視界でも、びくともせずに二つの岩はそのまま空に浮かんでいる。メイスの負担は増えるらしいけど。
その隙に俺は反対側からドラゴンと距離を詰める。ウサギやヤギなどの草食動物とは違い、竜の目は肉食動物のそれ、真正面に二つともついているので、比較的視野が狭いんだが、こう目を狙っているときは結局回り込まなきゃいけないので、面倒だ。
竜は俺のことはどうせ接近戦だけだとたかをくくっているのか、あまり気にしていない。服の裾に忍ばせたナイフの柄を掴みながら、まあこれは俺のコントロール以上にメイスのコントロールだろうな、と岩相手に猛烈に頭を振る竜を眺めつつ、”それ”を察知されないように岩と一緒に竜の気を引きながら内心息をひそめてそれを待つ。
待っていたものは青空からの落雷のよう、突然に派手にきた。
風を斬る音が走ったと思った瞬間、突然竜の頭が力づくで抑えられてその顎は地面に叩きつけられる。竜の真上ぴったりに、メイスが俺と二つの岩をおとりにしてその存在を隠し浮かばせていた岩だ。囮に浮かばせていた岩と違い、竜の頭の大きさと比べると小さいが、掌で包める小石でも遥か上空から落とせば鉄板にも穴をあける。
竜の頭が岩と地面に縫いとめられて、赤い光の目が瞬く。停止は一瞬だ。お祈りがわりにリットの名前を唱えつつ、俺は二本のナイフを投じた。瞬きの合間に開いた目にナイフは吸い込まれて、刺さったのかもわからず赤い光にその影は飲み込まれて――
なにもおこらなかった。
「はい、メイスだめ――!」
半ば自棄で叫びながらきびすを返す。物理攻撃の効かないもんなんか俺は嫌いだ。
あらかじめの打ち合わせどおり、竜の脇をメイスが、矢のように駆けて岩陰に消えていくのがわかった。
俺は立ち止まり、竜を振り向いた。衝撃は衝撃として伝わるようだが、やっぱり痛くなさそうに衝撃で割れた岩の間から、頭をもたげる。えらは潰れていたけれど、それ以外の損傷を感じさせぬ動きで、竜は俺を見据えて駆けだした。体の振りも最小限に、四本の足は所詮人間の二本足なんかと比べ物にもならないスピードをたたき出す。距離は開けているけれど、あんな巨体で馬鹿みたいな早さだ。馬鹿正直に視界の中でまっすぐ走ってなきゃなんとかなるんだろうけど。
俺は微妙に角度を調整しながらの全力疾走(そんなものできるか!)を心がけようとしながら、大地を揺らし俺の首筋に鼻息を届かせ迫り来るそれに、もうかなり無茶苦茶の自棄走りでなんとか追いつかれる直前、目指す場所にたどり着いた瞬間、全力疾走で踏み出した右足を先の地面に踏み込ませて、膝があげる悲鳴を無視して無理矢理ターンした。
その勢いのまま、迫り来る竜の顔とこんにちはと対面する。真っ直ぐにこちらに迫る竜の興奮した顔は、あまり真面目に受け取りたくない凄みがあった。聖カリスク! と一つ胸中で怒鳴って古のスレイヤーの加護もついでに願いながら、恐ろしい顎と地面にあいたわずかな隙間に勢いよくスライディングした。竜は重い体でも加速が早いが、さすがにその重さで急に止まったり機敏なターンはできない。
視界の上を流れていく、顎、まだぱっくりと開いた喉、その下のたるんだ肉、竜の体の下方の様子をたっぷりと観察してから、まだ流れたままの体の下を立ち上がり影の中を駆け出す。すぐ上で蠢く巨大な体と大地の間は、外界と遮断された奇妙な空間だった。
けれど俺の後ろから、日の光の境界線が俺を追いかけてくる。メイスファイト!
生きるも死ぬもその名次第だ。全部託して俺はようやく目指す竜の後左足にたどり着いて長剣を抜き払い空振りに終わった喉と目への無念さもこめて、力の限り斬りつけた。
こういう作業はカールの巨斧がもっとも効果的だし、多分、役目自体もカールが最適だろう。カールカールと祈り代わりに唱えて、食い込ませた刃を一旦抜いてさらにそれを再び食い込ませて引く。切り株倒しているような気分だ。今だけは剣の技術より純粋な力がものを言う。
気付くと光の境界線はすぐ後ろに迫っていて、俺は躍起になってその方向にのみきりつける。――動かない足に、苛立ちが吹き上がったとき、信じられないタイミングで真上の影がぐわっと動いた。
苛立ちと焦燥となんだかよくわからないものを叩きつけて俺は獣じみた咆哮と共に食い込ませた刃の背を、体重をかけた足で思い切り押しやった。一瞬の停止が永遠にも思えて、やがてぐわりと斬りつけ蹴りつけた竜の足が倒れる。
瞬間、俺は愛用の剣も放り出して、死に物狂いできびすを返した。光の境界線はもう四方から迫ってきている。それに一番近い場所へと飛び込んで、影から抜け出した刹那――
世にも重たげな音を立てて竜の体が倒れる音を、俺は吹き飛ばされながら聞いた。
光が晴れたとき、広がっていた全ては一変していた。
その時生じた事態の、要因は間違いなく人災であったが、規模は間違いなく天災だった。突然、激しい白光が全てのものの輪郭を消し去り、視界を剥奪し、耳をつんざき天を裂き木々にも悲鳴をあげさせたすさまじい音がばりばりと辺りを飛び交い、誰もなすすべもなく身を縮こまらせすべてが通り過ぎた後。大地に立っていた者はごく少数だった。
あげていた弓をおろして、リットは呆然とした表情で辺りを見回し、乾いた声ですっごい、とつぶやいた。焼けた世界の中で、その声はひび割れて広がった。
見渡す限り、それまで戦っていた全ての者が、地に倒れ伏して声もなくうめき痙攣している。意識はあるようだが、その体にはまったく力が入らないらしい。彼らの惨状にひゃー、とまたつぶやいてから、背後のグレイシアを見やった。彼女は変わらず人々を守る霧を張っている。
「グレイシアちゃん、サンキュー」
その加護が自分と倒れふす人間の違いを明確に分けたのだと、ひやひやしながら礼を言うと、彼女もほっとしたように霧を解除した。ねぎらいか、それとも他の理由かで、カールが近寄っていくのが見える。
自分も行こうかと、きびすを返しかけたとき、後ろから聞きなれた声があがって、足をとめ振り向くと見慣れた二人が駆けてくるところだった。アシュレイとライナスだ。無事な二人の姿を目にしたとき、黄色の髪の少女は、妙に人恋しくなって派手に手を振る。
「無事か」
「ぴんぴん」
二人は息せきって駆けつけてきて、吐き出した息を広がる光景に再び飲み込んだ。
「すごいな、こりゃ」
「いちもーだじん、って感じだね」
「正直、半信半疑だったんですけどね」
無事な者もなにが起こったのかわからない、という顔をして立ちすくむ中、静まり返った世界の中で、どこからかひくひくと泣き声が聞こえてきた。アシュレイ、リット、ライナスは顔を見合わせて、聞いたことのある声の方を目指した。興味半分畏怖半分にこの惨状の元凶であり功労者でもある相手の顔を見たかったのだが、途中でとび色の髪の気さくな男が倒れていることに気付き、アシュレイが声をあげた。
「バード!?」
「あ、へいきへいき」
倒れた男は倒れたまま苦笑いして、片手をあげた。腹が裂けて服の切れ端には血が滲み、仲間の治療を受けている有様だが、なぜか義務のようにその顔には薄い笑いを貼り付けて絶やしていない。
「見せて」
後ろからグレイシアが、オレンジ色の髪を流して走りよってきた。バードを囲んでいた仲間が場を譲ると、その横にしゃがみこみ、怪我の上へと手をかざす。暖かい色の光があふれだす。
しかし、バード本人は治療がまだ終わらないうちから動き出そうとしていた。治療の直後は体組織が激しく動いているので、無理に動くと激痛が走るはずだが、バードは周囲の制止を振り切って半身を起こし、ただ一点を見つめた。
「ミイト」
バードの視線の先に気付き、ようやくアシュレイたちもその存在に気付いた。
バードの足を向けた少し先に、灰色の布がうずくまっていた。ゴミの塊かと一瞬思うそれは、バードの声に反応して顔をあげる。目の端に溜まっていた涙はまだ放電して小さな青い光を走らせている。
その姿にバードは汚れたその頬に手の背を触れさせ、青く光る水滴を指で拭った。ライ草の辛味にも似た、小さな痛みが指に走る。
「大丈夫だよ」
そうして、やっと伝えたい言葉を告げた。
「ほ、ほん…っとぅ」
変な鼻声が混じって無様に濁った問いかけに、痛みからくる脂汗を流しながらも確かな笑顔で頷くバードを見て、ようやくミイトも脅えきって弛緩していた身を伸ばす。そこにぐいっと大柄な女拳闘士が後ろから飛びついた。
「そう大丈夫よ! もう大丈夫よミイト! 大丈夫ったら大丈夫!」
「そうそう! もう超がつくくらい大丈夫っていうか、大丈夫すぎてやばすぎ!? もうやばいやばいやばいって感じに――」
「や、やばい?」
「あ」
怯えて聞き返した魔術士に団子鼻の男は凍りつき、間髪いれずに女拳闘士のたくましい拳がその顔をふっ飛ばす。
毒気を抜かれたような顔で、騒がしいパーティを見守る一同の中、ふっふ、とグレイシアが笑った。リットは何か言いかけて、調子が狂ったように喉元を撫でる。
「変なパーティ……」
「そう? いいバランスよ」
ライナスも、鼻水をしゃくるミイトを見つめた目を丸くさせ
「あの子が、ですか…」
「ミイトちゃんってライナス以上にギャップがあるー」
「レベルが違いますから、比べないでくださいよ」
倒れたリーダーを囲んで騒ぐパーティの中。全ての敵をひれ伏させた雷撃を放った女は、脂汗をかくす男によしよしと頭を撫でられて安堵した子どものように泣きじゃくって震えていた。
あんなくそでかいものが、倒立してそんでばったりいったときの衝撃を、俺は甘く見ていたとしか言えない。一リーロルぐらい飛び上がったんじゃないか、いやそれは低く見積もりすぎかと漠然と思った後、生きている、という微妙に疲れを伴う認識を抱いて俺はなんとか身をおこした。
日の光の中で、心元なく辺りの惨状を見回し、吹き付けてくる砂が混じる風に気付いて、俺は倒れた竜の全貌を見つめ、ようやく成功したことがわかった。
この崖下くぼ地の左側には、さっきの竜が跳ねたときの衝撃で崩れた岩がいくつも生々しい切り口を空に向けて転がっていて、それが竜の身体に突き刺さり肉を突き破った先でその頂点を屹立させていた。
翼はまだばさばさと動いて、激しい風を吹かせている。けれどそれは空に散って俺を吹き飛ばすほどではないし、身動きがとれないその巨体の唯一の抵抗のようだ。
とりあえずそれだけ確認して俺は、大役を果たしてくれたメイスを探して、倒れた竜の顔側にある岩場にかけよる。にわかに姿が見えずに心臓が跳ねたが、そばに近づいてみると岩にもたれて、メイスはへたりこんでいた。
小さな体で大きく息をついて、透明な汗を滴らせて、相当疲労しているようで息を吐いて呼吸するにもまだ必死なようだ。やがて少しは呼吸が滑らかになったのか、顔をあげて俺をにらむ。
「レザー……さん。他人事だと思ってきっつい作戦を…」
「ごくろうさん。苦情は後でな」
メイスもなんとか大丈夫そうなので、俺は竜の頭が倒れている岩と岩の隙間を目指してきびすを返した。酷使しすぎた膝はがくがくといったが、今は身体の苦情にも耳をふさぐ。
けれど俺がたどりつく前に、羽ばたいていた翼は急速に力をなくしていって、そばに近寄る頃にはもうだらりと体にそっと垂れていた。
作戦はまあ、傷つけても動くなら、とりあえず動けないように串刺しにしてしまおう、という物騒な発想だ。ちょうど崩れて自然の凶器となっていた崖の一部を使うことにして、竜をそばまでおびき寄せ、なんらかの方法でバランスを崩させてその上に倒し竜自身の重みでその体に凶器を突き立ててもらおう、というシンプルでシンプルな分だけ難しい方法だった。
サーガの中の二足歩行の竜ならともかく、安定した四足歩行の竜をひっくり返すのは並みのことではない。そのため、メイスに全部は無理だから竜の前足部分だけをなんとか持ち上げてもらい、うろたえて後ろに重心をうつして実質に二足歩行になったところを、下にもぐりこんだ俺が切り株を切る要領で切りつけて、バランスを崩させるっていう――できるか? と聞いた俺にメイスは引きつった顔を向けた。
まあ正直、言い出した俺もマジでできるとは思わなかったんだが。
すげえな竜のまあ実質半分くらいだとしても、その体重を持ち上げるなんて聞いたことがない。ミイト・アリーテを大魔導師の器だと評したけれど、メイスも結構才能がある魔術士なんじゃないだろうか。こんなことをされるから、魔術を恐れる人間も万能だとのめりこむ人間も絶えまい。
近づくにつれ大きくなる身体を見上げ、警戒しながら歩をつめたが、ちょうど首の部分に岩が貫通していて半分以上ちぎれかかった首の先、瞼を閉じて倒れふしている竜は、もう本当の死体にしかみえなかった。
多分、倒れる際に、なんとか体勢を整えようと咄嗟に両の翼を広げてしまったことがこいつの敗因だろう。じゃなけりゃいくら自重がかかっても、柔らかい腹や身体に岩が突き刺さるなんてことはなかっただろうに。
俺は竜を見た。激しい動きに抗議するよう胸骨を打っていた自身の鼓動の音が急に遠くなったように感じた。
竜は、死んでいる。
死体でもなんでも。さっきまで確かに生きているように見えた竜はもう動かない。アシュレイ、グレイシア、リット、カール、ライナス。俺の仲間はこれで大丈夫だろうか。確かめに行こうと思うのに、俺は動かない。
竜は、動かない。
俺はふと気付いて瓦礫をよじ登って竜の側頭部にさした、俺のナイフをとりにいった。俺が踏む竜の身体はどこか夢の中のよう、ふわふわと頼りない感触を足の裏に伝えた。
これが俺のしたかったことだ。
麻痺した中で、けれど悲しいほどの嬉しさと脱力があった。
ナイフの柄に手をかけたとき、レザーさんと呼ばれて、だけど俺はそちらを見れずに、掴んだ柄を一気に引き抜いた。銀の刃が抜けたところは、傷口を見せても、血は出ない。でも。肉の感触が、引き抜いたときの弾力が、確かに手の中には残った。
初代カリスクが倒した竜は領民に被害を撒いていたとも言われているけど。本来竜に罪などはないはずだ。こいつも生きていただけだったはずだ。人が生きていくのには、ドラゴンサークルは脅威であり、排除しなければ滅びてしまうとしたって。それも本当は組み込まれているはずのものだ。
ピラミッドが語るように、ただ順々に、生きる者は生きる者を殺していく。そうしなければ自分もその上にまたいるものも生きられないからだ。
だけど人にはどこかに、必要にかられて行うはずの行為を、決められた分しか行わない行為を、快感に高めてしまった狂った部分が確かにあって。俺の竜への高揚も、多分、嬉々として孤児達に石を投げつけていた、あのウォーターシップダウンの住人にあった黒い喜びに繋がるところが必ずあって。それはきっとメイスの家族を殺した誰かとも繋がっていた。
昔、学院で俺が腐っていた頃、アシュレイがひょこっと俺の前に現れた。レザー、冒険者をやろうぜ。学院の卒業生の中では、一番の出世頭だったくせに。学院でも話題の中心だった、その道をあっさり捨てたアシュレイは、本人だけがまるで関係がないという風にあっさり言ってきた。傭兵も軍人も――騎士も人を殺したよ。だけど冒険者は違う。名声も地位もなんにもない立場だ。お前にあってると俺は思う。
俺にはその言葉が救いだった。冒険者になってからはそれが誇りになった。国にも権威者にも必要とされない。その証として屑と呼ばれた、境遇が心底嬉しかった。
だけど。傭兵や軍人とは違う、人殺しじゃない、と言いながら欲望に任せて竜を殺す身は、奴らとなにが違うんだろうか。人にだけ拘って、お前らとは違う、とたかをくくる姿は。
―――
「メイス」
よごれのない、殺戮の証がない刃をそのまま掲げて、メイスを向いて俺は竜の体から降りた。メイスはまだ少し息をきらしていた。汗がつたい、呼吸に震える小さな喉。柔らかい皮膚。降りてからもう一度竜を顧みた。俺が倒した竜の体。どこの村でも見かける、家々の軒下にぶらさがるぐったりしたウサギ。囲いの中の、丸々と太った家畜たち。
「俺は竜を殺したけど」
メイスは様子がおかしいと気付いたのか俺をじっと見た。そらしたいそれを見返した。
「俺は、お前を殺さない。絶対にだ」
だから、許してくれ。俺も人も許してくれ。
そんなエゴをさらす俺をメイスはただみていた。変わらない視線だったが、どこかに理解が訪れたようひとつ目を瞬かせ、それからなんとなく諦めたように笑った。「まだ、わからないと言ったじゃないですか。仕方ないから、保留にしときますよ」
そしてそれを皮切りに、俺の前でいつものメイスになった。
「まあ、よろしいんじゃないですか。これで私とレザーさんもお師匠様の魔の手からしばらくは逃れられるようですし」と言ってそれからちょっと不思議そうな顔をして「レザーさんのお顔って私、何度か見ていたんですけど、なんだか今初めて見た――」
言いかけた、メイスの顔がこわばった。俺も半瞬遅れて異変に気付いた。
「レザーさん!」
低いが鋭い声と縫いとめられた視線に沿って振り向いた先、灰の山が風に飛ばされるように、竜の体が崩れていた。さらさらと舞った風に、けれどどんな破片も混じっていない。見えないやすりが削り取るように、竜の体が消えていく。俺が裂いた喉も、横たわった足も、瞳を閉じると不思議に穏やかに見えるその顔立ちも、全てを区別せず。
程なくしてカシャンカシャンと硬いものが地面に落ちる音が雨のように続いて、大きな白い骨と翼の鱗を残し、立ち尽くす俺とメイスの前から竜の体は跡形もなく消えうせた。
「ど……!」
確かに竜が息絶えれば目は跡形もなく溶け消える。けれど。体がこんな風に朽ちるなんて話は聞いたことがない。白い骨に引っかかった鱗が光を返して、突然消滅した身体の残像は光だけを返して後はなにも語らない。
「前座は終わりだ」
無意識に駆け寄ろうとした刹那、低めの女の声は矢のように響いて、動きかけた膝がぎくりと硬直する。
何もない空間から突如異質な黒が現れた。姿を見せたのはコルネリアスだ。見えない台から飛び降りるように、硬い木靴はなんなく地を踏み、立ち上がりざまに見せたのは、憎らしいほど不敵な面。初めて会ったとき、俺が人として意識を持った最後の瞬間に向けられたそれと同じだった。
「朽ちた躯相手には、貴様らぐらいの三文役者が似合いだったな」
「お師――」
メイスが呼びかけた瞬間、コルネリアスは竜の白い骨と鱗の山を見つめ「目だな」と呟き、片手を無造作に掲げた。瞬間、竜の頭蓋骨が膨れ上がって激しい破裂音と共に白い骨の破片が四方に散った。
メイスが小さく悲鳴をあげて、俺はほとんど無意識に傍らのメイスを引き寄せた。けれど俺の目はそこから一度も動かせない。白い破片と共に空に舞い上がったのは、赤い二つの――竜の――目?
「死骸に隠れてやりすごす、か?」
嘲るような声が破裂音に痺れた耳朶を叩いた。二つの光るそれは、しばし引きずり出された宙で抵抗したように見えた。けれど不敵な魔導師の見えぬ力には逆らえないよう、引き寄せられるその合間に、光る二つは縮小してすり合わされて一つになり、コルネリアスが胸の前で作った両手の囲いの中に飛び込んだ。
腕の中でメイスが鋭く息をのんだ。俺は、息ものめない。
コルネリアスは腕の中に飛び込んでいたそれを一瞥すると、搾り出すように容赦なく両手で左右から狭めていく。凄まじい金属音が大気をつんざき辺りに散った。頭の中に容赦なく飛び込んで、脳をしっちゃかめっちゃかにする、それは途方もない音色で。耳が良い分だけ痛く響くメイスが、ふぎゃっと耐えかねた悲鳴をあげた。
必死にあてがわれた小さな手の上から、メイスの耳をさらに強く押さえてやりながら、俺もその壮絶な音におかしくなりそうで歯を食いしばる。ひどい音だ。だけど俺にはふとそれが、生涯聞けることはないはずの、竜の咆哮――竜の悲鳴のように聞こえた。
絶望の音色を奏でながらも、魔眼の抵抗は激しかった。周囲の草木が焼け焦げ、大気がざわめき、手元から押し出された赤い光の余波が、地に転がった竜の鱗の一枚にあたった瞬間。信じられないことにこの世のものでは壊されるはずがない鱗が、まるで熱せられたバターのように一瞬で溶け消えた。それは何もかも捨ててその場から逃げさらなければならないことを証明する光景だった。けれど俺は動けない。
放たれる衝撃に髪や服は攫われてたなびく。光に触れるコルネリアスのその素手が、バチバチと焼けて痛められている様が見えた。だけど。俺は見ていた。
毒々しい光に、赤く照らしだされた顔。黒い瞳は光を十分に受けて、激しい抵抗を押さえつけながら、奴は笑っていた。竜を前にした俺。弱者に石を投げつける集団。メイスの家族を殺した誰か。そのどれとも違う笑みで、けれど確かに。
抵抗が弱くなったのか、コルネリアスはいまやオレンジ程の大きさの、赤いそれを太陽にすかすよう掲げ、喉をはらせ笑い声をあげた。邪気なくしては笑わない女はいまや開けっぴろげに笑っていた。それは一生忘れまいと思った、あの日の声にも似ている。
くっくっ、と喉が震え、赤い光に照らされた瞳が妖艶に歪む。真っ赤な口を開いて、女は何かを囁いた。悲鳴のように耳元で風が唸っていても、口の形で何をつむいだのかわかった。
風も大気も森も、その女を抱いてのた打ち回っているようだ。
やがて、赤い光が手の中で徐々に狭まれていく。いや。掌に、吸収されていく。光の中心はそのたびに強く禍々しく光る。コルネリアスはそれに気付いたらしく、哄笑をやめて自身の胸の前にくるように手をおろした。見下ろす瞳に宿った光と、嗜虐的な表情。それは、間違いない。誰もが知っている表情。竜を初めて見た興奮の記憶すら、今は吹き飛んでいた。
最後にコルネリアスは、突如両手を広げ今では片手で握りこめるほどの大きさになっていた赤いそれを、さっと右手で攫った。小鳥の心臓を握りつぶすように、そう大きくもない拳に力をこめた瞬間、また、あの金属的な音が大音量に響き、耐えがたく目を閉じた一瞬きの間に。
――
全ては終わっていた。
岩陰とくぼ地。崖の上には森の風景。空は青い。白い竜の骨と、日の光を返す鱗。あまりに何事もなかったかのようにそれは広がりすぎて、逆に自分が異物に思えた。
腕の中のメイスの体がくたりと脱力して崩れていくことがわかったので、俺は支えるために抱えなおす。赤い光の最後の悲鳴に、聴覚への負担が限界にきたんだろう。俺でもきついくらいだったから、無理もない。鼓膜に異常がなければいいが。
そういうことは考えられるのに、俺の心も体も動かなかった。瞳も前方から動かせなかった。黒髪の魔導師は少しだけ髪を乱してそこに立っている。焼けた掌を何気なく眺めているようだったが、ふっと俺の視線に気付いたように顔をあげた。
「――!」
黒い瞳に漣が走るように。顔をあげる一瞬きらっとその奥から赤い――竜の目が放つ光が確かに揺らめいた。激しく鳴る鼓動を感じながら、見たか、と心まで読むように、女は皮肉げに口元をつりあげた。
誰もが恐れる赤い竜の魔眼。それを抱えて笑った女。消滅したんじゃない。じわじわと掌に吸い込まれていった。あの時の、この女の顔が焼きついて離れない。
腕にかかる脱力したメイスの重みを感じて、乾いた喉奥でだけ言葉が紡がれた。
メイス、お前が正しかった。
赤い光がその掌の中に吸い込まれる。吸収される。その身全てに貪欲なまでに。
女がこちらを見ている。もう瞳は冴え冴えと黒い。俺は、人のレザー・カルシスは脅えて身を引いた。わずかに髪を乱す以外、変わったところはない外見。だけど。鼻で感知しないところで。においたつように。赤いあの力がその全身を漲っている。
黒い瞳で全てを見透かし、女魔導師は手の中の赤い光を見下したときと、そっくり同じ顔で同じ笑みを刻んだ。それは、捕食者の笑みだ。獣が牙を剥くときに、その顔に作られる表情。光る瞳は獲物を狩る野生だ。
それを見たとき。音のない竜の声のように、聞こえはしなくとも、囁いた口の形であの時届いたその言葉が俺の頭の中に鳴り響いた。
赤い口腔、白い牙をちらつかせ、獲物に向かって囁いた
――ワタシニクワレロ
その女は俺の目の前で、確かに竜を喰らっていた。
<エピローグ>
一夜あけて見下ろす崖の下、反対側の崖から続々とこのくぼ地に降りてきた冒険者の集団の中に、仲間の姿を確認して俺はとりあえずほっとした。
中には怪我をしているものもいるようだが、ほとんどが自力で歩いているようだし、とりかえしのつかないものではないだろう。ドラゴンは結局倒せなかったし、遭遇もできなかったけれど、まあ、残った鱗や骨を分配すればどのパーティにも十分な見返りがあるだろう。
「……もめませんかねえ」
「そこはアシュレイがきちっとやるだろ」
ちゃんと正気に戻ってればルーレイも。
声に出さずに付け足した俺の横、同じように茂みを見下ろしながらメイスがふーんと呟いた。俺はふと疑問が浮かび
「珍しいな。お前がそんなこと気にかけるなんて」
「別に…。」呟いてメイスも自分でも意外に思ったのか目を瞬かせ「ふっと思っただけですけど」
それ以上の結論はでなかったようで、メイスはふいと俺を見下ろして
「それより、会っていかなくていいんですか?」
「そういう忠告は俺が人間のときに言え」
なんだよもう。一気にそこをつつかれて俺は不機嫌になった。
竜との戦いを前に、俺が黄緑色の頭部の笑いたきゃ笑えな愉快な化け物になったと信じていたとき、実はなんの拍子か偶然か頭部も人間だったらしい。それを踏まえてよく思い返してみれば、前髪とあったよな、確かに。竜との戦いに気をとられて、さっぱり気付かなかった無念さにうなっていると
「じゃあもう一回かけてみますか?」
「……遠慮しとく」
無事姿も見られず世もまだ捨てずにすんだので、あんな不安定極まる魔法の実験体にいまさらなるのはごめんだ。
「まあ少しぐらい私が混じって挨拶してきてもいいですけど」
メイスの結構親切な申し出にうーんと考え込む。眼下にはアシュレイ、グレイシア、リット、カール、ライナス。色々あれなところもあるが、大切な仲間であることにかわりはないし、特にグレイシア辺りはもちっとさしで話し合いたいこともある。
だけど。
「……いい」
「そうですか?」
「戻ったとき、大手振って謝りにいく」
アシュレイ、グレイシア、リット、カール、ライナス。俺の大事な仲間たち。もちろん会いたい。肩を叩き合って馬鹿笑いして近況を語って。一人じゃないことを感じたい。
だけど今は。
「あいつから、目を離しちゃいけない気がする」
ルーレイたちの意識を知らず操っていた悪意。竜の躯にとりついた何か。わからないことだらけの全ての答えは、赤い光を跡形もなく食らったあいつの中に必ずある。
茂みを抜けていくと、木の上に作られたあの板間に、コルネリアスが幹にもたれかかって休んでいた。仮眠をとっているのかと思ったけれど、俺を抱いたメイスが近づけば薄目を開ける。
誰も彼もがこいつの手の上で、思い通りに踊らされて。最小の労力で最大の効果をあげていて。本当に。本当に。この女は憎らしい。俺は声にならない感情をこめて、睨みあげた。
「お前いったい、なにをたくらんでやがるんだ?」
すると無視するかと思った樹上のコルネリアスは、億劫そうに幹から体を離し、身を起こしざまつまらなげに
「くだらん問いだ」
「それはお前が決めることじゃない」
「くだらない連れか」
瞳を一度閉じてあけたあと、コルネリアスは冷たい口調で言った。「まっぴらだ」
乗っていた板間の樹が突如、突起を四方に飛び出させてうごめき始めた。それに気をとられた一瞬で、板間は元のただの枝に戻り、黒いその姿はかき消えていた。俺は忌々しく舌打ちした。その響きだけが残っている。コルネリアスが消えた後、いっさいの痕跡はなく、辺りの日常が自棄に目につく。
「一緒に行く気は……ないようですね」
もう何もない枝を見上げて、メイスがなんとも言いがたい表情で呟いた。
あれをとどめておく方法はない。なら。
「追うぞ、メイス」
「……そうですね」
ドラゴンが消えた森は、やがてただの森になる。モンスターたちはどこからともなくやってきて、どこへともなく去っていく。流出の少しの間、町の警備は強化しなきゃならんだろうが、それもこれからずっと続く脅威に比べればなんでもないだろう。森に差し込む日の光は、平穏な未来を暗示するよう、気持ちよく晴れて白く明るい。
けれどこの森の中で哄笑をあげた黒い魔導師の姿が記憶にある限り、俺の懸念は晴れそうになかった。
<続>ドラゴンの森で(完)




