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ドラゴンの森で(9)


 迅速な行動を可能にするために、クエストに装備以外の荷物は、ほとんど持ってくることができない。そんな制限の中で、一応は実用もかねているものの、暇なときに取り出しナイフを磨く携帯用の小さな研石が、手遊び品と言えば唯一そうかもしれなかった。

 研ぎ終えた石を腰のすぐ後ろにつけた小さなポーチにしまい、空に突き刺すように垂直に刃を立ててみる。研ぎ澄まされた薄い鉄は、氷山の頂きのよう純度で凛とした高潔さがある。

 自分の横髪を一本引き抜き、ふっと吹きつけてみる。光の中ではすぐにまぎれてしまう黄色の髪は刃に当たった瞬間に短い二本の髪になり左右に流れていった。とぎ具合は申し分ない。ならば。

「すること、ないな……」

 ナイフを片手に、秋のイチョウの葉のような黄色い髪をした少女リット――本名リシュエント・ルーは辟易した声音で呟いた。

 パーティリーダーのアシュレイは、ルーレイに無理矢理引き込まれた形で連れていかれてここにはいない。集団を保つためにはなんだかんだと言っても、彼が手を貸さなければならない状況は大きい。

 ならばいっそルーレイがボス面をするのではなくアシュレイが成り代わればいい、と一瞬思ってそんな事態は嫌だと首を振った。アシュレイがリーダーを張るのは自分たちのパーティだけで十分だ。

 不快な想像に傾きかけた思考を、頭を振るという原始的な方法で追い払い、そうして見上げた先、白い肌の少女が歩く姿が見えた。だいぶ見慣れてきたが、それでも時にハッとするような容姿を持った少女だ。

 髪も肌も真っ白で、瞳はルビーのようにピンクがかった艶やかな赤だ。うさぎみたい、と思ってその的を射た表現にへらっと笑った。

 けれど彼女はうつむきがちに硬い表情をしていた。それを目にして、先日のアシュレイが彼女について言っていたことを思い出す。元来、思考より行動を得意とするたちだ。逡巡はそう長くはなかった。

「おーい、メイスちゃーん」

 ぶんぶんと手を振った。無視される可能性も考えたが、こちらに気づいて儚い表情を浮かべた顔をあげ、歩み寄ってきた。嫌々かと思ったが、彼女はこちらに興味を持っているように、顔をのぞきこんでくる。人見知りなど嘘だろうと思う不躾な視線にちょいとのけぞると

「あなたが」

「へ?」

「あなたが、主に獣をとっていますよね」

 獣、と言われてモンスターではないな、と考え

「……晩御飯とかの?」

「ええ」

「うん。僕がだいたいやってるよ」

「なぜですか?」

「へ?」

「なぜ獣をとるのですか?」

 突拍子もない質問にさすがにしばしの間合いをとって、リットはライトグリーンの瞳を瞬かせた。

「お、お腹が減るから?」

 その答えに相手の細い肩がすっとさがった。

「そうですよね。」

 それだけ言って考え込むよう俯く。白い前髪が垂れて髪の生え際に青白い影を落とした。リットはちらちらと揺れるそれを見て

「……あの、僕にたいして怒ってる?」

「いいえ、当然のことですもの。」

 本音だろうと見当はつけられる程度の強さの声音で、彼女は顔をあげた。とても変わった表情だ、とリットは思った。とても乾いている。何を考えているときの表情なのか、ちっとも分からない。

「私、そのことで怒ったことはないんです。一度も」

「それって、ただなんとなく怒る気になれなかったのか、怒ることじゃないと思ったから?」

「後者ですね」

「メイスちゃん、なかなか理詰めで物判断するよね」

「それ以外の何で物事を判断するわけですか?」

「気持ちとか、好き嫌いとかさ」

「不利益ですよ」

「んー」

 リットが顔をしかめて「あんまりうまく言えないけど、わかっててもできないもんとかさ、利益ってそもそもなにかとかさ。んー」

 もう一度盛大にうなった後、いやこれは放っておこう僕の頭がパンクするし、と前置きして

「ぼく頭悪いからはっきり言って欲しいんだけどさ、メイスちゃんって何で悩んでるの?」

「あなたに話す必要性を感じません」

 向けられた言葉に、うわキツイ、と他人事のように感じた。しかし揺れる赤い瞳の中に悪気はないようなのだ。

「そーでもないかもよ。まあ僕は頭よくないし、理性的でもないけどさ。誰かに聞いてもらうと案外、解決するって言うもん」

 黄色の髪の少女の言葉は、尖らせた唇で子どもが言うような拗ねたものに響いたが、向かい合う二人の少女はどちらもそれを気にしなかったようだ。

「……そうでしょうかね」

 わずかばかりの譲歩が漏れたのはしばらくしてからだ。リットは嬉しそうにうん、と頷いたが、頼られるとなると生半可なことはできないと急に使命感がわいてきた。うなってあぐらをかきながら自身の髪をぐしゃぐしゃとかき回すと

「でもそうすると、僕だけじゃ埒が明かないかもなあ、ライナスでも呼ぼうか? 三人寄ればほにゃららで」

「どこにいらっしゃるかわからないでしょう?」

「大丈夫だよ。虚空に向かって殴る、殴る、殴る、って三回唱えれば」

「出てきませんよ」

「ほら、出てきた」

 突然の言葉の挿入にも全く動じないリットがもたれかかった木の裏から、ひらりと現れた濃い灰色の髪の青年は、杖を抱くように腕に挟んで、はあ、とため息をつき

「様子を見にきたんですよ。アシュレイに言われて。彼はルーレイに捕まっていますから。ボーフラじゃないんですから、どこにでもわきませんよ。そもそも僕の好きな言葉は撲殺、殴打、と」

「ねえ、一応フォローのつもりで柔らかめに言ったんだからその横から速攻で墓穴掘らないでよ」

 遠い醒めた目で呟いたリットに、ライナスは歩を詰めてかがみこみ

「それで、何の用ですか? 僕は殴ることしか人には教えられない人間ですよ」

「頭かして」

「頭?」

「メイスちゃんの悩み事を聞こうの会。三人寄ればなんとかの知恵って言うでしょ」

「文殊」

「はい、モンジュ」

 そこでライナスはちらりとメイスを見やった後、やれやれと腰掛けて

「じゃあ+1でカールも暇そうにしていたから、誘ってみたらどうですか。」

「じゃあカールちゃんも呼ぼう。」

 ひょいと背中に手を回して背負った弓を取り出すと、リットは爪の線で無造作に張った弦をはじき始めた。明確な音はしないが、ぶんぶんと風を切る音がする。しばらくもしないうちに茂みから、カール・ウィンターがその巨体を静かに現した。

「呼んだか?」

「呼んだ呼んだー。カールちゃんこっちこっちー」

 華やいだ声を出してリットが手を振ると、太目の眉をかすかに寄せただけで、カールは言われた通りに少女の横へと腰掛けた。

「まあ、なんか聴衆多くなっちゃったけどさ。気負わずに、ライナスが森の木その1、カールちゃんが森の石その1、僕、野の花一厘だとでも思って黙って聞くから気楽に話してよ。」

 白い髪の少女は不審そうに三人を見回したが、明るいリットの笑顔にあうと諦めたようで、かすかに息をつき

「当然のことなのに、どうしてか悩んでいるんです」

「あ、それなら簡単」

「さっそく喋りましたよ、雑草その1が」

「野の花一厘だよ。森の木は黙っててくんない?」

 すぐに脱線しかける相手を、もはや何の期待もせずに白い髪の少女は見やっていたが、リットがぱっと向いて

「当然のことと思っていることが、もしかしたら違うんじゃないかって、そう思っちゃうから、悩むんでしょ」

「リットにしては珍しく明確な答えで」

「当然のことですよ」

「当然じゃないかもしれない」

「……どちらかが成り立たないんですよ。こちらを立てればあちらが立たない。どちらを選んでも矛盾が生じる。それは人間が詭弁をたてるせいですが。ではどうして人間は詭弁を立てるのか。それは、利己主義を隠そうとしてだと思います。別に、それはそれでいいと思うのですよ。自然界においても、どんな生命だってそうなんです。利己主義以外にそもそも主義は存在しない。なのにどうして人間の世界は、己の利己主義を隠そうとするのですか?」

 リコシュギってなに、とリットが傍らのカールの腕を引いている横で、ライナスがいささか面食らったように

「……ずいぶんに、抽象的というか、深淵な話ですね」

「具体的で簡単な話です。」

 そこでカールから説明を受けていたのか、ちょっと考え込んだ様子でリットが

「だってねえ、みんな、その、り、リコシュギ? じゃとんでもないことになるじゃん。自分が好きなようにしたら他人にも好きなようにされるってことでしょ? で殺し合いとかもどんどん広がっていてもっといやーな目に遭うのがわかってるからみんなそういう風に決めてるんじゃないの?」

「するとそれは種の存続、群れの本能になるわけですから……」そこで少女は眉と眉の間をしかめて「個はあるのかそれとも個のカモフラージュの中の群れなのか」

「そんなにきっちり分けられるもんじゃない」

 ふと低く響いた声に白い髪の少女は顔をあげ、少女に注目していたリットとライナスも顔をあげて言葉を紡いだ「森の石その1」を見やった。

「一人では生きられない。だが、全く同じになることもできない。個と群れも同じだ。存在自体が、矛盾しているんだ」

「存在は、矛盾しないんですよ。どうあっても。でも、あなた方は、自己の中で果てしない矛盾を作り出す。今だってそうですよ。あなた方、どうして私の話なんか聞くわけですか?」

「え? 君が悩んでるからでしょ?」

「なぜ私が悩んでいると、あなた方が話を聞くわけですか? 必要性がないと言ったのは、私は双方にですよ」

「そんなこと言われてもなあ……。仲間だからだし、君が結構好きなのかもしれないし」何気なく呟いてリットが口を開きかけたメイスへと、指を開いた両手を突き出して言葉を止めさせた。「それがさっき言ってた、僕の判断基準なんだって。好き嫌いとか、気持ちとか、そういう面」

「どうしてそのような感情が生まれるのですか?」

 重ねて問われうーとリットがうなる。その横からライナスが笑って

「それが生じるのは、リットだけの責任ではないんですよ。君がいるから、そうもなるわけです。君がいない限りリットのその感情は生まれずに、生まれない限り何もない。相対性、ですね。物事は相対的になる。ま、つまり一対一になって初めて他と自己が識別される。たとえば僕は殴る対象がなければ僕は殴り好きのライナスにはならないわけです。リットも投げる的がなければ、屋台荒らしにはなりようがない。客が存在しなければ宿は成り立たない、カール嫌味じゃありませんからね。そのとき、僕とリットとカールは殴り好きでも屋台荒らしでも店主でもなんでもなくなってしまう。レザー、彼はお人好しですが、彼一人ではお人好しにはなれないわけです。親切にする何かがないと。つまり親切にされる僕らや君がいて初めてレザーはお人好しのレザーになれるわけです。もっと突き詰めると、レザーがレザーでいられるのは僕らや君のおかげ、ですね。それと群れと個も。群れに対した時と、誰かに対した時では、自分の在り処もまた異なるんじゃないですか?」

 んー、とリットがうなり続けた後、やがて顔をあげて

「き、君がいるから僕がいて、僕がいるから君がいる」

「そう。よくわかりましたね」

「なにそのスローガン」

「なにと言われても。そういう理論なんですよ。だから矛盾も生じるんじゃないですか。他というのは相手によって色々なものが映る鏡ですから」

 リットがぐしゃぐしゃと頭をかき回した後

「む、難しい……分かるような分かんないような。メイスちゃん、こんな難しいの悩んでたのか。そりゃずーっと悩むよね」

「リットにはいい頭の体操になったんじゃないですか?」

「頭の重労働だよ」

 むっとしながら答えてけれどリットは何かに気づいたよう慌てて顔をあげて

「でもだからってこれからも遠慮しなくていーからね。ばんばん行こうよ。野の花はいつだもウェルカムだよ」

 近づいてくる足音がした。カールが首を静かにめぐらせたのを先頭にいっせいに一同の視線が音の出所へと向かった。

 薄紅色の髪をした女性が、向けられた幾つもの視線に少し戸惑ったように立っていた。あ、シアちゃん久しぶりー、と嬉しそうに手を振ったリットにかすかに笑みを返した後

「なにを話しているの?」

「悩み相談。メイスちゃんを囲んで。」

 柔らかな視線を注いでいた彼女の顔がかすかに影が差したのを、その場の全員が悟った。そして先ほどの幾分か硬さがとれた顔に何倍もの硬さを描く顔で見つめ返す白い髪の少女を、慎ましいがどこか意味を含めた視線で彼女は見下ろし

「そう。でも、ちょっと用事があるの。連れていってもいいかしら」

 そう言って返事も待たずに「ちょっと来てくれるかしら」とメイスをつかんで立たせる。唐突でそしていつも落ち着いた彼女の行動が奇妙で、言葉こそかけられなかったが残された三人の冒険者の視線は彼女の姿を追った。、けれど答えは得られずに彼女がやってくるときに、踏みしだかれた草がしおれて揺れているだけだ。

 三人が向けてくる視線から逃れたところで、薄紅の髪の女性は

「ごめんなさいね。来るのが遅れて。」そう言ってから、ふと気づいたように「レザーは?」

「さっき、荷物の場所に置いてきました。……仲間の盗み聞きをするのは好きじゃないそうで」

 そう、と彼女は頷いた。

「レザーに、あなたをちゃんと理解してあげるように言われたのに、駄目ね。難しくてなかなか」

「……結構です、別にそんな気配りをしてくださらなくても」

「ああいうときは、遠慮なくしていいから。」

「いえ、別に不快だったわけじゃないですから。あの方々は強引なところはありましたけど、それなりに有益な意見を言ってくれましたよ。個や集団と私が考えていることについて。利益の面で言えば利益でした」

「いいのよ、メイスさんにはわからなくても」

 そう、彼女は優しく紡いだ。その言葉に白い髪の少女の顔がこわばった。

「あなたは元に戻れるよう、努めなければね。私も出来る限りの協力をするから、必要なときは言ってね。元に戻りたいのでしょう? 難しいことだからそのことを考えないと」

 万の反感が浮かんでもその言葉だけは確かだった。ええ、と紡ぎかけた喉がこわばった。なぜだか汗が吹き出てくる。四肢が引きつるような嫌な緊張感が走った。

 なんとか顔をあげようとした一瞬、目の端に白いものがよぎったような気がしてハッと息をのむ。光と緑が溶け合って柔らかな木漏れの中、紛れもなくあの白い鳥が、自分の姿を見せつけるように飛んでいた。

「メイスさん、どうしたの? 気分でも悪いの?」

 さすがに態度がおかしいと思ったのか心配そうに問いかける言葉も、白い髪の少女には素通りする。やがて肩を揺さぶりにかけた相手の顔を見たが、彼女には見えなかったのか、ただこちらを気遣うようにじっと見ていた。触れられた不快も、今は気づけない。

 大丈夫? という言葉に、ええ、となんとか紡いだ言葉はひどくかすれていた。




 木々の枝をしならせ、柔らかな葉を踏みしだき、闇が落ちた森を一つの影が往く。時に夜に同化し、時にその速さで夜から自らの輪郭をもぎとり、鋭く夜を見つめるミミズクの目にすら止まらぬ動きで枝から枝へと飛び移る。

 どんな獣よりも俊敏に、流れるように動きつづけていた影はある大木の枝で、ふと立ち止まった。前方の木々の葉影の中に、張りめぐらされた一本の透明な線が、星明りに一瞬だけ照らされた。これが仕掛けてあるというトラップだろう。突破することは難しくなさそうだが、先に何が仕掛けてあるか分からない。

 一瞬で判断すると、ひときわ高い位置にあった枝の先を踏みこむ。勢いと重みで極限までしなった枝がついには大きく弾け、その反動を生かして木の葉のように空に舞い、巧妙な罠も何もかもひとっとびに飛び越した先、空中で数度回転を加えて軽やかに地面に着地した。

 どんなに人と変わらぬ姿と謳われても、その力を見せれば一遍で人外のレッテルを貼られることになる身体能力だ。

 誰も並べるものはない能力で、夜の中を疾走していたが、目的地の最後に、彼女はその力を発揮せずにすたすたと小さな歩幅で進んだ。森の木々が開けた円形の広場、つるりとした表面に闇をいっぱいに溜めたいびつな円形の泉が鎮座している。

 上質のタールか、黒真珠の肌か、泉の表面は風のない夜に瞬間が永遠と凝結したように比の打ち所のないなめらかさだった。

 その真上を、飛び跳ねる小石のように何かが動いた。不思議なほど闇を弾く、白翼が滑らかな湖にいくつかの波紋を刻み、低く飛びながらこちらに向かってくる。白い髪の少女はそれを見やった。

「ご丁寧に監視ですか。」

 目の前の黒い泉の水面近くに鳥が舞い、波紋を描き続ける。なんとはないその動きだが、赤い瞳には執拗な催促に映った。

 一度頭から追いやりたいとでも言うように目を閉じる。しばらくして開いた時、果汁のような艶やかな瞳は、感情を湛えて光っていた。その色は少しだけ、敗北に似ていたかもしれない。

「わかりましたよ、お師匠様……」

 その独白を確かに受け取ったとばかりに突然鳥は上昇し、そうしてあっという間に彼女が来た方向から向かって右側の茂る木々へと消えた。一人残された少女は俯いた。罠にかかった獣のような気持ちで、ただもうあの鳥は見たくないとばかりに去った方向からは顔をそむけていた。




 少女の口からその言葉が漏れた瞬間に、白鳥は大きく弧をかいて茂みへと飛び込んだ。少女を置き去りにして、しばし木々の隙間を抜けて飛び続ける。夜の風は冷たさを伴っていたが、一直線に飛ぶ鳥には露とも感じないらしい。

 けれどその先の大地は、鳥を悟った。まだ遠い羽ばたきの音が聞こえてきた瞬間に、木々が根を張る地中にぞろり、と得体の知れない気配が蠢きだした。

 自分が向かう先に何が待ち構えているのか、一向に知らぬ鳥がその真上に近づく。地中の冷徹な意志は存在を隠し続ける。鳥は近づく。

 そして鳥が自らのテリトリーに差しかかった瞬間。

 爆発したように大地がはじけた。土と泥を撒き散らしながら細長い触手が大地から飛び出し鞭のようにしなって天を突き、悪夢のような速さで木々の間の鳥へと迫った。

 間合いといい、タイミングといい、そのおぞましい影は確実に白い鳥を捕らえるかに見えた。けれどあえて言うならば冷酷な蛇がもっとも近いだろう、その背筋が総毛立つような動きを見せる影が哀れな生贄に手を伸ばした瞬間、ばちりと手痛いしっぺを食らったように、鳥の直前で痺れ弾かれて退散した。

 何事もなかったように鳥は翼を広げ、やがて前方に枝を広げる、他の木々と比べると多少抜き出た大きさの樫の木へと近づいた。その木にはそこそこの高さの場所に、垂直に伸びた太い枝があり、枝の上には巨大なこぶがある。

 鳥がその枝へと近づくと、こぶが動き出して枝と自らを分けた。人影だった。不安定な木の枝で両腕を組んでもたれていたのが遠目には木のこぶに見えたのだ。

 開いた足をぶらりと枝の下になげ、上半身を起こしたその肩へ鳥は止まり、主に向かってしばし嘴を動かした後、伸ばされた手に乱暴にわしづかみにされた。鳥は手の中で一条の白い煙となり、立ち上ったがすぐに消えた。

 しばしの沈黙の後、人影の小馬鹿にしたような笑いが様々な思惑を紡ぐ夜へと流れる。

 やがて笑いを止めた人影が立ち上がり、その姿が明滅した。瞬時にして枝から地上へと移っていた。消えて、現れた。言葉にすればごくシンプルで、人には不可能な真似だ。瞬間移動の原理はまだ魔術では解明されていない。

 そんな事実など知らぬとでも言いたげに、人影は、何気なくきびすを返した。寝静まった森は、明確にはそれを語らずとも。

 夜にとける人影が目指した先は間違いなく、白い髪の少女が泉へとやってきた方角だった。




 この大所帯でもう三日だ。メイスは相変わらずどっか変だったが、集団としてはまずまずの経過で、これまで片手を越えるモンスターに遭遇しながらも奇跡的に一人の死者も出さないという上々出来で進んでいた。この頃になるともうだいぶ集団行動にも慣れてきたが、メイスは日に日に無口になっていくようだった。

 のに。

 女心っつーのはわからん。今日の午後からメイスは妙に明るくなった。いつもののほほんとした人を食ったようなあのマイペースさが戻ってきて、俺に聞かせるような独り言も言った。今日は小川のほとりでの野営だったので、川の流れの音にまぎれて十分話ができそうなところまでくると、

「どーした、最近沈んでたのに。急に元気になって」

 メイスはにこにことして

「まあ、割り切りですよ。いいかげん、あの人間たちにも慣れましたしね。逆になんでしょう、群れの中の行動というのは私にはわかりやすいんですよ。この世の動物は単位が多少異なりますが、どれも群れを作るものですからね。普段は単体で行動したとしても、繁殖期には家族とも言い換えれる群れを。そうすると行動様式もわかりやすくなって、早い話が人も群れるとその行動はより動物に近くなるのですよ」

 なんだか微妙なテンションだなあ、と俺は聞いていて思った。メイスは早口の長広舌が得意だ。けれど今のは、どこか違っているような気がした。でもここ数日黙って沈んでいたメイスを思うとあまり余計なことは言いたくなかった。

「レザーさんと初めて市場で出会ったときは、こんなところまでくるとは思わなかったんですがねー」

「俺もな。ま、これが終わったら、まああの野郎探しだ。二人に戻るな」

 メイスはちょっと沈黙した。して、少しやさしい声で言った。

「一個と一匹でしょう?」

「俺は人間だ!」

「私だってウサギですもの」

 言ってからまた少しメイスは沈黙する。やっぱり不安定だ。

「ねえ、レザーさん、やっぱり元の姿に戻りたいですよねー」

「あったりまえだ。」

 そういって俺はふと何もない夜を見上げる。圧倒的な広さの黒カーテンの中には星だけが散らばる。

「なあ、メイス」

「なんですか」

「ここんとこ新月だったけど、そろそろ月がでてくるな」

「そういえばそうでしたね」

「ドラゴンサークルも第四層はうまくいけば明日くらいには抜ける。俺も影からやっぱりサポートしたい」

「……」

「俺今レタスだけどさ、月でたらやっぱり人間になるし、なりたい。……でも、人間の俺ってやっぱり嫌いか?」

「……だって私はうさぎであなたは人間ですもの」

「人間でもレタスでも、中身は一緒。俺だろ?」

「中身って、なにか関係があるのですかー?」メイスはいたって軽く言ったが、俺はふと引っかかった。「中身なんて関係ありませんよ。ウサギはウサギで人間は人間でレタスはレタスで」

「……」

 だいぶ長い間、メイスは人と触れ合ってきたろう。直接でも間接でも。でも、今でもそうなんだろうか、この後もずっとそうなんだろうか。

 俺は考えたがメイスの透明な表情からはなんも読み取れなかった。ふと、その表情の薄さがある夜の夢現を思い出させた。

「前さ、ほら、三日くらい前の晩かな。あのミイトがたずねてきたときの晩。俺、夢でお前みた。木の上で白い鳥に腕伸ばしててさ。グレイシアが言った言葉を覚えてたせいだと思うけど。……あれが予兆だって言うなら、お前がなんか変わる予兆かもな」

 メイスがふっと笑った。何か不安になるような微笑だ。

「夢……ですか。私も今でも故郷の森の夢を見ます。ずっと。……でも最近、少しずつ、遠く、薄くなっているような気がします。……消える前に帰りたいです」

 お互いが戻ったら、こいつとはお別れだな、と俺は当たり前の決まりきったことをいまさら思った。俺たちがそれぞれの姿に戻ったとき、俺とメイスの関係はぷつっと立ち消える。当たり前に考えていたそのとき、俺はどう思うのか。

「もう、寝ましょうか」

 メイスが言って立ち上がるその一瞬。一瞬だけ、膝の上に乗せられた俺にメイスが覆いかぶさってきて、一瞬だけふわりと、あれ、俺抱きしめられてる? と思って、でもすぐにメイスは立ち上がり、その不可思議な一瞬は夜にまぎれた。

 野営地に戻って、俺はナプザックにつまって、メイスのそばに転がったけど、胸がさわいでなんとなく寝付けなかった。目覚めたら、目覚めたら……。

 意識は途絶えて、そうしてふと気がつくと、周囲が大きく揺れていた。近くでメイスの小さな息遣いが聞こえる。風を切る音と感触。お得意の俊足でメイスが駆けているらしい。多分俺を抱えて。

「メイス?」

 呼びかけてもメイスはとまらずに、見えないからよくわからんがだいぶ距離を稼いだだろう地点でようやく止まった。ナプザックがひっくり返されて俺がころんと転がり出る。ぐるぐる景色が回って俺はメイスを探そうとしてなんとか回転にストップをかける。その合間にちらりと星明りが照らす「それ」を見た。瞬間に一気に目が覚めた。寝る前に俺を苛んだ胸の騒ぎを思い出す。

 焦りのためか早口になってメイスにあわてて

「メイス、なんでこんなとこにきたんだ。ここはだめだ。用があるのかもしれんがここは駄目だ。早く戻るぞ」

「ここでいいのですよ。ここなら、レザーさんの声は誰にも届きませんもの」

 メイスは笑って言った。

「話なら他の場所でもいいだろ。いいか、ここは――」

「レザーさん」メイスが俺の前で膝をつき屈みこむ。「私、あなたが好きですよ」

「――は?」

 突然の言葉に面食らい、何を言っているのかとメイスを見た。そして、メイスが後ろに隠した手に何かを握っていることに気付いた。星明りに抜き身の刀身が光る。

「だって私はうさぎであなたはレタスですから。うさぎがレタスを好きなのは当然です」

「……メイス」

「ねえ、レタスのレザーさん」

「……それで、なにをする気だ?」

「切ってしまおうかと。上半身、下半身と言っていましたよね? いいアイディアだなあ、と聞いていて思ったんですよ。切ったら、死んでしまったら、もう食べるのにうるさくありませんし」メイスが笑う。星明りを背にして。本気で笑う。本気で。本気。歪んだ三日月の口元の微笑だ。次に言われた言葉は何度も言われたけれど、これほどに真に迫って空恐ろしく聞こえたことはなかった。

「食べても、いいですよね?」




 太陽や月ほどではなくても、星も結構光量を持っている。ささやかなところはあるが、その下で白い肌をしたメイスの顔はぞっとするほどよく見えた。

「いやだ……」

 無意識にしぼりだした、俺の声はかすれていた。

「どうしてですか?」

「俺は俺だ。レタスだから、なんて理由で食べられるのはごめんだ」

「そんなもの、どこにもないんですよ。「あなた」なんてもの」

「俺はいる。俺は在る。それでお前の前にいる。メイス、お前の」

 メイスはふっと一瞬空を見上げて、ナイフを両手で握って俺を見下ろした。怖いくらいに赤い、一対の目が壮絶に光る。「私も、多分、ないんですよ」

 ――初めまして、レタスさん。

 市場の喧騒の中、歩いてきたメイスの姿を思い出す。初めて会ったときだ。俺を見つけてくれたのはお前なのに。お前が、そういうのか? 俺なんかどこにもいないなんて。

 頭の中の半分は空白だったが、もう半分では理性もありそして余裕もあった。どうでもいいことを考えるくらいの。だから、ゆっくりと考えた。

 どうして俺は殺されるんだ?

 答えを求めると、それまで浮かんでいた初めて会ったときのメイスの顔がぱっと散り、記憶がそれより前にぐんぐん飛んでいく。探して当てたのは、俺にとっては直視したくないくらいに苦いものだった。それでも広がったのは、囲まれ追い詰められて無理矢理飲みこまされて俺が呻いていた頃の記憶だ。違う違う違うと何百回心で唱えても、何にもなりはしなかった。一度も口に出さなかったからだ。やがてそれも忘れた。それが答えか?

 俺はなぜ殺されるのか。

 その答えはメイスがおそらく言っていた。レタスのレザーさん、と告げた。そう、俺がレタスだからだ。だから食われたり、殺されたりする。

 俺はなぜそうされたのか。――そうだったからだ。

 忘れたはずの否定が全然別の状況であるのに感じられて、頭の中に弾けて蘇った。俺が放ったのは、懇願よりは、怒りに聞こえただろう。

「俺は俺だ。お前はお前だ」

 メイスはそれを受けて、何も言わなかった。けれど静かに手が動き、銀の光が夜の中にひどく悲しくゆらめいた。やっぱり頭の中が冷めている。何を言ってもメイスに本気になられたなら、俺は、殺されるしかない。

「待ちなさい」

 そんな奇妙な均衡を、破ったのは凛とした制止だった。茂みの間からグレイシアが進み出てきた。それを見ても俺はあまり何も感じなかった。

「レザーから、離れて」厳しくそう言ってグレイシアは俺をつかみ取り、火のそばによりすぎた子どものようにメイスから間合いをとる。メイスは膝をたてた体勢のまま、ぼうっとしてたいした反応をしなかった。

「メイスさん、レザーに、なにをする気だったの?」

 グレイシアの腕の、感覚がわからない。俺はメイスを見つめる。ただメイスを見る。どう見たってメイスは、夜の中に一人立つ、細い肩をした女の子だ。

「食すつもりです」

「本気で?」

「当たり前です」

 その言葉にグレイシアは深く嘆息した。

「まさかと思っていたけれど……ここに来るまで、その最後まで、本当にあなたがそんなことするなんて信じられなかったわ……」

「どうして信じられないのですか? 私はうさぎですよ。うさぎは野菜を食べます」

 その言葉を受けて憐憫に満ちた表情でグレイシアが首を振った。

「これはレザー。レザーよ。なのにあなたは、食べるの?」

「ええ」

「あなたは、やはり動物なのね。人とは、わかりあえない」

 俺は静かにゆっくりと混乱していった。さきほどまであれほど考えられた頭が鈍くなっている。ただメイスとグレイシアの声が頭を回ってる。

「どんなにうまく化けていても、根本は変えられない」

 メイスはその言葉に少しうつむいてゆっくりと立ちあがった。さっきの俺みたいに、メイスもまたどこかが麻痺してぼうっと呆けた表情だ。けれど赤い瞳には紛れもない理性がきらめく。

「いいえ、多分、同じですよ。その点だけはとてもはっきりと」

「違うわ。私たちとあなたはこんなにもはっきりと」

「同じですよ。だってあなた方も、私の母や兄弟たちを食べたじゃないですか」

 空白だった俺の中がさらに磨きがかかるように真っ白になった。さらりと言われたその言葉の意味が解せないように、グレイシアが唾を飲む音がした。

「食べたのでしょう? 私が捕らえられたとき、猟犬を狩り立てた人間が母の耳をつかんで持ち上げているのを見ましたもの。兄弟たちは狭い袋にぎゅうぎゅうに詰められていました。まだ、夢にも見ますもの。あの彼らは、数日前、あなた方がしたようにシチューにでもして食べたのでしょう? でもあなた方、それが「ダレカ」なんて、考えもしなかったでしょう? じゃあ、中身なんてないんですよ。うさぎも人間もレタスも。――そうでしょう?」

 静かに、月みたいに、メイスが言った。あのとき、夢で見たように、白い肌がほのかに光っている。

「別にうらんでいる、怒っている、なんていってませんよ。それが当たり前のことですもの。だから私がレザーさんを食べるのも当たり前のことです。ないものがないものを好きになるなんておかしい。あるのはレタス、うさぎ、人間、そういったものだけでしょう」

 グレイシアのたじろぐような声。

「あなたは、おかしい」

 おかしくない。

 とても静かに俺の中のどこかで、呆然とした声がそう言った。……おかしくない。おかしくはない。

 どこかから一枚隔てたところから、グレイシアが持ち直すように言葉を強め早めた。

「メイスさん、もう、私は知っているの。あなたは被害者のふりをして、レザーを騙しているだけ。あの白い鳥、伝令用の術。悪いと思ったけれど、見させてもらったから。あの伝令に――コルネリアス、その署名があるのを。メイスさん、あれはあなたのお師匠様が、あなたがレザーを殺したらあなたを元のうさぎに戻す、そう記された盟約だった」

 やっぱり俺は混乱してる。コルネリアスからの、手紙? あの、白い鳥が? 俺を殺せば……メイスを元に戻す?

 メイスは一度ひいた。その顔から嘘ではないことがわかってしまった。俺を抱えたまま、追い詰めるようにグレイシアが一歩進み出る。

「いくら並べても、あなたは自分を正当化はできない。あなたがレザーを殺そうとするのは、あなたが言うような理由じゃない。あなたがすることも、なんの正当化もできないのよ、あなたの理屈では。残念ね、メイスさん」一度言葉を切ってグレイシアは続けた。「あなたは化け物だわ。レザーと一緒にいさせるのではなかった」

 メイスはもう一度引いたようだった。そして何も言わずにきびすを返した。白い髪がひらりと舞う。

 予感だ。

 予感だ予感だ予感だ。白い鳥がはばたくみたいに、頭が真っ白に焼ける。あの時感じた、予感だ。瞬間に、はじけた。

「待て! メイス! いくな! 戻ってこい! そっちにいくな!」

 気づくと俺は無我夢中で駆け出しかけていて、俺の胸を必死に押し返す何かに阻まれていた。悲しげな、藍色の目が注がれている。

「駄目よ、レザー。追ってはいけないわ。これ以上」

 グレイシアだ。必死な顔で俺を押し返そうと白い手が肩にかかる。いつも逆らえなかった藍色の瞳が間近で見上げてくる。

「残念だけれど、あの子は、人の形をしただけの、私たちにとってはモンスターと同じなのよ」

 ふと頭の端で鈴が鳴った。あの、カールの店で聞く奴よりもっと柔らかく俺を誘う音色で。レザー、と穏やかに優しく呼ぶ声。そして俺はグレイシアの後ろを見やった。夜の中に踏みしだかれたままの草たちが見える。瞬間に、直感が一瞬で俺の頭を制覇した。混乱していたんだ。言い訳が飛ぶ。でも、なぜ気づかなかった? 

 俺は肩にかかったグレイシア――いや、「そいつ」の手をつかみ上げて、ただ無感動に眺めて言った。

「お前、誰だ?」

 一瞬驚いた相手の力が抜けて、半ば突き飛ばすように振り払いそのまま駆け出す。突然現れて俺たちの間をかき回していった、「誰か」のことは今はそこに置き去りにした。

 さっき、最初に転がったとき目に入った、巨大モグラが這ったような大地に残された傷跡。多分、数日前にアシュレイたちが見つけた跡と同じの。

 予感だ予感だすべて予感だ。――そうだ。ずっと俺を不安にした予感だ。日没後の街に手を求めてきたメイス。モグラの這ったようなあの跡。俺から駆け去っていくメイス。予感だ。それはあったのに。こんなにはっきりとしてたのに。こんなに身近にあったのに。そう、予感だ。

 ――メイスを失う予感だ。

「メイス!」

 姿を見失った茂みを飛び越えると、びっしりと険しい蔦がからみついて行き止まりのようになった小さな木陰にメイスが立っているのが見えた。俺が呼びかけると、メイスは振り向いたが、ずっと浮かべていたのだろう冷たい表情は動いていない。ただ拒否するように冷たく睨んだ。「なんの――」

「そこをどけっ!!」

 全身全霊で怒鳴ったが、メイスは気づけない。どんな優れた五感にも悟れない。「そいつら」は動き出す瞬間まで、本物の草木よりも静かなんだ――!

 土が盛り上がり動き出す。予感だ予感だ。それでも一瞬だけ、多分、本当はぐっさりと心に刺さっていたのだろう先ほどの誰かの言葉を思い出す。メイスが俺を殺そうとしていた。コルネリアスに命じられた。ずっとメイスがおかしかったのは、何か考えていたのは、いつも何か言いたげな様子になったのは、のんきに笑う顔に皺が刻まれたのは。あの妙な態度はそれだったのか。

 妙な気分だった。今までずっと本気で食べられそうになったときはあったのに、そのときは怖くて怯えても、俺の心だけは痛まなかった。結果的に同じことなのに、殺す、という言葉だけがこんなに深淵まで突き刺さった。殺すと食うは違うのだろうか。

 頭の中で誰かが囁く。立つメイスを目にした俺に。あれは、おまえを、殺そうとした相手だ。なぜか走馬灯のように出会ったときから今までのメイスが流れてくる。おまえを、殺そうとした。

 ああ、殺そうとした。だから、それがなんだってんだ。

 余計なものが舞い込む思考を止め、息を止めて地面を蹴った。全ての意識と力を駆け寄ることに費やす。必死にメイスに手を伸ばした。逃げようとした細い身体を捕まえて、地面に倒れこみながら無我夢中でかきよせた瞬間。

 首筋を重くぞっとするような力で地面に叩きつけられるように抑えられ、完全に動きを止められたところで背中に激痛が走った。あまりといえばあまりの衝撃に、目の前が真っ赤になる。

「な……にが……」

 俺があげた絶叫に気づいたのか、メイスが俺の腕の中でうめいた。喉からこみあげてくる衝動をなんとか抑え、震えだしそうな腕に必死に力をいれてかきよせる。まだ声が出るか心配だったが、掠れてもなんとか出た。

「……声、たてるな」

「な、なにが!」

 ここは、食人草の森だ、としわがれたうめき声でなんとかつぶやいて、暴れだしそうな身体にさらに力をいれる。白い頬にぴっぴと何かが散る。赤い、俺の血だ。

 ――だってあなた方、私の母や兄弟たちを食べたじゃないですか

 メイスの声が蘇る。それを聞いたとき、メイスとの距離がぐんと変わった気がした。果てしなく遠くなり、こんなにも近くなった気がした。聞いたときに思った。俺は、多分、そのことをどこかでわかってた。メイスの話を聞いていたんだから。考えればわかったはずだった。

 すまん。ごめん。悪かった。いくつも浮かんできた謝罪は、そのあまりの白々しさに言葉に出せない。なんのために謝るのか。許してもらうためか? 許せるものなのか。

 けれど不意に謝罪の衝動に泣きたくなった。許してもらう、ためではない。俺の気がすむためだけだ。だから口にせずにただ繰り返した。ごめん、すまん、すまん、すまん――……

 メイスがひどく動揺して声を震わせる。

「な、なにを、なにをしてるんですか! レザーさんっ、そこをどいてください! 離してください!」

「……いいか、捕らえた獲物が死んだら……こいつらはいったん食べるのをやめて獲物の身体を分け合う。そのときまでじっとしてろ……動くな。その時は息もとめてろ。分け合う一瞬だ。そこしか逃げる手は……」背中を襲ったいくつもの衝撃に、たまらずに悲鳴をあげた。喉奥からこみあげてくるやたら熱いものは悲鳴か血の塊か。もう、これは痛みじゃない。そんな限度を越えている。脳天をつきつける衝撃と共に、ひどく近くで背中がばりばりと裂ける音が響いた。視界にいくつもの火花が散って腹が弾けたように熱い。何かがほとばしって流れ出していく。血管が吹き飛んで汗がぶわっと噴き出しながらそれでもどこかに氷のような冷たさも感じる。激痛の中で俺はしがみつくように歯を食いしばり、その合間に必死に言葉を紡いだ。

「俺の身体が……持ち上がった瞬間だ。飛びだ…」

「どいて! なにを! レザーさん!」

 細い手足を動かしてメイスは必死に動かそうとするが、さすがに体重をかけて押さえ込んでいるので抜け出せないようだ。

 もう感覚がない腕に最後に力をこめてみると、胸が焼けたようにしびれた。自分が流す血が自分の腕の拘束をとかそうとすべる。でももがくように力を入れていると、ふと抱き返してくれるような気がした。俺を抱きしめた、一瞬。あのときに覚えた感触。それは信じられる気がした。食べる前の食い物に捕食者はあんなことはしない。

 あの姿になってからまじできつかった。辛かった。色々と誇りもなげうった。でも同じ立場だったはずなのに。人間としてのエゴからそれに気づかなかった。メイスも同じだった。いきなり別の姿になり、故郷から引き離されて、人の群れの中で異分子として生きる。

 あの子も同じよ、とグレイシアに指摘されて、何気なく頷いた。俺はあの時同意したんじゃない。流したんだ。グレイシアは元々口数が少なく必要なことしか言わない。だからああ口にした、グレイシアはわかっていたんだろう、きっと。だからアシュレイに託したんだ。俺じゃ駄目だと分かってた。俺はメイスの辛さを真剣に考えたことがない。

 保護者を気取って背景を理解してると言って、俺はなにをしていたのか。俺も自分も本当はないと言い切ったメイス。俺はその言葉が辛かった。ありあまるほどに肯定できるところが。

 不意に刺すような後悔が湧き上がる。俺はその痛みと、よく似ていたのを知っていたのに。わかれなくても近づけたのに。

 猛烈にいやもうタガが外れてただ流れ続ける思考の横で、現実にメイスが金切り声をあげる。

「なにされてるか分かっているんですかッ! 食べられてるんですよ! どいてくださいっ」ばりっと何かが背中から無理矢理剥がされた感触に身体が震えた。俺の身体の何かがなくなった。ひっとメイスが喉奥でうなって、震える声でやめて、どいて、と呻いたあと極限まで見開いた瞳から涙があふれた。「……あ、あなたは、私が、食べるんですからあ!!」

 メイスの放つ声に、泣き声が混じる。喋るな、もう、いいから。もういいから。お前は、喋るな。―――泣くな。

 こみあげてくる気持ちが悪いほどの心臓が逆流してんじゃないかって思うほどの衝動を飲み下し、かわりに言葉を紡ごうとしたが、何にもならずに口元が痙攣するようにひとつ引きつっただけだった。言葉はもう出ない。けれど息だけでもなんとか紡いだ。俺の、見つけた本心だ。

 メイス。俺は、お前にだけは、食われたくないんだ。

 半分ほどかすれた視界に、食人草の触覚が見える。こいつにたいしては、俺は何も思わない。なんで俺は殺されるかなんて、そんな疑問もわかない。嫌だけれど、違う。無造作に食われていく動物。植物。どれでも同じだ、そういうことだろう。だから、メイスとは違う。メイスには嫌だ。

 同じでも、俺は俺だ。メイスはメイスだ。そう、思いたい。思える心があるなら、それを貫きたい。食人草には何も感じなくても、メイスにたいしては何者でもないままに、食われて終わりたくはない。

 そんな風に浮かぶ考えに、意識の壁が一枚隔てたところから聞こえてくる泣き声が妙に心を満たしてくれた。動物は泣かない。少なくとも食べ物のためには。俺だから泣いてくれると思いたい。

 そんな声だけが、底なしの泉に引きずり込まれそうな泥のように重たい意識を引き止めてくれた。けれどもう長くはいられそうにない。さらに重みがかかる。むさぼる音が間近で聞こえる。そうして何かが切れそうになっているのがわかって、わかってもどうしようもなかった。

 ――……

 いつの間にか世界が無音になっていた。突き抜けるような痛みは気づかないうちに去っていて、もう何も感じられなくなった。空白だ。まったくの白だ。苦しみも痛みも何もない。喜びも幸せもないように。もうすぐ全てがきれる、とただぼんやりとした確信だけがぽつんと世界に残っている。

 ああ、きれる、と覚悟をしながら思った最後の一瞬、つと無音の世界に声が響いた。

「悪食だな。そんなものを食すのか?」

 無理矢理に戻した、視界がぶれ霞むやけに白っぽくなった世界で、俺の目の前にさっと白いものがよぎる。鳥か? 一瞬思ったそれは、外れたと同時にあたった。鳥とそして白い裾。俺の眼前に降り立ったのは、白い裾を持ち肩に鳥を従えたグレイシアだ。

 グレイシアは俺を見下ろして、にやりと笑った。そんな表情、グレイシアにはやろうと思ってもできやしない。俺の視線のさまよいに気づいたのか、メイスがはっと涙を散らして見上げ、そして信じられないように「お師匠様……」とつぶやいた。

 瞬間、その姿がぶれて、白い服がざっとひっくり返るように圧倒的な黒になった。その手が下を向くと、白い光が溢れて辺りに蠢く食人草を突き刺した。くねくねとした無数の触覚が悲鳴をあげるようにのたうちまわる。

 完全に消えていく意識の中で、夜の闇より真っ黒な服をまとった魔導師が俺を見下ろして、にや、と笑ったような気がした。




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