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ドラゴンの森で(6)


 ワーウルフたちの遠吠えは貝を通したようにかすかに震えて、よく響く。草原の夜に溶け込み、しみこむような声だ。それが聞くものに、忘れられない不安とかすかな懐かしさという不思議な心地をもたらしている。

 ぱちぱちとあちこちで火が焚かれていた。各パーティごとにあるところは口数が少なく、あるところは熱がこもった口調で声高く話し合い、見えない何かがのしかかっているようにこの場はぴりぴりと引きつっている。

 彼らから少し距離を置いた、がっしりとした一本の木の下を陣取った一行の少女がぽいと薪を火に投じた。

「結局、泊まっちゃったね」

「あれから夜通しで戻るのも危険ですよ。しかし、真っ向から話をしたのはこれが初めてですが、ずいぶん強引な相手ですね。ルーレイは」

「間違いなく軍人出だな」

「でないと、素であれじゃあ地域にいたら不適応ですね」

 冒険者としての皮肉に、少年と青年のちょうど境目に立つような男がくすくす笑う。この火を囲む、パーティーの意志は一致している。けれど尾を引く気持ちも一致して、彼らの身体はいまだに平原との境目のすぐ横のこの場所に縛り付けられている。

「ドラゴン……かあ」

 ため息のようにリットがささやいた。細い足を投げ出し、さらに細い喉を無防備にさらして夜空を仰ぐ。

「なかなかくすぐってくれるよね、確かに」

「でも、いまどき小山の大将でもないでしょう」

「それはそう。今日のであのおっちゃん、アシュレイちゃん大嫌い名簿にばっちり入ったでしょ」

 焚き火の前の一角に腰掛けた赤銀の青年は、カップ代わりの深皿から湯をすする。無言の返答だった。投げかけた相手もそれは気にならなかったようだ。

 ただアシュレイは飲み終わると顔をあげ、焚き火から一歩引き身体がすっぽりと影に包まれるような場所に座った、白い髪の少女に目を投げた。

「……悪かったな。勝手に名前を出して」

 矛先が向けられた少女は顔をあげ、何を言われているかわからないように赤い目を瞬かせた。そうすると、秀でていて、そして奇異な容姿の突飛さも薄れて、どこにでもいるような少女に見えた。

「おそかれはやかれ、もうある程度ばれていただろうが、妙な噂をたてられるよりかは、こっちで言っちまった方がいいかと思ったんだが……少々早とちりだったかもしれん。勝手なことしちまったな。すまん」

 その謝罪に、白い髪の少女は肩をすくめて「別に」と言っただけだった。

「今日の見てるとアシュレイちゃんみたいに名を売るのも考えもんだよねー。突然おっちゃんがやってきて僕に協力して! だもんね」

「俺に押し付けているお前らが言うか」

「君は目立ちますからね」

「適材適所だ」

「詭弁だろーが」

「ってかさー、この件で一番の加害者はレザーちゃんでしょ」

「レザーはいいんだ」

「いつものことながら贔屓ー」

「というか、あいつも抜けてんだけどな。隠しきれるもんでもないし。今日のルーレイにもばれてただろう。ちょっと目端が利くものの中じゃあいつは有名だぜ」

「まあ隠そうとして隠せるものではないですからね」

「クエストで隠してたらそりゃまじめにやってないってことだし」

 あはは、と笑いかけたが、そこで急に憂愁を覚えたように笑い声はとまり、かわりにリットの口から小さなため息が飛び出た。

「……レザーちゃんいないと、さびしいなあー」

「俺が一番寂しい」

 真顔で答える赤銀の青年にライナスは苦笑する。

「「だったら」とか「いれば」とか好きじゃないけど。やっぱり調子狂うよね。なんかどうしていいかもわかってるのに、迷ってる始末だしさ。」言って少女は懐から一通の手紙をとりだして目の高さまで掲げた。「手紙なんて貰ったの、僕、初めてだな。レザーちゃんに字教えてもらったけど」

 ふと目の前の火にかけた鍋から煙がたった。

「もう、いいみたいよ。いただきましょう?」

 鍋をかき混ぜて、目に優しい薄く柔らかな赤と橙の中間の色合いを持つ髪をした女性が穏やかに言ったので話は止まり、それぞれの荷物を探った後に、彼女に向かい木椀が差し出された。

 それをひとつずつ受け取り、グレイシアは慣れた手つきで給仕をしていたが、湯気たつ椀を差し出した先の、白い髪の少女が顔を背けるようにして拒んだことであら、とつぶやき

「お嫌いかしら?」

「おいしーよ。僕がさっきとってきたばっかのとれたてぴちぴち! ふつーの干し肉とは一味違うもん」

「獣肉は普通、しばらく熟成させた方がおいしいはずですが」

「嫌なら食べなくていいよ。ご自慢の棒でも齧ってたら?」

「ごめんなさい」

 ぺろりと舌を出しながらライナスはいい、それからメイスへと目を向けて

「本当に、頂かないんですか? これからどういう行動をとるにせよ、しっかり食事をとっておかないときついですよ」

 少女はしばらく無感動に椀に目を落としていたが、やがてええ、と頷き

「私は食肉はしない主義なので。食事の件はご心配なく、個人で準備がありますから。――初めに言っておくべきでしたね」

「食肉しないってのは、戒律かなにかですか?」

「言われてみれば巫女っぽいかも」

「食う奴は黙って食え」

 すすっていた椀から顔をあげて、隻腕の男は短いが凄みのある低い声で刺すように厳しく言い放った。たずねてきたリットとライナスもそこでしまいにして、言われたとおりに椀の中身をすすることに専念した。そんな彼らを前にして少女は立ち上がり

「私は、向こうで食事をしてきますので」

 と言ってきびすを返した。何気なくそれを見送って、椀から口を離し、ふへとリットが溜めていた息を吐き出して

「まずったかな。世間話ってどーも最後は詮索になっちゃうんだよね」

「僕らの世間は少々趣が異なりますからね」

「わかっている、ではできないものだ」

 また隻腕の男が口を挟む。突き放すような口調ながら、これが彼なりの慰めである。

「しっかしなかなか打ち解けてもらえないね。ちょっと気をつかってんのが悪いかな? これからもっとフレンドリーに赤裸々に接してみようか」

「多分、引かれますよ」

「いや一番引かれる人が言わないでよ」

「心外な、アシュレイがラスボスで控えている限り、僕は安全圏ですよ」

「誰がだ」

「アシュレイちゃんの件はそうだけど君は安全圏じゃないよ。安全圏な人は「ミドルポートの撲殺魔」なんて二つ名つかないよ」

 あだ名ですよあだ名、と全く言い訳になっていないことをつぶやいて、やがて一見優男然とした濃い灰色の髪の青年が自らの杖を抱き寄せて

「まあ、仕方ありませんよ。どうも彼女は僕らを嫌っているみたいですから」

「嫌っている、っていうか、なんだろう。人嫌いっていうより、無関心つーか、無感動つーか……不思議な感じ。」

「それだけじゃない、とは思うけどな」

 言ったアシュレイに視線が集まるが、彼は視線をものともせずに三杯目の椀をすするだけだった。一息のちに吸い込むように平らげる。細身の身体のどこに入るかと思うような食欲は健在だ。

 その注目は、給仕をし終わったグレイシアが唐突にすっと立ち上がったことで入れ替わった。アシュレイから自分へと移る視線を見返して薄紅の髪をした彼女は

「様子を見てくる。もし、一人で戻ってきたらフォローをしてあげて」

 それを何も言わずに見送った面々はさらに白い服が木々の陰へと消えると、リットが幾分か後悔しているような顔で

「さらに、反省。寂しいなんてシアちゃんの前で言っちゃだめだったかな」

「そうでもないでしょう。彼女はなかなか口にはしませんが、言いたいときは言う人ですよ」

「お前たちが気をつかうのも妙な光景だぜ。消化が悪くなりそうだ」

 アシュレイが話し合う二人を揶揄すると、大変高い棚にあげた憤慨が返ってくる。カールはその間、給仕をしなかったかわりというように、綺麗に食べつくした鍋を適当に取った葉でぬぐっている。

 そうして炎に投じた太い薪があらかた焼き尽くされても、白い髪の少女も、グレイシアも一向に戻らなかった。久々にあった仲間同士で会話は尽きないはずだが、そうまでたつと不在に気をとられ始める。やがてぽつんと生まれた沈黙のあとに、アシュレイはどこか渋々と言ったポーズをとりつつ立ち上がった。

「俺も、様子を見てくる」

「任せます」

「がんばー」

 無責任な応援の声に顔をしかめてみせ、

「……レザーがいないと、いつも俺にこういうのが回ってくるな」

「しっかりやれ」

 無情にも最後に響いた低い声に、もう一度顔をしかめてみせ、アシュレイ・ストーンは二人の仲間が消えた茂みへと歩みだした。




 ざっと枝が揺れてうとうとしていた俺は目を覚ました。俺が入ったナプザックがぐらぐら揺れている。アシュレイたちの会話を盗み聞きするのも嫌だし、かといってこうも仲間が多い中でほいほい荷物()を放って置けばたぶんすぐになくなる、の折衷案でこうして登りにくい木の高い枝にひっかけてもらっているわけだが。

 枝が茂って連なった葉は俺を隠してくれるし、いろいろとしっかり引っ掛けてもらっているので、落ちる心配はないがナプザックにいれられて木の上にぶらさがっている冒険者。……もうなんでもいいや。自分がきっぱりはっきりお荷物であることは自覚しとこう。……でもお荷物というよりただの荷物なんだよな、これが。

 ついつい鬱々としたものに傾きがちな思考は揺れながら置いといて、辺りを見回した。とりあえず葉影で薄暗いが、メイスがお得意の跳躍力で近くの枝に飛び乗ってきたことぐらいはわかった。

「メイス……?」

 ここの長所、あとひとつはここなら普通に会話できる、ってとこか。うさぎは普通、木になんか登らないものだが。

 ふと闇と葉影に覆われて見えにくいメイスの輪郭が、ふっと動いて俺のそばまで来ていた。ナプザックが枝から離されて、ふわりと抱きこまれる。白い髪が絡みつく。

「メイ――」

 メイスはしばらくただ固まって何もしなかった。その拘束が緩んだ、と思った瞬間、俺を持って一気に飛び降りた。

 凄い浮遊感にどきどきしている合間にも、何事もなかったかのようにメイスがナプザックを身体の前に抱いて歩き出す。無言だ。一言も喋りやしない。

 ちょっと淵にはまって顔が見えないので、必死にナプザックの中でもがいてみるが、抱えるメイスのまわされた腕が逆にストッパーとなって袋の口まであがっていけない。

「メイス」

 仕方なく中から呼びかけた。「いやなら、帰ってもいいんだぞ」

 ふと歩くのがぴたっと止まった。

「――帰ったら、あの人たち、困るじゃないですか」

 やっぱり妙だなあ、と疑惑が半ば確信によろめく。いつも馬鹿にしている人間相手に、なんでメイスがこんな気配りしてんだ?

「あいつらは多分、引き返す。第二層までの道程ならあいつらだけで十分だ。あいつらも大変かもしれんが、お前だって大変だ」

「……あの人たち、昨日、火を囲んで話しているとき、レザーさんに災厄がふりかかってもわかる、って言ってました」

「……」

 何を言うのかと思うとさらにメイスの声が、俺が見えないナプザックの向こう側から

「あの――アシュレイ、ですか? 赤銀の髪の人間を一番利用しているのはあなただって」

「おいメイスっ!」

 我知らず声を大きくさせてしまったらしい。ひょいと俺の入ったナプザックが浮かび上がって、何かに引っかかったようにぶらぶらと揺れた。袋の口からメイスがすたすたと歩いていく後姿が見える。どうやら俺の入ったナプザックを手近な脇の低い枝にかけると、そのまま歩いていったようだ。……ざ、残置?

 俺は一瞬唖然としてそれからじたばたもがくが、もがけばもがくほどナプザックの奥にはまっていく。ああ手が欲しい。レタスには叶わぬ夢をあきらめて、一計を案じて身体をできる限り大きく前後に揺さぶった。するとナプザックごと揺れる。揺れる。揺れる。

 落ちた。

 ぶんっとひときわ大きく揺れた際に肩掛けが枝から外れて、ナプザックごと地面に落ち、弾みで俺は開いていたその口から飛び出した。ほかにも中身が散らばってしまったがともあれ。追おう。ウサギを追う亀ならぬレタス。亀ぐらいで困難感じてんじゃねえよ!

 なにか寓話にきれながらも俺がころころと転がり始めたとき、ふと闇夜のため見分けられなかった、先ほどまではなかった障害物にぽすっとあたって数度ころころと後ろに転がった。

 ……

 闇夜にどうしてか現れたグレイシアがあらあら、というように俺を見下ろし、散乱した荷物を見て俺を拾い上げ、荷物を綺麗にナプザックに収めなおして口を閉じ、俺を荷物の横に置いて綺麗にまとめた。そして自分もその横にゆっくりと腰を下ろした。

 ……

 動けないがもはや動こうと思ってもぎしりと固まって動けない俺の横でグレイシアがふう、とため息を吐く。

「あのお嬢さん。何かに迷って悩んでいるみたい」

 ……

「アシュレイはわかっているようだし、焚き火の方に戻っていったようだから一安心だけれど」

 ……

「難しいものね」

 そこでふう、とため息を吐いてグレイシアがこちらを――俺を向いた。「ねえ。レザー」

 独り言だ。いやあれだ。きっと心の中の俺に話しかけているとか、星空が描く俺に話しかけているとかそういう路線だきっと。

 グレイシアがこっちを見つめる。藍色の、日没直後の綺麗な夜みたいな目だ。独り言だ。独り言だ。独り言だ。泣きたい。泣きたい。泣きたい。

 こうまで切実に泣きたくなったのは初めてだ。

 こんな生き恥、誰にさらすのだって嫌だ。どうせ盛大に笑われるだろうから、リット、ライナスにさらすのは嫌だ。アシュレイにさらすのはもっと嫌だ。だけど。

 在りし日には今も注がれている藍色のこの瞳に見つめられているだけで有頂天だった。

 ああくそ、コルネリアス、あの野郎、ぶん殴ってやる絶対に殴る。突き刺さるように痛い事実を悟りながら俺は呻いた。

 何が悲しくて、俺はこんな生き恥を、初恋の相手にさらさなきゃいかんのだろう……




 レタスの身では「いやあ、あっしは人違い、ただのレタスですよ」というわけにもまさかいかないし、死んだふりは最近熊にも通じやしない。そもそも食う気なら新鮮そうな死体の方がいいよな理屈としてあれ。

 そんな現実逃避を加えつつ、昔と同じように、いやある意味昔以上に俺にとっては威力のある目に見つめられて、俺が持ちこたえたのは――それだけでも気が遠くなるような精神力がいったが――数瞬だった。

「……なんでわかったんだ?」

 ウォーターシップダウンを離れてから、久方ぶりに俺はレタスの姿でメイス以外の相手に話しかけた。グレイシアがひそやかな夜風のように笑い

「ワーウルフの幻術はわかったのに、あなたのことはわからないの? あなたは約束を破らないで、あの日にあのお嬢さんと来てくれたのに」

 そういやほんとそうなんだけど。しかしどうして俺にかけられた魔法という奴はいろいろと凄かったらしく、そこいらの魔術師に見せても全然魔法の産物だってわかんねえらしいんだよ。

「あのお嬢さんも複雑なものがかけられているみたいだけれど」

 それはメイスも同様。さすがリディア信仰の総本山カースリニ神殿お墨付きの巫女だ。侮っていたのは俺の方で、初めからお見通しだったってわけか……。ああ、ナプザックに入ってたりテーブルに載ったりしてたぞ俺!

「な、なんで、その……」

「あなたが口にしないことを、私が口にするわけにはいかないわ」

 そうしてグレイシアはそっと甲が白い布で覆われた手を俺の上にかざし

「……私の力じゃ、どうにもならないみたいね。こんな公式はかけた本人しかわからないわ、多分」

「絶対殴る、あの野郎……」

 久々に殺意がよみがえった。それから俺はグレイシアを見た。穏やかそうで、優しそうで、こんな身でも人間だったときとちっとも対応が変わらない自然体だ。……。負けた。

 別に促されたわけではないが、俺がぽつぽつと何があったのかを語っていくと、グレイシアはひとつずつうなずき、静かにきいてくれたが、メイスの魔法議論に移るとかすかに眉をひそめた。

「あなたにかけられたものと、あのお嬢さんの公式はだいぶ……ううん、根本が違うわ。同じ方法で試してみても難しいと思う」

 ……ということは万が一、メイスが俺を元に戻せるという希望はなくなったのか……いや、もしかしてメイスが自分を元に戻せる、という希望がなくなったのか? グレイシアにたずねてみると、グレイシアは少し考え込んだように

「自分の姿は自分では見えないように、自分にかけられた魔法は自分ではわからないものだわ。彼女があなたを見て、同じ魔法だと勘違いしたならそうかもしれない。……むしろ、彼女の魔法は……」

 いつもはそんなに喋らないグレイシアだが、さすがに専門分野になると少し語数が増える。しばらく考えていたが、グレイシアの結論も末に俺が言った言葉と変わらないようだった。

「どっちにしろ、あの野郎を捕まえなきゃなんねえってことか」

「不思議ね。話を聞いて力を感じて、でもまるで思いあたる名がないの。魔術師の世界も、法術師の世界も上に行けばいくほどに、とても狭い世界になっていくものなのに……」

 あの野郎が学院だの神殿だのに関わって入れるタマとは思えんが……

 しかし結局今の状態では手のうちようがないということが、専門家の見立てではっきりとしてしまい、さすがにちょっと気が暗くなる。

 するとふと横でグレイシアがなんだか楽しげな笑い声をたて

「ねえ、レザー、ひとつ提案があるんだけれど」

 普通なら気がさらに重くなるか不快になるだけだろうに、どうしてだろう反対の感情を吸い取ってしまうようなところがグレイシアが放つものにいつもある。無意識に治していく木々たちのように、グレイシアの周りの人間もその力の恩寵にあずかっているんだろうか。

 けれどグレイシアが口にしたのは、恩寵だとか力だとかそんな崇高さは全く感じない、むしろたわいない可愛らしいものだった。

「もしかして誰かにキスされたら魔法が運良くとけないかしら」

「無理だよ。いっつもメイスになめられ……」

 はーと息をついて思わず言いかけた言葉を直前で飲み込んだ。な、なにを口走っている、俺。

「あら、仲が良いのね」

 穴が……いやもう野菜籠でもいい。今だけはただのレタスになりたい。グレイシアの前でグレイシアに見つめられて俺は憤死しそうになる。

「そ、そうじゃなくって……」

 死ぬほどどきまぎしながら口にするとグレイシアが笑ったまま「妬いても、いいかしら?」

「や、やく?」

 焼かれる? 焼きレタス? 訳がわからない言葉を繰り返すと、言い聞かせるように優しくそして少しいたずらげに

「嫉妬よ」

 ああ、焼くじゃなくて、妬く、な。……

 ……

 感じるはずのない熱が、はっきりとわかる。やさしく待ってくれるグレイシアの前で、ようやく、搾り出した。

「い、いや、その、この状態も……結構平気だし、慣れたし」

 欠片も平気ではないし、慣れたくもねえが。なんだその。痛かろうが辛かろうが虚勢張ったり胸張りたいのが男の悲しい性だろ。うっさいレタスであることはこの際スルーだ。

「俺はその……いや」

 余計なことを言いそうになって一旦とまる。落ち着け。でもあの藍色の瞳に見つめられていると落ち着けない。多分に口ごもった後になんとか言い出せた。

「同情とかは、されなくて大丈夫だから」

「どうして?」

「見てわかんないか?」

「わからないわ」

「俺いまレタスだぜ」

 ついに非常に間の抜けた言葉を口にしてしまう。俺いまレタスだぜ。爆笑か失笑だ。笑うかと思ったらグレイシアは笑わない。深く鮮やかに沈んだ夜を思わせる、藍色の瞳がどきりとするような真摯さを灯して見つめてくる。

「あなたがあの子といるとき、一目でわかった。あなたは、本当に、何も変わらないわね。どんなことがあっても、いつでも。あなたに会えば嫌なことも吹き飛ぶわ」

 その言葉に、つと引っかかるものを感じてそっと見上げてみる。

「……神殿の方で、なんかあったのか?」

 グレイシアはただ曖昧に笑って小首を傾げた。四つ上だけれど、少女のように見えた。

「あなたは変わらない。私の好きな、レザーのまま」

 メイスの言によると俺青ざめたら青くなるらしい。だから今は赤い。ちょっと動く。地面にめり込むように。さっきは一番悲哀を感じてた。泣きたくなった。そんな後で大変現金なもんだが。俺はレタスになってから、今が一番幸せだ。

 しかし安穏と浸っているわけにもいかずに、さっと背を向けて去っていったメイスを思い出して、俺はグレイシアを見上げた。

「さっき、メイスが思い悩んでるって言ったよな」

「ええ」

 さすがに人の気持ちや意識に敏感なグレイシアだ。鋭い。俺はエフラファに着いてからメイスの様子がおかしいことを手短にまくしたてた。俺がフォローできない分、悪いがグレイシアに頼むしかない。メイスとの接し方もその背景を知っていればだいぶ変わってくるはずだ。

「だからまあ、そういうところの価値観がかなりかけ離れているから。今は正直どうなるかわからないけど、この先もそこいらを気をつかってやって欲しいんだ。じゃないとパーティも瓦解する」

 グレイシアはしばらく考えた後、

「仲間内のことは、あなたがいないから、アシュレイがとてもよくがんばっているわ」

「ああ。それは見ててわかる。やっぱりあいつはリーダー気質だな」

「それは違う。あなたがいないからよ。そもそもあなたがいないなら、アシュレイは私たちのリーダーになろうとはしないわ。あの人も飛躍していく人。もうすでにひとつの強さを完成させているのに、足踏みをしない。ほかの皆もそうよ。あなたには周りの人間を成長させる不思議なものがあるの」

「……」

「あのお嬢さんも、何か変わったんじゃないかしら。理論的に考えても、膨大な魔力でうさぎを人間に変えても、何も知らない雛鳥のようなものよ。人の形をした獣でしかないわ。あのお嬢さん、受け答えも言葉もはっきりしているし、人間にしか見えない。本人が相当頭が良いことを差し引いても、今の状態にもってくるにはかなりの労力が必要よ」

「そうなんだよな」

 俺が考えていたことをずばりとあてて、グレイシアはほっそりした人差し指を口元に触れさせた。考え込むときの癖だ。

「あの子は多分……。ううん。あの子はもう獣じゃないわ。レザー、あなたは旅をしてそう感じなかった?」

「……話は通じる」

「どうしてあなた、あの子とずっと旅をしていたの?」

「そりゃ、必要にかられて――…」

「それだけじゃあなた誰かと二人旅なんかしない。あなたとあの子が現れたとき、あなたがあの子をとても大切に思っていることがわかったの。全身全霊であなたがあの子を守っていて」

 俺はしばし考えて

「……そういう風に、見えたか?」

「ええ。」

「……」

 んー、としばらく考える。確かにふと我に返ってみると、俺はメイスをどう思っているんだろうか。旅の間はもはやそんなことを考えている余裕はなかったが、こうやって穏やかに話をして指摘されるとようやく考える余裕ができる。

 まあ好きか嫌いかと言われると嫌いではない。メイスは非常に正直な相手だ。言ってる内容、してる行動はぶっ飛ぶが、そこに悪気やいやらしさがない。なにはともかくさばさばしているのだ。さばさばしすぎているのだが。おまけにやっぱり社会に適応できない場面があるのではらはらさせられて目が離せない。

 んーとうなっている横でグレイシアは動かない。さっきみたいな感情方面では俺はまあ個人的な事情としてどうにも焦ってしまうのだが、純粋に物を考えさせるときは、答えることを焦らせない相手だ。多分、迫っていないせいだろう。さあ、早く答えろ、と態度だけじゃなく心の中にも思っていないんだ。むしろグレイシアは考えることを奨励している気がする。だから考えるのも待たせるのも苦にならない。俺が他人を成長させるというなら、グレイシアは相手を深くさせる相手だ。

「レザー。あの子は何かに苦しんでいる。そういう姿になって、あなたさすがに辛くなったでしょう?」

 虚勢張るのも忘れて思わず力いっぱいうなずいてしまう身が悲しい……

「あの子も同じだと思うの。あの子、一人ぼっちに見えるもの。人の中で、あの子は自分を異分子だと感じてる。でも、そんなに人から遠くはないのよ。」

「そんなこと……」

「ねえレザー。今日の私たちの晩御飯、野うさぎのシチューよ」

「……」

「だいぶ旅をしてきたなら、そういう場面はどうしてもあったでしょう? 獣なら割り切れるかもしれないけれど、もし人なら、それは無理ね」

 ……

「メイスのところにいってみる」

「今日は、やめた方がいいわ。心には時間が必要よ。それにアシュレイにまかしておいたから」

「だけど」

「わかっていない人の方が、時に慰められるわ。あなたの出番は、その後でいいと思う。でなければあなたは今、彼女に会って、なんて言ってあげる? どんな態度をとれる?」

 ……最後の言葉がとどめだった。グレイシアは正しい。どこまでも的確だ。俺の方が明らかにメイスとの旅も長いのに、すんなりと理解が通る。反論できるものを俺は持たない。

そこでふとグレイシアがメイスをあんなに強引に冒険に誘ったのは、傍らのテーブルに載った俺の姿を見たからではなく、純粋にメイスの姿を見てメイスについて思うところがあったからそうしたんじゃないかと思った。俺としてはちょっと寂しい推測だが、これは多分、当たりだろう。なら、さらにグレイシアの言は強化される。

 だけど。

 ふっとグレイシアが笑ったような気がした。見上げるとやっぱり笑っている。

「わかったわ。どうなっているか、見てくる。私は、アシュレイを信じていたかったけれど」

「いや、アシュレイがやってくれるのはわかってる」

「ええ、あなたがわかっていることもわかっているわ。意地悪よ。でも、これだけにしとく。――ここで、大丈夫? 茂みに隠しておくから。すぐ戻ってくるから」

 そっとグレイシアが持ち上げてくれて、俺を丁寧に茂みに隠してくれる。夜の中で黒い葉っぱが視界を隠す。そういうシチュエーションと角度のせいもあったけれど、捨てられた子犬のような気分になった。なって、そのままグレイシアを見上げて、そのまま呼んでいた。

「グレイシア、」

 やさしい、藍色の瞳。物心つく前に死んだので、母親の顔は知らない。どんな存在なのかも曖昧にしか知らない。でもひどくこんな目を愛していた。いくら多少年上だとはいえグレイシアを母親代わりとしてみたことはないし、そういうところに惹かれたわけでもないけど。なんでだろう、ウォーターシップダウンのファイバーやリット――メイスだとてそうだ。あんなに幼くても、ふっと感じるときがある。女はいつも、どこかに母を持っている。

 だから言える。いくら虚勢を張ってても、男は言ってしまう。

「知ってるだろうけど、俺は弱いんだ。どんなに足掻いたっていつまでも、悔しくなるぐらい弱い。」そこで言葉を切って、それからメイスを思った。「多分、あいつも弱いんだ」

 グレイシアが前を向いて背中を向けた。

「あなたがそういうなら、あなたは弱いわ。でも、私をわかってくれた。弱いことは無力なことじゃない。弱いというならその弱さで、あの子のこともきっとわかってあげられる。あなたは誰かのために苦しめる人だから」

 そう言って、一度だけグレイシアは振り向いた。微笑んでいた。優しい暖色の髪の色がそっと頬に添っている。

「私も、弱いの。でもだから、歩こうと思えるの。あなたに会ってそう思えたわ」

 夜のしじまをグレイシアが身を翻した。ふわっと揺れた白いケープが、夜霧のように綺麗だった。




 前方でがさがさと音がした。足音から少女のものだな、と見当がついたので、アシュレイも歩をもう一、二歩すすめると、思っていたよりも早くに手近な茂みが鳴り出した。

 この闇と葉陰が作り出す中を、まるで少女にとっては明るい太陽の下と同じだとでも言うように、彼女はものともしない足裁きで茂みから飛び出してきた。

 わざとを装ってその進行方向をふさぎ、身体とぶつかろうと思ったが、直前でさっと向こうが後ろに飛んで避けた。ぶつかるタイミングを完全に見極めた、と思った分だけ、その動きにはひそかに瞠目した。驚くような反射神経・身体能力だ。

「何かあったか?」

 言葉を重ねれば重ねるだけ、敵意とまではいかなくとも反感や不信感を募らせる相手だろうと踏んで、一言で尋ねるといつもは平然と整った顔が少しゆがんでいるように見えた。闇夜の中で赤い瞳と白い髪はひどく印象に残る。それを眺めやり

「あまりうろつくな。冒険者パーティの中には変な奴らも多いから、一人にならない方がいい」

「人間の性欲に付き合うほどの酔狂さはありません」

 さらりと口にした、なるほどに並みの人間では手に負えないだろう。苦笑してアシュレイは歩をつめ、けれど向き合わずに斜め向かいに場をとると、無警戒のポーズに腕を組んで木の幹にもたれかかる。

「人が嫌いか?」

「ええ」

「昔の俺もそうだった。冒険者には多い。だから、好き嫌いに文句は言わない。好きになれとも言わん。だが、信じろ。生き延びるためには」

「……生き延びるため、ですか?」

「ああ」

「それも群れの習性ですね。信じろ……ですか。死にたくはありませんが、難しいですね」

「レザーが」

 その名に反応したのを見てとって続ける。「レザーに、しばらく会っていなくて、奴の話が聞きたい。何をしていたのか、話してくれないか」

「……あなたはウォーターシップダウンでレザーさんに会えなかったのですか?」

「ああ。……――もしかして、あのストローボール大会の会場にいたか?」

「ええ。私もはぐれていて、あそこでレザーさんに出会えましたから」

「やっぱり、あそこにいたよな。あの野郎……なんで俺の前には姿をみせねえんだよ」

「さあ」

 身をすくめて少女が言う。偶然の共通の思い出に、わずかに肩の力が抜けているのが見て取れる。

「あいつ、あそこで何をしてた? あの孤児院の連中になげられた野次に怒鳴っている声は聞こえたんだが」

「なんでもあの孤児院の子供たち集めてストローボールとやらのコーチをやっていたらしいですよ。あんな目に遭わされてどこでどうなったらそういう展開になるのか理解できませんが」

「あいつらしい。ふと気づいたらお前なにやってんだー! ってことになってる。それにガキと年寄りには昔から弱かったしな」

 思いの他に赤銀の髪の青年から楽しげなリズムの声が飛び出す。その名を口に出すときだけ、屈託のない笑顔もよく現れて、リーダーを担っているせいか険しい顔が多い彼が今は別人のようだ。

「理解しがたいか?」

「ええ、まったくもって」

「俺もそうだった。初めて会ったときは学院だったけど、なに考えてんだかちっともわからなかった」

「……学院?」

「ローラル騎士学院。歴史あるんで結構有名だが、授業料が安いからともかく海千山千でなんでもいた無法地帯の学校だよ。聖騎士になるための学院だ」

「聖騎士?」

「話してなかったのか? その資格さえ持ってりゃ、どの国にいっても職の口には不自由しないって奴だよ。おかげでちょっと素質があれば農民の子も商人の子もそれとりにいくんだよ」

 俺みたいにな、とやはり笑って彼は言って、まあ座れよ、と持っていた松明を地におとし、辺りから手早く薪を集めて、小さな焚き火をこしらえた。少女は話が気になったのか、存外抵抗がなくすとんと腰掛けた。

「レザーさんは、聖騎士とやらなんですか?」

「資格は持っている。実際にどこかに仕えたことはないはずだが」

「あなたは?」

「学院を出た年に、少しだけ仕えていたが――やめちまった。どうも性にあわなかったし、再就職しようと思えばできるしな。そんなわがまま通るんで、とるのは面倒くさかったがとっちまえば便利なもんだ」

 赤銀の髪の青年は、あまり「聖」の名がつく地位にはふさわしくないことをつぶやき、

「今の生活も好きだが、学院にいたときも面白かった。あそこは門戸を開きすぎて、なんでもそろってた。おかしい奴もまじめな奴もやばい奴も気が弱い奴も強い奴も全部。そんなのが一塊になって毎日暮らしてるわけだから大騒ぎだ」

「私は、ぞっとしますがね。そのような人間の群れは」

「俺も初めはそう思ってたさ。群れも気味が悪くて拒否してた。――だけどそれは、何も見てないからだ」

「……」

「群れなんて、集団なんて、実際はない。俺と同じように、一人が、個が、ただいるだけだ。群れなんて見なしてたのは、ただちゃんと俺が周りを見ていなかったせいだ。それに気づいてから、俺はいろんな奴を発見したからな。――いや、いろんな奴を発見することでそれに気づいたか、な?」

「だってあなた、集団をとても嫌っているじゃないですか」

 その指摘に赤銀の青年は焚き火に揺れる炎を灯した緑の目を向けた。いささか鋭利だが整った顎から頬へのラインが生み出す横顔は、どこかしら人を引き付ける、危険だが生き生きとした魅力に満ちている。真正面から見れば、肉食獣が時たま見せる全く屈託のない、拍子抜けするような無邪気さがありのままに広げられている。

「群れも、集団も、蓋をあけてみりゃ、そんなものどこにもない。個が――俺やあんたやカールやライナスやリットやグレイシアや――レザーが、ただそれぞれいるだけだ。俺は、ないものをあると信じ込ませる、ないものなのにあたかも意志があるよう動きだして、そうして全部が終わった後にやっぱりそんなものどこにもなかったんだ、ってことになって消える、そういうものが嫌いなのさ。ないはずのものが意思を持ち、行動をおこす。不気味な話じゃないか。触れたくも関わりたくもないだろう?」

 まるで思いがけぬものを初めて目にした子どものように、少女の瞳が一つ全く無防備に瞬いて赤銀の青年を見つめた。その様を穏やかに見返し、素直な相手だ、と思う。愛想や協調性はないが、正直なところがある。

 口元に手をあてて少女はしばし考えこんでいたようだが、ふっと顔をあげた。

「あなたは、集団や群れというものがないと仰いましたが、むしろそれは逆なのではないですか?」

「どういう意味だ?」

「むしろないのは群れ、集団でなく、個であるということですよ。すべてのものには分類された「人間」「動物」「モンスター」「草」「花」もう少し種類まで言ってもいいですが、結局その枠組みしか存在していない。個や一人や一匹や一つなど、存在しない。だから人が群れるのも当然の帰結である」

 それを受けて、アシュレイ・ストーンは戸惑いやバカにする様子もみせずに、口元を少しつりあげて「新解釈だな」と言った。

「なるほど。俺の「集団」「群れ」がないというのが通るなら、そっちも同じだけ通りそうだな。――しかし、自分なんてものが本当にないのだとしたら。どうして人は生きるのか、なんで生きるのかって疑問が出てくるな」

「……なぜ生きる?」少女はまったく理解の範疇外にある単語を聞いたように、顔をしかめて「生きるのになぜもどうしてもいりませんよ。全ての生命は生きるべくして生きているのですから」

「だけどもし群れしかないなら、生きなくたっていいじゃないか、別に。個が生きる必要はないだろう? そんなに、自分にしがみつく必要もないわけだ」

「個が生命を放棄すれば、群れは崩壊します。仮に個と呼ばれる一分子が自分にしがみつくことで、結果的に見れば群れが生き延びることに繋がる」

「それだ、結果だ。結局、そこいらを突き詰めるとなんでも結果なんだよな。ところが人間ってのは結果ばかりを重視しないようになっている。そこが動物と違う点かもな。生に置いては結果よりも経過重視が強くなってるんだろうな、傾向としちゃ」

「なぜですか?」

「簡単だ。結果は分かりきっているからさ。俺たちの結果はみんな「死」だ」

 その言葉は幾許かの感銘か衝撃かを少女に与えたらしい。言葉が少し足りないか、と思っていたアシュレイも、彼女が悟ったことが分かる。考えるように瞳だけが動き、後は陶器のように白い顔を眺めながら

「俺たちは知っているだろう。どんなに飢えず、誰にも殺されずにいても、自分がいつか絶対に死ぬってことを。結果を知っているわけだ。だから経過にしがみつく。そこで、どうせ死ぬのになぜ生きるのか、なんて疑問も飛び出る。結果を考える必要はないわけだからな。そこに捕らわれて、なんで生きるのかずっと考え込んで結局分かっている「結果」にたどりつくまで悩み続ける筋金入りの奴もいるぜ。だけど、そういうときは大抵「他」の奴らがなんで生きるのか、なんて考えないのさ。ひたすら自分自分だ。自分がなんで生きるのか、じーっと冬眠中の熊みたいに考えて込んでる奴も多い。学院には多かったなあ。そういう時期っていっちゃあそうなんだろうが」

 言われた言葉に少女は眉と眉の間を深く寄せる。理解が及ばずとも考える姿勢は真っ直ぐだ。この年頃ならばその範囲の悩みかと思っていたことは外れたが、ある意味ではその悩みといえよう。提示された「それ」にそこまで深く悩んでみせるならば。

「頭がぐるぐるしますねー……」

「悩むってそういうことだ。あいつに会って、俺も悩まされた。それまで全く悩むなんてことしなかったからな」

「あなたも、なぜ生きるかというよくわからないことをぐるぐるしていたわけですか」

「まあな。それで俺が自分を騙した詭弁が、個があるから、一人だから、俺は俺だから、生きる、だ。俺が俺である証明は、自分だけのことで悩むってことが自分が自分であること、そんなものがあるっていう、これは一つの証拠だと。まあそこいらを妥協点にして我が青春の悩みを打ち切ったわけだ。っても、もう大昔前から他の誰かが言ってたけどな。われ思う故にわれあり、ってのりさ。群れは悩まないからな。なんで生きるかもなんで考えるかも。カテゴリーは、悩まない」

 いまだに考えがまとまらないように、少女は眉を寄せている。

「レザーはなんだ、考えさせる奴だな。なにしてんだお前ー! ってところがあるから、普段気にもとめないことをも考えちまうんだよ。で、考えると悩む。あいつも確信犯なのか、無意識なのか……質が悪いから無意識かな。勝手に生きてるつもりで、つきつけてくる。さっき、あいつがなんで孤児院の奴らに関わってるのか、まったくわからないって言ったな」

「……ええ」

「多分、あんたの時と同じだ。孤児院の連中もあんたも放っておいて生きれねえんだよ、あいつにとっては。それがあいつがレザーであり、なんで生きているのかの理由の一つだろうな」

 少女はやはりしばらく考えていたようだが、やがて抱え込むように頭を両手でおさえ

「理解の許容範囲を超えたような気がします……」

「聞きかじった薀蓄もごちゃ混ぜにして話したから、分かりにくいのか実際分かるのかもわからん。そういう時は寝るのもひとつの手だぞ。――戻るか?」

「……もう少し、ここにいます。疲れましたから。後で戻ります」

 戻る、とはっきり言ったのが彼女の進歩であり譲歩だろう。アシュレイはこれ以上はやめるか、と思い

「一人で考えるのも悪くない。ただ、気をつけろよ。あまり離れるなよ」

 言ってアシュレイが焚き火を踏み消し、松明を差し出したが、彼女が拒否を見せたので、そのままそれを持って仲間の下へと戻った。先ほど自分とあの少女が囲んだのとは比べ物にならない大きな焚き火の前で、自分の姿を見つけたリットがぴょんと飛び出る。

「どうだった?」

「青春の悩みを教示してきたぜ。やっぱり話は結構通じる。」それだけ言ってさらに注がれる視線に気づいたのか、炎に共鳴するように輝く赤銀の髪を揺らしながら少し顔をあげ「あの子がぴりぴりしてるのは、俺たちだけのことじゃない。あまり気にやむな。自然でいい」

 何気なく言いながら、焚き火を見つめてアシュレイはかすかに笑った。

「いかにもレザーがかまいそうな相手だ。フォローはできる範囲でしておいた。あいつが拾ったんなら、後はあいつがなんとかするさ」

 ふーん、とリットが納得したようなしてないような顔で唸り

「なーんか、アシュレイちゃんちょっと機嫌が良さげ」

「そうか?」 

 顔を上げて、けれど面白げに唇がつりあがった瞬間、何かが走ったのかその瞳が一気に険しさを増す。さっと瞬時に立ち上がり、獣に近い極限まで気を張り詰めた瞳で辺りを見回した。

「立て! なにか――来るぞ!」

 半瞬後に少し離れた茂みから、同業者のはっきりとした悲鳴が聞こえた。


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