ドラゴンの森で(2)
どっさり押し寄せる冒険者に迎え入れる町側も歓迎とさっそく始まる商売で、この町は年に一度の賑わいを見せていた。
前々回のウォーターシップダウンなどお話にもならず、前回のナットハンガーとも比べれば全然しょぼい規模だが一応港もあるので、港町と言っても良いような気がするが、港と町が妙に離れているというか、町が奇妙に縦に長く山まで伸びているのであまり港を囲んだ町というイメージがない。
近隣に比べればかなり大きく豊かな町だ。こんな山奥にわざわざ妙な形でありそれでも豊かな町、もちろん色々と事情がある。
喧騒みちる町角で、逆方向に向かうためにすれ違い、または方向を同じくしてけれど違う速度で歩く、その多くが冒険者だった。
当たり前だが全世界の人口と比べれば冒険者はその中の微々たる数に過ぎない。多少は大きな街にいけば一人や二人はいそうなものだが、十人も二十人もいるわけではない。
けれどこの町にはこの時期に毎年数百組規模の冒険者が集う。町もまた冒険者に慣れて、冒険者の町と呼ばれるようになったくらいだ。
山に続くため、どうしても傾斜のある道をいく。通称、坂の町とも言われている。年寄りには厳しい(しかしいい運動になるせいか平均寿命は結構長いらしい)こんな場所に町はある。その理由もある。
「レザーさん、ここ、どうしますか?」
一つ坂を登りきって十字路に突き当たり、立ち止まってメイスが尋ねた。俺は懐かしい町並みを感慨深げに思いながら
「右にずーっと行って突き当たった場所から見える、茶色い屋根だ」
ついに来ちまったなあ、と柄にもなくひるんだ。
あいつらはもう来てるかな、少なくともエフラファ直行便に乗ったアシュレイは先に着いているだろう。大小の事情はあるが、だいたいアシュレイがいつも一番遅くに着くことを考えればほとんど着いていると思っていい。うーん。……やーだーなー
近づくにつれ気分が重くなっていくのを自覚しながら、メイスが指示通りに角を曲がった先、いささか賑わいとは離れた町の隅に、その宿は記憶と変わらずに鎮座していた。
いや、少しばかり小さく、古く、暗くなったような気もするが、どうせ一日二日ここで過ごせばすぐに記憶は塗り替えられてこの姿が俺の記憶になるんだろう。
「―――?」
眼前にしてすっかり考え込んでしまった俺にメイスが何か話しかけたが、気をとられて聞こえなかった。あ、と思って再度聞こうとしたが、繰り返しもまた端の部分だけなんとか掴んで聞き逃した。
「――ですか?」
「あ、あ? なんだって?」
するとメイスは俺を見下ろして、特に馬鹿にしたり不審に思った様子もなく一言一言聞きやすいように区切り
「ここ、ですか? レザーさん」
「……ここだ」
俺の声は予期せず掠れていた。目の前にするとどうしても緊張に似た硬直が身体を包む。
メイスはそんな俺を気にせずに、さっさと軽い押し戸を開けて中へと入った。少しだけ薄暗いと感じられる店内は目が慣れてくるとそうでもない。ともあれ今ひとつ日当たりのよくない場所に建ってるからな、ここ。
メイスの身体が入り込み、その手が押し戸を離すと、戻る反動で来訪者を知らせる小さな鈴の音がした。チリンチリンと耳朶打つ音色が、いちばん郷愁を誘った。うわあ、すげえ懐かしい。
無言の椅子やテーブルが並び、けれど全く人の姿が見えない店内をメイスもきょろきょろとしていると、背後から押し戸が再び開く音がした。メイスが振り向き、意外なほど近くにいた相手に驚いたようだ。俺も思わず息をのむ。
チリンチリン、鈴だけがかまわずに鳴って、灰褐色のさめた瞳がメイスを静かに見すえ一瞬の沈黙の後、
「食事か、泊まりか?」
恐ろしいほど変わってない低い地鳴りのような声で、現れた濃い茶髪の男はメイスに尋ねた。
明るい方の戸口を背にしているためか、全体的に姿が影になり、ぬおおんとのしかかってくるような威圧感を他に与える。左腕の袖が肩の近くで縛られていて、そこにあるはずの、けれど今は何もない空間を光が撫でている。ついでにオプションとして右手にごつい斧をさげていて、光の中でその鋭い刃がきらっと輝きを返した。――お前、それだからいつも客に逃げられるんだよ。
「とりあえず、泊まりで」
一瞬驚いたようだが、盗賊相手にもたいしてひるまないメイスは普通に受け答えをした。女子供、いや大の男でもだいたいここで逃げる。
「何日だ?」
「しばらく、ですね」
それから低い声で普通に、いやよくよく聞けば内容は結構丁寧に宿代や食事や決まりの有無を説明しながら二階へとうつり、一室を指し示して中を案内すると、そいつはきびすを返した。
「食事がしたければ降りて来い。それまで好きにしろ」
客に好きにしろはないだろ、ああ、変わってねえなあ。
すたすたと去っていくでっかい男の背中。光の中で見慣れれば怖さも二、三割減するんだが、それでもこの店、ここの町のガキどもの肝試しゾーンだもんなあ。――ここのガキども、結構根性あるよな。
「……お知り合いですか?」
無意識のうちにちょっと揺れていたのだろうか、メイスが問いかけてきたので頷く。
「ああ。」
「いくら無法者もいるとは言われる稼業でもなにか職業選択を取り返しのつかないレベルで間違えたような人間ですね。どうでもいいですがなぜに盗賊や犯罪者の職につかなかったのですか」
「それは職業じゃねえ。」
普通の相手ならただの皮肉だが、メイス、お前もしかしてマジで言ってないか? そこでふとメイスが誤解していることに気付いて
「それに、あいつは冒険者でもねえぞ」
「そうなんですか?」
「そうなんだよ。まあ、見かけよりかは相当悪い奴じゃないさ。名前は、カール」
「ご職業は?」
分かってやれよ、と思いながらそれ無理もねえんじゃねえかと思う気持ちもある。もう階段を下りて一階の――多分、いつもの薪割り場へと戻ったんだろう背中を思い出しながら俺は言った。
「エフラファ1、流行ってない宿の店主だ」
「揺れないって、素晴らしいですね」
カールに案内された一室の端にすえられたベッドにたっとひっくりかえってメイスが言った。俺は転がらないって素晴らしいなあ、とちょっとその様子を見ながら思った。
「メイス、今はいなかったけど、絶対にここに来るはずだから、そのときは頼んだぞ」
「はいはいわかってます。何度も聞かされました」メイスは面倒くさそうに言って、それでも寝転がったまま、ナプザックを引き寄せて中を探りながら「律儀というか、無意味というか。わざわざこんな手間のかかるまねをしなくてもいいのに」
最後の方でメイスはふわりと欠伸をして、次の瞬間、ぴんと張った白いシーツの上に頭をたれるとベッドの上で胎児のように丸まって眠りだした。こうなるともう、月でもなけりゃ俺は手も足も(で)ないので、なにもできん……俺も寝るかなあ……。
久々に転がらない棚の上だ。この先の不安はじくじくと胸を苛んだがひと時休むかと意識を閉ざした。
思っていたより俺も疲れていたらしく、気づくと窓の外の日はもう中天を過ぎていた。数度、棚の上で揺れてそれからんーとまどろんだ後、ベッドのすぐ横にある棚からメイスを見下ろす。まだ寝てる。いつもなら寝かせているが、そろそろあいつらも見えるだろう。
「おい、メイス」
起きない。
「メイスー、起きろ」
起きん。
「メイス、メイス、メイスー!」
声を高めても起きず、一階にいるだろうカールの手前、これ以上大声を出すのも憚られて、俺はころころと転がり、棚からメイスの頭にむかって落下することにした。てい。
「メイスー」
壁側を向いていた横顔にあたり、ころりとメイスの顔の横に転がる。さすがにこれには気づいて数度声をあげて、メイスはひとつふたつ口の中で何か言葉をこねて、やがて寝返りをうつと赤い目をうっすら開いた。
「ん……」
「メイス、起きろー」
ふと、まだぼうっとしていたメイスの顔が甘くとろける。甘えるように腕が伸びて、俺をがしっとつかみ
「目覚めの朝食はレタスですかー」
「ぎゃあああああっ!!」
もう気遣いとか言ってられなくなったが、メイスはぎりぎりのところで起きて、生命の崖っぷちに足を踏み出してかけてどきどきしている俺の横で、暢気に伸びをすると
「すっかり眠ってしまいましたー。レザーさん見てると、お腹が空きましたねー。下で何か食べてきましょう」
「おい、まて、お前寝る前に俺の言ったこと――」
ひょいとナプザックと俺を持ち上げて、メイスはずいぶん寝てすっきりしたように、ふんふんと階段を下りていく。もう俺は言葉を紡げない。
おりていった一階のホール、カールはカウンターでグラスを磨いていた。こいつは几帳面なので、廊下にも部屋にもちりひとつ落ちていないし、棚に並んだグラスは染みひとつついていない。どれも新品のように磨き上げられている。メイスはひょいとカウンターに寄っていき
「大盛りのサラダくださーい。生野菜のみでドレッシングとか余計なものはいっさいつけずによろしくお願いいたします」
「座ってろ」
ぼそりと言ってカールがきびすを返す。相変わらずメイスは全然動じていない。程なくしてカールがその巨大さに似つかわしくない、すっきりとして上品な白い皿にまた色も配置も文句のつけどころのないサラダを盛り付けてやってきた。……お前、センスも料理の腕もいいのにな。
他の客はいっさいいないがらんとしたホールの中、なんか可哀想になっている横で、メイスはカールなんぞいっさい気にせず、運ばれてきた皿だけをじっと見て嗅いでちょっと嬉しげになり
「いい野菜を使っていますね」
「裏の畑で俺が作っている」
「人間の巣にしては悪くないところですね」
好物を前にして珍しくメイスは愛想がいい。すると、カールはフォークとナイフの入った箱を置き、凶悪な誘拐犯が脅迫する時ってこういう声を出すんじゃないか、って声音で「値段は半額にしておく」と言ってきびすを返した。……。
メイスがしゃくしゃくと食べ始めた。俺は動けないし、喋れない。手持ち無沙汰だが、ずっとグラスを磨いているカールをずっと見ていても面白いわけではないし……
そう思っていると、さっき俺たちが降りてきた二階から、とたとたと足音がして、誰かの影が階段に落ちた。濃い灰色の髪を後ろでしばった、背丈のせいか少年とも青年とも見えるような今ひとつ年がわからん見慣れた顔……。
あ。
そいつはメイスと同じように部屋で眠っていたのか、両手を空に突き出し欠伸をしながら、半ばまで降りてきてふとこちら――つーか、メイスに気づいてびっくりしたように大きな飴色の目を一二度瞬かせた。
ライナスだ。
ライナスはわざわざ手の甲で目をこすると、もう一度こっち――だからメイスをまじまじと見て、きつねにつままれたような表情でやってくる。そして全然気づかずサラダを食っているメイスを避けて遠回りするようにカウンターに近づき、グラスを磨いているカールに向かい声をひそめて
「……客、いたんですか?」
凄く疑わしげに聞いた。カールは静かに
「いたらおかしいか?」
「すごくおかしいです」ライナスは真顔で言いきり続ける。「誘拐を疑われたら僕が証言しますから、今のうちにアリバイの打ち合わせでもしますか?」
「お前には飯を出さん」
ええ、それはひどい、とライナスがぼやくと、外に通じるドアが弾けるように開き、いささか薄暗いホールに多量の光と共に小柄な体が飛び込んできた。
「たいへん、たーいへん、今船ついたんだけどさあ――ぐげ」飛び込んできたのは短弓を背にくくりつけ、腰にナイフを何振りもさした、よく考えれば物騒な風体ながら、それがおもちゃを担いでいるようにしか見えない外見、ちょうどメイスと同い年くらいかの、黄色の髪をしたリットだ。
妙な声を出してメイスの方を向き目を丸くして固まっている。と思うととまっているのは一瞬だけだ、というように、古い床を小太鼓のように鳴らしながら駆けカールとライナスが連れ立っているカウンターに飛び乗り
「客? まさかお客? カールちゃん思いあまってさらってきたの?」
「やっぱり、そう思いますよね」
ひそめているが、メイスの飛び抜けた耳には筒抜けだろう会話に、けれど上機嫌でサラダを食らっているときはまったく聞こえないのか、メイスはひたすら無視して食べてる。まあ、元々、自分の名前だのなんだのをそうまで意識している奴ではないが。いや、でもそろそろ揃いかけたから、食うのはやめてほしい。
「どうしたの? リット」
また新しい声がした。三人に気をとられていて、階上にいつの間にか現れた声の主に気づかなかった。じんと身体にしみこんでくるように響いた声に、俺はちょっと胸の奥深いところが震えた気がした。少し進み出てきて、細い肩を覆うようにかけられた白いケープの裾が揺れる。目に優しい薄い紅色の髪の色合いもちっとも変わっていない。藍色の目をした――グレイシアだ。
しかし俺が見惚れる暇もなく、リットがはっと客ショックで忘れていたことを思い出したのか向き直り
「たーいへん。アシュレイちゃんとさあ、港で待っていたんだけど、本日最終便さっき着いたのにその中にいないんだよ」
「街道を通ってくるのでは?」
「もう辻馬車もなんもみんな来たんだって。」
「そもそもアルビナの国境は特例がなければ四時で閉ざされるわ。それは、きちんと知っていたはずよ。あんなに何度も陸路で来ているんですもの」
グレイシアが階段から降りてきながら、穏やかに言った。
「遅刻……ですか、らしくないですね」
ライナスが調子が狂ったように頭をかきながら言う。俺はちらりとメイスを非難して見つめたが、まったく気にせず深皿に三分の一ほどに減ったサラダを食っている。
そうしていると、きい、とドアが軋む音がして、おそらく先に走って帰ってきたリッドと違い、歩いて戻ってきたのだろう、アシュレイの不機嫌そうな顔がのぞき、鋭い目が宿の中を一瞥してこっち――はいはいメイスだ、に気づいてちょっと意外そうになる。
その目の色を見ると、メイスのことを覚えていたようだ。一瞬、怪訝そうになり、それからエフラファ行きの船で鉢合わせたことを思い出したのか、いてもおかしくないな、という納得の色が見えた。しゃくしゃく、その間、メイスはサラダを食べ続けている。
「船には、乗っていなかった?」
「ああ。航路でくるとは思っていなかったが、今日中に着くにはあの船でしかもう手はない」
メイスが最後に残った一口分のキャベツの千切りを、ぐさりとフォークでまとめて刺して、口の中に入れて飲み込み、それから椅子を鳴らして立ち上がった。控えめさがないその動作に、なんとなく、視線が集まった。メイスはそれらを一瞥すると
「私、あなた方に言付けを頼まれてきました」
「……誰に?」
リットが突然口を挟んできたメイスに怪訝な顔を向ける。
「レザーさんです。」メイスがこともなげに言いながらもナプザックのポケットを開いて、よくよく言い含めて俺が渡した五通の手紙を取り出した。……一応、覚えてはいたらしい。でも、とにもかくにも目の前のサラダの方が重要だったらしい。――いーけどさ。
メイスは俺が封に書いた宛名に目を落として
「ええっと、ライナス、という方は?」
「あ……僕です」
「はい。カールというのはあなたですね」
「ぼ、ぼくリットだけど」
「はい」
カールに手渡す際にどきまぎしたようにリッドが言ったので、メイスは手紙の中からその名を見つけて差し出した。残った二通は明らかに男性名、女性名でありそれがわかったのか、呆気にとられる視線を気にした風もなく、メイスはグレイシアに進んでいった。
「どうぞ」
グレイシアは一瞬手紙を見て、それからメイスの顔を見て少しだけ驚いたように目を開き、けれどやさしく笑って「ありがとう」と言って受け取った。
最後の一通を差し出された、アシュレイは手紙には手を伸ばさずメイスをにらみつけ
「どういうことだ?」
「さあ? 私は詳しい事情は聞かされていないので。全部手紙の中に書いたと言っておられましたよ」
アシュレイの手にねじ込むように押し付けて、メイスはナプザックと俺がいる自分の席に戻った。それでも視線が集まっている中、自分は知らないとばかりにコップの水を一口含むと
「とりあえず、目にしたらどうですか? レザーさんがここに来れない事情が書いてあるそうですから」
覚悟はしていたが、やはりいたたまれずに、せめて胸中で、俺は俺が大事な約束を破ったパーティメンバーにひたすら謝りとおした。
いたたまれない空気は続いていたが、一番最初に声あげたのはおそらく一番最後に手紙を読み終わったのだろう、リットだった。カウンターに腰掛けたままはあ、と息をついて
「レザーちゃんらしい、この手紙。ご丁寧に最近忘れかけてる本名宛てで書いてたりするとこが特に。リシュエントへ、だってさ」
「彼が書いたものに、間違いはないみたいですね」
ライナスも言って顔をあげた。あまりこの場にはいたくないが、いや、いるべきなのかもしれない。せめてものこととして。
「――で、どーするの?」
この中で起爆剤に火をつけるのは大抵リットだ。けどこいつは無節操に火をかざしているんじゃなくて、それが自分の役割だとわかってやっているふしがある。
「彼らしい手紙ですが、なんとも彼らしくない。どうも僕の手紙には見当たりませんが、来られない理由が明確に書いてある手紙はありますか?」
すまん。書いてない。……書けるか。
「僕んとこ書いてない」
「一人に書いていなきゃ、誰のにも書いてはいないさ」
「まあさー。レザーちゃんが約束破るの、よっぽどのことだってのはわかるよ。そのよっぽどのことがなにかあったんでしょ。」
レタスになりました。……なんか自虐的だからこれやめよう……
ふとアシュレイがこちらを――つまりメイスを向いた。先ほど手紙を渡すときに向けられた、敵意はその目から消えていたが
「ウォーターシップダウンで会ったとき、連れと言っていたのはレザーのことか」
鋭いところを突いてくる。メイスは薄目を開けてそちらを見やり
「ええ」
「あの時は、レザーはエフラファに来る意思があったんだな」
来ることは来てる。……いややっぱりやめよう……なんか、ふつーに辛い。
「さあ。レザーさんが言わないことを、私の口からは言えません」
ナイスな切り返しだ。元々、メイス相手に喧嘩越しは逆効果だ。いや効果あったら困るからいいけどさ。続けてライナスが
「彼は、無事であるんですか?」
メイスがちらりと俺を見て「ええ」と素っ気無く言った。
ああ、無事だ。ライオンの顎の中の赤子だけど無事なことは無事……辛い。なのにやめようと思っても自虐的呟きがとまらない。
「じゃあ、これで終いにしましょう。レザーがこないことで、彼女を責めるのはお門違いだわ」
「わかった。レザーちゃんは来ない。……で、今回のクエスト、どうするの? せっかくのチャンスなのに。僕、今回、本気で攻略ねらってたのに。」
リットが珍しく眉根を寄せていった。すまん。本当に申し訳ない。ぶっちゃけ言って俺のやったことは、半ば裏切りにも等しい行為だ。
普通こんな風に直前になって約束をやぶり行方をくらましたら、これから先、仲間と呼んでもらえなくなってもおかしくない。
俺がただただ居たたまれない気持ちでいると、突然、ひょいと持ち上げられた。メイスだ。え、と思う間にナプザックを肩にかけて、メイスはすたすたと階段に戻っていく。え、え、と思っている中で、完全に他人事の顔でメイスは一度だけ振り向いてそっけなく
「ご馳走様でした。では、私はこれで」
メイスの腕に抱えられているので、後ろは見えないが戸惑った気配だけは感じられる。いや……まあ。
部屋へと続く薄暗い廊下を歩きながら、メイスをちらちらと見上げると
「あなたは、あそこにはいないのでしょう?」
とだけ言ってメイスは部屋に戻り、俺をベッドの上のさっき置かれていた小さな棚にぽんと置いた。それからベッドに腰掛けちらりと窓の外を見ると
「どうにも、中途半端な時間帯ですよねー。日没もまだですし、多少眠い気もしますが、これ以上眠ると昼夜が逆転しそうですし」
メイスの生活リズムは日が沈んでちょっとたったらすぐ眠りに入り、日の出と共におきだすというのがパターンだ。最近は少しずつ夜の時間が長くなり、明かりの下で魔道書を読んでいるときもあるが。
「街に行って来たらどうだ? いろんな奴が集まっているから、いろんなものが売られたり買われたりしててたまに掘り出し物もあるぞ」
「魔道書とかもありますかね?」
「ある」
確かにあるのでうなずくと、ふーん、とメイスは少し興味を引かれたような顔をして「レザーさん、どうしますか?」
「いや……俺はいい」
気晴らしにはなるだろうと思ったが、まだ罪悪感があった。俺が味わっていればいいというものではないが、それでも、なんだろう自分の中の義理はある。
「わかりました」
メイスが窓に寄って開いた瞬間、ひょいとその姿が消える。……二階なんだが。やっぱりまだまだだなあ、と常識について思い巡らしていて、俺は一人の部屋でふと、メイスは一階から降りてあいつらと鉢合わせしたくないんじゃないか、ということに思い当たって、さらになんだか罪悪感が大きくなった。
決して低くはない位置の窓から飛び降りて、軽やかに着地した少女は、辺りを見回した。
そこは、先ほどカールという大男が薪を割っていた中庭で、奥の方にささやかな家庭菜園が見える。先ほどのサラダの味が口の中に広がってきた。農業というのは人間の所業の中ではもっとも有意義なことだと思いながら、魔道書ついでに非常食を買っていこうと考えて少し心が晴れる。
古いががっしりとした木造りの建物を回りこみ、表通りに出てとりあえず港からきた道を戻るかと思った瞬間、ドアから人の話し声が聞こえてきて足をとめた。普段なら人間たちの会話などに興味はまったくないのだが、今は少しだけ耳をひそめた。鋭敏な聴覚はその気にさえなれば、ドアに近づいて聞き耳をたてるなどの無様な真似をさせずにすむ。
少しの間、それを聞いていてふう、とため息をつき
「理解不能ですね」
と言って後は全てを忘れたように歩き出した。石畳は足の裏に固く、人間社会の中で嫌っているもののひとつだ。なぜ彼らはわざわざこのように自分の足を痛める真似をするのか、時たますれ違うロバがひく車輪がそれのひとつの答えなのだろうが、メイスにとっては納得ができない。
広い横道と行き当たった。先ほどは通ってこなかった道だ。腕に抱えたレタスはなぜか細くややこしい裏道ばかりを教えたが、広い道を選べばたどり着くのはずっと早く容易ではなかったのか。
とりあえず先程は通らなかった大通りを歩いてみる。正午過ぎ、人がそれも冒険者が特に多かった。人ごみが嫌いな身としてはむっとなるが、進み始めた。けれどすぐに白い髪の少女は大通りに入ったことを、後悔する羽目になった。
幾つかの店を物色していくうちに、自分に数多の視線が集まっていることに、いやがおうでも気づかされる。
人間を気にかけない性質を持ってしても、無視ができるレベルの注目ではない。注視というより凝視にふさわしい。道を歩けば振り向かれ、中にはすれ違ったのにわざわざ戻ってきてまで自分の姿をとっくりと眺める者もいる。
元々整った顔立ちに、赤い目に白い髪との奇異な特徴、その年の一人歩きと目立つ材料には事欠かないが、それにしてもこの注目は異常だった。
しかも、注目を向けてくる、その全てが冒険者だ。不躾な視線が刺すように注がれてただでさえ人ごみの中であまりよくない気分がさらに悪くなってくる。
視線の主たちは互いが互いを牽制しているのか、まだ話しかけられてはいないが、それも時間の問題だろう。白い髪の少女は赤い瞳をゆがめ、何も買っていないのに大通りを逃げるようにして去った。
なぜ自分がこういう目に遭わなければいけないのかと考えながら、わく苛立ちにどんどん道を進めていくと、細い道は先細りになり、やがてなくなり、その先の山に接するまで少し空いた場所をなだらかな丘にしてあった。古ぼけた柵に囲まれているので、放牧の場所なのだろうが、良い天気なのに羊や馬の姿は一頭も見えない。
むっとするほどの草の匂いと柔らかい風が交じり合って溶け込んでいる。邪魔な物がない丘を、横切る風がさやさやと草を撫でていく光景は、注がれた視線と隙間がないほどの人の密度にうんざりとした少女にとってはありがたいものだった。
その風景が扉を開いたように、今朝、揺れるあの気味の悪い乗り物の中で見た夢が、急速に頭の中に広がっていく。
それをなんとはなしに思い返しながら、丘に入り込みぶらぶらと歩いた末に、メイスはなだらかな丘の頂上付近にひょろりと一本だけのびた、日除けにもならない百日紅の木に背をもたれて腰掛けた。
太陽の熱で温まった大地と草木の感触に、さらに空気を吸い込むと草と海からくる潮と家畜の匂いが口から鼻に抜けた。
視界の果てには、最奥にきらきらと光をかえす海とすっと引かれた水平線が存在し、その手前にはせり出す山々の青さが目にしみる。街は右端の隅に添えられるようにほんの少し姿を見せていて、壮大ではないが小さな絵にでもおさまって飾られていそうな可愛らしい光景だ。その全ては悪くはなかったが、何も買わずに逃げ出してしまったので、こうして腰掛けてみてもすることが見つけられない。
こんなことならば、レザーさんを連れてくれば良かった、と思いながら、何か入っていないかとナプザックをあさり、もう二三度目を通している魔道書を取り出し、膝に広げた。
しばらく目を落としていると、ひゅっと、横合いを何かが通り抜けた。メイスが顔をあげた先、雪のように白い鳥が三角の翼を広げて身体のすぐ横をすり抜けていくのが見えた。鳥は輝く海と重なるところで、真っ白な翼を傾けて舵をとり、Uターンして戻ってきてばさばさと手前に近づいてくる。
ずいぶん警戒心がない鳥だなとは思ったが、それ以上は気にならずに目を戻そうとすると、鳥はさらに距離をつめ、膝元の本に降り立とうとまでしてきた。
さすがにそれは無視できずにしっしと鬱陶しそうに手を払い
「なんですか、あなたなんか私は食べないのですよ。人間ではないのですから」
気にせずうるさく羽ばたく鳥の翼とふと振った手が触れた瞬間、鳥に突然、異変が起きた。頭と尾羽をつかまれて無体に引き伸ばされたように、その姿が突然縦に長くなり、二対の翼が身体にまきつけられてくるくるとねじれていく。メイスが目を見張った。
「あなた」
気づいたときには、真っ白い鳥はメイスが広げた本の中に、丸められた一枚の羊皮紙としてぽんと置かれた。一連の出来事にその羊皮紙が誰からあてられたものかはっきりとわかった。
「お師匠様」
本を横にどけて急いで手にとり、紐をとく一瞬、夜通しかかって丁寧に一枚ずつ仕上げた手紙を渡してくれと頼んできた、あの青年のことがふと頭をよぎった。
別に手紙なぞ書かなくても私が言えばよいのでしょうが、と呆れて言うと、そうもいかないと堅固に首を振った。もう一度羊皮紙を見る。彼と同じように、わざわざこのように仕立てなくとも、あの鳥の姿のまま用件を呟いたほうが早いのだ。
まあ文字を書くメリットがわからぬわけではないが、人間というものは不必要なことにも妙な手段をとることが好きだ。結果は所詮、同じだというのに。
そうしてメイスは、紐を解いた。しゅるりと生き物のように羊皮紙は広がった。
赤い瞳が白い羊皮紙にかかれた粒のような文字を拾っていく。そうして、最後に差し掛かったとき、彼女の瞳が驚愕と不快さに大きく歪んだ。