表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
24/60

続)ドラゴンの森で(4)


「メイス、早くしてくれ」

 焦らせるのは得策ではないので、声音は抑えたが、それでも焦燥は混じっていたと思う。

「頭だけが黄緑色か。お前の術の中では傑作だな」

 木の上から降ってくる言葉は、感覚から遮断する。コルネリアスは高みの見物を決め込んでうすら笑いだ。

 あの泉を前にしてから、急にこいつは笑い始めるようになったが、正直、前の無愛想な方がよっぽどましだったと思った。つまりこっちの最悪の事態を面白いと思う性質だったわけだ。ああなぐりてえなぐりてえ。男女区別派から男女平等主義に鞍替えしよっかな、ともう全然締め出せていない俺の前でメイスがひそっと口を近づけて

「レザーさん、気にかけたらダメです。あの人の本質は愉快犯なんです」

 とほとんど口の形だけで言った。それからメイスは俺を伺うように見て

「でもいいんですか。何度言っても死んでもいやだって言ってたじゃないですか」

 それをよりによってお師匠さまの前で、とメイスの赤い瞳は語っている。仕方ねえだろ、あいつどっかいかないし。ニーチェの村、もうそれは俺の悪夢の代名詞だ。

 あん時崩壊していった色々なものを今でもほんと鮮明に思い出せるから。死んでもいやだ、それは誇張でもなんでもない、俺の真正直な気持ちだ。

「いいから。あの姿の術なら再現できるんだろ」

「はい」

 メイスはまだ納得していないという風に顔をしかめたが、けれど泉に手をひたして、呪を唱え始める。透き通った声が朗々と紡ぐ、不思議な響きはあの時のもので。思い出すのも苦痛だが、確かに体を動かした感覚は通常と遜色がなかった。それ以外に今とれる確実な方法はない。木の上の最悪魔導師に頼み込むのなんか時間の無駄だ。

 ゆっくり体が変わるのを感じながら、思う。竜退治に向かう、聖カリスクはかっこよかったかな。かっこよかったろうな。別にかっこつけとかじゃなくて、せめて人間として挑みたかった。

 最後の未練をため息と共に追い出して、俺は観念してメイスを見た。メイスは神がかった表情で魔の力を結んでいたけど。

 一瞬、ほんの一瞬、素の顔に戻った。不測の事態が起こったような驚きの顔。なんだ? と思った瞬間、視界が急激に切り替わり、ぶちっとどこかの神経が焼ききれたあと無理矢理に接続されたような嫌な感覚がめぐる。

 気付くと俺は正面ではなく真下の地面を見つめていた。俺の脚が目の前で、片膝をついている。俺の腕がそれにのっていて。手を目の前で広げた。

 理解した瞬間、腰の剣を引き抜いた。刀身はまだ前に戻った月夜と変わらぬ研ぎ具合。少し前にこれでワーウルフを斬ったが、幻術相手に剣は損傷しない。

 反射といい、動かしたときの感覚といい、身体は本当に申し分がない。俺の見えない部分だけが愉快軽快怪物なだけだ。鏡に映ったあの姿。脅えた盗賊の顔。

 ああこの姿になるのなんかほんとに死んでもいやだった。おまけににっくき魔導師の観戦つき。最悪の屈辱。仲間に見られたら俺マジで世捨て人になる。だけど。

「俺の仲間になにかあるのは、死んでもいやより、いやだ」

 メイスが驚いた目でこちらを見つめていた。それから急な動きで樹上の魔導師を振り仰ぎ

「お師匠様!」

 弟子の呼びかけに黒髪の魔導師は一応反応して目線を投げた。

「わ、私、レザーさんとドラゴン倒してきますから、それで成長を判断するということで謎解きの件を清算して欲しいのです!」

 え?

 メイスが言い出したことは、俺はもちろんコルネリアスにも意外だったようで、魔導師は本腰を入れて見下ろしてきた。

「なぜだ?」

「だ、だってお師匠様、私たちにドラゴンを倒させたいのでしょう?」

 俺に背を向けていても、メイスが怯みながらも懸命に喋っていることがわかる。コルネリアスは真顔で見下ろした後、わずかに考えるそぶりを見せたが、急にすべてが面倒くさくなったように片手を枝について枝の上から飛び降りた。着地すると錫状をとんとついて、俺たちに背を向け森の奥に去っていく。

「お――」

「いいだろう」

 再度の呼びかけを遮って素っ気ない一言がぽんと残された。するとメイスは俺の方をさっと振り向いて「行きましょう」と即座に歩み寄ってくる。そんなメイスに

 それで、いいのか? 

 喉元までこみ上げた言葉を俺をぐっと飲み込んだ。




 キンッと澄んだ音をたてて、切っ先にもぐりこませた剣が高らかに空に舞い上がった。瞬間、ロイドはさっと左後方に飛びさがる。その視界を逞しい腕が自在に伸びて横切り、剣を失った男の顔面に入り豪快にぶっとばした。

 ロイドは、バードのパーティの一員で、顔の真ん中に鎮座するだんご鼻の印象が強いせいか、人が良さそうな雰囲気をかもし出す男だ。しかしそれを大幅に裏切って、元空き巣という公の場では言いにくい前身を持っている。ただ昔とった杵柄のおかげでどんな鍵も数秒と待たずにあけるその器用さには定評があり、トレジャーハンティングには欠かせない人材だと受け止められている。

 剣術の腕はとりたてて言うほどではないが、受け止めたそれをくるりと回して、相手の剣をはじきあげることは得意だ。剣を弾いた相手になぜ勝てないのかは謎だが、トレジャーハントの場を畑としている身ではそう困ったこともなかった。

 ロイドによって剣を奪われた相手に、拳を炸裂させるのが同じパーティ仲間、大柄な女拳闘士レイア・ローリアだ。なにもつけていない生身の拳だが、どんな相手も一撃で仕留める辺り、ロイドの勝てない剣よりよほど強い。歯を何本か失い鼻の骨をへし折られて転がっている男達を尻目に

「ええい! アシュレイのパーティと敵じゃないってのが腹立つわね」

「やめてよ、縁起でもない」

 忌々しげにつぶやいたレイアの猛々しさに隠れるよう、ロイドは弱々しく漏らす。

「ライナス・クラウドとさしでやれたのに!」

「やめてよ、怖いよ、あれ悪魔だよ」

 ミドルポートの大会をうっかり見物してしまった身としては妥当な懇願を口にして、ロイドはそこで自分たちをとりまく状況、とりあえず陣に散らばった正気の仲間を吸収しながら指定された場所へと近づく目的は果たしつつあると確かめる。元々、戦いに高揚するような質ではないので、冷静に状況を把握することには長けていた。

 状況は良好とは言い切れないが、少なくとも良好に向かおうとはしている。しかし、レイアはいつも以上に殺気だっている。実はロイドも落ち着かない。その理由は背後に守るようにして集めた魔術士たちの中にある。戦いの最中だ。守っている対象は見れない。でも魔術士の中で魔法が使えなくなったミイトがどんな気持ちでいるかなど、わかりすぎている。

 大丈夫だよ。俺たちが頑張るから。

 彼女を慰める余裕も時間もない。だが、それを紡げないことが、こんなに苛立つものだとは思っていなかった。ミイト・アリーテにとって役に立てないことは深い絶望だ。落ち込み沈みこみ死んだ魚のような目をする彼女を、いつもかわるがわる慰めてきた。大丈夫だよ大丈夫だよ、と。でも、彼女にそう言うことは自分たちの安定剤でもあったのだ。ミイトを守ることで、バードのパーティは心の一番しっかりした場所を保っていたのだ。

 ロイドは、目前に迫ってくる男にひょいと大胆に間合いをつめ、その剣を弾き飛ばすと同時に、自分が引くのも待たずに、真後ろから長いレイアの腕が空気を軋ませ突き出され、突風をくらったように男の身体が吹き飛ぶ。耳のすぐそばを切った風の音にひやりとしながらも、レイアの気持ちもわかっていた。最前線で奮戦するバードの後姿もちらっと見える。彼が一番この気持ちが強いだろう。

 思いもよらなかった。剣をふるいながら思う。

 あの子に大丈夫と言えないことで、こんなにも苛立つとは。こんなにも平静さを失うとは。――こんなにも、怖いことだったとは。



 崖の下の竜の前に踊りこんできた人影は、サーガや英雄伝を志向する気ははなからないように見えた。

 崖上から跳躍したと思った瞬間、振り仰いだ竜の喉元を狙う辺り、時間がねえんだよ! と勝手な逆ギレを叩きつけているような問答無用さがある。

 出会い頭に急所を狙われた竜が、翼を動かし風をきしませると、生まれた強風に直撃し空中で人影は吹っ飛ばされた。

 ドラゴンの顔に燃える、禍々しい赤い瞳が満足げに歪められたが、その顔めがけてひょいと小さな影が落ちた。白い髪の少女だ。崖上からの来襲者に気を取られた竜の背後から忍び寄り、数度の足場確保で竜の存外狭い額に飛び乗ったのだ。少女の掌にはボールを握るように丸い光が収まっている。その光球を間髪入れず左目へと叩きつけた。

「――!」

 音ならぬ声を出し、竜がもがいた。少女自身も驚くような効果を見せ、その巨体が波立つように弛緩し、翼で辺りをしっちゃかめっちゃかにかきまわした。崖下は一時的に乱気流のただなかにいるようになった。人の頭ぐらいある岩がごろごろとその風に転がされていく。

 吹き荒れる風は、崖上まで届いてくる。崖の上には、女魔導師がいた。初めの襲来から今までを冷然と見ていた女は、片目をすがめてきびすを返した。

「間に合わんか」

 残した言葉は特定の誰かに投げ渡したよう、落第を示す冷たい言葉だった。




 純粋な戦力面から考えれば、メイスの助力は正直ありがたかった。攻撃的な魔法はあまり使えないが、それでも俺が気を引いている間に、ぴょんぴょんと竜の額までなんとなく飛び乗れる身体能力だ。おそらく飛び道具なしでメイスを倒せる奴はこの世にいまい。

 ただ。

 戦いの途中であるまじきことだが、思考の端に釣り針のように深く刺さって抜けない迷いがある。竜殺しを、メイスに手伝わせていいのか。俺はその答えが出せない。

 竜は確かに、メイスを食える機会があれば食らうだろう。だけど、例えこの森にいたからって、竜がメイスを食らう機会はほとんどないだろう。クラーケンは、まだよかった。あれを倒すなんてはなから無理な話だったからだ。

 だけど今回はだめだ。俺は竜を殺すか、やられるか、どちらか一つだ。確かにこいつを殺さなければ仲間が危ない。それは本当だ。だけどその裏に、もう一つの動機を隠しちゃいけない。

 俺は、竜を、殺したい。

 殺すまでいかなくても、戦いたい。傷つけたい。例え竜がなんの危害を加えなくっても。竜を目にしたとき、死ぬほどぞくぞくした。食らうわけでもないのに。快楽として、他を殺したい。

 でもメイスを見てまっすぐそうは言えないだろう。仲間を失う辛さや耐え難さは身にしみて感じているのに、それでも俺は竜を前にして高揚する。

 メイスは竜を殺すだろう。それだけ追い詰められている。多分なんの罪悪感も感じてはいないだろう。自分が食われないために。俺も竜を殺すことは躊躇わない。仲間がいるから。それは違わないように見える。でも、違う。狼は、ウサギを食らう。でもウサギたちは逃れたいと思っても、狼を殺したいと思うだろうか? 自問の余地なくわかってる。メイスは竜を殺したいわけじゃない。

 レタスの頭を人の体に乗せた、俺の今の外見は化け物じみて滑稽だろうけど、中身にあわせるなら滑稽さより醜悪さが似合うだろう。迷いのように視界にかすかにちらついた前髪を首を振ってはらい、着地すると同時に地を蹴る。あんなでかいものと、距離をとって戦っても仕方ない。

 わきあがる快楽と自責の階段を一息に駆け上がり、俺は竜の死角に回りこむべく、揺れる大地を近づきながら移動する。

 竜はどちらかというと、突然理解不能に現れ岩陰にもぐりこんで消えたメイスの方に気をとられているようだ。苛立ったように飛び上がり、どんっと地面に激突し、大地にくっついているもの全てが飛び上がった。岩陰にいた俺も跳ねて竜の左目とばっちり目があった。

 一瞬、ひやっとしたが、竜はなんの反応も見せない。がらがらと何かが崩れる音が聞こえたので振りむくと、崖の一部が崩れて、ガラスの破片のような格好の巨大な岩が空を向いていた。……。それをみて覚悟を決めた。自分より何十倍もでかいものとスタミナ勝負をしても仕方ない。

 そこで俺はあることに気付いた。左目の前にばっちりと俺の姿をさらしたのに、竜はただ怪訝そうに首をめぐらしている。メイスの姿を見失ったんだろうが、なら俺のところにくればいい。

 さっきの出来事を思い出し、竜の動きを注意して左目の視界に入るときだけ、さっと岩陰から躍り出てすぐに隠れてみた。反応はない。左目はきいていない。メイスの光球で一時的に機能が麻痺しているのだろう。

 瞬間、俺はメイスに気付いた。てっきり竜の右側にいると思いきや、メイスは俺と同じように竜の左側の岩陰に姿を滑らして、俺の存在にとっくに気付いていたらしく、合図をおくっている。

 俺は剣を握っていない右手で、竜の右側を指し示し、進むように動かした。遠目にメイスがため息をついて、半瞬後に岩陰から滑るように飛び出した。俺も右手に剣を持ち替えて、左側に飛び出した。

 案の定、あの目は見えていないようだ。しかし、いつ回復するかわかったもんじゃない。その前になんとか。左目の視界も突っ切って、背後に回った。ネズミの軽さで竜はまったく気付いていない。前方で囮になったメイスを見つけたのか、竜の体が収束して、翼についた鱗がきらきら光り、尻尾が猛烈に地に叩きつけられた。

 確かに翼以外は鱗に覆われていないから、矢でも剣でもぐさぐさ刺さるけど、傷つけられるのと、致命傷を負わせられるのは、まったく違う話だ。

 例え長剣を根元まで突き刺したところで、厚い肉に覆われて致命的な器官にはちっとも届かない。攻城戦用のバリスタでも使えばなんとかなるかもしれんが、そんなでかい武器を森の奥に運んでくる馬鹿はいない。だから人間の身であるならば、喉の血管を狙うしかないわけだ。

 俺は縦横無尽に振り回される尻尾に跳ね飛ばされないように、またそれが次々に吹き飛ばす岩にあたらないように後ろ足の側面に回り、身体を覆った翼の鱗に手をかけて、覚悟を決めて一息に飛び乗った。

 竜の体を足場にしているが、その身体は鈍いのか、それともメイスに気をとられているのか、竜に気付いた様子はない。値千金の鱗の上は、翼を広げられれば転がり落ちる危険があるが、他の柔らかい肉の上を土足で駆ければ竜に気付かれる可能性が高い。危険と懸念を後ろに放り投げ、鱗と鱗の付け根に足をかけて、銀に輝く不安定な道を一気に駆け抜ける。

 竜が動くことをやめた。メイスの姿をまた見失ったようだ。前足が見えてきた。翼の付け根の肩を駆け抜け、右手にナイフを抜き払い鱗を蹴って、首の付け根の柔らかい肉にわざとどかっと乱暴に降りた。この衝撃はどう考えても伝わっただろう。奴が反応する前にえらの後ろにナイフを付け根まで思い切り突き刺した。竜の体が弛緩し、反射的に、そして無防備にその頭がぐるりとこちらに回る。

「――」

 こんな間近で目が合った。赤い狂眼。金縛りの力を一瞬信じそうになるが振り払い、その真下、少し皴よった首、俺の目の前に迫った青く浮き上がった太い血管に向けて、刃を横に渾身の力をこめて一線する。

「――!」

 手ごたえはなんとも言い難かった。だが、俺の胴体ほどもある、赤黒く浮き上がった血管ごと、喉がぱっくり裂けたのを確かに見届けた後、俺はそのまま身体を蹴って後ろに大きく跳ぶ。

 ともかく早く離れるのを第一にしたので、この体勢じゃ無事着地は難しいかと思っていたが、身体にかかる勢いが不意に消滅し、俺はふわと優しく地面に落ちた。

「レザーさん」

「メイス」

 たっと俺の傍らに着地した白いメイスが俺を見て、すぐに竜の方を見やった。そして。

「……!」

 メイスの端整な横顔が激しくこわばった。俺もそちらを見やって絶句した。

 ぱっくりと喉の血管が開いた竜は、けれど一滴の血を流すこともなく少し上向きに、放心したような顔を見せていた。けれど、やがて禍々しい光を点す目が再び動きだし、血管がぱっくりと開いた喉をそのままに、ぐるりと首を回す。声もなくただとっさに俺とメイスは脇の崩れた岩陰に滑り込む。赤い光の狂眼からは、間一髪で見つからずにすんだ。

 薄影に身を滑らしたそこで、今見た光景に激しく胸が鳴っているのがわかる。

「……なんでっ!」

「血が一滴も出てない…」

 俺の言葉より、メイスの声の方が理性的で、それで俺も少し落ち着けた。

「新種の竜か?」

「あんな風になって、生きていられる生き物はこの世にいませんよ」

 ……そうだろう。ぱっくりと開いた血管。赤いあそこには、なにもなかった。蕗の茎をすぱっと切ったときのよう、ただ空洞が続いている。岩のむこうで血のない竜は、何事もなく首を振った。

 あんな生き物はいない。あんな生きたものはいない。あれは――

「幻術」

 俺とメイスの声はただ一つの正解として重なった。ワーウルフどころか、ドラゴンサークルの発端の竜までが幻術! 一体この森にはなにがあるんだ。頭を抱えたくなった俺に、メイスが意外なことを言い出した。

「ただね、レザーさん。あれはあの狼にかけられていた類とは違いますね」

「え?」

「岩が崩れている。私達が吹っ飛んだり登ったように錯覚することは可能でも、幻術は岩や土などの無機物には作用しません。あの竜が飛び上がったときの重さに、大地は明らかに反応してます。実体はあるんですよ」

 俺は一瞬反論しようとして気付いた。俺の背後から聞こえてきた音。振り向いてそこで初めて、俺は崖が崩れていることに気付いた。たとえ俺の見えている視界はだませても、見えていないところの音までは作り出せるもんじゃない。

 メイスは岩陰からそっと顔をのぞかせ、真実を見つける鋭く冷静な目で竜を見て

「あの竜、おそらく死体ですね」

「え?」

「初期にはドラゴンサークルが形成されていた点を考えても、生身の竜はおそらく本当にいたんですよ。ただ、途中でいなくなってしまった。死んだんです。けれどその死体は動いている。意志をもってね」

 理解が及ぶ前に、俺は本能でぞっとした。ぞっとして、呟いた。サーガの中でしかしらない、暗い魔術。

「――死霊術?」

「異端魔術ですね。広義の意味で幻術の一種で、傀儡の術ともいいますが。文献上では大空白時代の大量虐殺で真っ先に槍玉にあげられて使用者もろとも全ての文献もノウハウも失われたと」

「コルネリアスか?」

「お師匠さまはそんなもの使いません」

 メイスの口調があんまりきっぱりしていたから、俺は反論しなかった。かわりに

「倒す方法は?」

「わかりません。それも大空白時代に一緒に失われました。操り人形と一緒ですからね。生前の竜がなしえなかったことは変わらずできないでしょうが――どうやら痛覚もあるようですし。ただ串刺しになっても動きそうですよ、あの調子では」

「痛覚があるのか?」

「最初のとき――」

 そこでメイスも理解したようだ。あの竜が痛みらしき反応を示したのは一度だけ。死骸のはずなのに、光っているのはまごうことなき赤い――

「目ですね」

「振り払われなきゃ、頭の上にいったん乗っちまえば竜は手が出せないが……」

「振り払われますよ、真っ先に」

「となると」

 俺はベルトに止めてある投擲用の短剣を抜いた。さっきの一本は竜の側頭部に刺したままなので、残りは三本。問題は矢ほどの飛距離はないので、相当近くで確実に放たなければならないことだ。ああリット。百発百中の二つ名をならすリシュエント・ルーがここにいてくれりゃあな。黄色い髪の明るいルーがほんとにここにいたら、黄緑色の俺は世を捨てるけどさ。

 手元で翻したナイフがきらっと光って、細い刀身が俺の弱弱しい口元を映し出した。いさめているように。ため息をついて、覚悟を決める。

「行きますか」

 おう、と答えかけて、ふと思いついてメイスを呼び止めた。あの目がもしも無理だったときの手。

 そりゃできなくもないですが、と呟いたメイスの口元は引きつっていたので、なるだけ目で倒せたらいいな、と思いながら岩陰から飛び出した。




 森を満たす悪意は底知れない。地中にひそやかに流れていたそれが、木々の根から入り込み、道管を伝って枝にわたり、無数の葉脈から四散されたように、すでに全ては悪意の中だ。一滴、一滴、すべてにまで満たされた泉のほとりに座り込み、黒髪の魔導師はのぞきこむ。

「そんなに、あの男の血に興奮したのか?」

 そうして泉に手を掲げる。ゆっくりとゆっくりと、満ちた悪意を細くきり進み、穴をあける。

 つるりと静かな泉の表面に映し出された光景は、今は拡大したった一つの姿に焦点を定めている。一人の女だ。映し出された女は、直視に耐えかねるほど、無様な姿をさらしていた。

 狂人の態だと、知らぬ者が見れば思うだろう。赤茶色の髪を乱した女は目を剥いて、手はただ一心に印を繰り返し続けている。口が紡ぐ悲鳴に近い音色の呪もとまらない。心も身体も当に泣いているのに、口と手だけは動き続けている。でも編みあがった構成はこの世に具現化することなく、出来上がった端から崩れていく。それに吹き込む命がないからだ。そのたびに女は狂い悶える。それでも試みをやめず、動き続ける手には涙の雫が絶えず落ちる。

 壊れたからくり人形のよう、うつむく女の所作は永久に続くように見えた。けれど見えぬ糸で無理に引っ張られたように女は顔をあげた。顔をあげた女の視界に、それが飛び込んでくる。

 仲間達が戦っている。無力な魔法も紡げない女を、それでも必死に守っている。ああぁ…、また絶望が色濃くなる。

 一番先頭に立ち、一番その身を危険にさらしていたとび色の髪の男が、突如跳ねるように身を曲げた。突き出された刃の切っ先がその腹を薙いでいた。よろめいたところを、容赦なく第二戟が殺到する。

 ミイト・アリーテはそれを目にしていた。凍り付いていた何かががざわっと波立った。辺りの空気が不安げに身を震わせた。その中にぱちぱちと予兆の泡が無数に生まれて膨れ上がる。絶叫を押し出す、喉からせりあがる。

「――バードさんっ!!!」

「とけ」

 泉の中の絶叫と、見下ろす魔導師の唇から漏れた言葉は重なった。

 魔導師の言葉ははらりとこぼれて、小さな水滴に姿を変えて、泉にこじあけた細い隙間へと迷いなく吸い込まれていく。

 瞬間、泉全体が金と銀の膨大な光を放出し、それは泉だけにとどまらず膨れ上がって溢れ女のいるほとりまで殺到し辺りを真っ白に焼き尽くした。





評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ