続)ドラゴンの森で(3)
雄たけびをあげているといったって、ドラゴンに声はない。いや、正確にはある。いや、誰もいない森で倒れる木はうんぬんへ理屈こねた哲学者に言わせれば「ない」のかもしれんが。
ドラゴンの声はあるが、それは誰も聞いたことがない。可聴域外という域に達する音ららしく、それは人間の耳では聞き取ることができない音だそうだ。
もっと実態が知られてなかった昔は、ドラゴンって空を向いて喉をはらせて鳴いてるよーな真似だけする変な生き物だな、とドラゴンにしてみれば失礼な風に思われていたが、最近では多くの生物やモンスターが人の耳には聞こえない音を放っていることがわかってきた。
俺今レタスで耳もへったくれもないけど、レタス時の感覚は結構人間のときの感覚と近いので、ゆっくりとその頭を重々しくもたげたドラゴンが、口を開き高らかに喉を張った時にも、風が動く気配はなんとなくわかっても、なんの音色も聞こえやしなかった。
けれど人とは異なる感覚を持つメイスには、その声が聞こえたらしい。口を開いてドラゴンが体をすうっと膨らませた瞬間、俺を抱える手がびくっと激しくこわばった。つくづくこいつは。メイスは。人間とちょっと違うだけで、どれだけの可能性を秘めているのかわかったもんじゃない。ドラゴンの声を聞き取れるなんて言ったら、ドラゴンの居場所を特定するために死ぬような目に遭っているパーティどれもが躍起になって仲間に引き入れようとするだろう。
ドラゴンの声って、どんな風なんだろう。
俺たちには一生知ることができないそれを、味わっているメイスに、ようやくドラゴンから視界を剥がしてうつる。見上げたメイスの顔は。幻のドラゴンの声は、あんまり心地いい音色ではないらしい。
そんな音ならぬ声を絞り出す、ドラゴンの身体は蛇のようにスリムでしなやかだ。流線型というか、先から自然に太くなり後ろにいくにつれ自然に細くなる。前足も後ろ足も短く、ほとんどが四足歩行。サーガに出てくるようにどっしりとした肉付きに、後ろ足で立って勇者を遥か高みから見下ろすような竜は嘘だ。
そもそも野生の生き物なんだから、そんなにむちむちした肉付きをしているわけがない。季節や時期もあるだろうけど、野生の生物はたいていが痩せている。年中ぶくぶく太ってんのは、人か飼われている家畜くらいだ。
本物のドラゴンという奴は、トカゲにちょっと肉をつけてしなやかにして翼をつけたような形というのが、身近な生き物で表すとき一番わかりやすい説明だろう。顔は襟巻きのようになかなかかっこいいえらがはっているが、中にはつるっとしたトカゲそのまんまの頭の奴もいるし、そこは種類で色々だ。ドラゴンと分類されている全てが、必ずしもかっこいい形をしているわけではない。
じゃあそうすると、神の使いだの高度な知恵を持つだの、ここいら本当かどうか定かじゃないんだが、ともあれ遥か昔から言い伝えられてきたイメージ、なんで数あるモンスターの中でドラゴンだけがやたら知名度が高いのか、そんな風に喧伝されるのか、ちょっと疑問に思うかもしれない。
しかし、それにはちゃんと理由がある。ドラゴンは、気味が悪いことは気味が悪いけど知性とかそういうもんはあんまり感じさせない爬虫類系とは完全に異なった部分が三つある。
ひとつめは、言わずと知れたドラゴンサークル。たった一匹のモンスターがいるだけで、周囲にこれだけ変わった生態系が築かれるという例は他にない。
ふたつめは、名高い鱗をどのドラゴンも持っていること。亀の鱗のようなちゃちいものを想像してもらっては困る。精製された直後の金属のように、ピカピカに光るその鱗は竜を地上最強のモンスターに高めた功労者といっていい。
竜の鱗はいまだかつて割れたり欠けたりしたためしがなく、熱にも雷にもびくともしないで、この世のもので竜の鱗を破壊できるものは存在しないらしい。そのため、竜の鱗でできた盾や胸当ては最高級品でそりゃまたおっそろしい値段がし、一枚でも手に入れれば一財産築ける。そんなもんで守られているわけだから、もちろん鱗越しに倒したスレイヤーもいず、ドラゴン倒しの難易度をもっとも高める要素だ。
トレジャーハント専門の冒険者なんかは、名声以外に多分これ目当てできてるくらいの名高い竜の鱗。最強と言われる矛に守られてはいるがしかし、何事も攻略はある。竜は全身がその鱗に覆われているわけじゃないんだ。
鱗があるのは翼の背だけで、一旦翼を広げてしまうとその下の身体は矢でも剣でも容易に傷つけることができる。もちろんいつの時代のドラゴンスレイヤーたちもそこを狙った。
だから竜は飛んでいるときがもっとも無防備になると言われるし、竜も馬鹿ではないので飛ばないときは亀の甲羅のように翼をぴったりと全身に覆わせて身を守っている。
そうされると、もう狙えるのは喉と顔の一部だけで、カリスクもオルガもとどめは喉の太い血管を切り裂いたり突き刺したりだったらしい。しかしそれさえ無条件で無防備にさらしているわけではなく、寝るときはきちんと翼の下につっこんでいるわけだから、まあ、ある意味完全防備だ。
そんな最強の鎧と言われた名高い竜の鱗。不可解で形成には謎の多いドラゴンサークル。けれど、数々の伝説を伴い、その存在を神格化した、竜という存在が持つ本当の魔力は別にある。
目だ。
俺は実物を拝みながら、心のどこかがカチコチにこわばる気がした。
赤い目。妖眼とか狂魔の双眸とか、付けられた名は色々だが。竜の目。それこそが竜の存在にまつわる奇異の頂点だ。
全ての動物、モンスターをいれても、ドラゴンほど特異で奇怪な目を持つ生き物は地上おそらく海中探してもいやしないだろう。ドラゴンの目はどれも一様に赤いが、それはただ赤いのではない。常に一定の赤い光を自らはなっている。
闇夜に光を向けたら動物の目が光って見える、とかそんなレベルのものじゃない。昼間だろうが、なんだろうが、竜の赤眼は光を放っている。光、と言ってしまっていいのかも謎だが、血のように禍々しい濃い赤が双眸に溢れているのを見たとき、たとえでっかいトカゲでも魔物と呼ぶのに相応しい姿だと、今も昔も変わらず誰もが畏怖を抱く。
なんであんな目を持っているのか、いったいどういう仕組みなのか、その目で竜はどのようにこの世界を眺めているのか。それはまったくもって謎だ。多くの生物学者が知りたくて知りたくて日々胸もしぼらんばかりに焦がれてる怪奇の生物。竜はまさに生きている謎そのものだ。
何人かのスレイヤーが出ているんだから、多少はわかりそうなもんじゃないか、と素人は思うもんだろうが、事は一筋縄じゃいきはしない。
竜の目は生命がつきると同時にとけだして、留める間もなくすぐに跡形もなく消え去ってしまうという、特異な性質を持っている。これまた生物学者が声を張り上げてその異様さをわめき、髪をかきむしって無念さを示す、という終わりまで学者泣かせの代物だ。
例え竜の死骸を丸々持って帰ったところで、双眸にあるのはぽっかりあいた穴ばかり。その謎にとりつかれて、とうとう冒険者になっちまった学者もいるくらいの、筋金入りの難題だ。
まあその光る瞳が、見た目が怖い以外に、どういう効果をもたらしているのか、というも謎なんだけど。
一説にはあれは魔力の放出現象とも言われるが、だからってそれで攻撃できたりするわけでもないし、魔術を意識して使える生き物は人類だけだと言われているし、乏しい記録の中で竜が魔術を使ったという例はない。
ま、完全な人間とは言えないメイスもすんなり魔術を使えるので、要はノウハウの問題だけなのかもしれず、竜が魔力を操れない、という保証などどこにもないかもしれんが。というより、まあ。モンスターってのは存在自体が魔術の産物なんだけど。
モンスターと動物をわけるのは、その身に魔力を帯びているかどうかで、その魔力が体組織に作用して自然の摂理ならば考えられない身体能力を宿した生物が出現する。それがモンスターだ。魔力の有無が、はるか昔、ただの狼とワーウルフをわけ、ゴリラとオーガをわけたといわれている。
しかし、奴らはその体そのものが産物なだけで、呪文を操ったり火を出したり水を出したりできるわけではないし、それはドラゴンも同じ。
過去に、その眼光を向けられると金縛りにあった、とかいう報告もあったけど、検証の後、それおめーがびびって動けなかっただけだろ、という肩透かし結論が出されたりする。
しかしそういう知識があったとしても。実物を目の当たりにしたとき、光る目を持った竜の風貌の異様さは、ただごとではなかった。
馬鹿でかいモンスターは他にもいるのに、サーガの中でトップの登場数を誇るだけはある。もうその恐怖は本能的だ。こんなもんを倒した先人がいるのかと、ドラゴンを目の当たりにすればオルガを馬鹿にする奴だって、あのおっさんが並大抵ではない胆力を持っていたことが痛いほど実感できるだろう。
これが竜か?
心臓の一番深いところを射抜かれたように身も心も硬直する。
これが竜か?
冒険者としては体裁のいい話ではないが、竜をこの目で見たのはこれが初めてだ。竜が動く。山のようなその体がゆっくりと。脈動する皮膚の下の肉。光を強烈に返す、翼を覆う銀の鱗。ひれがついた顔。真っ赤な目。真っ赤な目。真っ赤な目。
――ぼく、ドラゴン退治の英雄になるんだ
頭の端で馬鹿なガキの得意そうな声が響いた。
血が沸く。むせかえる。押し寄せてくる。いっぱいになる。これがドラゴンだ。ああ、ドラゴンだ――
だけど俺の視界は釘付けになったドラゴンからもぎとられた。俺を抱えてる腕がドラゴンが見える縁からくるっと方向転換したんだ。
「メイス、もっとみたい!」
自分の口から出た言葉までガキの頃の口調で、耳からはいって俺は少し我に返った。ああ、でも。心底惚れた女から引き剥がされたって、こんな失望と無念さは味わうまい。レタスの身に心臓があったら確実に寿命が縮まっている。ぐいっと引っかかった釣竿で、天まで吊り上げられたようだ。
もう見えなくたって、あれは一生俺の網膜からぬぐいきれまい。視界いっぱいに小さな光がぱちぱち弾けるような酩酊感。福音にも似ている。オルガを笑えない。あれが竜だ。あれが竜だ。俺の竜だ。
アシュレイ、アシュレイ。昔のように興奮して呼びかける。あんたは、正しい。やっぱり正しかった。俺は騎士の器じゃない。まして英雄なんてものでもない。馬鹿と酔狂だけで出来た冒険者だ。それがはっきりとわかった。ああ、ああ。
血と脳がぐつぐつ沸き立って叫ぶ。国や誰かを守るより、単身で剣をとってあれに向かいたい。何の意味も意義もなく、あれを殺したい。罪のない竜と勝手な戦いをして屈服させたい。それが俺の生で、もっとも幸福な夢だ。
そこで俺は唐突に、自分の身を思い出して歯噛みした。あまりの失望感にうめきがこみあげる。せっかくあえたのに! 俺の前に竜がいるというのに! 俺はレタスだ。剣も握れやしない。なんでレタスなんだ! あいつのせいだよっ!
そんな身もだえする俺の耳に最初その言葉は耳に入っていなかった。けれど繰り替えされる余韻がようやく耳に入る。
レザーさん
そう呼ばれて俺はメイスを見て。
そうしてふっと血の気が引いた。
事は恐ろしく唐突に始まりを告げた。いつまでたっても出発しようとしない陣の様子に首を傾げつつ、焚き火の灰に土をかぶせていた冒険者の一人が、ふと目の前にさした影に気づいて顔をあげた。
するとそこには、同じパーティではないが、顔見知りの冒険者仲間がゆらりとこちらに向かって立っていた。最後の煙を一筋あげる、焚き火の前で
「どうした? もう出発――」
紡ぎかけて見上げたその瞳の虚ろさに、ぎくりとした時。
「避けろっ!」
背後であがった声に、反射的に飛びのいた。一瞬前までいた位置に、抜き身の刃が降り下ろされて灰がもうと舞った。
「え? あっ…」
体は飛びのいたが、頭は理解できない。それでも灰の中から持ち上げられ再度あがっていく剣と間合いをとろうと、下がった瞬間、真後ろで何かとぶつかった。
振り向きざまに、襟首をぐいっと捕まえられて持ち上げられる。筋骨隆々とした、これは見覚えのない格闘家然とした男がこちらに巌のような拳を向けている。
状況を把握する前に覚悟をよぎなくされたが、男の体が急にぐにゃりと溶けて、手が離れた。
また把握する前に、背後に風のように気配が割り込んで、キンッと剣と剣がかみ合う音がする。振り向くと、こちらに背を向ける明るい髪の色の誰かが先ほど切りかかってきた顔見知りの相手と切り結んでいる最中だった。
「な――なんだ」
「陣全体がこんな風になってる! 正気の仲間を集めてアシュレイのパーティに合流しろ!」
ぎりぎりと畳み掛けられる力を押し返しながら、明るい髪の後姿は厳しく言い放った。わからないことばかりだが、斬りあいをしている最中の相手に、これ以上悠長に説明を求めてはいられなかった。
「わ、わかった」
ときびすを返しかけたとき、茂みの間から誰かがのぞいていることに気づいてハッと剣の柄に手をあてた。女で魔術士姿だが、油断はできない。するとまるでそれを見透かしたように
「ミイト! 絶対俺から離れるな!」
と再び発せられた同じ声と同時に女の体がびくっと震えた。その様子にこわばった手を放した。女が慌てたようにこちらに駆け寄ってくるので、自分も厳しい声の言いつけを思い出して駆け出した。すれ違いざま、女の顔が青くひどく怯えていることに気づき、元気付けるつもりで軽く肩を叩いたが、それすら女はびくついた。
何が起こっているのか。何が起きてしまったのか。わからない。だが、今は赤銀の髪の冒険者のパーティを目指して走るしかない。それでも気になって最後に肩越しに振り向いた。
助けてくれた明るい髪の冒険者と女魔術士も別の方向へと駆けていくところだった。
メイスの顔を見たときにこみ上げてきたものを、俺は咄嗟に飲み下して押し戻した。そうしてから飲んでよかったものなのか、とぐるぐる鳴る胃を抑えながら少し考えて、頭の隅に今は押しやった。後から必ず取り出すことを自分に誓って。そして先ほどの竜を思い出す。
垣間見た、ドラゴンはでかかった。もちろん伝承として聞いた範囲にはおさまってはいるが、しかしあの竜がドラゴンの中で最大の部類に入ることは疑いがないだろう。
さっきも言ったけど、ドラゴンはモンスターの中で最大というわけではない。いや、たぶん地上最大級のモンスターではある。うん。でも海の生物には敵わない。エリアール国の海軍が記したとされるティールの書では、千リーロルと笑っちまう記録を残したクラーケンをはじめ、竜なんかぺっと跳ね除けてしまうような巨大生物が海にはまだまだいるわけだ。
ただ奴らは陸にはあがってこないし(これないというのが正しいか)海面すれすれにいることだって本当に稀なので、ま、なるだけ無視してすごそうよ、きたらさっさと陸逃げようよ人の手でどうこうできるもんじゃないさ、というのが共通認識になっている感じ。
実際、何世紀も現れた記録がない時期だってあるので、来たら最後だが地震や津波より少しは発生率が高いってくらいでしかない。今思い返しても、あのクラーケン一体なにしに海岸まできたんだろーか。陸に憧れる悲恋話の人魚姫のように、あれはあれでイカ姫とかいう悲しい話が背景にあったのかもしれない。
そんな逃避がてらの馬鹿思考も混じえながら考えてる俺を抱いたまま、ずりずりとメイスがせりだした崖から後退し、そのまま茂みの中へとほふく後進をしながら入った。
コルネリアスから逃げたときのよう、メイスはどうもマジで怖いことがあると茂みの中にもぐるらしい。穴ウサギなら、穴にもぐるのだろうか。それからしばらくほふくの体勢のまま、ふるふる震えていたが、やがてレザーさんと言って俺を顔の前に置いた。
俺は少しぎくりとして、それから「な、なんだ?」と聞いた。
「この状況で一番大切なことを聞きます。」
なんだ? と聞き返すまもなくメイスは赤い瞳を真剣に走らせ
「あれ、――草食ですか?」
「肉食」
反射的に答えた俺に、ひきっとメイスの顔かひきつった。俺も全然安堵はできなかった。肉食つーか。
雑食。
戦えない、というレベルから一気に食糧問題に話を落とされて、いまさらながら我が身の境遇に悲しい思いにかられていると、メイスは震えて頭を抱えながら
「食物連鎖ピラミッドに、新たな要素が」
なあ、俺、運命とか自然の掟とかもう嫌いだから、その図形出すのやめないか。本格的に三角形が嫌いになりそうで、俺もちょっとうめいた。頭の中に消し粉を入れられるなら、今すぐそれを消し去りたい。…ちなみに、ピラミッドって変人王の異名をとったサリファ・カールスレイ王が作った自分の広大な住居の名前で、岩をつんでそりゃー無意味なまでに綺麗な三角形を作ったらしい。それがあんまり異様だったから、サリファの名は忘れ去られてもピラミッドって三角形の認識は残った。
俺のそんなたび重なる逃避(つーか昔の教師に習ったことを忘れないためには、ことあるごとに丹念に思い出せ、と言われた以来の癖なんだけど)の前でメイスは
「私の上にさらに上位消費者の項が築かれ、私は二つもの上を背負った消費者、つまりレザーさんを食べた私が竜に食べられてその竜はお師匠さまの餌食になりつまりお師匠さまは一人勝ちの頂点捕食者!」
竜、食うのか。
いや、あれを見ても頂点はかわんないのか。
マジなメイスに俺はどれだけこいつが師匠を恐れているのか、あらためてわかった気がした。竜って、うまいのか? 血は薄めると劇薬にもなると聞くが、別に前例があるわけでもないし、それはただの流言だと思う。
まあメイスの他者と自分の関係性って、食うか食われるかしかなかったし、判断基準もそれだけだもんなあ。野生動物にもあるはずの、仲間とか群れって枠の認識も、一人が長いせいか薄いし。
「レザーさん!」
「はい」
急にメイスが声をはりあげたので、思わずびっくりしておとなしく答えると
「例え一時の夢としてもまだ生きていることがあるのだから、それは意味など求めず明日など認識せずよいのです生などしょせん刹那にすぎませんすべてが刹那でありええっと毛並みが赤いあの人も言ってましたがわたしは考える故にわたしであるというのもある一面の真実なのかもしれませんつまり考えるこの刹那のみが自身であり所詮来る前に予測する結果など妄想にすぎないとここに今わたしは実感して人の些細な悩みなどふりきります!」
アシュレイ、こいつに何をふきこんだ。
「つまり結果など関係ないのです最後は全てお師匠様の腹におさまろうと今この瞬間に私達はお師匠様の腹にいるわけではなく噛み砕かれて嚥下されてもいないわけです」
おまえ言霊って知ってるか? 俺は冷めた声で
「つまり?」
「食べてもいいですね!」
「そこかよっ!」
爛々とした目で言い切ったメイスに、俺はメイスがあの試験に不合格になってからもううんざりするくらい繰り返されたやりとりに声をあげた。なんで全部そこにいきつくんだ。
「お前いい加減しつこいぞ! いやだって何回言った。何回このやりとり続けた!」
俺がいい加減怒って言うと、メイスはひっとうなったけど俺はもうメイスが次に繰り出す言葉を完璧にまで予測していた。
「わ、わたしより、――ドラゴンやお師匠様がいいというんですかぁっ!」
「うるせ―――っ!」
何度とないやりとりに、行き着く間違った結論。それは完璧に予想した言葉であったけど、ばかげた要素がまたつけくわえられたので堪忍袋の緒もきれた。
「やかましい」
メイスの顔にさっと影が振ってふらついた。一人だけ俺とメイスとはテンションの違う声で、けれど騒いでいる俺たちの耳にもしっかり届く声と共に、メイスの顔が俺に勢いよく激突して、仲良く地面にめり込んだ。
メイスの額からくりだされた強烈な一撃に、一回叩きつけられて飛び跳ねて、それでも俺は衝撃が完全に殺せず、伏せたメイスの顔の下からころころ転がり出た。すると光と共に、メイスの頭を忌々しげに踏みつけている、黒服の魔導師が見えた。あげられた膝の先、ぐりぐりと硬い木靴がメイスの白い頭に容赦なくめり込んでいる。俺は低地から見上げざるをえないせいもあるんだろうけど。すげえ構図。
騒いでいるところに現れたコルネリアスが、おそらく茂みの上からメイスの頭に蹴りをいれて、そのため顔の下にいた俺がメイスにしこたま頭突きされたんだろう。
「貴様ら、焼くぞ」
さすがにちょっとキたらしく、コルネリアスは怒りを覚えているようだ。まあドラゴンのそばで騒いでたしな。冒険者としてはあるまじき不注意だが、こいつの思い通りになるというのも実にむかつくので素直に反省できない。ふん。
と俺がプロ意識的にはあるまじきことだがひそかに抵抗していると、その足の下からひっくひっくと泣き声が聞こえてきた。メイスのだ。この師匠に再会してから、メイスは妙によく泣く。まあ助けたときも泣いてくれたけどさ――
「や……焼きレタスなんて……そんな私の最後の夢も奪って……」
今はすげえどうでもいいことで泣いてる。生野菜をこよなく愛するメイスは俺に加熱ということを恐ろしい事態ととるが、俺にとって煮られようが焼かれようがナマだろうが一緒だ。
泣き伏せるメイスにむかいコルネリアスがしゃがんで、その首根っこをわしづかみにして引き上げた。
「ここから一番近い泉はどこだ?」
ぐずぐずと泣き顔をあげたメイスだが、間近でぶつかった怒気を孕んだ師匠の顔に、はっとしてくんと鼻をならす。それからあっち、と力ない指先で頼りなく示した。
「いくぞ」
ばさっと俺のそばすれすれの地面で、マントの端が翻る。この女も何がやりたいのか。竜の様子を見にきたんだろうが、そのまま帰るのか。依然まったく得たいがしれない。
「れ、レザーさん」
見送っていると、メイスが涙目で俺を見ていた。踏まれたせいだろうが髪がぐしゃぐしゃ乱れて土までついてる。女の髪が見ぐるしいと男の数倍も無残に映るのは命だとかなんだとかの関係上だろうか。ともあれ哀れっぽい有様が、さっきのひどい扱いを思い出させて気の毒になったので、なるだけ意識して優しく
「大丈夫か、あたま」
「お師匠さまの言葉を聴きました?」
「え?」
俺の問いかけなど一分も聞かずにメイスは絶望的なしぐさで頭を抱え込み
「泉! 水! 泉のほとりと言えば食事のスポット! 最後のときがフェイントでひどいですお師匠様の古今東西最悪最低なんの貢献もない消費汚物ゴミ屑カス害獣害虫非生産者ー!」
だいじょうぶか、あたま。
被害妄想ウサギにそっと同じ言葉をニュアンスをかえてつぶやく。
俺もメイスともっと長く過したらこーなるんだろーか。
とわんわん泣き喚くメイスを前に、森から木靴が飛んでくるまで、なんとも言えない気分でたそがれて。
――で。まったく奇妙な話だが、ひくひく脅えて泣きながら、それでもメイスは決して師匠と呼ぶ黒髪の女から逃げるということをしない。悲鳴をあげながらそれでもコルネリアスの後をとぼとぼとついていく。
なんだかなー、と抱えられながら続くと、やがて木々がよりわけられて細くなったところに、小さな泉があった。水溜りを少しでかくしたような感じで浅いし水量もあんまりないが、森の生物たちの飲み水らしく、柔らかい泥のところにはいくつもの動物の足跡がついている。
コルネリアスはそのほとりに立っていた。
俺はその姿を見てなんとはなしに、こいつは上背があるなあ、と思った。つーか、高く感じさせる雰囲気というか威圧を持っている。黒い姿は影のような闇のような。日の光の中で、風景にひどく不具合な要素になっている。
動物やモンスターたちが足跡をつける柔らかい土に、奴はとん、と錫杖を一回振り下ろした。不思議なことに、ちょっと離れているはずなのに、泉の表面に波紋が広がった。とん、ともう一回。また波紋。
魔術ってそりゃあ高度の知識で、本腰いれて何年も勉強しないとほんの少しもわかることができないっていう、狭く深いあれで俺も専門外だからほんとわかんないんだけど、揺らがす能力である、というのを聞いたことがある。
空間や力や法則に干渉して少しずつ揺さぶったり揺らがしたり、そうしてゆっくりと自分の望む形に一番しっぺ返しがない方法で近づけていくんだって。
高い高いところから、コルネリアスはじっと泉を見下ろしている。そして不意にその横顔がはじめてわずかに笑ったような気がした。笑顔、という言葉がもつ清々しいイメージとは程遠いが、ともかくちっとも笑おうとはしなかったこの女が、とりあえず笑ったのは初めて――思い出すとむかつくが、グレイシアの顔でにやりと笑った以来だろう。
「来い」
なんかやーな雰囲気が漂って俺は警戒したが、メイスはやっぱりのこのこと近寄っていく。すると俺たちの位置からはただの泉としか見えなかった。その表面が、まるで遠見鏡のように、まったく違う景色を映していることに気付いた。黒い魔導師がたたずむ小さな泉の表面に、何が映し出されているか悟ったとき、俺とメイスは息をのんだ。
広場はすでに最前線だった。
からくもなんとか陣らしきものを築いたここから離れて、まだ正気を保っている冒険者たちに単身合流を呼びかけに行くバードには、危険な役を押し付けてしまった、とアシュレイは思っているかもしれない。だが、標的となってひきつける役目を任されたこちらも、そんな心配をしている余裕はない。
アシュレイたちはルーレイの陣からまだ戻ってこない。そして、バードが役目を首尾よく果たしてくれているためか次々に冒険者たちはここにやってくる。
しかし、茂みを抜けて巨木の前に躍り出てくる者達は味方と仲間が半々で、いつまでたっても勢力は変わらない。駆けこんできたパーティの最後尾の魔術士に切りつけようとした男の手を射抜く。まだ震える弦に再び弓矢を継いで構えるのは、小柄な射手リシュエント・ルーだ。
「どうなってんだ!」
誰かが叫ぶ。お前らどうしたんだ! と呼びかける者もいる。それを皮切りにあちこちでやるせない悲鳴の問いかけが広がりかけたが、
「無駄だ。操られている」
太く低い、けれどどんなに混戦した場でも明瞭に響く声が、混乱の頭を引っつかんで抑えた。カールは無口でかまわない。彼の声は、こういうときのためにあるのだから。
そんなことを片隅で考えているのに、リットが次々に番えて放つ矢の精度は決して落ちなかった。連射の難度も、ものともしない。ひとたび矢羽根を離せば、瞳はもう次の標的を求めて動く。見届ける必要はない、とばかりにその瞳も矢筒から新たな矢を取り出す手もいっさいの無駄がない。ただ心臓や頭に鏃が向くことはなかった。
殺すな、
これから起こるであろうことを言い渡したとき、アシュレイはきっとそう言いたかったと思う。こちらの役目を考えれば言えはしなかったのだろう。
でも、カールも、参戦した他の冒険者も、無意識か意識的にか致命的な傷を負わせることは避けている。行動を共にした仲間だから、だけではない。
それが冒険者だからだ。傭兵とも軍人とも違う。レザーをそれで口説き落とした、とアシュレイは嬉しそうに笑って言った。騎士も所詮は軍人だ。人間相手に剣をふるって命を奪う。
だけど冒険者は、人を殺さない。
そう言ったアシュレイが好きだと思った。俺もああいうところが好きだ、と青い髪の青年もかつて笑った。だから殴り合いがイイんですよね。灰色の髪の青年はずれていた。けれどそれを喜ぶパーティは居心地がいい。
それを思い起こしながら、リットが再び逃げこんできた者を追いすがる相手を射抜いた瞬間、空気を切り裂いて、鋭い矢が顔のすぐ横を通り過ぎた。飛んできた方向を一度も目で確認しようとせず、ただその軌道のみで判断して弓を引き絞って放つ。軌道の先で悲鳴があがった。
「近寄らないでよ。人間射抜くのはぼく好きじゃないんだよ」
驚くほど冷たく、けれど静かな怒気を孕んだ声音で告げる。彼女を標的にしようとしていた者たちが気圧されたように身を引いた。
その少し後方、襲いかかってくる冒険者たちを盾に隠れて、今まさに術を放とうとしていた魔術士たちの狼狽の声が一気にあがった。直接的な戦いでは到底敵わない、矢を放つ少女や巨斧を軽々と操る男にぶつけてやろうと構成されていた詠唱途中の魔法が突然全て解除されたのだ。
動揺が広がった隙をついて、カールが戦斧の背で数人をまとめてなぎ払いながら
「グレイシア、無理をするな」
「平気よ」
大樹を中心に不思議なミルク色の膜が地面を半球形に覆っている。それは怪我人や弱いパーティを包み完全ではないがバリアの役目を果たしている。声はその中から聞こえた。
暖色の髪の女グレイシアが、バリアの際で、詠唱の強制解除を仕掛けたのだ。状況を確認したあときびすを返し、膜の中で横たわる怪我人に駆け寄った。
「最低限の、治癒でいい」
負傷した同じ魔術士が治癒の手を掲げる彼女に毅然として言ったが、
「いいえ。流す血を少なくすることが、敵の手にはまらない術よ」
不思議な言葉に目を瞬かせた魔術師の体へと手をかざす。
カールの斧が風を切る音が、リシュエントの矢にあがる悲鳴が、膜の中の彼女の耳にかすめ、一瞬心に何かがよぎったよう口元に力をいれた。
けれどこの場にいる限り彼女もまた冒険者だった。意識を遮断し、手元の構成を編む。時には命とりともなる、グレイシア・ロズワースの逡巡は、決して長くはなかった。
静か過ぎることに気付いたのは、ライナスが先だった。テントの中に通された後、アシュレイの袖を掴んで「そとを」と三文字だけで小声で紡いだ。
前に立ったルーレイには届いたようだ。どうにも厚い狸の面を、ゆったりと微笑ませている。グレイシアの明瞭な話を聞いた後でも、さてこれは本性か否かと探ることをアシュレイ・ストーンはやめられなかった。
「外がずいぶん静かだな」
「そうか?」
「音を魔力で遮断しているな」
「沈黙は、雄弁なり、か」
すました顔で呟く男をけったくそ悪い、と胸中で吐き捨て睨む。
「アシュレイ」
親しげに呼びかけられて不快感をかみ締めた。
「俺の名前はてめえに呼ばれるためにあるんじゃねえ」
「アシュレイ」
肩で笑って男は繰り返し「そう角を立てるな。お前も、私を仲間だと信頼してくれたんだろう?」
「俺の生涯で聞いた、最低最悪のジョークだな」
その言葉の途中でライナスがすっと身を引き背後にまわる気配がした。不意に喧騒が耳をかすめる。怒号と気合の声。今までそれを完全に遮断していた術はテントにかけられているらしい。その布をめくって追加の来訪者がやってきたということか。足音で人数を勘定する。一瞬とどいた音で騒ぎの大きさを推し量るには十分だった。
アシュレイの前で、ルーレイはくっと茶色の瞳を曲げて笑い
「自分の剣をあんなに簡単にあずけてくれたではないか」
「刀身の類をはじく術をいつもテントに張ってるって、てめえの臆病さは有名だぜ」
「優秀さと言ってくれ」
「誰が」
優秀だと自ら言ってはいたが、面と向かっては舌が裂けても言えないのか、アシュレイは吐き捨てる。不意に横合いから殺気が漏れた。拙い殺気だった。そちらを向くと今まさに棍棒を握って一歩踏み出そうとしていた男達がぎくりと凍り付いた。
「逸るな」
ルーレイが素早く言い放った。わずかに走った場の動揺と怯みの空気を、綺麗にかき消す落ち着いた声音だ。
「集団で、やれ」
「つくづく集団が大好きだな、お前は」
「それがもっともの力と知っているからだ」
「集団。集団。集団。続くにつれて、それ一色だ」
急にアシュレイ・ストーンが声色を変えた。
「だから、集団を瓦解させようとする俺らを取り除く? ――矛盾に気づけよ、ルーレイ。集団は手段にすぎなかったはずだ。お前の目的は、どこへいった」
なにを言っているのかわからないという光を点したそれに、ようやく敵の影を見つけて、赤銀の青年は腹立たしげに視線の刃で突き刺した。
「ほんと癪に障るがな、俺もお前を買ってんだ! だから自力で元に戻れ。ルーレイ・アーウェン、お前にその言葉を叩き込んだのは誰だ。いや――」言葉を切ってアシュレイ・ストーンは瞳で切り込む。「なんだ?」
一瞬の逡巡、いや葛藤が鷹の翼を思わせるルーレイの深い茶色の瞳に走った。正気の色は浮かび沈み、水面へと見え隠れする。その光の襟元をつかんで引き上げてしまいたい、とアシュレイが睨む前で、はっとするほど鮮やかな茶がひらめいて、それまでの湖面全体がどんよりと曇っていたことにやっと気づかせた。一滴の鮮やかさは即座に双眸に広がり
「私――は―」
気づいたか、とアシュレイがわずかに眼光を緩めた隙をついたように、冷静なパーティのリーダーは目にしたものに一瞬ぎくりと凍りついた。ルーレイの鮮やかな茶色が一瞬で食い尽くされた。突然吹き出したそれはほとばしるよう鮮烈でそれ以上に毒々しい赤の光だ。
「――んだ、それ!」
掠めたそれは一瞬で消えたが、その一瞬で十分だった。ぶわっと衝撃の風を真正面から受けたように、アシュレイは目を剥き、瞬間肺にあったすべての空気ごと
「だめだっ!」
と吐き出しざま、懐に手を突っ込んで肌色の袋を引き出した。
「どうした? アシュレイ」
うす笑いに迎えられ、わずかな狼狽を見せたアシュレイ・ストーンは瞬時に持ち直し、ルーレイを睨み付けるが、もうその茶色の薄靄がかかった瞳は、まったく揺るがないことに気付く。頬に少年のような悔しさが浮ばせ、その苛立ちのままに膝を曲げて臨戦態勢をとった。
「お喋りはもうやめだ。お前らをのしてパーティのところに戻る」
その言葉と溢れ出す殺気に、ふっと赤い光をそのうちに隠した男は笑い
「頭だけではない。確かにお前は強いよ。たまに持論を覆されそうになる。だから私はお前が嫌いだ。だが、それも剣がなければ半減だ。お前はウェイトに不利があるからな。純粋な腕力は決して強い方じゃない。相打ちを恐れずにすむ集団戦法は素手が一番だ」
あの光さえ見なければ十割本心だと思って心置きなくこいつ自身を見捨てられたんだが――苛立ちながらアシュレイ・ストーンは取り出した袋の口をつかみ、ゆっくりと回し始めた。
ひゅんひゅんと風がうなる。先端に重いものが詰められているとその軌道でわかる、懐から取り出した厚手の皮袋を、まるで一つの完成された武器でもあるように自在に振り回し、周囲を睥睨して最後にルーレイを睨みつけた。
「俺が腕力に欠ける? はっ。それがどうした。闘技場のルールでもなけりゃそんなもんはなんの関係もねえ。石だろうが木だろうがぶちあたればそれでおだぶつだ。剣をとりあげたからってなんだ? お前は軍の出だろ。投石は軍の常套手段だ、もう忘れたのか」
「お前こそ軍の出なくせに忘れたのか? 多数で少数にあたるのが兵法の基本だ。戦い方は覚えていても、兵法は嫌う。お前はやはり将の考え方をしない。軍をすぐに放り出したのもわかるよ。だが、アシュレイ、それが戦いだ。一人の規格外より、数が勝つ」
ゆっくりとそれを飲み込んだように、アシュレイ・ストーンの端整な顔が真顔になり、そして口元がつりあがった。
「一人ならな?」
それが相手側にとって一方的な戦闘開始の合図になったようだ。棍棒を持った男たちがばっと広がり、包囲にかかる。迎えうつアシュレイの体が、突然消失したかと見間違えるほどの素早さで沈み、揶揄された身の低さを生かして、手近な膝を狙って袋を横に一閃させた。
膝頭を砕かれた男たちの悲鳴があがる。だかそんな彼らを押しのけて、しゃがみこんだ赤銀の青年めがけて男たちが殺到した。立ち上がるには分が悪い間合い、けれど次の瞬間、たっと軽く地を蹴る音がした。そしてばきばきとしなやかにして滞りない破壊音の連鎖が始まった。絶え間ないそれは十数秒で尽き、沈黙がとってかわる。
その間に、アシュレイは悠然と体勢を整え、自分の背後を見つめ初めて狼狽を見せたルーレイの顔を、ようやく心地よく見やってやる。
「優等生さんは、俺を考慮にいれすぎたか?」
「石は握って殴るのが一番ですよ」
背後からの楽しくて仕方ないという口調と言葉に一抹のやばさは感じるものの、ルーレイへのむかつきが勝ってとりあえず肯定の笑いを浮かべたままにしておく。
魔術士姿のふざけきった男は、筋骨隆々といったカールに比べて、自分に負けず劣らず細身に見える。杖を預ければもう誰も脅威に思うまい。実際、ルーレイも今の今までまったく視野にいれてなかったようだ。ふざけた風体はいざというとき、おそろしく効果的だ。
殴り倒された男達が死屍累々と倒れる中、一人笑いながら佇んでいるだろう仲間のやばさを喧伝するのは気がすすまないが、わりきった。
「こいつがなんでミドルポートの撲殺魔って呼ばれてると思う?」
とりあえず、自分が知っている限り、犯罪はおこしていないのだ。自分が知る限りは。
ルーレイの顔が醜く歪んだ。その面に吐き捨てる。
「ミドルポートの拳闘大会で全員半殺しで失格になったからだよ!」
今度はこちら側が一方的に叩き返した戦闘開始の合図の音に、背後の最悪な拳闘士だけが、高らかな歓声をあげて追従した。
泉の中に広がる信じられない光景に、俺は一瞬言葉をなくした。さっきの竜を見たときよりも、よっぽどそれは衝撃的だった。
冒険者同士が戦っていた。嫌な汗が沸き咽喉が渇くのを感じる。否定しようと頭が動く前に、飽和したそれに映像が切り替わりどんどん処理されぬまま流れ込んでくる。切り替わりの端に仲間が映った瞬間、何かが軋んだ。
「レザーさん」
気付くと俺は必死に抱きとめるメイスの腕の中から、なんとか抜け出そうとしていた。強い力で締め付けられて、感情がねじまがって変なうめきが漏れた。
「望むなら離してやれ。どうせ池に沈むだけだ」
低い女の声に目の前に真っ赤な何かが弾けて散った。そのせいで俺は一時的に感情を失ってメイスの腕の中で抵抗もなくおさまった。
頭の容量がぽっかりあいたせいか、ひどく思考が透き通って冴えているのを感じる。確かにアシュレイとルーレイはあまり折り合いがいいわけじゃなかった。だけど、あの二人は馬鹿じゃない。誰にも見えるところで反目をあらわしたりなどしないし、互いに目的は一致していた。全体の雰囲気も悪くなかった。食糧や物資、問題は少なかったはずだ。
ということは、よっぽどのことがおこらない限りは、暴動などはおきない。
「レザーさん」
メイスの心配そうな声がカチリと意識の隙間にはめ込む。俺は黒髪の女魔導師を睨みつけた。
「てめえの仕業か」
「違います」
「なんでそんなことがわかる」
毅然と答えたのは意外な人物で、俺を持つメイスだった。それがどこか悔しくてメイスにも棘の生えた言葉を投げた。
「落ち着いてください。わかります」
俺は一瞬メイスを仰いだ。緊張と気まずさが入り混じった顔をしている。俺はふと耐えようのない罪悪感を思い出して何も言えなくなった。それでも仲間たちの安否がかかっている以上、抑えることはできずに黒髪の魔導師をにらみつける。
「だけどお前は知っているな?」
「悪意だよ。黄緑色の塊」
かなり侮辱的な呼び方、それがコルネリアスが「お前」とか「貴様」以外に俺を呼んだ最初の言葉だ。
「この森に満ちている悪意だ。木々の一本まで、走る葉脈の隅々まで、水の一滴まで満ち溢れ浸食している。あの犬どもに力を及ぼし、貴様らを傍らにいざなった。流れる血を飲み干したいがために。そのために貴様らに群れを形成させた。その働きが、悪意だ」
「悪意ってなんだ。誰のものだ。誰かが仕組んだことなのか」
「思考までなくしたか。黄緑色の塊。ここは、誰の森だ?」
メイスが後ろで一つ息をのんだ。
俺は言葉がなかった。
「奴が作り出した。のこのこと飛び込んできたのは貴様らだ。ここは狩場。貴様らは罠の中の」
沈黙に流れた、コルネリアスの声は淡々としててもどこか楽しげで。ああこういうときにだけ、こいつは笑みを孕むのだと、どこかで悟った。
「無力なエサだ」




