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第二章 ささやき (3)

 

      七


「体調は良好のようだ。特に後遺症もない。この調子なら、もう検診は必要ないだろう。今までよく頑張ったね」

「ありがとうございます。先生のおかげです」

「君の努力の結果だ。学校の方はどうだい? 友達とかできたかい?」

「少しだけ」

「友人は数ではない。本当の親友は冬の太陽みたいなものだ。苦境に時にそばにいる人がいたら信じてあげるのがいい」

「はい、先生」

 安堂寺病院を退院してから久しぶりに、輝馬は深谷医師の診察室にいた。一か月ぶりなのに、まるでリハビリが昨日の事のように思い出せる。診察室には珍しい品々が飾られている。額縁に収められた黒い石のようなもの、机に置かれた土器には飴玉が収まっているし、天井には銅鐸のレプリカが吊るされている。

「あの、先生は八百万って言葉を聞いた事がありますか?」

「難しい言葉を知っているね。急にどうしたんだい?」

「歴史の授業で出てきたんです」

「なるほど。八百万とは、日本の神話に出てくる言葉で、たくさんの神様を指す。八百万種もいるというのではなく、無数にあるという意味だな。輝馬くんは歴史に少し興味が湧いてきているようだね」

「はい、多少は」

「じゃあ、縄文時代ぐらいに、アニミズムという考えがあったのは知っているかな?」

「自然崇拝のことですね。自然のあらゆるものに、神様が宿っていると考えられていた」

「そう。そもそも、昔の人は神様という存在は、雷だと思っていたんだ」

「雷?」

 深谷は頷くと、メモに『神』という字を書いた。

「現在、一般的に神という漢字はこう書かれるね。だけど、昔は形が少し違っていた」

 そして、メモに『神』と書いた。

「左側の“ネ”も“示”も、どちらも“しめすへん”という同じ部首になる。“示”の形が崩れて“ネ”になったんだ。“示”の方は元々、祭壇の象形漢字だった」

 確かに、下の“小”の部分は祭壇の三脚に見える気がする。

「漢字の部首の中には関連性を持つ種類がある。代表的なのが“にくづき”だ。あれは体の部位や臓器を指し示している事が多い。胸、腹、背、腱、肘、股、肺、胃、腸……。一方、“ネ”には色々あるね」

「神様、幸福の福、祝う、社、それに祈るという字とかですか?」

「そうだ。“しめすへん”は、何かを見せて教える意味を持つ。さて、話を戻して“神”という字だが、右の申に注目しよう。こいつの元になったのがこんな形だ」

 深谷医師は、ギザギザの形をした絵を描いてみせた。

「雷……?」

「正解。これを言ったらセクハラになるけど勘弁してくれよ。この形は元々、男と女が折り重なる様、つまり、男女の交合を示している。それぞれが陰と陽であり、大地と空でもある。その二つを繋ぐのは何だろうか? そう、雷だ。そもそも、雷は『神鳴り』ともいう。昔の人は、雷鳴を神様そのものだと信じていた。あの嘶きと光りを、神様の啓示と捉えた。雷を通して何かを伝える存在、それを神だと考えた」

 深谷は頭上の銅鐸を仰いだ。

「これは僕の仮説だが、こいつは祭事として使われ、その用途は釣鐘に似た物だと思っている」

「鐘の音を神鳴りになぞられたんですね」

「察しがいいね。確かに、現在、銅鐸は釣鐘に似た用途として祭事に使われていたが強い。銅鐸の側面に描かれた、狩猟や稲の脱穀の風景は、豊穣を祈願したもので、その銅鐸を雷鳴りの代理として鳴らしていたんじゃないか」

「八百万はその頃から崇拝されていたんですか?」

「話がずれてしまったね。八百万の神々が出てくるのは、日本の神話を題材にした『古事記』からだ。イザナギやイザナミ、スサノオノミコトなど。あれはあくまで創作だが。だが、輝馬君の知りたい八百万とは、自然崇拝のそれに近いな」

「さっきのアニミズムですか?」

「自然界のすべてものに神が宿り、災害は祟りとされた。だからこそ、恐れ敬われた」

「自然以外の物はどうですか? 例えば、車とか家とか」

「昔から、台所やトイレにも神様がいると考えられてきたらしいからね。そういった人工物にも神様が宿るのもありえなくはないね。付喪神なんていうのもいて、古い物に魂が宿って動き出す絵もある。百鬼夜行というもなんだけどね」

「先生は神様がいると思いますか?」

「そうだな……いると思うかな。ただし、それは偶然という現象をそう呼んでいる。例えば、君が目を覚ました奇跡も、最初は神様によるものだと信じたぐらいだ。まあ、物に神様が宿るという考えは悪くはないね。今は物で溢れていている。皆が物を大事すればゴミも増えない」

 神様の声が聞こえますなんて、口が裂けても言えやしない。

「ところが、今の人は都合のいい時にしか神様に頼らない。神社で絵馬に願掛けする受験生とかがその典型だ。合格すれば、自分の実力のたまものだとそれっきりだ」

「いけない事なんですか?」

「そもそも、神社は日頃のお礼を感謝するために参拝するものなんだ。いつの間にか、それが験担ぎになってしまった。成就悲願と初詣ぐらいしか足を運ばないのではなあ……」

 深谷先生は笑いながら話を締めくくった。輝馬はお礼を言いながら、耳を澄ますと、部屋の辺りからささやきが聞こえ始めていた。


      八


 八百万の声が聞こえるようになってから、輝馬の朝は騒がしくなった。

(起きろ、持ち主! 時は金なり! 一秒も惜しむな! 定刻が来たぞ! 自分で起きる時間を決めたんだろ、さっさと起きるのだ!)

 枕元の目覚まし時計がけたたましい鐘の音と怒鳴り声を立てる。我が家に限らず時計の声は、押し並べて時間にこだわりを持ち、機械だけにまるで融通がきかない。学校の時計なんか、(いちいち私を見るんじゃない、見たところで時の流れは一定だ、さあ、授業に集中したまえ)と説教を飛ばしてくる。

 ベッドから出た後も大変だった。服やズボンが、(俺を着ろ)、(私を履いてくれ)、(いい加減、自分を洗濯しろ)と注文がうるさい。

 朝食は悲惨だ。ご飯の米粒にも髪様がいて、こちらがひと噛みすると口の中で大量の断末魔を上がる。後ろめたさを感じるより、気持ちが悪くて食が進まず、間もなくパンに乗り換えたが結果は同じだった。

 トイレに入ったら入ったで、(きれいに使え、的を外すな!)と便器やらトイレットペーパーが注意してくる。静かな朝はもう来ない気がする。輝馬は思わず耳を塞いで大声で叫ぶと、「どうした、大丈夫か?」と心配そうに声をかけてきたのですぐに止めた。

 学校への道すがらでも多くの声が耳に入る。道端の石ころ、電柱に打ち捨てられたペダルのない自転車、側溝のビー玉らが人に相手にされない自分達を自虐する。塀の選挙ポスターが(有権者の皆さん、私の顔の者に清き一票を)としつこく訴えた。

 学校に着くと、他の人の荷物からもささやきが無数に聞こえる。(ごきげんよう)、(そちらこそ)、(君と持ち主の調子はどうだい?)、(私がいいけど、この子は夜中に携帯のメールのし過ぎで寝不足気味みたい)、(それは大変ですな)(私を履く時は踵を踏むな)……。まるで、スクランブル交差点の真っただ中にいるような感覚だった。

「おはよう、相沢くん」

 里桜が遠慮がちに声をかけ、輝馬は顔を上げた。いつの間にか、教室の席に座っていた。八百万のささやきに耳を傾けていると、つい時間を忘れてしまう。

「大丈夫? 顔は真っ青だよ」

「平気。最近、家の近くでうるさい工事が始まってさ。今も耳鳴りがひどくて」

 輝馬は適当に言いながら、隣の席に座る幸弥の様子をうかがった。紛失物を全部見つけて以来、少し元気を持ち直しているようだ。少なくとも、輝馬に借りてくるのはなくなった。それでも時々物がなくなると、お節介にもこっそり見つけ出して、彼の机に置く事もあった。それを繰り返すと、やがて、物隠しはピタリと止んだ。輝馬も安心しきっていた。もう、幸弥への嫌がらせはなくなったものと油断していたのだ。


      九


 六月に入り、梅雨の気配を見せ始めた頃。一時間目の体育が終わり、次の授業が始まる直前、二組の学級委員で、生き物係を兼任する野口舞子がいきなり叫んだ。

「あれ……私の財布がない!」

他の女子がどよめき、またたく間に教室中に広がった。

「いつからないの?」

 舞子の取り巻きである斉藤香奈が聞いた。動物は好きじゃないと公言しているのに生き物係である。舞子に誘われて、という理由なのは言うまでもない。

「体育の時にランドセルに入れたの。更衣室に行く前はあったのに」

「なんで、学校に金持ってくんだよ」

 地元のサッカークラブに所属する高橋拓哉がそう言うと、舞子が睨みつけた。

「誰だって持って来てるじゃない! どうしよう、グランフロントに寄って買い物する予定だったのに……」

 困り果てる彼女をなだめながら、香奈が幸弥を呼んだ。指名された本人は訳も分からずに当惑している。

「委員長、こういう時はどうすんの?」

 他の生徒も期待の目を彼に向ける。

「犯人探しするんだよな?」

「犯人ってそんな……」

「このクラスしかいないじゃん。さっきの時間に外に出てたのは」

 幸弥は仕方なく、持ち物検査をすると言うと、他の生徒が反対した。

「ユッキー、最低! あたし等の中に泥棒がいると思ってんの?」

 教室が騒然となりかけた時、実が挙手した。

「全員の潔白を証明するためにも、早いうちに確認し合った方がいいと思うよ」

「長谷川君はクラスメイトの中に犯人がいると思ってんの?」

「思いたくないからした方がいいんだよ。このままだとお互いが疑心暗鬼になる」

 彼の提案で多数決の挙手で取り決めした。過半数が賛成に回り、二時間目終了後の三十分休みを通して、半ば強制的な持ち物検査を行われる運びとなった。

 輝馬もランドセルの中を出したが、何も異常はなかった。机に放り出された教科書達が、粗末に扱う彼を咎めた。

 結局、クラスの持ち物に、舞子の財布はなかった。「さてさてさて、言いだしっぺの長谷川君はどう責任どうすんのかな? 犯人はどこいないみたいだぞ」

 クラス一の茶化し屋、大田和広が実に言った。だが、彼は平然としている。

「待ってくれよ。まだ確認していない一人がいるじゃないか」

「誰だ、そいつは?」

「うちの学級委員」

 実がそう言った途端、クラスメイト達の視線が輝馬の隣の席に集中した。

「瀬川くん、荷物を見せてよ」

 舞子が言った。目を赤くして、寸前の怒りがひしひしと伝わって来る。輝馬は予感した。もしかすると、嫌な事が起きるかもしれない。

 幸弥はランドセルの中身を机に出していく。教科書、ノート、几帳面にファイルに収まるプリント類……急にその手が止まる。驚く彼の表情を輝馬は見逃さなかった。頭の中の黄色信号が赤に染まり、警告のサイレンをかき立てた。

(どうして、あたしをこんな所に入れたの?)

 高飛車に叫ぶ八百万の正体は、どう考えても幸弥の物とは思えない悪趣味な財布だった。キラキラに光るラメが貼られ、目が痛くなる金色にデザインされている。

 輝馬の手は硬直していた。予感していた未来が辺り、頭が真っ白になっていた。

「どうしたの? まだ他にも入ってるんでしょ?」

 舞子がズカズカやって来て、輝馬の手からランドセルをひったくり、中身を床に散乱させた。その中に、舞子のものと目された財布もまたさらされた。

「これ、わたしの財布だ!」

 舞子が幸弥を睨みつけた。

「あんたが盗んだの?」

「ち、違う……僕は……」

「何が違うのよ! あんたの荷物から出て来たのよ!」

 周りから野次が巻き起こる。

「瀬川は泥棒!」

「神社の賽銭じゃ、足りないのかよ!」

「委員長辞めろ、盗人!」 

 罵詈雑言の荒らしに、幸弥は耐えられずにさめざめと泣きだした。そのまま床に丸くなる。輝馬はその姿から目をそむけられなかった。だからと言って、歩み寄って助け起こす勇気もなかった。体中に熱が金縛りにしていた。

 美紀が一人だけ教卓に駆け寄り、泣き崩れる幸弥に机に戻るように言った。


       十


「そうか、そんな事があったのか。それで、その瀬川って子はどうしたんだ?」

「気分が悪くなったから早退した。皆は、あいつは逃げたって言ってるけど」

 その日の夕食、輝馬は父に今日の出来事を話した。父が教えてくれると期待したのだ。あの時、自分はどうするべきだったのかを。

「僕、その時に何も言えなかった」

「だが、その子の荷物から盗まれた財布が出たのは事実なんだろ?」

「でも、盗みなんてするような奴じゃないんだよ。それに、以前からいじめられてたみたいだし……」

「いじめられたからといって、その子が根っからの善人とは限らない」

「そうかもしれないけど……」

「まあ、とにかく、巻き込まれなくてよかったじゃないか」

 輝馬は思わず箸を止めた。ご飯粒がちゃんと噛めと口の中で訴えている。

「変に関わってとばっちり食うのが一番つまらない。その瀬川とかいう子とは距離を取っておいた方がいい」

「彼が可哀想とは思わないの?」

「気の毒とは思うよ。同情はする。だが、手を差し伸べるのは間違っている。それだと甘えになる。彼に甘えて助けたら、そいつまでいじめに遭う。他人は他人。自分は自分。そうやって、初めから垣根で隔てておくのが無難だ」

 父の考えは正しいところもある。幸弥には勇気がない。泣いてばかりいたのだから。でも厳し過ぎるのではないか。

「仮に、その瀬川くんが濡れ衣を着せられたとしても、ずっと泣いてばかりいたんだろ? 自分を守る事のできない子は、いつどこの学校でもいじめられる側になる。子供が大人になる前に、自分の身の振り方を学び取らなくてはいけないんだ。今風に言えば、空気を読むって言うのかな。それを怠ると、いずれ社会に出ても同じ目に遭う」

 和郎はグラスのビールをぐいと飲み干した。

「お父さんはいじめられた経験はないの?」

「一度だけある。中学生の時だ。達の悪い奴に絡まれてな。その時、誰も助けてくれなかった。俺は反抗した。仕舞いには親や警察に言うと訴えた。そしたら、ピタリと止んだ。その代わり、違う奴がいじめられるようになった。俺がやられるのを傍観していた奴だった。俺は傍観さえしなかった」

「何をしたの?」

「ただ、脇目も振らず勉学に勤しんだよ。そいつの事は道端の石みたいに無視した」

 赤い顔に苦い笑みを浮かべると、和郎は目頭を押さえた。

「お前もそうしろ、輝馬。幼稚な正義感で火中の栗を拾えば、そいつは必ずいじめに遭う。正直者が馬鹿を見るのではない。正直でいるのが馬鹿で愚かなんだ。それが世の中のルールなんだよ」

「瀬川くんはどうなるの?」

「お前には関係ない。自分の進路を歩けばいい。よそ見をする暇はないぞ、輝馬。早く新しい塾を決めろ。お前はな、俺より賢いんだ。お前なら絶対に中学受験を突破できる。お前はな、足の生えた列車だ。脱線したレールに、きっと乗り直せる……」

 父はそのまま眠りこけた。テーブルに突っ伏し、大きないびきを上げ始める。以前と変わらない父の癖だった。よく、母が注意していたのを思い出した。

 今は、その母も妹と一緒に暮らしている。輝馬は寝室から毛布を持って来て、父の背中に被せた。

 受験、か。小さな頃から散々言い聞かされた単語を、彼は久しぶりに聞いた気がした。勉強は別に嫌いではない。新しい事を学ぶ楽しさを、入院中に体験したのだ。けれど、このままでいいのかどうか分からなかった。

 幸弥は今頃どうしているだろうか? 教室で舞子達の罵声を浴びながら、うずくまって泣き続ける幸弥の姿が脳裏に浮かんだ。あの時、何もできなかった自分はどんな顔をしていただろう? きっと、情けない面をしていたに違いない。

 ……もういい。もう過ぎた事だと、輝馬は悩むのを止めた。無心のまま、食べ終わった食器の片付けを始めた。

(綺麗にしてくれたまえよ。我々あってこそ、食事はおいしくなるのだからな)

 居丈高な小皿を乱暴に掴むと、洗剤入りの洗い桶に放り込んだ。

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