ドラゴンの森で(3)
たっと地面に足がつく音に気づいて、俺はふと自分がまた寝りこんでいたことに気づいた。
あんまりじっとしていても落ち込むだけなので、もう少し早く移動できるように回転の練習でもしようかなあと、棚から飛び降りて床を往復して転がっていたはずだが……その床先でいつの間にかまた眠り込んでいたらしい。
メイスに起きろー、とか言ってられねえなあ、と思いながら、メイスが帰ってきたんだろうと窓を見ると、やはりメイスが窓枠から足を抜いているところが見えた。向こう側の空はまだ青く、光の位置もそう変わっていない。
「早かったな」
「ええ、まあ」
なんだか返事が上の空な気がした。よく見ようとするが、ちょうど窓からの逆光で表は影になっていて見えない。見えないなー、と思っているとひょいと抱き上げられて、なぜかすたすたとドアに向かっていく。
「どうし――」
言いかけるが、メイスの足が思っていたよりも早く、階段にさしかかってしまったので、まだ集まっている仲間内の顔を見て俺は口をつぐんだ。
メイスはそっと階段を下りて、奴らの目につかないように階段の横の目立たない席へと腰掛けて、俺をテーブルへと置いた。
メイスの歩き方というのがまた巧妙で気配を実にうまく消してたもんだから、普段ならともかく今は議論に熱が入っているアシュレイたちは気づかなかった。いや、一瞬、グレイシアがあら、とこちらを肩越しに振り向いて藍色の瞳を注いだが、議論の続きだったのだろうまだ気にした様子ながら、背を向けた。
そうして、仲間内の議論が聞こえてきた。とは言ってもさすがにもうそろそろ結論は出ているようだ。
「補充するしか、ないだろう」
アシュレイが口の中に苦いものでも含んだように顔をしかめ、暖炉にかがみこみ脇に積まれた薪に手を伸ばしているカールの方に目をやった。
「カール、無茶は承知だが、頼めないか?」
一拍置いてカールは振り向かずに言った。「いいだろう」
俺も固唾を呑んでいたらしい、その言葉に胸の重荷が少し取り除かれたように感じた。いや、もう引退した奴を引っ張り出すのがルール違反だってことは百も承知だが、考える限りカールを入れるのが一番いい案だ。
そんな俺にまるで釘を刺すように、立ち上がりざま振り向いてカールがうなるような低い声で
「だが、俺でレザーの欠けた穴を埋められると思うなよ」
「うーん。そうだよねー。カールちゃんより強いのはなかなか探せないけどね。妥協するしかないんじゃない? わがままが通る状況じゃないし?」
だが納得しないのはカールを入れることを提案したアシュレイだった。
「カールは確定だ。しかし、俺達はレザーがいる状況に慣れきっている。この際、保険をかける意味でもう一人誰かを見繕っていれた方がよくないか」
「僕は反対ですね」杖を抱え込むように腰掛けていたライナスが口を挟んだ。「カールだけでも冒険途中の僕らにとっては異分子の一つです。それでも彼にまだ慣れていて、一人だからまだ許容できる。急遽ここでもう一つの今度は完全な異分子をメンバーにいれるなら、僕らの間の段取りが全て狂ってしまい、返ってマイナスになりますよ」
「一理ある」
渋い顔でアシュレイがその案を受けた。確かにこれだけ長年の付き合いでなおかつ少人数の俺達でも意見が割れるわけだから、勝手の違う第三者を入れればバラバラになる危険性もある。しかしまあ、最終的にはリーダー、アシュレイの判断で決まるんだが。冒険者パーティのリーダーなんてそういうもんだ。
そこで全員がそれなりに考え込んだ。それまで何も言わずに、口元に手をあてて考えこんでいたグレイシアが顔をあげた。
「よっぽど強い相手。勝手違いのマイナス分も無理矢理でもプラスに傾けさせるような強力な戦力はどうかしら。」
「今からか?」
片頬をしかめてアシュレイが言った。カールも横で低い声で
「明後日にはもうどのパーティも出発している」
しかしそんなことが分からないわけはないグレイシアは、なぜかふっとアシュレイたちに背を向けて、ゆっくりとこっちに――メイスのところに歩みよってきた。どぎまぎする俺と椅子に腰掛けたメイスをそっと差し出すよう横にして、少しだけすまなさそうに目をやり「唐突にごめんなさい」と前もって小さな声で囁いた。
……なにが?
グレイシアは今度は妙に落ち着いた声で、おそらくメイスがそこにいることに今はじめて気づいたんだろう、びっくりしたような顔を広げるアシュレイたちに
「今回の冒険は確かに危険よ。でも、どんな怪物でも半ば伝説のSSクラスに認定されたクラーケンほどじゃないわ」
その言葉に、奴らが停止した。いや、……俺も停止した。
しばしの沈黙の中で、急にぱちっと小気味の良い音が響いた。その音に注目が集まったところで指を鳴らしたリットが
「なーる。シアちゃん冴えてる。灯台下暮らし。」
待て。
悪い方に傾いた予感が崩壊して、どどどどっと押し寄せる。
「なるほど。剣術や打撃系と違って、魔術師の方が連携はまだ崩れにくいかもしれませんね」
待て待て待てっ。
「――待て。」
どっと焦ってくる俺の気持ちを、そのまま口にした奴がいる。
「勝手なことを言うな。しかも相手が何も言ってないのに。――まだ子どもだ。無責任に言うな。命をかけるような真似に誘いこめるか」
静かな声で制した、アシュレイは実は結構なフェミニストだ。ついでにガキ、老人はいやおうに保護せねばいけない、という強迫観念みたいなものがこの自由な頭の中にも巣食っている。いや、無理ないんだけどさ、ここいらは徹底的に叩き込まれるから。学院で。
くるくる跳ねたり回ったりしている明るい黄色の髪に指をまきつけてリットが
「今更そんなこというの? アシュレイちゃん。僕が冒険者になったのはね、十三歳だよ。ふっるーい」
「新しさ古さじゃない。常識だ。」
そうアシュレイは言って、リットに目を向けた。
「それにお前が十三の頃にこんなクエストに誘われ、参加する気があったか?」
リットが頬を膨らませたが、何も言わずに引き下がった。自分の実力と参加する冒険、どちらもきちんと見極めないと、――いいところ一年でお陀仏か良くて廃業だ。自信過剰満載でやれる、そんな世界では断じてない。
「でも、十三歳がクラーケンを倒せますかね? 僕は今、二十一ですが無理ですよ」
「俺も無理だな」
「勝手に私を横に置きながら私の話で勝手に盛り上がる勝手なところ申し訳ありませんが」
ここで初めて、メイスが口を開いた。全員の視線が集まる中で全くひるまずに淡々と
「あのクラーケンは、私と船乗りとレザーさんが撃退した代物ですよ。それも倒してはいないで逃げ帰るまで痛めつけただけです。それに多分、功績という私にとってはどうでもいい方面で考えるなら、一番の功労者はレザーさんですね」
「あー、あれ、レザーちゃんが倒したんだ。やりそー」
リットが気軽に流したが、横で、ふとアシュレイが気付いたように
「だが、それもずいぶん最近のことだろ。しかも場所はナットハンガーだ。これない距離じゃ、全然ない。クラーケンを退治できるくらいなら、どうしてあいつはこれないんだ?」
「それもそうだな」
「イカの食べ過ぎで引っくり返ってるってのもキャラじゃないよねえ?」
俺は内心ぎくぎくしながら話を聞いている。こういうのって心臓にわるい。レタスに心臓ないけどさ。
答えが見つからず少し黙り込んだ中でライナスが苦笑して
「また、やむにやまれぬ事情で人助けでもしているんじゃないですか? 彼のことですし」
「あははは、またレザーちゃんらしい、それ」
ふとまた珍しいことにグレイシアが進んでメイスに一歩近寄り
「あなたも、手伝ったの? クラーケンの撃退」
「ええ」
「具体的にどういうことを?」
「主にサポートですよ。レザーさんの指示どおり」
アシュレイがちらりとこちらに顔を向ける。他のメンバーはいつになく率先して前に出るグレイシアをものめずらしげに見ている。グレイシアはもう一度、ゆっくりと尋ねた。
「レザーは、あなたを頼ってるの?」
メイスはしばらく考えこむ。ヤギやら青虫やらどうせろくでもない記憶を思い出しているんだろう、どーせどーせ。やがて顔をあげて
「まあ、そうですね」
「怪我はなかったかしら?」
「全く」
肩をすくめたメイスに、ゆっくりとグレイシアが振り向いて仲間たちを見て、請うように瞳を揺らした。
「グレイシア、いいかげんにしろ。どうした? お前。危険なことは百も承知な――」
「いいんじゃないですか?」
それまで仲間に入れる件については黙って聞いていた、ライナスが口を出してきた。
「そのお嬢さん、僕はグレイシアが指摘するまで、そこにいることは気づかなかったんですよ。でも、ちゃんと階段を下りてそしてそこに腰掛けていたんですよね。議論が白熱していたことは認めますが、グレイシア以外に彼女が来たことに気づいた者は――?」顔を見回して答えを確信するとライナスは「素人の身のこなしではないですよね。相当場慣れしているようですし」
「カールちゃんとこ一人で来た時点で根性あるよね」
カールは無言で通したが、反対の時には反対だときちんと言う奴であることは確かだ。
つまり実質ほとんどのメンバーの意見を味方につけて
「私は、無理なことを言っているかしら、アシュレイ?」
穏やかに目を向けられて渋い顔をしてみせたが、断れる根拠はアシュレイにも見出せなかったらしい。もともと、アシュレイはある意味では感情的な偏見で反対しているだけなので、納得させられるような根拠はない。
やめてくれよ。暗い気分が口の中に広がってじわりと嫌な心地にさせる。
どうしたっていうんだ。普段はこんな他人に勝手な期待を押し付けるような奴らじゃない。
どうしてか。――……やっぱり、俺が抜けたせいか。
ずしっと胃の中に重い砂が溜まって軋んだように、ただやるせない気分だけが残った。俺は到底、そんなことを批難できる立場ではない。勝手に抜けた俺に、残されたこいつらがどんな方法をとったってそれは全部俺が悪い。だけどそれはどうしても駄目だ。
救われるのは、その対象となるべき相手が、どれだけ期待をかけられようが、平然とそれを断ることができるメイスであることだ。
これまでの数多の経験から、同情も買収も(野菜提示なら多少は揺らぐが)脅迫も功を奏さない、泣いて縋ろうが脅されようがなにしようがへいへいと断ってきたメイスは、アシュレイたちをやっぱり平然と見つめて口を開いた。
「よろしいですよ、私は。ご一緒しても」
「ほんとっ!? やー、ラッキー! レザーちゃんこれないって聞いてどうしようかと思ったけど、これでなんとかなりそうじゃん。僕と視線の高さがあう子とのクエストなんて久々」
「ありがとう。ごめんなさい、勝手なことばかり言って。でもとても嬉しいわ」
歓喜の声をあげてリットとグレイシアが歩をつめる。……待て。
「これで決まりですね」
ライナスが言って立ち上がった。待て。
「……後悔するなよ」
カールの声。お前は、いやそうじゃなくて待て。
最後にまだ渋い顔をしていたアシュレイは、一つ赤銀の頭をかき回し、それからはーっと息を吐き出してメイスにその目を向けた。
「分かった。このパーティのリーダーとして正式に助っ人を依頼する。依頼料はなるだけ善処するつもりだ。無茶はしなくていい。こちらでなるだけ負担はかけさせないようにする」
待て。待て。待て。
最後の理性の力で声を出すことはこらえた。だけど、待て。
愕然としながら考える。
どういうことだっ、これはっ!?
赤の来訪が、始まっている。時の経過と共に世界が光の色を変えていった。
街は山間に添うように存在するため、せりだした山々の影が重なり一段と闇が濃くなる。据えられた店先には早々に火が灯され、行き交う人々が足元を見失わぬよう配慮がされている。
その光の助けもあるが、人の顔はまだなんとか判別できる程度の、薄暗い夕焼けの中を一人の少女が歩いている。
常ならば誰の目をも引く流れる泡のような白い髪は、昏い赤が混じる世界の中で不思議と目立たずに染まり、赤い瞳もまた同じ赤に削られるようにその異質さを霞ませていた。
その変容は、彼女だけに限ったことではない。
慌てて家へとかけ戻る子どもも、一日はこれからだと繰り出す冒険者達も、それを呼び込み声を張り上げる軒下の店員も、大通りにいる者全てが夕日色の斜にくしけずられて、影絵のような装いを見せている。
混沌とした世界を、少女は歩いていく。やがてふと気付いたように単調なテンポを紡いでいた足を停止させ、そそくさと大通りから外れ、横道の先に据えられた古井戸の後ろに回った。山間には貴重な水場なのであろう、雨水で濁らぬようわざわざ屋根がつけられた井戸は、通りからは後ろ側が見て取れない。
どこかで張り詰めていた糸が切れたように、ふっと世界は夕暮れから夜へと変わり、夕日は消えて藍色へと変貌した空に月が待ちかねたように姿を見せた。
少女が井戸の後ろへ回る姿をじっと見ていた者がいたならば、再び出てきた人影にあれ、と声をあげたかもしれない。少女にはなんら変わったところはなかったが、左背後にその小さな上背をはるかに越す一つの影が加わっていたからだ。
何事もなかったかのように、再び大通りへと戻って人の流れにあわせて歩きながら、新たに現れた男の影は苛々とした調子を声を潜めることで隠して
「一体、どういうつもりだ?」
「いいのですか? あんなに来れないと言ったのに堂々と街中を歩いたりして」
一瞬の沈黙があり、男は自分の問いに対する回答を得られなかったことにたいしさらに不機嫌さが増したように
「いいんだよ。あいつらは、この界隈は誰も好きじゃないから近寄らない。――どういうつもりだ。」
「別に、特に説明するような動機があったわけではないですね。それにどんな理由を説明してもレザーさんが納得するとは思えませんが」
軽やかな足取りで、細いその足で、数歩先を制する少女に、後ろから男が呼びかけた。
「メイス」
一拍後に少女は振り向く。白い髪が風のようにふわりと揺れた。
「私の意志と行動に、あなたが口を挟む権利はありませんよ、レザーさん」
その言葉は、声の調子が強いわけでも、ことさら冷ややかであったわけでもないが、こちらを見つめる夜の中の少女には、何も受け入れることはない孤高の光が灯っている。
「……そうだが」
歯切れが悪そうに呟いた相手を、放り出すように再び視線を先に戻し、そこでふと、彼女の動きが止まった。前方のぼんやりとした群集の中、ある一点を目指して視線が固定される。
「だけどな、」
連れの少女が何かに強い注目を示したことに気付かない男が、尚も言い募ろうとした瞬間に、白い髪がざっと流れて少女が駆け出す。
「メイスっ!?」
唐突な行動に男が呼びかけたが、細い足で鳴らす俊足は、群集の中に飛び込み一息の間にひき離す。さすがに離れる気はないのか、男は辺りの人垣をすり抜けて慌てて追いすがった。その動きにかすかに黒いマントが背後になびく。
物も言わずに駆け出した少女の動きはまるで飛ぶように軽快に、障害となるべき人々の間をすり抜けていく。避ける際にもほとんどスピードを落とすことがないのだから、人の足を持ってして追いつけられる代物ではない。案の定、背後を追う男の気配もすぐに彼方にかき消された。
やがて一本道が十字路につきあたり、そこまで一度も振り向くことなく駆けて来た白い髪の少女はようやく立ちどまった。別れた三方に伸びる道を見回して、試しに嗅覚に神経を集中させてみるが、さすがに雑多な人が返すこの場で、明確な目印を見つけることはかなわなかった。
匂いを嗅ぎ取ることは諦めて、赤い目が一つ瞬く。その合い間に先ほど目に入った光景が浮かぶ。
人々が作り出す無個性な影の中にまぎれて立つ、漆黒のローブに漆黒の髪。絶対に見間違えるはずがないと断言できるほど、突飛な容姿をしているわけではないが、まごうことなくこちらを見据えてふっと笑ったあの仕草には、揺るがせることがないほどの強い確信を与えた。そしてその姿の傍らに飛び掠めたあの時の白い鳥。
人のように他の感覚には一切頼らず視覚だけで相手を探しながら、どういう意志をもってその名を呼べばいいのか分からぬままに、ただ声が出る。
「お師匠様……」
見つからず、追いすがるにもどの道を行けば良いか分からないままに立っていると、背後で少し息を切らす音がした。振り向けば真っ直ぐに追って来た彼がもう傍にいた。
「いきなり走り出すな」
そう言う相手をメイスはじっと見つめた。
「ここははぐれたらやばい場所なんだ。だから奴らも誰もこない」
不機嫌そうにそう言った、相手はこちらの沈黙に気付いたらしく、かすかに首を傾げると、その口から疑問が飛び出す前にメイスはにこと笑い
「気をつけても、この人の群れですからねえ。レザーさんを私が持っているならともかく」
「持てるもんなら持ってみろ」
不貞腐れる少年のような口調になる、目の前の相手にふとメイスが白い指を一本突き出して指し示した。
「やってみますか? あれ。あれならはぐれそうにないですよ」
薄暗い世界の中で示されたのは、仲の良さそうに手を繋ぐ男女の人影だ。その提案に、男は面食らったようだった。しばらく考えて
「俺は剣士だから、利き手はいつでも開けておくのが最低限の心得だ」
ああ、と少女は不快に思った様子もなく頷いて
「じゃあ、駄目ですね」
あっさり引き下がったことが逆に引っかかたよう、左右に立ち並ぶ屋台をいくつか通り過ぎてから、機を逃した後の提案を男は不器用そうに告げた。
「右手なら」
赤黒く染まった手は居心地が悪そうに空に浮かんでいた。こちらは躊躇いなく、かなり高い位置にあった白い手がそれを捕まえる。
決して短くはない期間をほとんど密着するよう傍にいて過ごしても、こんな真似をした覚えは双方になかった。
「人間ってよく分からない真似をしますよね。他者を捕まえて歩くなんて」
「捕まえて歩くってなあ。こういうのは、群れの中ではぐれないようにだとか、」少しの間沈黙があって「……まあ、親愛を表示する行為みたいな意味もある。鳥だってやるだろ。求愛のダンスとか」
「後者は納得できますが、前者は、ですねえ」
「後者の方が納得できるのか。」
「そりゃあそうですよ。交配は全ての生物の本能ですもの」
「……」
「まだまともに動けない雛ならともかく、とうに成人した人間もそのようにしている。群れからはぐれたら、追えばいいのですよ。匂いを追跡して。私達なら耳も他より優れていますから、聞いてもいい。身体能力退化の上の非常の手段ですよね」
「お前もはぐれたら、俺を追ってくるのか?」
つと白い髪の少女が顔をあげた。
「はぐれたら、お前はそうして俺を追ってくるのか?」
彼は少しの間だけ、答えを待っていたようだが、急に自分の言ったことに気付いたように手を横に振って「いや、いい。」と紡いだ。その姿を見て人間だな、とかすかに思い、そして閉じ込めるのは性に合わぬ気性が率直に思ったことを口に出した。
「今のレザーさんといても、人間だからつまらないですねえ」
「悪かったな。」
「でも人間にしては、なかなか面白い方ではありますけど。理解できない偽善の体現者で、理解できない反応ばかりで、興味深いところは多くありますよ」
「……本人を前にして悪口を言うなよ」
「あら、私の最大限の賛辞ですよ。」
心外そうに言ってけれど少女は常にない柔らかさで
「ま、いいんじゃないですか。そうなるように、あなた方は勝手に枠を抜けていったのでしょう。弱者を見捨てないで、不条理なことばかり唱えて、矛盾を抱えて分裂して、でもその果てにこれだけの繁栄を誇っている。なら、正しいのでしょう。あなた方は勝者ですからね。強い者だけが正義とやらの幻想を唱えられる」そう言ってふと少女は先程のことを思い出して言った。「お師匠様も勝者なのですから。何も考えずに私をこうして」
「お前は、やっぱりうさぎに戻りたいのか」
「あなたは自らの尺度で、やはりそれが理解できないようですが。レザーさんと、同じなんですよまったく。戻りたいか、なんて愚問ですよ。私はそうなんですから。こんな無様な格好をしていても、私はうさぎですから。レタスである生なんて考えられないというなら、私も考えられない。」
不意に握っていた手をもぎとって、目の前にぶらりと立ち、少女は自らの姿を誇示させるように手を広げた。白い肌が薄闇に狭められて青ざめて見える。影に覆い隠されてしまいそうなほど、はかない姿だった。
「故郷の森を、いまでも夢に見ますよ、私は」
少女の目の前で影の男は戸惑ったように立ち止まり、何もいえなかった。少女は何もなかったように横に戻りまたその手を捕まえた。
「お前……どうかしたか?」
「別に。たまにはいいじゃないですか。私とあなたがいるのは本来奇怪な事ですから。」
そう言って少女が笑った。横に薄闇を照らす明かりが見えた。先ほどの、見失った姿を思い出し、手紙に書かれていた文字がその文字の姿のまま頭を滑っていく。白い鳥が、飛んだ。
ひとつ目を閉じて開いて、それに、と続けた。
「いつまでこうしていられるか、分からないのですから」




