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イカ光る夜(下)

 結構によく知られているクラーケンというこの名称は、本当は一つの存在に定まったものではなく、巨大な海の化け物を総称してそう言うらしい。中には竜を示すことだってあるようだ。

 だがサーガや一部の伝説の影響もあるんだろうが、一般的には今ちょうど波間に揺れているようなああいうモンスターに分類される巨大なイカやタコを示す。

 半ば伝説に近いティールの書では(なにしろ海軍はそのクラーケンの襲撃で壊滅しちまったわけだから真相は誰にもわからない)、その全長は千リーロルにも及ぶというとんでもない記録が残されている。が、吟遊詩人の語るサーガや、それをモチーフに描かれた絵画の中には、さすがにそうまで巨体では勇者や英雄も倒すどころかまともに戦うことすら難しいと分かっているためか、いくぶんか縮小されて表されている。

 今海から刻々と近づいている姿をざっと見たところ、それは概ね正しかったようだ。まあいくらなんでも千リーロルってのはもう人がどうこうする問題じゃねえ。天変地異として考えるしかない。

 船乗りを選択したことは正しかった。奴らには仲間が嘘をつくか本当を言うかをはっきりと悟っているためか、血相変えて駆け出していったスリアラーとあの船の乗組員がきちんと役目を果たしてうまく広めたんだろう。

 見張り台から見える町は、もう静かな様子など一片も残していない。あちこちにぱっぱっと光が灯り、危険を告げる汽笛や鐘が狂ったように鳴らされている。ここからでは小さく見える住人たちが手を取り合って丘の方へと逃げていくのが見て取れる。早く逃げてくれよ。

 なにはともあれ住人を無事なところまで避難させるのが最優先だ。馬鹿でかいと言っても所詮相手はイカ。陸をどこまでも追ってこられるわけではない。

「あれは、凄まじい速さで近づいている。ここもすぐに危なくなるぞ」

「だろうな。」

 一人残ったラブスカトルとか言うターバンの兄ちゃんが呟いた。狼狽の色は隠せずとも声には理性がある。

 さすがだな、とちょっと感心する。あんなのが突然海の向こうから姿を現したら並の度胸ではこうは落ち着いていられない。スリアラーとかいうあの兄貴野郎は顔にでやすいから危険を実感として他人に伝えるにはもってこいなのかもな。

「あんたもそろそろ下がっとけ。」

「お前は」

「俺は冒険者だからな」

 呟いてふと俺は思いついてメイスの方を見た。

「元じゃねえぞ」

「今は、と付け足せばいいのではないですか?」

 微妙に笑いを含んだその表情がすげえありありと何かを語っていた…

「まさか倒す気か?」

「まさか。」

 さすがにそうまで言われて思わず苦笑が漏れて、肩をすくめた。

「お帰り願うんだよ。意志の疎通は難しそうだが、まあやるだけやってみる。モンスターの対応は冒険者の仕事だからな」

「狂ってる。いいかげんにしろ。」

 厳しい言い草だが確かに正論ではあるので、反論はしなかった。

「今なら、住人は逃げられるだろう。」

「まあ人間はなんとかなるさ。だけど船やら町やらは逃げられないだろ。あのイカ、何をしにくるかは知らないが、来るだけで全部がエリアール海軍と同じようにぶっ壊されちまう」

 生命守るのが最優先。それはいつだってそうだ。生きててなんぼのもんだ。だけどその後に刹那的に助かっても、生活を維持する場所や物がなければ結局に難儀は大きい。守れるなら、なるべく守るべきだ。大変だけどさ。

 一歩先だけを見て今の生を忘れればそれは目もあてられないが、明日があるならしんどくても、もう一歩先も見とかなきゃな。

 俺は海に目をやった。海の先で、蠢く化け物の余波で、すぐ下に広がる船着場へと次第に広がる波紋のように、大きめの波が押し寄せてきて船がぐらぐらと揺れだしている。もう、あまり時間はなかった。

 メイスに先に行くように指差すと、メイスはちらりとターバン兄ちゃんの方を見て素直にはしごを二、三段下ると後は手抜きをしてぴょんと飛び降りた。

 小さな姿が闇の中に吸い込まれて、木の板で作られた渡り場にたんと軽く着地した音が聞こえた。ターバン兄ちゃんには見えないからいいようなもんを……

 俺も降りるため手すりに手をかける前に、ターバン兄ちゃんの細い目を見返した。理解の色はやっぱりその中になかった。いいさ。そういう仕事を選んだのは俺だ。

「できるだけはやる。仕事だからな。あんたの船に乗ってるんでね、壊されると俺としても困るんだよ」




 町の狂乱はすでにたてる人々が大方去ったせいか治まっていた。静かな夜が戻るかわりに静か過ぎる夜が舞い降りて、永遠のような静寂を紡ぐ無人の町にはあちこちに、人々が避難する際に手放し転がった松明が小さな焚き火を作っていた。その灯火がまた避難の混乱の際に落として残していった、様々な人々の持ち物を照らしている。

 その町の道の真中で、ぽつりと立っていたその人影の背後で荒々しく駆ける音がした。気付くとぐいっと肩をつかまれて息を切らしたスリアラーがそこに立っていた。

「おいっ、ラブスカトルっ、なにぼけっとしてんだよっ!」

「呆けてはいない」

 すぐに答えが返ってきたことに、逆にスリアラーの顔が訝しげになる。

「逃げるぞ。もう町の連中は丘に逃げた。あのイカ野郎、もう間近まで迫ってるのにお前らが来ないから……」

 そこまで言ってスリアラーがはっとして辺りを見回すが、無人の町は寒々しく生の気配はほかになかった。

「兄貴とあの嬢ちゃんはどこだ?」

 その言葉にラブスカトルの目に不快そうな色が宿る。

「なあっ、おい、どこに行ったんだ?」

 不安にかられて揺さぶるスリアラーにラブスカトルは細い目を向けて

「船のことをどう思う?」

 唐突に出た問いにスリアラーが一瞬きょとんとした。「船?」

「そう、俺達の船だ。今のままでは確実にあのクラーケンに壊されることが分かっている船だ。腐っても船乗りだ。船をなくしてはなにもできない」

「なにいってんだよっ! 仕方ねえだろっ、あのイカの足を見ただろ、お前。」

「その通りだ。」

 突然の手のひらを返したような肯定に、やはり勢いを挫かれたスリアラーの手をはらい、頭にターバンを巻いた男は

「船の持ち主の俺達ですらそうだ。なのにまったく無関係な奴が守るという」

「兄貴がっ!?」

「レザー・カルシス。名を聞かなかったことが信じられんな。こんな大ばか者は世界中にその馬鹿さ加減が響いているはずだ」

 言うなりラブスカトルがきびすを返して港へと駆け出す。スリアラーはぎょっとして

「そっちじゃねえよっ、どこ行くんだっ」

「お前の大好きな、あの馬鹿のところだ」

 夜気を切り裂いて船着場に行くと、そのすぐ入り口に、松明をもって一人で立っていた白い髪の少女がこちらに気付いて振り向いた。

「なにか御用でしょうか?」

「あの男はどこだ?」

「いい立ち位置を探しているそうですよ。あれが来る方向を計算しながら」

 そこでつれなく顔を逸らし、目の前に積み上げられた、油が染み込んだ布を先端に巻きつけた松明を拾い上げて少女は何をする気なのか、一人で使うには多すぎるそれらに持っていた松明から一つずつ火をつけて、火がつきはじめたそれを桶にいれて転がさぬようにした。

「本気でやる気なのか」

「やるでしょうね。レザーさんはこういう手間暇をかけた冗談を言う人ではないですよ」

 作業の合い間に平然と言う相手に、じりとラブスカトルの腹の中に焦燥に似たものがわいた。

「お前は、それでいいのか?」

 その問いかけにゆっくりと少女は振り向く。赤々と灯された光に照らされて、端整な美しさはどこか禍々しさを帯びた。赤い瞳がふっと笑った。光が高さを変えて少女を照らす。スリアラーが思わず唸るような声をあげた。

 少女が背後とした闇の中に松明がひとりでに浮かび上がる。松明達は彼女を取り巻いて浮かび辺りの暗がりをその明るさで削り取り、少女のための舞台をこしらえるように彼女の姿を照らし出す。まさに効果として狙うなら、これ以上魔女らしい状況はない。

 それでも笑う少女はこちらが悔しく思えるほどに、揺るがぬ何かを持っているようだった。

「まあ気まぐれですがね。レザーさんがやりたいと言うのですから、やらしてあげればいいじゃないですか」

「ま、魔術か?」

 傍らのスリアラーの問いかけに少女は何気なく頷き

「そうですよ? 松明はあのイカみたいにひとりでに燃えもしなければ浮かびあがりもしませんよ」

「やっぱりお前、あのニーチェやカナンの魔術師なのか?」

「そういう誇張はなされてますねー。あんな七面倒な真似を介入するほど以前の私は暇でも酔狂でもありませんでしたが、他人の分までそれを背負う人間の相手をすることに私もいいかげんに慣れたのですよ。あの最低という言葉が具現化するならばあれ以上に生きとし生けるものの中で当てはまるものはないと考えるだけで極上の野菜の味もまずくなるという心理面に最悪の打撃を与えるお師匠さまの相手よりは幾分かマシですしね」

「メイスっ!」

 呼び声と共に少女は振り向いた。その方向から、もはや耐えがたいすっぱい臭いを湛えた風が吹きつけて、夜の中に浮かんだ松明を揺らした。

 そんな不快な風の中を人影が駆けて来る。松明の光が届かぬ場所で人影は一瞬立ち止まり、ラブスカトルとスリアラーを見た。

「お前ら、まだいたのか?」

「あ、兄貴っ」

「さっさと逃げろ。真っ直ぐには逃げるな。風が吹き付ける方向から逃げろって言われている。メイス、お前もそうだ。いいか、やったらすぐだ」

「どうする気だ」

「説明してる暇さえあればしてやっても良かったよ。」

 手早い動作できびすを返す、くくった一つの青い髪とマントが翻った。そこでスリアラーもようやく事がわかったのか真っ青になり

「兄貴っ、勝てっこねえってっ! あのでかさみたろ」

「でかい相手には慣れてる」

 瞬時に波がうねって船着場に激しくぶつかり、白い泡を散らした。港自体が大きくぐらりと揺れて、深き海底からゆっくりとそれが確実に近づいてくることが絶望的なまでにはっきりと分かった。

 何も言わずに人影が走り出す。少女が小さく口元で何か唱えた途端、松明が照らす夜の中にさらにむくりと幾つもの影が舞った。見慣れたその形にすぐに正体が分かる。蓋をされた樽だった。

 たっと土を蹴る音がした。横を見ると少女の姿が消えている。松明の光は依然として空にあり、それらが照らす全てが現実味をなくしていた。

「ここじゃ、駄目じゃないですかー」

 不満そうな少女の声が響いた辺りを、咄嗟に見回すと、宙に浮いた松明が影を作り出して、傍らの漁船の倉庫の屋根に小さなその影があった。一瞬にしてその上までどのように移ったのか、見当もつかなかった。

 ずしん、とまた海からの脅威が近づく音がひとしきり大きく響き、彼らの足元を揺らした。けれど、屋根の上の少女は、恐れなど欠片もないように無造作にその屋根を蹴る。

 小さな身体は闇に舞い、まるで体重がないようにすぐ傍に軽やかに着地すると、人影が去って行った方向に駆け出した。その背後に空に浮かんだ松明と樽が追う。

 今度は考えもなく、その後をラブスカトルは追っていた。危険はもはや感知する気もなかった。耳で目で全身でどっと汗が吹き出るような威圧感を受けていた。スリアラーも今度は何も言わずに続いた。

 少女のしなやかな足は凄まじい速さで見えなくなり、かろうじて夜の中に孤独に浮かび上がる松明の灯りでどこに向かったのか分かった。

 少女は船着場の隙間を駆け抜けて、どの船よりも遠く、一番海に接して邪魔のない一隻のラブスカトル達の二倍はありそうな帆船の甲板へと飛び乗った。

 背後を追いかけてくる船乗り達の存在には気付いているようだったが、少女は素早く張った帆の横柱を飛び跳ねてどんな器用な船乗りでも、到底追いつけぬ速さで見張り台まで飛び上がる。

 すでに眼前に闇に青白く光る姿は迫っていた。そこから吹き付ける風の生臭さに、当に鼻は麻痺している。

 すぐさま少女は詠唱へと入った。胸の前で互いの平を向かい合わせるようにして近づけた手から、光が生まれる。青い光は不思議なことに前方に迫る巨大な化け物が身体から放つものとよく似ていた。

 闇の中、少女の白い髪がふわりと浮かび上がり、生まれた光はすでに腕のうちに治まらず、空へと向けた手の平にのしかかるほど巨大になり、それは夜の中の太陽のよう、鮮烈に辺りにほとばしり、焼けついた昼のように辺りを煌々と照らした。

「なっ、なんだあっ!?」

 スリアラーがあげた狼狽の声に、まだいたのかという風に、少女が甲板を見下ろした。

「レザーさんに教えていただいたのですがね、イカをおびき寄せるにはこういう漁をするそうですよ」

 少女は言い放ち、その光に照らされた前方からざばあっと海水を陸に押し上げて、貪欲な心を表すようにどれもゆうに二十リーロル(約五十メートル)はありそうな幾多もの触手が海上に現れて、好き勝手にのたうつ。

 余計なことにまじまじと、少女が生み出した青白い光がそれを克明に照らし出した。想像を絶する大蛇が暴れているように、その光景は闇がまだ隠していた実際の恐怖をつきつけてくる。

 まだ頭部は見えはしなかった。無数にも思える光り蠢く足だけが、真っ直ぐに伸びたかと思うと縮んで、抱えた光めがけて一直線に寄ってくる。その巨大な動きの余波がまともにやってきて、ぐらぐらと揺れていた船は嵐にもてあそばれた時のよう耐えがたい振動に襲われた。

 見張り台の少女は閉口したように顔をしかめ、物も言わずに掲げた手の平を前方に向けると、光の塊は松明や樽のようにすっと彼女の手から離れて、船着場のすぐ近くの海上へと進んだ。その行方を息を呑んで見送り、そして視線を戻すと見張り台の上、少女の姿がない。

 先ほどのようにまた一瞬で消えたのかとラブスカトルが目をこらすと、見張り台の手すりのうちに小さな影があった。振り落とされぬよう、手すりのうちに身を潜めただけらしい。

 揺れる船上は、船乗りでなければ一秒で無様に転がってしまいそうなほど押し寄せる波に翻弄されている。風が吹き付ける。松明は消えてしまわないか、少し思う。

「……っ!」

 突然、何も言わずにどんっとスリアラーの手が、ラブスカトルの肩を強く叩いた。こづきながらもスリアラーの視線は一点に縫いとめられている。

 彼の言いたいことは探すまでもなく目に飛び込んできた。

 十何リーロルと離れていない海上に、足が隆々と突き立っていた。船の下に押し寄せたセンコウイカと同じよう、内側に発光器を備えているのか光を帯びている。

 悪夢のごときそれは下手なオブジェのよう無機質で、光を放つその触手の、鳥肌が立つほどの数の吸盤が並ぶ内側以外は、影に彩られた様は硬質に見えた。

 止まっているように見えたのはごく一瞬だが、意識の中では永遠に近い。瞬時に振りかざされたそれは鞭のようにしなって風を叩き、そして激しい衝撃と共に理解が飛ぶ。

 それがもはや音なのか衝撃なのか判別できないままに、感覚の遮断の中で心臓の音だけが克明だった。生きていることが逆に恐ろしかった。

 気付くとラブスカトルは波が蠢いて狂おしく揺れる甲板の上で這いつくばっていた。すぐそばに同じように転がっているスリアラーの存在だけをなんとか確かめる。

 自らの鼓動しか聞き取らぬ、聾したかと思えた耳に、ようやく他の音が戻ってくる。どんな嵐でもありえないほどの揺れも幾分かは弱まった。

 恐るべき一撃はその船ではなく、すぐ横の何もない海上を叩いたのだ。見せつけられた、威力は明白だった。その一撃で、この船は粉々に砕け散る。

 この恐るべき海の化け物は、生きている嵐と相違はなかった。船乗りならば誰もが知っている。嵐に逆らっても打ち勝つことはできない。生き延びるのは、その慈悲と自らの運に縋るしかない。

 けれど、それ以上追い撃つ海の巨大イカの一撃はなかった。恐怖も畏怖もそしてそれに打ち勝つ勇も頭から失われて、ただただ呆然と顔をあげて見据える。

 辺りは、気が狂うほどに明るかった。何も見落とさない、見落とせない世界の中で、触手が伸びていた。光を求めて海から幾手もの、ぬめりと照らされた巨大な腕が姿を現していた。そして吐き気を催すことに、姿も半ば露となっていた。悪魔のような巨大な影を背後に添えて、光球にたかる巨大なイカの姿が冗談のごとく目の前にある。

 形は、その造りは、やはり普段掌にのせるほどの、あの軟体動物とそう変わりはない。なのに大きさが違う。それだけが、どこまでこの造形を醜悪に見せるのか。

 ふと、上空で誰かが呟いた。歌声ではないが抑揚がリズムをとり、何もかもが滅茶苦茶に彩られたここで、意味も分からぬまま美しい響きだとラブスカトルは思った。

「嬢ちゃんっ! あぶねえっ」

 叫んだ声にようやく隣にスリアラーが同じように立っているのに気付く。再び少女が見張り台に立っていた。背後から浮かんだ影がすうっと舞い出る。あの樽だった。

 なんの変哲もない樽が、光球とそれにたかる山のごとき化け物へと近づく。

「なにをするつもりだ」

 ラブスカトルの心とは別に、出た声は妙に落ち着いていた。その響きが耳朶をうって心が静まる。夜の中に、少女が大きく呼びかける。

「レザーさんっ!」

 ふと風を切る音がした。瞬間に、樽の一つに妙な突起が出来ているのに気付いた。そこから水滴が吹き出てくる。

「レザーさんっ、それだけじゃ足りませんよ」

「しかたねえだろ、投げナイフじゃたかが知れてる」

 姿を消した男の声がどこからともなく響く。言いながらもすとんすとんと闇を切ってクラーケンが放つ光と少女が生み出した光が、相殺することなく交じり合い昼とも朝とも違う明るさが満たす世界へと、投げナイフが到来して樽へと刺さる。その腕は確かだった。

 頭をよぎった直感に、ラブスカトルはふと辺りを見回して、船室へと飛び込んだ。

 光が天井板に邪魔をされてさしこめず、薄暗いその中で無我夢中で探る。幸い平均的な船のつくりと変わらず、武器庫はすぐに見つけられた。そこから一対の弓と矢筒を引っつかむと、階段を駆け上がる。

 再び甲板に飛び出して巨大イカの姿をまず見た。うっとりと恐ろしい姿が光に何本もの触手を伸ばして表面を撫でまわしている。クラーケン自身はそれを海中に引きずり込みたいようだが、辺りを照らすその光球はおぞましい腕に包まれながらも平然と空に浮いていた。

 スリアラーの姿が見えなかったが、構わずに矢をつがえ弓を引き絞る。明るさは充分だった。

 樽には幾つものナイフが刺さり、そこから光に黒く映える液体が噴出して光球に貪りつくイカへと注いでいる。勢いは良いが、穴が小さいため量は多くない。矢尻を掴んだ手を迷いなく離した。

 夜を一直線に飛ぶ矢は、見事に樽へと命中した。運良く一部の板が剥がれてナイフよりも中に入った液体を撒き散らした。

「おや」

 少女が呟いてこちらを見下ろした。白い髪がぶらりと前に流れた。「まだいらしたんですか」

 答えるより早く、びんっとさらに鋭い風を切る音と共に、夜空に不自然に浮かんだ樽にラブスカトルの放ったそれより数倍は巨大な矢が命中した。

 その一撃は耐えがたかったようで、樽は木っ端微塵に粉砕し、中に詰まっていた液体は、いっせいに気持ちが悪いほどに白いクラーケンの身体へと降り注ぎ、その表面でゆらりと光った。

 首を返すと、スリアラーが帆先にいて、そこに据えられたボーガンを構えていた。

 純粋に感心したように男の声が響く。

「いい腕だな」

「あれはうちの狙撃手だからな」

「兄貴っ、俺役に立ってるかっ」

 喜色混じる雄叫びに苦笑が返った。姿の見えぬ男はナイフが投げられた高さから考えて、おそらく向かい合う隣船の見張り台にいるのだろう。

「渡りに船だ。手伝ってもらうか。メイス、次だ」

 ふわっと次の樽が浮上した瞬間に、ナイフと矢とボーガンは瞬時にそれを打ち抜いた。

 このこと自体は単純作業に近かったが、五つ目の樽を打ち抜いたとき、ふとラブスカトルは、海の怪物が自らに降り注ぐ、黒い雨にも気付かず夢中でたかる、光球が放つ光が弱くなったような気がした。けれど、恐怖が迷いこむより先に、見張り台の上から少女が

「ついでにこれに火をつけてくださいませんか? 消えてしまいましてね」

 彼女が光球を生み出すまで、辺りを照らしていた松明が甲板に転がった。灯されていた火は風で吹き飛ばされたらしく、湿ってはいなかった。

 初めから樽と同じく空に浮かんでいたのだが、激しく毒々しい青い光に焼かれて、すっかりその存在を忘れていた。ラブスカトルが言われるままにふところから、火打石を取り出す。

 彼が役目を果たそうと腰をかがめた瞬間、辺りがまた少し薄闇を取り戻した。今度は気のせいではなく、明らかに光球の威力が弱まっている。

 かすかに汗が湧いた。ぎこちない手が数度かの失敗を繰り返す。光がまた弱くなった。手元から火花は生まれても油に飛ばなかった。スリアラーも駆け寄ってきてひざまずくと、かちかちとせわしくなく自らの火打石を鳴らし始めた。しかし似たり寄ったりの手つきだ。

「まだですか?」

 答えるよりも行動が先だった。なにより返答で生まれるかもしれない息や唾で、せっかくの火花を散らしては目もあてられない。

 焦る彼らを嘲笑うよう、一度弱まれば、魔力で生まれた空の固まりが光を失っていくのは早かった。刻々と弱くなる光に不安と焦燥が雪のように舞い降りる。

 目を向けていなくとも、今や光球が海の魔物自身が放つ光よりも弱くなっていることは明白だった。それまで夢中でからんでいた足がずるり、と動く水音がする。汗が吹き出る。

 カチっ、と確実な音がしてスリアラーの手から生まれた火花が、松明の先にくくりつけられた布に染み込んだ油に引火して、たちまち一塊の炎となった。

 ラブスカトルは手を伸ばして、他の松明をかきあつめ唯一火がついた松明へと近づけた。油を染み込ませた布はすぐに、ぱっ、と燃え上がる。先ほどの光球とは色合いが違う火の明かりが周囲を削り、そしてクラーケンの足が放つ光とは交じり合わずに互いを相殺した。

 ふと背後から、なにを言っているかは聞き取れないが、あの男の叫びが聞こえたような気がした。光を灯し勝利の喜色を浮かべたスリアラーは瞬間に、凍りついたようにラブスカトルの背後を見つめた。反射的に振り向き、全身の血が泡立った。

一リーロルも離れていない場所にクラーケンの瞳があった。

 彼らが必死に作業に取り掛かっている間に、光が薄れるにつれてあれほど熱烈にかまっていた光球にみるみる興味をなくし、その巨体は移動して船着場の桟橋に乗り上げ、船の横腹にぴったりとその醜悪な柔らかさを持つ身体を寄せていたのだ。

 悪夢や冗談の中にしか存在しないと錯覚しがちな、馬鹿らしい近さにあるそれは、悠に彼らの頭一つ分もありそうな巨大な瞳だった。完璧に近い円形で、ほとんどが黒く塗りつぶされたその感情のない瞳が彼らを、より言えば新たに灯された松明を見つめている。

「――!」

 スリアラーが、悲鳴をあげなかったのか、あげられなかったのか、分からないままに巨大な怪物は無造作に、まるで目の前を飛ぶ蝶に手を伸ばす幼子のような無邪気さで、一本の足を振るおうと翳した。その影が全身に降りかかり、逃げ場がないことを悟る。

 死の覚悟を決めた耳に、夜を切り裂く幾筋もの音がした。ふとクラーケンは動きをとめ、振り上げていた足を引いて身体の向きを変える。クラーケンの放つ光に照らされる、海上に見覚えのある船があった。そして甲板に見覚えのある人々が乗っていた。

「お前達っ」

 船を操る者以外には、ほとんどの船乗り達がそれぞれ飛び道具を手にしている。クラーケンの背に幾つもの矢が刺さっていた。船上から誰かの声が聞こえた。一番に声がよく通るホークビットのものだった。

「お前ら馬鹿じゃねえかっ、姿がみえねえと思ったらなに戦ってんだよっ」

「船ごとくるお前らが馬鹿だっ」

 珍しくスリアラーが正論を怒鳴り返す。その合間をついて灯された松明が舞い上がり、目にした船乗り達がどよめいた。

 見張り台の上で少女は手を広げていた。そして松明は巨大な化け物の上空四方に広がり、火の粉を散らしてぬめぬめとした身体にぶつかった。

 海上に山のごとく盛り上がったその身体にぱっと火が走った。感覚は極めて鈍いのか、クラーケンは苦痛の様子などは見せず、自らが放つ光の色合いがなぜ変わったのか不思議そうに考えているよう、燃える足を目の前に翳してゆらゆらと無意味に揺らしている。クラーケンの巨体を焼く炎が辺りの闇を削った。

「あ、あれ、油だったのか……」

 分からぬままに、樽落しに参加していたスリアラーが間の抜けた声で呟いた。状況に似合わぬ呑気な呟きであったが、それほど、船の上の船乗り達も危機的状況をつかの間忘れて呆然としてしまうほどに、燃えながらぴくりともせぬ巨大イカの姿は異様だった。

 油で濡れた全身を炎はよく走り、そして先ほどまで伝説ではその臭いで数多の魚を呼び寄せるという、生臭い匂いが風と共に微妙に変わった。後になれば完全なほらふき話となるが、咄嗟にその匂いに幾人かの船乗り達の舌に唾が広がった。

 そして観衆が思わずぼんやりと眺めてしまう、巨大でそして鈍き海の怪物の咆哮は突然だった。黙って火に包まれていた、その生々しい巨体にどのような転機があったのかは分からないが、自らを包む業火に激しい怒りを抱き、ぶわりと膨れ上がったような幻覚と共にその巨体が空に向かって突き立ち、十の足が四方に伸びて手当たり次第になぎ払う。

 それは海上の船乗り達の船には届かなかったが、ラブスカトル達が乗っていた船の、何千年の時を経た見事な一本杉をそのまま使う帆柱が、ひしゃげるように横になぎ倒された。

「メイスっ!」

 幸いにも倒れる方向に立っていなかったが、それでも帆柱をへし折られて揺れ動く甲板の上で、ラブスカトルとスリアラーは初めて、闇から飛ぶその声に焦燥の響きが含まれているのを耳にした。

 そして一つの事実が脳裏に走る。夜のしじまに響いたその名を持つ少女は、帆柱に設置される見張り台へと立っていたのだ。

 声の主への義務のように、咄嗟にひどい揺れの中で辺りを見回す。すると、タッ、とやはり軽い音がして、夜の中に白い髪を舞わせた少女がラブスカトルのすぐ眼前に軽やかに降り立った。

「平気ですー」

 一体全体どうして彼女が平気であるのか、その理由は分からぬままに安堵する。厳しく有無を言わせぬ声が飛んだ。

「下がってろっ、その船から三人とも下りろ」

 海の怪物はようやくに炎から逃れる方法を悟って、船着場にかけていた足を素早く戻し、全身で海へともぐった。

 その膨大な体積に耐えられずに桟橋へと大波が押し寄せて、船乗り達を乗せた海上の船は横倒しになりかけ、指示どおりに逃げかけていたラブスカトル達も危うく飲み込まれそうになった。

 少女とスリアラーと共に、咄嗟に手近な船へと飛び移って、難を乗り切り視線を走らせる。仲間の船乗り達もなんとか乗り切ったようで、彼らの船はまだ無事に海上に浮いていた。

 それを確かめて、ラブスカトルは海水とも汗ともつかぬものに濡れた顎を拳で拭った。クラーケンがもぐった海が不気味に光っていた。

「どうするつもりだ?」

「さあ。私がしろと言われたのはここまでです」

 問いかけられた少女は肩をすくめてそれだけを言う。たいした猶予を与えてくれないままに、光る海水が盛り上がる。巨大な波紋が何重も生まれる、光がまた近くなる。

「兄貴っ!?」

 不意にスリアラーが叫んだ。メイスとラブスカトルがそのただならぬ叫びに視線を向けた。横にせり出した細いマストの横柱を、人影が駆けていた。

 その横柱には、人が立てるほどの幅はないことはない。けれどたとえそれが陸においてあったとしても、そのように無造作に走れる場所ではない。まして今はクラーケンの動きで止められた船は木の葉のように揺れるのだ。

 けれどその綱渡りを人影は無造作にこなしていた。走り去るその背後で、黒いマントがはためく。クラーケンの浮上より一歩制して、横柱の先に辿り着いた人影は勢いのままに空に身を踊らした。

 さすがにその動きには、隣の少女も小さく息を呑む音がした。空に身を投げた身体は、きちんと足を下にして右手に握られた剣を構える。人影の意図を察して思わずラブスカトルは怒鳴りつけていた。

「命がいらないのかっ!」

 すでに浮上してきていた、傷つけられてさらに気味の悪い様相へと変貌した裸身と、落下する人影が重なった。

 ただ落ちるだけの運命などからりと忘れたよう、まるで無造作に空でその人影は、細いクラーケンの胴体に己が剣を落下の勢いのままに長剣の根元まで深々と突き刺していた。

 落下の重みで刺さった剣は一度その勢いを止めたが、彼自身の体重により今度はすうっと落下の軌跡にあわせてクラーケンの胴体を縦に裂いていく。

 この直接的な攻撃には、さすがの鈍感さを誇る海の怪物もすぐ気付いたようだ。悲鳴のかわりに十の足を痙攣させ手当たり次第に振り回した。

 自らに迫るその凶器に気付いた人影は咄嗟に掴んだ剣の柄を蹴り飛ばし、密着していたクラーケンの胴体を離れるため背後へと大きく飛ぶ。

 着地時点にはうまく桟橋があり、人影が海へと落下することはなかったが、先ほど太いマストを一撃でなぎ倒した足が、横合いから風を切って襲来し桟橋ごとその付近にある全てのものを吹き飛ばした。一足早く飛びのいていなければ、間違いなく全身の骨がばらばらになって圧死している。

 怒り狂ったクラーケンは、彼らなど眼中にないように光球にうっとりとしがみついていた先程とは違い、その無機質な分だけ恐怖を煽る黒い瞳ではっきりと分不相応に自らに苦痛をもたらしたその人影を見据えていた。

 巨体がぐぐ、と伸縮し、全ての意識を集中させて十の足が人影へと殺到する。対して人影は、いまだクラーケンの胴体に突き刺さった剣が示すように空手だった。どの瞳が見ても同じ結末を予想させる状況に、スリアラーが悲鳴をあげる。

「兄貴っ」

 ラブスカトルは咄嗟にまだ掴んでいた弓に矢をつがえて放った。わずかに遅れて船上の他の仲間達も次々に逆の方向から矢を射た。矢は刺さったが、激情の怪物にとっては微々たるもののようだった。あのような長剣が真正面から深々と刺さって切り裂いても、その動きをわずかに鈍らしただけなのだから無理もない。

 死刑台へと足をかけていても、その人影の動きはわずかな風にも揺られる柳の葉のように軽やかだった。それを目にして船上で感嘆と驚嘆の声があがる。

 人影はほとんど神技に近い身のこなしで、十の足の襲来を一つの身体で避けていたが、無差別なクラーケンの攻撃についには足をつけるべき桟橋がほとんど壊滅しかけて、その隙をつかれて一本の足がしゅるりと身体にまきついた。動きを封じられればどのような剣士も術がない。

「レザーさんっ!」

 白い髪の少女が飛び出した。「嬢ちゃんっ」とスリアラーが声をあげる。ラブスカトルは一瞬揺らいだが雲を掴むようなわずかな希望で人影を掴む足の根元へと矢を射込んでみる。やはり効果は見て取れない。

 小癪な獲物をようやく捕まえ、海の怪物はご満悦になったようだ。ゆっくりと仰向けになるようにその巨体が傾いていき、細長い胴体の下にある口がきちきちと蠢いているが見えた。

 不意に壊れかけた桟橋を駆けていた少女は、言いようのない怒りにかられたようにそこで立ち止まり、自身の身体の何十倍の大きさを誇るクラーケンをびしっと指をさし

「そこっ、何を私の許可なくして勝手に食そうとしているのですかっ、レザーさんは私のものですっ!」

「違うっ!」

 すかさず飛んだ返事に、場違いな余裕が見えたような気がした。少なくとも声は出せるのだ。ぎりぎりと締めつける海の怪物の足にまかれながら、影がかすかにもがいたと思った瞬間、奇跡のようにその足の締めつけから自身を解放させていた。

 けれど奇跡を待つような悠長な真似を男はしたわけではない。その左手には小さなナイフがあった。厳しい締めつけの中で、なんとか身をひねって隙間を作り出し、隠し持っていたそれを自らを拘束する怪物の足へと突き立てたのだ。

 自由になった瞬間に、人影はそのナイフを捨てるように前方へと投げつけて、右手が腰の柄へと伸びる。男はよく見ればもう一本の剣を下げていた。素早く抜き払った刀身が海の怪物自身が照らす光に跳ね返り白く輝く。

 様々に器用な真似を重ねながらも、男は生粋の剣士のようだった。刀身を手にした瞬間、化け物を前にしてひるむことのなかった身体に、さらなる力が溢れたように見えた。真っ向から伸ばされてきた恐るべき暴力を秘めた腕を、かすかに身を横に引いて剣を下から振り上げる。

 先ほどのように落下や体重をかけられる状況ではない。恐らく力ではなく、触手にそっと刃を添えて猛烈に伸びてくるそれ自身の勢いの力で、自滅へと追い込んだのだろう。足の先が竹を割るように綺麗に二つに分かれた。分かれた片方は青い光を放つ吸盤のついた内側で、もう片方は何もなくただその輪郭の背を描く半分の足だった。

 クラーケンが怯みその足が引いた瞬間、蠢き辺りのものをなぎ倒す足達が作った空間に空白ができた。ただの一瞬も男は躊躇わずに引いた足を追うよう駆ける。

 海の怪物もすかさず形勢をたて直そうと、その巨体をぐるりと回した刹那、左の目にぱあんっと何かが炸裂した。先ほど空に浮き怪物を虜にした光球と大きさ以外は全く同じものだ。巨体が揺らめき動きが止まる。光が飛んできた先に少女が立っていた。

 男はそれを立ち止まり確かめるような愚かな真似はせず一直線に、彼自身が切り裂いてぐったり横たわる足を踏み台として蹴り、伸びた胴体と比べれば比較的低い位置にある瞳の間近へと駆け上がった。

「まあ、とりあえず」

 そこに辿り着き吸盤にうまく足をかけて立つ、男は息一つ切らさずに呟いて、剣の柄に両手を合わせる。

「お前に食われる、義理はないね」

 ぐっと男の身体が突っ張った。今度こそクラーケンが致命傷を喰らった反応として全身を震わせた。黒く瞬くことはないその巨大な瞳に深々とその剣は刺さっていた。

 憐れな化け物はさらに暴れ狂うかと思われたが、いっさいの力が抜けたようにだらんと足を投げ出して、そのままぶくぶくと泡を生みながら海に沈んでいく。船乗り達のほとんどが息をつめ、固唾を飲んでその様子を見送っていた。やがて嵐が過ぎ去った時と同じよう、呆然とした静かさを残して全ては去った。

 男はしばらく海を覗き込んでいたが、やがて深きへと潜りぼやけた光が沖合いへと去っていくのを見届け、ようやく海に背を向ける。それから軽く首を左右に数度曲げて、口の中で何気なく呟いた。

「疲れた」




 一夜明けると、朝の光と共にやって来たのは膨大な歓待の嵐だった。町を救い、船を救い、モンスターを倒した奇跡に、白い髪の名の知れた少女と勇敢な船乗り一同に雨あられと降り注ぐ、感謝と賛辞に町全体が沸いていた。

 引き止め呼び止める手は数多で、少し心が揺らげば何週間でも開かれる宴の中でずるずると滞在してしまいそうなその熱狂に、けれど船乗りたちは商売の約束があると振り払い予定通りに出航の準備に取り掛かった。

 大いに残念がった人々は、それでも総出で準備へと手を貸してくれた。船乗り達が運ぶはずの荷物も強固に言い張り押しのけて我が我がと先を争い運んでいる、その様を甲板から見下ろし、ラブスカトルは一つ嘆息した。

 そして横に立つ白い髪の少女へと目を向けた。

「本当に、いいのか?」

「いいというより本人が嫌だと言っているのですから仕方ないでしょう。」

「名を売るのは好きではない、と言った。船も救った。意のままにするだけの恩はある。しかしこんな横取りのような真似をさせられるのは気分が悪い」

 いつの間にか仕立てられた位置は不当だと、細い目は語る。力を貸していたので全くの不当ではないのだが、賛美ならば感謝ならば誰よりも受けるはずの人間一人だけが、誰の口にも上がらなかった。

「仕方ありませんよ。そういう人なのですから。私だって嫌なんですよ、またレザーさんのしたことを勝手に被せられるのは」

 実際に彼女も、この先さらに響くようになるだろう己が名に、うんざりとしているようだった。確かに今回の船乗り達が抱いた疑惑などを考える限り、名が知れるというのも決していい面ばかりではないようだ。

 もっともにその処理に不満を抱いたスリアラーは、けれど相手に諭されてそれが何かまた違ったつぼに入ってしまったのか、感激のあまりに心酔はさらに深まったようだ。一生兄貴についていく、と拳を握り締め誓った言葉を聞けば、あの男は嫌な顔をするだろう。

 そこまで思いふと、ラブスカトルは男の顔を一度も見ていないことに気付いた。どの記憶を掘り返しても闇や影の中で疾風のように動いた男は、その顔をさらすことがなかった。

 腕を組んでラブスカトルは、少しばかりの苛立ちと共に言葉を吐いた。

「理解しがたい男だ。」

「そうですねー。」

「冒険者といったが、確かにそうだな。気狂い稼業だ。とても真似できん」

「別に冒険者全般があのような人ではないと思いますが」

「あってはたまらん。あんな命知らずな馬鹿が何人もいてみろ。」そこまで話したところで背後であがった仲間が呼ぶ声にラブスカトルはすぐ行く、と返答し少女の隣から辞した。

 細い肩に不思議な白髪に赤い瞳のこの少女を、一人にさせておくことに不安はなかった。あの一夜が明けたからには、甲板に立つ少女の正体をこの船の誰もが知っていても、決してもう騒がれ、不安に思われることはないだろう、と確信があった。

 結局に悪夢のような一夜の一騒動の後、残ったのは戸惑う評判と、そしてこの少女へ向けられた疑惑の払拭だ。評判は時期に薄れるだろう。なにしろ自分達はあんな馬鹿げた冒険者などではない。「真っ当な」船乗りなのだから。

 だから残るのは、少女の件だけだ。ほんの微々たる、些細な結果に、少しだけ愉快な気持ちになり、振り向いてかすかに唇に笑みを浮かべてラブスカトルは少女に言った。

「怖いもの知らずという馬鹿げた言葉は、あの男のためにあるのだろうな」

 彼にしては最大級のその賛美を、本人に伝える気は細い目の男にはさらさらなかった。




 なんつーか、一面に野菜だった。

 多くの船乗り達はむろんくれるというもんはあんまりこだわらずに受け取っていたが、メイスが遠慮なんて気持ちを知るはずもなく、大量に礼の生野菜を貰っていた。いや、別にいいんだけどさ、それくらい貰ってもばちがあたらんほどにはみんなやるこたあやったし。

 しかしこう鮮やかな野菜の中に埋もれていると……なんつーか……いやなんだろ。

 トタトタと他の船乗り達にはたてられない軽い足音が聞こえて、狭い部屋にメイスが入ってきた。今は崩れ落ちそうな野菜の山の横に俺は転がっている。メイスは俺を拾い上げて、

「レザーさん、もうすぐ出航ですって」

「そうか」

 手近な机へと置いてくれた。思わずその動作にほっとする。そうだよな。あの時の航海とは違う。こんだけ大量な野菜が今はあんだ。俺はまだまだ大丈夫だ。きっと。多分。

 メイスは早速、積み上げられた野菜の一番上に手を伸ばした。瑞々しいレタスだった。なるべく俺は見ないようにしたが、音はどうしても聞こえてしまう。

 ばりっと勢い良く葉が剥がされる音がする。次にレタスの芯の部分を噛み砕くぱりぱりとしなる音。少し前に食われそうになった時の想像がいやおうなく頭をよぎる。

 黙りこくった俺に不審に思ったのかメイスがひょいと顔を出した。その手には食べられているレタス。ほとんど無意識にさわさわと俺が震える。すると葉っぱも揺れる。

 俺の眼前のメイスは、ふっと笑って

「あまりそう美味しさを見せつけないでくださいよー、食べたくなるじゃないですか」

 そう言って笑いかけてくるので、俺もすげえ無理をして乾いた笑いをのせて調子を合わせた。冗談として流さなければ。命にかかわるぞ。

 メイスは冗談ですまさない気満々の、熱っぽい視線でじーっとなめるように俺を見て、それからほうと悩ましげなため息をつき

「レザーさんって、罪なレタスですねえ」

 がんばって笑おう。砂漠よりも乾いたって。

 蒼ざめ震えだしたい身体を必死に抑えて俺は自分に言い聞かせる。



 ――こ、怖がったら負けだっ!



 こんな狭い密室でメイスと二人っきりの、めくるめく恐怖の航海が、一刻も早く一秒も早く終わってくれることだけを、俺はとっくに信じてない神様にでも祈った。









 <イカ光る夜>完




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