第二章 ささやき (1)
一
背中のランドセルがやけに重い。それが輝馬の感想だった。
彼は緊張を湛えながら正面を見据えながら、紹介されるのを待っていた。
後ろで、担任の鈴村友代先生が黒板に『相沢輝馬』と書き終えた。背が低く、化粧をしていなければ生徒と間違えそうだが、近寄ると香水の匂いが少し強い。子供がそのまま大人になり、先生になったという感じだ。
「ハイ、皆さん注目。今から六年二組の新しい生徒を紹介するからね。今日から、皆のクラスメイトになる相沢輝馬くんです。相沢くん、皆に自己紹介お願い」
まるで友達に報告するかのような言い方。印象通り。輝馬は不安と失望を緊張で押し殺すと、ゆっくりと自己紹介を始めた。
――まずは落ち着くべきだ。挨拶は無難で行け。根暗と思われない程度に控えめに、でも、悪目立ちはダメ……。
そう自分に言い聞かした。転校生は奇を衒わないのが無難である。転校生は最初から過大評価される。優等生か、お金持ちか、スポーツ万能か、と勝手に期待される。生憎、いずれでもない自分は謙虚でないとこの一年は乗り切れないだろう。
「相沢輝馬です。隣の県から引っ越してきました。ええと、梅田に住むのは初めてですが、よろしくお願いします」
昨晩考えておいた挨拶文を訂正しつつ暗唱した。後で読み返すとすぐにおかしいのに気がついた。梅田に住むのが初めてだなんて、何度も引っ越しを繰り返しているみたいに読み取れる。訂正しようにも後の祭り。魔法使いでない限り、過ぎた時間は戻せない。
「じゃあ、相沢くんの席は……瀬川くんの席の隣です」
鈴村先生が指した席に向かっていると、辺りから低い笑いが漏れた。きっと、自分を笑っている。あの挨拶は失敗だった。最初、輝馬はそう思っていた。
「よろしく」
席に着いた輝馬は、隣に座る少年に声をかけた。
だが、「……うん」と彼は一言だけ返すと、しだれ柳みたいに頭を下げた。いかにも暗い感じがする。名札には《瀬川幸弥》とある。名札の横に、《学級委員》と刻印された別の札がかかっている。
輝馬は首を傾げた。幸弥は学級委員というイメージから程遠い少年なのだ。伏し目な小さな顔、オドオドした態度、堅く閉じられた薄い唇、自分も同じ事は言えないが、小学六年生にしては地味な服装。そして、一クラスの代表者にありがちに無性な明るさというものをまったく感じなかった。
「ねえ、転校生くん」と背中から声をかけられ手振り向くと、茶髪に染めたショートヘアの女子の、いかにも勝気そうな顔があった。眉毛の端が尖っているくらい細い。
「あたし、一宮美紀。あたしと里桜、幸弥と君は同じ班だからよろしくね」
美紀の隣には、メガネをかけた大人しそうな女子がいた。ポニーテールをした頭には瑠璃色の髪留めが光る。名札には《福田里桜》とあった。
「こんにちは、相沢くん。私の名前は福田里桜です」
「こちらこそ」
輝馬は緊張しつつ、二人の女子に挨拶を交わした。
二
まさか、今年を小学生として過ごすとは夢にも思わなかった。
自分がリハビリに励む間、両親は水面下で学校と交渉していた、というのを後から聞いて知った。和郎の腹積もりでは、息子は四月から中等部の二年生として復学するはずだった。だが、当の学校は輝馬の進級に消極的な回答をよこす。進級としての復学の代わりに、卒業証書の授与を提案したのだ。
早い話が、この学校にいられないというわけである。
去る一か月前のこと――。
和郎に連れられ、輝馬は前の学校の校長室にいた。様変わりした校長と理事長に向かって、父は激しく罵倒した。彼らは謝りながらも、当校並びに教育委員会での吟味の結果ですので、と釈明を繰り返すばかりであった。
ついには父が裁判と口にする始末になると、輝馬はいても立ってもいられなかった。暴走列車のように怒鳴り続ける父の隣で、肩身の狭くして縮こまっているしかなかった。
すっかり縮こまった校長と理事長を尻目に、学校お抱えの弁護士が口火を切った。
「相沢さん、実に無礼を承知で伺いますが、裁判となりますと、相当な費用が必要となります。輝馬くんの治療費を払い終えた後だけに余裕はありますか? いいえ、問題はお金ではなく時間ですよ。息子さんの動き始めた時間を裁判なんかで浪費するのはいかがなものでしょうか?」
例え、そちらが裁判に訴えたとしても、原級処置が認められる可能性は極めて低い。弁護士は分厚い本を見せて、過去の判例を滔々と説明した。
「もういい! 他の学校を探す!」
父は席を立った時、こぶしが震えていた。
それから間もなくして、事態は意外な好転を見せた。父の住居に比較的近い梅田近辺に、輝馬の編入を許可する学校が一校見つかったのだ。そこは小学校で彼の年齢から一番近い六年生としての復学になる。それと加え、学校が私立から公立になるせいか、父は不平を漏らしていたが、輝馬はとりあえずの自分の立ち位置が決まった事に安堵した。
そして転校初日、何度も「大丈夫か?」と心配する父に手を振って、輝馬は学校の校門をくぐった。
三
「あの、先生?」
一人の男子生徒が挙手した。銀縁の眼鏡をかけた賢そうな少年で、やや小太り、背は輝馬より少し高いが、クラスの中では低い部類に入るだろう。
胸の名札には《長谷川実》とある。
「ホームルームの間、相沢くんに《ロクツー部屋》の新規アカウントを登録させていいですか?」
「ええ、いいですよ」
鈴村先生は二つ返事で許可した。生徒にかなり甘いタイプだと分かる。
「《ロクツー部屋》って何?」
隣の幸弥に小声で聞いた。
「うちのクラスが運営してるネット上のサイトだよ。各自にラインとかツイッターができる仕組みになっているんだよ」
輝馬は「へえ」と一人で頷いてみせた。なるほど……全然分からない。
「《ロクツー部屋》は、この六年二組が運営しているルームなんだ。この学校では各クラスで一つのサイトを運営して、クラス間で情報交換やチャットをしているのさ。相沢くんは携帯かパソコンは持ってる?」
「うん」
子供用の携帯電話は持たされている。家には父のパソコンがあるが、自分用はまだ買ってもらっていない。
「それならよかった。今の時代、パソコンも携帯の使い方を知らないどころか、どちらも持ってないのは、お金を持たずに買い物に出かけるようなもんさ」
短い髪を撫でつけながら、実は言った。少し嵩にかかった言い方なのが気になる。彼はスマホを取り出すと、生年月日や趣味、メールアドレスなど根掘り葉掘り聞いてきた。生年月日に関してはサバを読んで二年足した。輝馬は質問に答えて、実はものすごい速さで入力していった。
「登録は終わったよ。今日から閲覧できるはずだ。うちの《ロクツー部屋》を運営してるのは僕なんだ。だから、何か分からない事があったら、僕に聞いてくれよ」
「ありがとう」
一体何ができるようになったのか、輝馬はさすがに気になった。
ホームルームが終わると授業が始まった。勉強の遅れに対する心配は杞憂に終わった。輝馬は春休みの間、残りの四年生、五年生の勉強を飛ばし飛ばしでカバーしていた。基本を抑えたつもりだが、六年生でついていけるか心配だった。
前の学校の授業と比べると、こちらは少し緩やかな印象がある。だから、普通に授業について行く事ができて内心ホッとした。
ただ、一つだけ授業中になった点があった。
「ごめん、相沢くん。僕、教科書を忘れてしまって……その……」
「いいよ、別に」
隣の幸弥が本当に申し訳なさそうに頼むものだから、輝馬が教科書を見せてやると、こちらが戸惑うぐらい何度も謝ってきたのだ。これが一時間目だけなら珍しくなかっただろう。ところが――。
「ごめん、相沢くん。僕、教科書がなくて……その……」
「気にしなくてもいいよ」
一時間目の算数が終わり、二時間目の国語の授業が始まった途端、幸弥がまた同じように頼んできたのだ。輝馬の方も、貸さない理由もないし、最初に話しかけたクラスメイトだ。無下にするわけにはいかなかった。
驚くべきか、呆れるべきか、幸弥はこの日ほとんどの科目(体育を除いて)の教科書類を忘れていた。学級委員にしては少しズボラだと、輝馬はさすがに呆れた。
授業の合間、周りから小さな笑いが聞こえるのも気になった。案内された席に向かった時と同じものだ。どうやら、自分ではなく幸弥に向けられている気がした。確証はないのだが、彼がやけに教科書や体操服を持っていないのは、いやでも注意を引いてしまう。
輝馬にはもう一つの心配があった。去年の暮れまで長い昏睡に陥っていた事、原級処置として十三歳の六年生になったのは秘密にしてあった。それらを知っているのは知っているのは、校長と担任だけだった。
生徒に漏らすような事があれば、裁判も辞さないからそのつもりで。校長室で、父が彼らに堅く厳命していたのは、今でも恥ずかしくも思い出すのも嫌だった。だが、人の口に戸は立てられない。いつどこで秘密がばれてしまうのか気がかりであった。これが中学生、高校、大学と上がる時を考えると、少し憂鬱な気分になりそうだった。
休み時間になると、案の定、数人が輝馬の席に集まってきた。
「ねえ、このゲーム持ってる?」
一人が当たり前のようにゲームデッキを取り出したが、別に驚かずに「ごめん、ゲームデッキは持ってないんだ」と答えた。
前の学校にもまじめなふりをしながら、同じように友人とこっそり遊ぶ奴もいた。もちろん、校則では禁止されている。先生に見つかるかもしれないスリルを楽しんでいるのだ。輝馬も、一年生の頃に理由もなく皆の真似をしようとしたが同じようにしようと思ったが、父が買ってくれなかったので、大人しい優等生のままでいるしかなかった。
今の学校はあっけらかんとしている。実も担任の前でスマホを出していたし、周りを見ると携帯でどこかにメールを打つ生徒もいる。人の目を気にしていない様子だ。
何人かのクラスメイトとメールアドレスの交換はしたが、その際、子供用の携帯電話を冷やかされた。今の流行に疎い輝馬でも父のセンスを疑うほどなので仕方がいとはいえ、穴があれば入りたかった。幾人かと話をしたが、前に住んでいたところはどんな感じだったと聞いてくるが、自慢できるような場所ではなかった。
期待の転校生が可も不可もない奴だと分かると、輝馬への質問をそっちのけで勝手に談笑し始めた。会話の矢面に立つより、聞き手に徹する方が気苦労せずに済むので、輝馬には願ったり叶ったりだった。
昼休み、幾分心に余裕ができると、輝馬は真横に座る幸弥に声をかけた。上の空だった。「瀬川くん」
耳元で呼び掛けると、彼は飛び上がるように驚いてみせた。
「ごめん。瀬川くんはこのクラスの委員長なの?」
「うん。でも、好きでなったわけじゃないんだ」
相変わらず暗い顔を沈みこんだままだ。クラスの決まりごとを決める時の司会進行をこなさなくていけないリーダーが、こんな調子で大丈夫なのか。本気で心配になりかけたその時、「学級委員!」と誰かが声をかけた。
「給食費忘れたから、お金貸してくんない?」
「え、あ、はい」
幸弥が慌てて、財布からお金を取り出して、茫然とする輝馬を挟んで、賃借を済ませてしまった。これはきっと初めてではないだろう。
「ユッキー、理科の宿題忘れたから、ノート見せて!」
複数の女子が拝むように頼んでくると、宿題のノートを彼女らに貸した。手際の早さからして、彼らのやり取りは日常茶飯事に違いないと、輝馬は確信した。
その後、似たような事を頼む生徒に、幸弥は対応していく。しかし、その顔はどこかいやそうに見えて仕方がなかった。
二
「小学生がクラスでサイトの運営か。お父さんの頃とえらい違うな」
転校初日が終わったその晩、夕食の席で輝馬は父にその日の体験を報告した。
「僕も初めて聞いた時はちんぷんかんぷんだった」
「まあ、仕方がない。実際に使っていって、少しずつ学んでいくしかないな。今の時代はパソコンが使えない方が問題だ。俺のいる時からパソコンは使っていいぞ。ただし、一日一時間だけな」
「ありがとう」
父の住居の団地に移り住んで、一か月は経った。母と妹はいない家で最初はさびしかったが、何とか今は慣れるしかないと努めた。時々、愛奈が会いに来るらしい。
幸弥の事を話すと、和郎は呑みかけていたビールを止めた。そして、何か考えるように黙り込んだ。
「どうしたの、お父さん?」
「あ、いや……そんな奴が学級委員か。あまり関わらない方がいいと思う」
「なんで?」
「あまり気を使い過ぎない方がいいという意味だ。自分の事は自分でした方がいいし、あまりこちらが助け過ぎるとその子のためにならない。ある程度距離をとっておいた方がいいんじゃないのか」
距離を取るも何も席が隣同士なので、一方的に離れるわけにはいない。
「それよりも今は大事な時期だ。輝馬には六年半のブランクを早く埋めてほしい」
父の不可解なアドバイスを聞き流すと、食べ終わった夕食の食器を流しで洗った。男だけの家庭だ。輝馬は自分のできる最低限の事はできるだけ手伝うように心得ていた。洗濯も自分から覚えた。
輝馬は父の部屋に向かうと、さっそくパソコンを立ち上げて、《ロクツー会議》にログインしてみた。スタート画面にはクラス全員の名前が表示されており、現在ログインしている生徒の名前が白く光っている。《ロクツー会議》ではツイッターを使って分単位で報告する者もいる。さっそく、気になるツイートを見つけた。
≪転校生どうよ? なんか平凡って感じじゃね?≫
≪転校生なんざそんなもん。天才なのは二次の中だけ≫
≪ちょっと根暗っぽい。つうか、物をあまり知らなさそう≫
≪ケータイもガキっぽかったし≫
≪あたしらもガキだってw≫
≪緊張してるだけじゃないかな≫
画面をスクロールしたい誘惑をはねのけて、輝馬は別のコーナーに移った。
アバター――自分で操作するキャラを設定すると、教室を模した空間で動かす事もできた。まるでゲームの世界だった。ポリゴンの教室には別のアバターがいた。造形からして女子のようだ。名前が表示される。 Rio。同じ班の福田里桜だろうか。
輝馬は試しに話しかけてみた。もちろん口ではなく、キーボートで打ち出した言葉によってである。
≪こんばんは。転校生の輝馬です≫
≪こんばんは。《ロクツー部屋》はどうですか?≫
≪慣れで頑張ってみる≫
輝馬はある事を思いついた。ここなら気兼ねなく聞ける。
≪気になる事があるんだけど、聞いていい?≫
≪私でよかったら≫
≪瀬川くんの件だけど。彼はいつも教科書を忘れるの?≫
≪迷惑だった?≫
≪別に。なんていうか、あまりにも無理をし過ぎている気がする≫
里桜の返事は少なかった。
≪輝馬君もそう思うよね≫
≪間違ってたららごめん。瀬川くんは無理やり委員長にさせられたの?≫
文字を入力した後、少し後悔した。予想通りの答えが返ってきた。
『ここでそんな事を言わない方がいいよ。ここの会話は全部、いじめ防止で閲覧できるようになってるから』
やっぱり、よくよく考えて発言しなくてはいけない
その時、壁を叩く音がして、輝馬は振り向いた。引っ越してから、時々、その音が聞こえるのだ。隣は『鏑木』という人で、髪を染めた女性と小さな女の子が住んでいた。
輝馬は壁に耳をすませた。何か、女性の怒鳴り声が聞こえる。子供を叱っているようだが、あまりにも度が過ぎる。
人の家庭を聞いていても仕方がない。輝馬はパソコンに戻った。
≪いやなら反対する。瀬川くんは黙ったままなの。好きでやっているのと同じだと思う≫
里桜はそう言っているのを読むと、そうなのかなと考えつつ、『そうなのかもしれない』と打ち返すしかなかった。