ドラゴンの森で(10)完
あの日、俺が何をしていたのか、実のところあまり覚えていない。後に起こった出来事だけがくっきり焼きついて、その前の記憶は霞がかかっているようだ。ただ、少し遠い街を目指してはいた。だから早朝に出発したにも関わらず、なるだけせかせかと街道を進んで距離を稼いでいた。
歩くことに気をとられていて、それまでまったく人の姿が見えなかった早朝の街道にその人影がいたことに気づいたのは、もう結構近づいてからだ。ふと気づいてから、朝の光がきらきらと辺りを満たすよく晴れた高い空の下の爽やかな街道に、似つかわしくない奴だなあ、と少し思った。
とにかく、黒い。黒ずくめだ。流した重たげな髪も、身体を覆ったごわごわとしたローブも、そこまで同じ色にあわせんでいいだろう、って思うくらいに。そして魔術士の一人歩きなんて珍しいな、と思った。
他に誰もいない街道で、おそらく同じ冒険者とまでいかなくとも、少なくとも一般人よりは近い生業をしているだろうと思い、足をとめる程ではなくとも俺はまあすれ違いざまに、挨拶の一つくらい、向こうがフレンドリーなら情報交換くらいしようかと考えていた。けれど俺が間合いをはかる前にずいっと、足が横に飛び出て進路を阻んだ。
俺がとまって相手を見やると、斜にかまえたような微笑を浮かべている。あ、目まで黒いな、と思い、それからあまり友好的な顔ではないな、と結んだ。そいつはいきなりこう言った。
「魔道の深遠は、えてして他の理解を望めぬものだと思わないか?」
声は普通だ。しかし、声の普通さに気づくより、台詞の内容が問題だった。
「畑が違うんでね。わからないな」
なーんか第一声でやばいなあ、と思っていたので刺激しないように、しかし近寄られないように無難な言葉を選んだつもりだった。それを受けて相手はハッ、と声を高めて
「他に理解を求める者も、他への理解は怠る。裸の馬鹿王は鏡を鏡と知らずに見るなら、大笑いを繰り返し、そして笑われたことに腹をたてて怒りで鏡をうつだろうに。もし鏡が一部の間違いもない真実を映すなら、鏡の中を嫌悪せぬ者はいない」
はいはい頷いて下手に懐かれても困るし、逆上されて面倒になるのもごめんだ。最近暑いしなあ、と思いながら受け流す。黒い瞳がまっすぐにこちらを見る。完全に決めつけていた俺は、一瞬、その視線に引っかかりを覚えた。
海千山千の冒険者の中には、こいつよりやばい奴もいっぱいいるし実際会ったこともある。が、そこにはそういう奴らの、見ているようで見ていない、判断しているようで判断していないそれらと、全く異質なものが見えた。内心眉をひそめると、相手がくっと妙な風に頬をゆがめた。笑ったような、不快さを表したような、曖昧な表情だ。とりあえず、友好的でないのはわかる。
「気に食わん面をさげているな」
なんで初対面の相手に容姿という、ある意味どーにもならないし、本人の責任もないものをけなされなきゃならんのか。
「理解は悪い頭には苦だろうから、求めるのはやめてやる。かわりに魔道への貢献、研究資金に有り金を貢ぐらいの分別はあるだろうな」
相手の「分別」の定義が何かはわからんが、世間では意味わからんゆすりに応じることを分別とは決して言わないだろう。
その台詞を飲み込んで検討し、どうもこの相手は俺を怒らせようとしているな、と思った。たまにある。相手をわざと怒らせて向かってこさせ撃退して有り金全部奪っていくとかいう、それ野盗と何が違うよ、という輩は。
そういう相手をかわすには、こちらから手を出さなけりゃいいわけだ。聖カリスクも言っている。わざわざ冒さんでもいい危険に近寄ったり、避けて歩くことを思いつかない奴はバカだと。ドラゴン退治の英雄が言うには妙な言葉なので世間一般にはあまり流布されていないが、俺はカリスクがただの英雄願望一辺倒野郎じゃなくて、こういうところがあるから、嫌いにもなれないんだ。
ともあれ先人を見倣い、俺は口を開かずに片手をあげて、謝罪とも拒否ともどちらにもとれるような曖昧な動作で、目をそらしすり抜けようとした。まあ魔術士なら、突然逆上されても呪文を唱える合間にいくらでも応戦できると踏んで。
そばを通り抜けざま。一番接近したことは確かだったが、まるで耳のすぐ横で囁かれるようにひどく近く言われた。
「理解されない、認められないと、喚いて半べそをかくのはお前のお家芸だろう?」
その言葉を、租借する前に反射的に振り向いた先、詠唱なんて絶対に聞こえていなかったはずなのに、不自然な緑色の光を手に灯してそいつは笑った。
「そんなに自分を否定するなら、自分でないものになればいい」
ええ? 色男。
咄嗟に距離をとろうとしたが遅かった。バカにするように笑う黒髪の魔術士の手の中の光が弾ける。抗う暇もなく、全身が何か重たいものに追突されたような衝撃にゆれた。声がすぐ出せなくなった。地面に、落ちる。動けない身体にひどく癇にさわる高笑いが響いていく。
そうして。
そうして、俺はレタスになったんだ。
目覚めると、ひどく喉が渇いていた。ずきりと喉の奥が痛み、息すらしにくい。舌を伸ばしてなめてみると、あっけにとられるほど口の中はからからと乾いていて、唇も触れた舌が切れそうなほどにがさがさしていた。
そして、青い名もない雑草が拡大してゆらゆら揺れている様が、掠れた視界に映る。おそらく草が巨大なわけでも俺が小人になったわけでもなく、めちゃくちゃ目に近い位置にあるのだろう。
レタスになったあの時と同じように、腹ばいになって、俺は倒れているようだ。まだぼやけた頭でけれどなんとか数度、瞬きをする。すると目の前の風景はようやくはっきりと輪郭を定めてきた。
後は定まった風景を処理する頭だけだ、と思うと、目の前に白い影がよぎり、赤い瞳が瞬いた。メイスだ。見たところどこも怪我をしていずに、気遣うようにこちらをのぞきこんでくる姿に心底ほっとして、元からたいして入ってなかった力が抜けそうになる。メイスはずいっと近づいて
「レザーさん?」
ああ、と答えたつもりが、枯れた喉に力が入らずに掠れた息にしかならなかった。しかしこちらが喉を乾いていることを、メイスは予想していたのか左手に持った皮袋を掲げて見せた。
たぷりと奇妙な風に揺れる膨れたそれは、水で満たされているとわかり我知らず喉がなっていた。白い手に顎が持ち上げられて袋の口をあてがわれる。意外に優しい手つきだ、なんて思う暇もなく息もつかずに水をむさぼった。少しだけむせるかな、と考えたが冷たい水の誘惑には勝てずに、それに運良くむせなかった。
水を飲んで、ともかく色々なものが身体をめぐっていくように落ち着いた。それでまた地面に腹ばいに伏せて、息をつく。仰向けではないので腹が圧迫され、少々、今流し込んだばかりの水が胃におちていくことに具合が悪いが…。
首を振ったとき、肩を毛先がちくちくと刺した。今までにない感触になんだ、と思うと腹ばいになった上半身から腕が抜け、手が勝手に出ていた。
指がなぜか曲げにくかったが探ってみると、あまり手入れしてない髪をたどって頭から続けた手ごたえが、すとんと首筋のところであっさり終わっていた。それから先にくくっていた俺の髪がない。そう言えば頭が軽いような気がする。かなり傍らに膝をついているメイスの声が聞こえる。
「レザーさんの髪はですねえ……」
おそらく背中を襲われたときに、後ろでまとめていた髪をばっさりと食人草にやられてしまったんだろう。
「あー、切られちまったか」
こんな髪の長さは何年ぶりかと、妙な感慨を覚えながらも
「まあ、これだけですんで良かったと……」
言いながら手を戻し、腕を突っぱねて起き上がろうと動かし――そして突然、焼けるような痛みが走ってそのまま声もなく突っ伏した。
それと同時に胃がひっくりかえるような、耐え難い衝動が襲ってきて、思わず顔を背けその先でせっかくさっき飲ましてもらった水と共に胃液を吐き出した。
さっきまでは感じなかった不快感が怒涛のように押し寄せてくる。酩酊に似た、でももっとやばい感覚が支配する。心臓が突然どくどく鳴り出した。身体中が違和感だらけだ。
うめいている俺の後ろから呆れたようにメイスが
「すむわけがないでしょうが。背中を半分ほど食べられていましたよ」
「……」
背中を半分……そうか、上半身、下半身の前に、前面部、後面部っていうわけかたもあったか。聞くだけでこれ以上悪くなりようがないと思った気分がさらに悪くなってくる。それと同時に骨が裂けて割れるあの激痛も思い出してもう立つ気力が失せた。しかし、そうすっと。……なんで俺生きてんだ?
おそるおそる手を動かした。気づかずにいられたさっきはなんともなかった腕が、今はびきびきと亀裂が入るように血管が妙な風に収縮している。なんだ、これ。
怖くなりながら、回して背中をひとなでしてみる。痛い。火傷の跡のようにひりひりする。…が、触っただけじゃわからんが、怪我の跡すらないような手触りだった。食われたのは夢ではない。すると。
「……お前が治してくれたのか?」
「あんな規格外な怪我を治せますか。お師匠様が、巨大食人草の口を裂いて腹を割って噛み千切られた肉や骨をですねえ、えぐりだして……」
言っていて気分が悪くなったのかメイスは顔をしかめて
「まあ、肉食ではない私にとっては気分が悪い真似をして再生させたのですよ」
肉食でもある俺にも十分気分が悪いことを言い放って、メイスはそれからちょっと気まずげにそっぽを向いた。俺はそんなメイスを見てゆっくりと気絶する前に起こったことを考えていた。にや、と笑った顔を思い出す。メイスの言った言葉。お師匠様。やはり本当にいたのかあいつは。
痛みは確かに和らいでいる。でもあの痛烈な感覚は忘れようと思っても忘れられない。石が詰まった袋で頭を立て続けに強打されたように、脳みそが震えていた。気絶できる余地もない。冗談じゃなく痛みだけで死ねそうだった。でも、それだけじゃなかった。
首筋を押さえられてかぶりついても身体が持ち上がらないよう大地に押し付けられ肉を食いちぎられた。あれは、被捕食者の痛みだ。尊厳も人格も個も何もかも踏みにじる。
食われるものの痛み、それは多分、人間が遠ざかった痛みだ。半端じゃなく辛かったし、怖かった。あの前には何もかもが色褪せそうだ。俺はメイスを見た。やっぱり少し顔をそらされた。
「この髪な」
「はい?」
「この髪。あんだけ長ったらしくしてたの、理由があんだ」
「防寒ですか?」
「違う。願掛けだ」
「ガンカケ……」
メイスの口調は頼りない。復唱してはみたものの、自分の中に思い当たる単語がなかったように、眉をひょいと跳ね上げた顔になっている。
「まじないみたいなもんだよ。何かをかなえようとしてそれが叶うまで切らない、って言う自分の中の決め事だ」
「……なんというか、レザーさんにしては珍しいですね。妙に感傷的というか」
「俺はもともと感傷的な男だよ。昔っから一人でうじうじ考えてんのが日課だったし。アシュレイもそこいら見かねて学院に来て一緒に冒険者やらないか、って誘ったんだろうしさ。でも、やっと自由気ままな稼業に入っても、その感傷のせいで仲間からも外れちまって一人でふらふら」
ふうん、とメイスが物珍しげにこっちを見てきた。
「レザーさんも、自分がなんで生きているとかそういうことを考えていたわけですか?」
なぜ生きる。メイスにしては破格の考えだ。思わず俺は瞠目して
「誰に聞いた?」
「アシュレイさんが言っていましたよ。人間というものの大半がなぜ生きる、みたいな妄想にとりつかれる時期があると」
アシュレイとメイスがなんやら話をしていたのは知っていたが……いったいなんの話してんだ、それ。
「……まあ、そんなもんかな。――怒るか? 日々生きんのが必死な動物からすれば不謹慎な話だな」
言うとメイスはちょっと俯いてから、また顔をあげた。
「よく、分かりません」
「俺も分からん」
思わずぼやくと、メイスは俺の首の辺りを見やり
「……でも、切られちゃいましたね。ガンカケ、とやら」
メイスが気を使っているという事態が慣れないんだが、さすがにそれを口に出すのは憚られて
「いいんだよ。もう。いい。忘れてた、正直。切られてようやく思い出したくらいだ」
「そうですか」
そう言っても、メイスはまだ冴えない顔でいた。そりゃまあメイスが気にかけているのは本当は髪じゃないからだろう。それは分かるが、自分から言うのもなんだか白々しいというか。考えながらちょっと自分の髪に触れてみた。
まあ、忘れてたな、確かに。いや、自分の軟弱さを示すようだが、レタスになって食われそうになっているときにそんなこと悠長に頭にない。
「なんかお前に会って、そういうのも忘れてた。戻りたいとか食われたくないとかわめいてるとな」言いながら髪から手を離して空でとめて、ふとなんで手をとめたんだと迷った末に、バードとミイトが話し合っている姿を思い出してそれにならってぽんとメイスの頭に置いてみた。
「怒ってない。なにがなんでも戻りたいって気持ちも一緒だしな。」
俺の手の下でしばらくメイスは黙っていた。やがてゆっくりと
「食べろと言うなら、まあ食べたんですが…」
思わず手を離した。やっぱりメイスだ。
「殺せと言われてなんだかちょっと考え込んでしまって。レザーさんの行動も矛盾ばかりですし。――さっきも。私のために食べられるのはいいのに、私に食べられるのは嫌だとはどういうわけですか」
「別に食われてもいいってわけじゃないが…」
「さっき食べられてたじゃないですか」
なんてシュールな会話かと思うが確かにそうなので何もいえない。俺はあの瞬間に考えたことを、なるだけ簡潔にまとめようとして
「お前のためなら、まあ、状況によってはそうなる。けど、お前に食われるのだけは絶対いやだ」
「意味がわかりません。」
「お前がメイスで、俺はレザーだから、嫌なんだ。お前だって、人間に……その、兄弟とか、母親とか」
「別に私は怒っていませんってば」
「いや、怒るとかより、それになんか感じるようになんなきゃいけないんだよ、多分。怒ってもいいんだ、それは。許さなくていいんだ。割り切る必要だってない。抱えといていい。そうなったら、多分、俺の言ってることもわかると思う」
そうして分かったときでも、その負債は多分返せないだろう。当たり前だ。親、兄弟家族を殺されて食われた。人間社会で言えば悲劇なのに、こいつの中では当たり前だ。少なくとも、当たり前だったわけだ。怒っていない、と平然とした顔で言うほどに。不意に俺はメイスの顔が見れないほどの羞恥を感じた。なんにもわかっていなかった自分がたまらなく恥ずかしかった。手の甲で顔をこする。
「どうしました? レザーさん」
「いや」
もう二、三度、殴りつけるようにこすってからようやくメイスの顔を見た。
「なあ、メイス。俺はさ、ずっと、自分でない自分を強制されてた。俺が、俺が、って言うけど、昔は、俺は俺でなかったんだ。ずっと違うものになれって言われて苦しんでた」
その言葉はぴんとこなかったようでメイスは首をかしげて
「なんでもできる、と聞きましたよ?」
「あいつらが、話してたのか?」
「ええ」
「人よりちょっと小器用だっただけだ。俺はむしろ、なんにもできない部類に入る人間だ」
本物じゃなかったから。その言葉は胸中にとどめて。
「アシュレイやあのお前がいったミイトみたいな、才能もない。凄い奴ってのはそんなことで悩まないもんさ。俺は情けないくらい力がない。押し付けられて逃げ回ってただけだ。……いや、今でも逃げてるかもしれない。メイス、自分って怖いもんなんだよ。自分を持つって怖いもんだ。それに迫られたら俺みたいな臆病者がひたすら逃げ回るくらいな。だからそんなに割り切れないんだよ。自分がないってことも、どれに分類されてるかも。」
メイスはしばらく腕を組んで考えていた。考えて、それからふう、とため息をついて空を仰いだ。
「やっぱり、よく分かりません」
言ってこっちを見た。
「でも。ともあれ、少なからず悩まなければならないことなのはわかりました」
メイスの出した結論は振りかえって見た昔の俺なんかよりよっぽど上出来なものだった。我知らずこわばっていた身体から少し力が抜けていく。そこでふと大事なことを忘れているような気がして、俺は頭をひねってみた。切られたばかりの毛先が首筋をくすぐる。髪は戻してもらえなかったんだなあ。……ああ、コルネリアスのことか……?
「しかし、後で助けたんなら、なんで俺を殺そうとしたんだ? あいつは」
「なんとなく」
一言で終わった。思わず見やった先、メイスは心外そうに
「私が言ったんじゃないんですよ。お師匠様が言ったんですから。ちなみに言われたとおりに殺したところで私を元に戻す気もさらさらなかったって言うからあの鬼畜極悪軟体節足動物以下の神経を持ったお師匠様らしいですよいっそ」言っているうちに気分が高まってきたのか語尾が強くなったが、一旦言葉を切り急に失速して「……まあ、何度もだまされているんですが、今回、本人まで出てきて念の張りようが凄かったんでつい」
そう、本人が出てきた。びっくりした。まさかグレイシアに……
ぐれいしあに。
「そうだっ! グレイシアはっ!?」
忘れていたことが信じられず俺が思わず声をあげてメイスを見やり、それからなーんか気まずいものを覚えた。けれどほっとしたことにメイスはああ、と普通に答えて
「ご無事でしたよ。」
「今どこにいんだ?」
「今は、私と自分がいなくなったことに混乱するといけないから、と隊に戻られましたが」
なんて冷静なんだろう、と思うが、グレイシアらしい。緊急事態になればなるほど理性的なものの見方をする。その行動にいつものグレイシアを感じて、なんとか大丈夫そうだ、と思うと気が抜けた。
「……なんか言ってたか?」
「レザーを頼みます、ですって」
ああ、グレイシアだ。ふっと振り向いて微笑んでそう言う姿が容易に想像できてしまう。気と共に骨を少し抜かれて、そして、次に来たのは盛大な怒りだった。
「あの野郎……よりにもよってグレイシアに化けるとは……」
思えば思うほどむかむかしてきたが、ふと気づいて
「待て。あいつ、グレイシアに化けていたんだよな」
「ええ」
「……じゃあ、その間、グレイシアはどこでどうしてたんだ?」
「お師匠様が持っていたらしいですよ」
「持っていたぁ?」
突飛な言葉に思わず声をあげてしまうと
「身体を小さくさせたのか、レザーさんみたいに化けさせたのか、はたまたどこかに封じていたのかは知りませんが……不可解なのは、それが一応同意だったってことでしょう」
「同意!?」
「ええ。あの方がずいぶん平然としているので、私、尋ねてみましたもの。こんな勝手なことをされて怒ってないのですか? って」
「……」
「そうしたら笑って、同意でしてるもの、と仰りましたよ。」
「……」
女は分からない。何かその話を聞いてどっと疲れてしまった。まあ無理強いされてないだけマシだろうが……でもそうするとグレイシアは同意して、あのけったくそ悪い奴と四六時中一緒にいたわけか?
俺はしばし不快なことを考えて、ぼきぼきとこぶしを鳴らした。
「今度会ったら、絶対に殴る」
「ここにおられますよ」
「は?」
「今、そこの泉で穢れをはらっていますよ」
一瞬、俺はぴっと指し示したメイスの言葉を解さなかった。沈黙してそしてぎょっとして叫んだ。
「まだいんのかよっ!」
「ええ、なぜか」
俺はあわてて泉に目をやるが、丸い水面は平和そうでどんな影も見当たりはしない。
「……見えないが」
「もぐってるんですよ」
ナマズかあの野郎。
俺が気づいてから今まで、人が息をとめて潜っているにはどう考えても不可能な時間が流れているんだが。
「そろそろ、あがってくる頃だと思いますね」
メイスもそちらを向いてのんきに言った。
「……今はなんにも化けてないだろうな」
「ええ。元の姿のままでしたよ」
そう呟いてふと、メイスの顔が動いた。俺もそれに気をとられて目をやった。
それまで滑らかだった、泉の中に波紋が産まれた。ひとつひとつと新たに生まれた波紋の中からまた新たな波紋が生まれて、何重にもなった完全な円形が透明な水の面に広がっていく。
やがてすぐ近くの岸の水がはねあげられ、くらげの手足のように水面にゆらありと広がった黒い髪が現れる。両手が突き出され、すぐにそれは大量の水と共に岸へとあがった。メイスがそちらを向いて
「穢れ、とれましたかー? お師匠様」
「水も魔力の浸食を受けているな。これでは清めたのかさらに穢れたのかわからん」
耳に入った水や前髪の水滴を鬱陶しそうにはらいながら、一歩ずつ近づいてきてそいつは毒づいた。全身がぐっしょりと濡れて光加減で鮮明に映る姿がぼやけた俺の記憶を更新していく。
濡れたせいで今は艶がある、けれど重たげな黒い髪、きつそうな切れ長のこれまた黒い目、あまり印象に残らない姿形だと思ったが、その二つだけでも立派な特徴としてなりそうだ。飾り気のない、を絵に描いたような実に地味な黒い魔道着が水にべったりと張り付いていつもは消しているのだろう身体の線を浮かび上がらせている。
あの呪わしい運命の日に俺が出会ったのは、間違いなく、こいつだ。諸悪の根源。最大最強の敵。
コルネリアスは盛大に雫を滴り落としながらも歩いてきて、腰を下ろし、手前の地面に無造作に裾を振った。その裾から数匹のよく太った魚が飛び出してくる。ぴちぴちと雫を飛ばしながら跳ねるその一匹をつかみあげて、臓腑にかじりつくと腸の部分を引きちぎって脇に吐き出し、まだ跳ねる魚を食い始めた。
がっついているわけではないが、しごく手際良く食っている。瞬く間に頭と尾だけになったそれを放り出し、次の一匹を拾い上げたかと思うとメイスに投げつけた。メイスが気持ちが悪そうにまだ跳ねるそれを受け取る、
「火をおこせ。生は飽きた」
「えー。いいじゃないですか、生で全部食べれば。それだけで私がなぜそのような……」
「魚のかわりに、ウサギ肉にするか?」
「すぐに用意します少々お待ちくださいお師匠様」
メイスの顔が青ざめながら笑顔になった。そんな様は初めて見る。それからメイスはそそくさと辺りの小枝を集めると火打石を取り出してかちかちとやり始めた。メイス、お前、火なんか使えたのか。初めて知ったぞ。コルネリアスもそのさまを見て
「しばらく見ないうちに、いっそう手際が悪くなったな」
「ええ、はい、もう……」うつろに答えてメイスがさっと立ち上がり、手ごろな枯れ枝をつっこんだ。「はい、お師匠様のようによく燃える薪ですよー」
ぱちぱちと火が燃える。腰掛けるコルネリアスの黒いローブから滴る水が川になって地面にしまをつくっている。相手も雫が鬱陶しいのか少し顔を振ると、重たげな髪から水滴が飛んでメイスが嫌な顔をして、俺にもかかってきた。魚が焼けていく。良いにおいが漂う。生魚と同じようにコルネリアスが噛み付いて咀嚼していく。やがて綺麗に平らげられて残った骨が地面に落ちた。ほねが、しろい。
「これでご満足いただけたでしょうか、お師匠様」
メイスが棒読みで言った。それに答えてコルネリアスは真顔で
「バカ面が前にあって、近くにアホ面が転がっていると、それだけでまずい」
「そう言えばレザーさん、さっきからおとなしいですねー。」
このなんとか言ってくれ、というように怒りを含めてメイスが言う。めいすが、いう。……
……
俺は立ち上がった。関節がばきばきいったような気がしたがもう気にならなかった。
俺はそいつを見た。恨んでも恨んでも恨み足りない相手を。
俺はそうして指差した。指の先が震える。気が遠くなる。俺は息を吸い込んで………
俺は叫んだ。
「女―――――――っ!!!???」
俺の前に腰掛けた相手のまとう、ぬれた黒ローブがはっきりとそれを示した。どうしようもない事実を前に驚愕と憤りとなんだかわからない理不尽さをかきあつめたものを一気に放って、それから力が抜けて俺はそのままその場にどっと座り込んでしまった。
俺の叫びが響き渡った後、メイスはしばしの間沈黙してそれから「はあ?」と素っ頓狂な声をあげた。
「何いまさらなこと言ってるのですか、レザーさん。女に決まってるでしょうが」
「聞いてねえよっ!」
「聞くも何も実際に会ったことがあるじゃないですか」
もっともだ。しかししかししかし。頭の中をぐるぐる回っている。ごわごわした黒いローブをまとって声も低い方だし、背も高い方だ。ともあれその物腰がとても女とは思えなかった。
「ま、まじか……?」
「だから何を驚いてるんですか」
俺の驚愕があいにくメイスにはさっぱり分からないらしい。眩暈すら覚えながら俺はうめいた。女女女女女……ああもう何言っていいのかわからん。ただ泣きたくなってこれだけ言った。
「……女は殴れん」
それまで何を言っているのだろう、と覚めた顔をしていたメイスは愕然として
「何言ってるんですか! レザーさん! どうしてそういうことになるんです!」
「仕方ねえだろ! そういう教育されたんだっ!」
「洗脳というのですよそれは。だいたい生物界において生命力が強いのは雌。子種さえあれば雄など多少縄張りを守る程度のすぐに死ぬような弱いものですよ! 傲岸不遜! 弱肉強食! 性格最悪! 己ためならばすべてを踏みにじりその行為に何一つ恥じるどころか何を勘違いしたのか誇りすらもってひけらかすそんな汚物を眼前にさらすだけの存在の害悪! 生命の罪悪! 鬼畜極悪節足動物以下この世の質の悪さが一堂に集結合体融合ファイナルフュージョンを繰り返してできあがったまさにこの世の汚物の中の汚物ベストオブ汚物! そのようなしぶとさとゴキブリなみの増殖する生命力を誇るお師匠様が雌じゃないわけないじゃないですかッ!」
いつもは虚空に放つそれが、興奮しているのか今はぴしりと突きつけた先、黒髪の女魔道師はぎょっとするほど近場にいた。妙な空気を感じ取り、ハッとメイスが我に返ったが遅かった。その時ばかりは怯えた子うさぎのように目を泳がせたメイスに向かい、コルネリアスは無感動な様子で
「しばらく見ないうちに一段と口が回るようになったな」
「い、いや、お師匠様のおかげ――」
全てを言い終えれないうちに、メイスの身体が石鹸でも踏んだように盛大にひっくり返っていた。地面に顔ごとつっこんだ後、べったり伏せたメイスはなにか巨大な物でも載せられているように、うめく。コルネリアスはあくまで静かに
「晩飯は兎鍋にするか」
「い、いやそんなことは微塵も思っておりませんほ、本当に真に! 本当に思ってませんから!」
ここまで屈服したメイスは初めて見た。うわあ、めっずらしい…。しかし奴はそれだけにとどまらずくるりと俺を向いた。ぎくり、とするがひるんではいけないと
「てめえ、人ひっかきまわして滅茶苦茶にして、一体全体、なにがやりたかったんだ? ミイト・アリーテもてめえの仕業だな?」
「それだけほざければ十分だな」
すいっと一瞬、青色の光が揺らめいたかと思った瞬間、俺は苦いデジャヴウを覚えた。金を出すなら考えてやろう、その言葉に肩をすくめて脇を抜こうとして。一瞬だけその口元と指先がゆらめいた。次に襲った感覚もまったく同じだった。
悲しいことに慣れた感覚に一瞬で俺は自分がどうなってしまったのか悟った。
「あーっ!!」
もしかしなくても今は千載一遇のチャンスじゃなかったかー! しかしいくら気づいてもすでに俺はレタスだった。丸い。転がる。レタスだ。さっきまで人間だったのに。
「あー! あー! あー!」
「やかましい」
逆回りに吹っ飛ばされた。玉突きの要領で、固い木靴が地面すれすれに伸びて、俺の真ん中をすこんと蹴ったらしい。あー……ぐるぐる……
「ああっ、レザーさあん!」
ぐるぐる回る意識の中で、抱き上げられたような気がした。
「お師匠様! なんてことを! 傷むじゃないですか!」
ああ……いつものメイスだ……怖いくらい……
へろへろしながらもレタスにされたことで、女ショックでくじかれたこれまでの道中、溜めに溜めた憤りが戻ってくる。な、なぐるのは女だから無理だが、一言くらいは言ってやらないと気が…
「おい、てめえ――…」
言いかけた言葉は、ばっとメイスが後ろを向いて抱き込んだことで不発に終わった。
「だめですって! レザーさん! お師匠様に真っ向から逆らっては」
「お前言ってることめちゃくちゃだぞ!」
「面と向かって、ということです! やるなら闇討ちです! いいですか、そもそも、草食動物である私がレザーさんを食すのでレザーさんは第一次生産者ですね」
「誰がだっ!」
「本来は草食動物なため第一次消費者ですが私は人間の姿をしているので私を食そうという人間はまあいません。お師匠様以外。あのひとはやりますよ、そもそも私は最初にお師匠様に捕まえられてシチューになりかけたわけですし」
そう言えばそうだった気がする。
「つまり私はこの人間体でもお師匠様がいる限り第一次消費者! レザーさんを食べる私をお師匠様が食べどんな獣でもあんなもの食べないでしょうからそれ以上の存在はいない! つまりお師匠様こそ食物連鎖ピラミッドの頂点にたつ存在! 自然の掟に従っても私たちが真っ向から闘うべき相手ではありません!」
……一瞬、頭の中にすげえ頭の悪そうな図が浮かんだ。食物連鎖ピラミッドの頂点に立つ女。……やばい、その響きに問答無用の説得力がある。なんかレタスの身では到底近寄れねえような。なんだこれは、自然の掟の重みか?
ふと黒い瞳が軽くこちらをにらんでいるような気がした。メイスの腕の中で、俺は奴を見た。奴は俺なんぞ見ていなくて、炎に綺麗に身から離れた骨をあぶっていた。火であぶった骨をばりばりと食べた後、コルネリアスは立ち上がった。それからこちらを一瞥して言った。
「行くぞ」
「ど、どこにだよ」
ひらりと黒い服の裾を翻して、コルネリアスは簡潔に言ってのけた。
「決まっている。ドラゴンのところだ」
もう未来の展開が心の底から分からなかった。
<ドラゴンの森で> 完
レタスになった男「(続)ドラゴンの森で」へ続く




