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第二章 ささやき (2)

       三


 午後の国語の授業、この日もやはり、幸弥は教科書を持っていなかった。何度も謝りながら、輝馬と教科書を共有する。

 やはり、幸弥はどこかおかしい。委員長という器に思えないし、彼が好き好んでしているわけでもない。なのに、誰も不平を洩らさない。

「次の行を、相沢くん読んで。初めてだけど緊張しなくてもいいから」

 まるで小さな子供を落ち着かせるような物言いでが言った。もしも、秘密がバレるとしたら、この先生の口からだろうと思った。

 音読の途中、突然の頭痛に輝馬は手で押さえた。

「どうしたの、相沢くん?」

「だ、大丈夫です――」

 教科書に目を落とすと、信じがたい光景があった。すべての文字が踊り、挿絵の犬が背景の草原を駆けている。思わず、手から教科書が落ちて、机の上に当たった。

「相沢くん?」

 鈴村先生の声と重なるようにして、無数の声が聞こえてくる。

 時は金なり、一分も一秒も無駄にしてはいけない。私にひたすら文字を書き込めば、よいとは限らない、考える頭も必要だ。僕に落書きをするなら、もっとうまくしてほしいものだ。俺の持ち主は勉強をサボっているぞ、長細い俺の体をクルクル回す暇があったら、頭を使え、お前と俺の頭だ!

 ――誰……誰なの? 輝馬は声に出そうとしたが、思うように声が出ない。

 四方八方から入ってくる声の波は止め処なく、彼の耳朶を打つ。

 ふと、数ヶ月前の夜の記憶がよみがえった。退院の前夜。おもちゃ、人形、ロボットとの会話。そして、夜空の流星……全部が夢だと決めつけていた。

 大音量のスピーカーを耳に押し付けられる声、脳みそを鷲掴みにされた激痛に、輝馬は頭を抑えながら机の下に倒れた。

 視界の端に幸弥の困惑する表情が映ったのが最後に、わずかな意識が途切れた。


       四


 目が覚めると、輝馬は保健室にいた。

「やっと目を覚ましたよ」

 椅子に座りながらスマホをいじっていた男子生徒が顔を上げた。名札には《生島敬太》とある。輝馬と同じぐらい背が低く、愛嬌のある丸顔である。

「ここって病院?」

「学校の保健室に決まってるだろ。君さ、授業中に倒れたんだよ。覚えてないの?」

「全然」

「皆は大騒ぎだったよ。先生が僕ら保健係に君を運ばせて、僕一人が放課後ずっと待つはめになったんだ」

 敬太曰く、女子の数が多い保健係では、男子の自分が外れクジを引かされるらしい。もしも、自分が明日の朝まで起きなかったら、彼もずっと待っていたのか。どうでもいい事をボンヤリと考えながら、輝馬はベッドが抜け出した。

「ホントにごめんよ。ところで今何時?」

「四時半。塾があるから先に帰るね。お大事に」

 敬太はランドセルを背負うと、小走りで保健室を出て行った。

 塾か。この学校に編入してからというもの、父が頻繁に塾の通いを薦めている。学力もまだ追いついていない今、学校よりペースの速い塾の授業についていける自信はない。

 それでも、父はしつこく梅田駅に点在する進学塾のチラシを見せてくる。半強制で通わされるのは時間の問題だ。

 とりあえず職員室に向かって、鈴村先生と話した。何度ももう大丈夫なのか、病院で診てもらった方がいいのではと聞かれたが、頭痛は嘘のように消えていたし、幻聴も聞こえなかった。どのみち、父の耳にも入ると思うと気が重くなる。

 六年二組の教室に戻ると、そこには誰もいなかった。彼の机には、国語の教科書が置かれたままだった。筆箱に出しっぱなしにしてあった。窓から夕日が差し込んで、放課後の教室を赤く染めている。

 机の中身をランドセルに詰め込み、急いで教室を出ようとした時だった。

(ここから出して……)

 後ろから聞こえた声に、輝馬は振り返った。掃除箱が置かれている。

(ここは窮屈だ。暗いし、とても臭い。誰か助けておくれ)

「誰かいるの?」

 ささやきが止まった。輝馬は忍び足で掃除入れに近づく。中に誰かが閉じこめられているのか。もしくは幽霊かもしれない。恐る恐る取手を握って扉を開けた。

 掃除入れの中には、箒や塵取り、モップやバケツしか入ってない。人間の姿はどこにもない。しかし、確かにこの中から声がしたのだ。空耳のはずがない。

(誰か助けてよ)

 また声だ。掃除入れの中か? 輝馬は再度耳を澄ました。

(ここはとても暗い。狭くて、窮屈だ。助けておくれ)

「一体どこにいるの?」輝馬は小さくささやいた。「どこにいるのか教えて」

(うら)

 かすかに聞こえる声がそう言った。うら? 裏だろうか? とすると……輝馬は掃除入れを前に引っ張り出した。掃除入れと壁の隙間を覗き込むと、チリやホコリに混じって何かが落ちていた。ゆっくりと手を伸ばして、何かを掴んで取り出した。

 それは長方形の小さな箱だった。筆箱だ。表面の埃を払うと、覚えのある名前が印刷されている。……『せがわゆきや』。

(ありがとう!)

 筆箱が喋った。輝馬は悲鳴を上げ、筆箱を床に落としてしまった。シャーペンや消しゴム、定規が床に散乱する。

(痛い! 芯が、HBの芯先が三ミリほど折れた!)

(あたしの体はすごく柔らかいから、床に落とされるのは慣れているけどさ、もう少し丁寧に使ってほしいわ)

(私は杓子定規な性格だか、持ち主はいい加減なのか、私をあまり使ってくれない)

 方々に訴えるささやきに呼応して、教室の辺りこちらから新たな声が発した。

(彼らを助けたのなら、私も助けてよ。私は暗くて狭くて、ぎゅうぎゅうに押し込められているの)

(願わくば、こちらの救援を求む。棚の奥に他と一緒に監禁されている。同僚を貶して恐縮だが、彼らは大変汗臭いから急いでくれ)

(臭くて悪かったな。俺は汚れるためにあるんだ。だから、毎日の洗濯が欠かせんのだ!)

(こっちも助けて)

(あたしも助けて)

(ここから出してちょうだい)

 耳に響く大勢の声に耐えきれず、輝馬は教室から逃げ出した。


       五


 息が上がるほど輝馬は走った。学校を飛び出し、住宅街から繁華街を駆け、全く別の場所に来ていた。だが、どこへ行こうとささやく声がつきまとう。耳を塞ぎながら叫んでいた。通行人が怪訝な目線を向けてくる。もうこれ以上走れないと分かると、目の前に現れた地下への階段を駆け下り、地下街をさまよっていた。

 時間帯のせいか、帰宅途中のビジネスマンや学生が多く目立つ。天井の低い地下街には、食べ物屋や居酒屋が軒を連ね、赤ちょうちんが出始めている。輝馬は一息して、腰を下ろした直後、後ろから声をかけられた。

(坊主、そんなとこで休むなや。俺が目立たん。商売の邪魔でっせ)

 おかしな言い方をした主を凝視する。背後には狸の置物が立っていた。片手に徳利を持ち、もう片方には帳簿を携えている。太鼓腹をした信楽焼の狸である。輝馬は辺りに憚りながら小声で尋ねた。

「僕に言ったの?」

(あんさんの他に誰がおる。この店に来たいなら、後十年ぐらい待てばええ)

「あの、つかぬ事を聞いていいですか?」

(なんや?)

「僕はその……たくさんの声で困っているんです」

(わいの声で迷惑なんてせえへんわ。ほうか、あんさん、わしの声が聞こえるんか)

「あなたは何者ですか?」

(アホ! この姿見て分からんか? この通り信楽焼の狸や。大雑把にいえば器物や。あんさんは人間やろ)

 確かにそうだが何だか要領を得ない。

「その人間が、どうして、あなたの声が聞こえるんですか。そんなのあり得ないもの」

(そんなん、わいが知るかいな)狸は唸りながら言うと、(そんなら隣の店に行ってみ。そこにな、埴輪様というのがおるさかい、そいつに聞けば何か分かると思うで)

「ありがとうございます」

 輝馬は自分を笑いたくなった。今、狸の置物と当たり前のように話をしたのだ。聞こえるはずのない声を聞いて、しかも会話をするなんて、自分はきっと頭がおかしくなったに違いない。

 通りすがりの会社員の好奇の目を避けつつ、輝馬は居酒屋の隣の店に向かう。

その店の看板には《八百堂》とあった。゛やおどう”と読むらしい。まるで、八百屋みたいな名前だ。おもむろに店内へ足を踏み入れる。大人一人が通れるぐらいの通路を戸棚が挟み、古い壺や人形、陶磁器、絵画などが収められている。果てには隕石の欠片なる代物まであった。この店は、どうやら骨董店のようだ。

「あの……すみません」

 狭い店内を進みながら、輝馬は小さな声で聞いた。店の奥に店主とみられる高齢の老人がうたた寝している。他の客の姿はない。

「埴輪さんという方はいますか?」

 我ながらまの抜けた質問だと思った矢先――。

(こっちだ)

 老人に似た低い声が聞こえた目の前から発した。前方の戸棚を見ると、招き猫と福助人形に挟まれて鎮座する埴輪が目に入った。教科書に載っているような円柱の胴体、手を正反対にくねらせ、ポッカリと開いた空洞の丸い目をこちらに向ける。

「あなたは埴輪さんですね?」

(左様。君の目の前にいる小汚い遺物だ)

(噂通り、まだ子供じゃねえか)

 野太い声がそう言った。埴輪様の左側で小判を抱えた猫、招き猫の声だと何となく分かった。そこへ違う声が重なった。

(子供しか来ないのでは、我々の御利益の効果はまだまだ薄いでござるな、猫殿)

 埴輪様の右側で、赤い座布団に座って手を合わせながら、大きな頭を突き出した福助人形の言葉だった。

「教えて下さい。僕が聞こえる声は、本当にあなた達の声なんですか? 僕は病気でもかかってるんですか?」

(残念ながら重い病だ。他力本願の権化である人間が俺達と話せるなどあり得ん)

(こら、化け猫。この少年は病ではござらんぞ。我ら八百万(やおよろず)の声が聞こえるのだ)

八百万(やおよろず)……?」

 招き猫を叱る福助が言った聞き慣れない言葉に、輝馬は聞き返した。

(この世の万物にはすべて魂が宿っている。人間だけではなく器物や場所、路傍の石、雲や雨や雷、形を持たぬ風に至るまで。かつて、君達人間はそれらすべてを八百万の神々と崇めていた。今は全く信じられんようになっただがの……)

 では今まで、聞こえていたのは神様の声だったのか?

(君の名前を教えてくれるかね?)

「相沢輝馬といいます。実は中学生ですが、わけあって、今は小学生をしています」

 輝馬は今までの経緯を話した。六年半の昏睡から目覚めた事、入院中から聞こえ始めたささやき……。招き猫と福助は質問を繰り返して、埴輪様は黙って聞いてくれた。

(事情は分かった。まことに奇々怪々なものだ。輝馬くん、君が聞いている声は幻ではない。わしが断言する。我々八百万の声が聞こえるようになったのだ)

「本当ですか?」

(理由は分からん。何が君にその力を授けたかもな。事故、または長い眠りと覚醒がきっかけで、君の頭に眠る古代の力が目覚めたのかもしれん。何か予兆はあったかの?)

 輝馬は首を振った。ささやきを聞いたのはある日突然だったのだ。混乱する頭を整理するので精一杯だった。

「これは治りますか?」

(我々と話ができんようになる方が、君は安心するのかね?)

「いえ、でもずっと声が聞こえてしまって、人の声と区別がつきません」

(我慢するしかあるまい。不便だと思うが慣れるのが一番じゃ。残念ながら、君がどうしてその耳を持つようになったのか、わしらは教える事はできん。だが、何か理由があるのやもしれん。もしくは……)

「もしくは?」

 埴輪は黙り込んだ。やがて、代わりに低いいびきが聞こえ始める

「もしもし?」

(埴輪様は一日に数分しか起きん。後はずっと寝ておられるのだ)

 招き猫が説明した直後、店の扉が開いて新しい客が入って来た。ゆっくりとこちらに近づいてきたのは、一人の女子学生だった。制服と年齢からして高校生ぐらい。長い黒髪を下ろし、青白い肌にガラス玉のような透き通る瞳が特徴的だった。彼女の手には一体の人形が抱かれていた。不意に人形と目があったような気がして、背中に悪寒が走った。

(あの子と関わらないで。危険な感じがするもの)

 その人形から発せられた声に、「え?」と輝馬が声を漏らす。

「彼女の声が聞こえるの?」

 少女がそう言った。まるで感情のない。抑揚のない、まるで機械のような声だ。むしろ人形の声の方が生気を感じた。

(逃げなさい。もう二度と、この店に来たらいけない)

 少女は力なく頷いて、踵を返そうとする。

「あ、待って」

 輝馬は追いかけて店を出ると、少女の姿はどこにも見当たらない。前を横切った会社帰りのビジネスマン達が、隣の居酒屋さかえに入っていく。狸が(まいど、まいど、まいど)と客寄せの声を上げる。

 輝馬は仕方なく店の中に戻った。

(あの子も君と同じでござる)

 福助が静かな声ではっきりと言った。

(輝馬殿と同様、我々の声が聞こえる)

(俺は、あのガキがどうも好かん。特にあの人形は大嫌いだ。素性は知らんが、薄気味悪いやつだ。お前ら人間からすれば、あいつはチンピラ風の大男と同じぐらい関わりたくない手合いなんだよ)

「でも、あの子は大丈夫なの? まるで、あの子は……」

 口に出すべきか迷っていると、(まるで操られているようだった、だね)と埴輪様が聞いた。(なんと! 埴輪様が二度起きをなされた)と福助が驚いた。

 輝馬はふと、自分はどうするべきか迷った。八百万の声が聞こえる耳を持ってしまい、これからどうしていけばいいのか?

「僕は教室から逃げてきたんです」

(学校のかい?)

「うん。色々な声が聞こえて、頭が痛くなって。クラスとはなかなか打ち解けなくて、どうしようかなって思って」

(君はどうしたのかね?)

「分からない。色々考えても何もない。僕には何もない」

(ないのなら作るしかない。君は我々の声が聞こえるのが分かった。最初がそこ。次の段階はなんだろうな?)

 輝馬は目を閉じて考えた。地下街の空調が静かに聞こえ、地下の重低音が響く。教室から聞こえる無数の声。そのほとんどはたぶん、幸弥の所有物、ノートや教科書、体操着などだろう。彼らが助けを求めている。

「自分のできる事をする」

(左様。人間の価値は知恵と行動で決まる。我々の耳と口を君に与えたのが、神か仏かは定かではない。が、大事なのは君の手足と心、それらを一体になす魂だと、わしは思う。君の知恵と行動を示すがいい)

「はい!」

 彼の声で、店の奥で寝ぼけていた店主の老人がやっと目を覚ました。

「おや、いらっしゃい」

 輝馬は老人に向かってお辞儀する。

「長らくおじゃましました。ありがとうございました」

 彼はそう告げるや否や、扉を開けて《八百堂》を後にした。

 

      六


 翌日、六年二組の教室は騒然となった。

 瀬川幸弥が登校すると、彼は一層驚く様子を見せた。無理もない。今までなくなっていた筆記用具、ノートや教科書が積み上げられていたのだから。体操服に関してはきれいに洗濯までされて折り畳んであった。

「やっと見つかったんだね。よかったじゃん」

 少し遅れて教室に入った美紀がそう言うと、幸弥は困惑しながら否定した。

「違うよ。僕は探してない」

「幸弥じゃなかったら、誰が見つけたの?」

 六年二組では、彼が密かに嫌がらせを受けているのは黙認されている。美紀だけが、先生に言うべきだと忠告したが、父親を心配させたくないと彼に釘を刺されていた。彼女が隠された物を一緒に探すと申し出たが、幼馴染に迷惑をかけたくない理由でそれすら断って以降、一人で耐え続けた。隠される度に何度か買い替えるしかなかった。

 幸弥は筆箱を取り上げる。中を開けると、ちゃんと大切な品が収められているままなので安堵した。父からもらったお守り……その中には母の形見が入っている。これが隠されてしまったのは本当に辛かった。

 それにしても謎だった。どうして今頃になって机に置かれているのか全く分からなかった。一か月近く隠されていた体操服を手に取った。柔らかい肌触りを感じる。隠した連中が返したとは到底思えない。ましてや洗濯までするなんて――。

「でも、一体誰が見つけてくれたのかな?」

「自分の足で歩いて戻ったんじゃないの」

 いつの間にか隣に座っていた転校生の輝馬が放った冗談に、幸弥は思わず口元を緩めて小さく笑った。そうしたのは何か月ぶりだろうか。

 荒唐無稽だけど、案外、そうかもしれない。

 クスクス笑う里桜の隣で、美紀が呆れた顔を輝馬に向けた。

「相沢って、意外とおかしなジョークを言うんだね」

「僕もそう思うよ、相沢くん。ありがとう」

 幸弥はお守りを胸に抱きながら、新しいクラスメイトにそう言った。

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