第一章 冬の熊 (5)
注意点
筆者の誕生日は1月20日ですが、数日前、ネットの広告に“大宰府の母ちゃん”と名乗る赤ペンを持ったあばちゃんがこんな事をのたまっておられるのを発見した。
『あんたの想いが届く日は、1月20日ばい!』
信じるか信じないかは、筆者次第です。
十
年末から正月にかけて水島が休む間、彼から課されたカリキュラムを、輝馬は律儀にこなした。覚醒して一週間後には、多少の歩行で根を上げる事もなくなり、松葉杖もお役御免となった。
訓練以外の時間は自学自習で埋めた。両親に頼んで、小学校二年生の教科書やドリルを持って来てもらい、夜ふかししながら勉強した。内容は難しくは感じなかったが、五年分の習うべき量は、半端な物ではなかった。
両親は家庭教師を雇う事を薦めたが、輝馬はうまく言い繕った。二人に苦労はさせたくなかったし、どうしても自分だけの力で補いたかった。
年が変わって三が日を過ぎた頃になると、小学二年の内容はマスターしてしまった。あと四年分残っているが、新しい事を知ると楽しかった。自分のペースで学んでいるとはいえ、勉強がこうも楽しいとは思わなかった。
元旦五日目、お馴染みとなった看護師の薫との挨拶をすませた輝馬は、新しい気持ちを胸に新年の訓練には真剣に取り組んだ。以前のように愚痴をこぼさずに淡々とこなす。
これには理由があった。去年最後の訓練の終わりに、水島はある提案をした。
「来年の一月の中旬あたりに、訓練のテストをしよう。その結果によっては、今後の訓練を続けるか否かを決めようと思うのだが、いいかな?」
輝馬はその提案を飲んだ。
そして、一月十五日の訓練日。
「早速だけど、テストを始めていいかな?」
「お願いします」
「新年から張りきっているな。良い心がけだ。テストの内容は、文字通りスポーツテストだ。着いて来なさい」
水島に連れられて訓練室を出ると、病院の外へ出ると、隣接する体育館に入った。訓練室の四倍ぐらいはある広さに、奥には舞台がある。隅にはマット。バスケットボールのゴールがある。空調は止まっているので、館内はかなり冷えている。館内の中央まで来ると、そこの床にはビールテープが貼られている。
「握力十九キロ、上体起こし二十二回、反復横飛び四十五回、五十メートル走八秒八一、シャトルラン六十四回、立ち幅跳び一六五メートル、そして、ボール投げ二十九メートル」
水島は一気に話すと、一度息を吸った。
「これらは去年行われた小学生スポーツテストの、小学六年の全国平均値だ。点数に表すと、約六一,八八点。ここまで言えば、賢い君なら、試験の内容は分かるな?」
「平均値を叩き出せばいいんですね」
「お年玉の代わりに合格点は五十点以上とする。まずは握力から始めるぞ」
テストが始まり、輝馬は順番に種目を済ませていく。最初の握力が二十四キロを叩き出したのを手始めに、反復横跳び三十八回、五十メートル走九,二秒と記録を出して、まだ腰と肩の硬さが後遺症になっているのか、上体起こしは十一回、長座体前屈は二十七センチ、ボール投げは十四メートルだった。立ち幅跳びで一四〇センチを出す頃にはヘトヘトになっていた。
小休止の間、輝馬は体育館の隅で座っていた。タオルで汗をぬぐうが、体中が熱を冷気で覚そうとしても追いつかない。
「残る種目はシャトルランだ。準備が整ったら、いつでもいいぞ」
「はい」
「現在の成績は、四十一点だ。つまり、合格点は九点だ。かなり難しいぞ。六十九回以上往復しなければ出せない点数だ」
「します!」
輝馬は足を屈伸すると、スタート位置に着いた。深呼吸して、その時を待った。
「始め!」
音楽が鳴り始め、輝馬は小走りで部屋の端から端を走った。
シャトルランは音楽が鳴り止む前に走りきらないといけない。最初はゆっくりだが、繰り返すうちに音楽は徐々に短くなってくる。
四十回目に差し掛かった時、輝馬の呼吸がやや乱れた。スタミナが持たない。足がもつれそうになる。
目標までまだまだなのに。輝馬は諦めかけた。誰でもいいから助けて。もう少しなんだ。何かに訴えるように念じた。
その時、体育館の扉が勢いよく開いて、強風が舞い込んできた。竜巻みたいに渦を巻いて、背中に当たる。輝馬の体が見えない力で前へ前へと突き進んだ。反対側まで行くと、そこの壁のドアが開いて、外から別の風が入り、輝馬を押していく。体が浮き上がったような感じで軽くなった。足がもつれそうになりながらも、何とか持ちこたえながらシャトルランを続けていく。突然の出来事に音楽も耳に入らなかった。
風が急に止まった時、さっきまでの浮遊感が消えて、輝馬はバランスを崩してつんのめり、そのまま壁に激突した。
「おい、大丈夫か!」
水島が慌てて走って来た。
「怪我はないか?」
「いいえ。早く走らないと――」
「もういい。終わったよ」
輝馬は水島の歓声を初めて聞いた。
「七十七回。縁起のいいゾロ目だ。点数にすれば九点」
「と言う事は、合格ですか?」
「おめでとう、輝馬くん。理学療法の訓練は今日で終了だ」
「終了……終わりって事ですか?」
「君はもう自分の足で走れる。手の力も平均より上。療法士としての僕の仕事は終わった。もっとも、君がまだ続けたいのなら構わないが」
水島の差し伸べた手を握り、輝馬は泣きそうになるのをこらえながら首を振った。
「ありがとうございました、先生」
「君は自分自身に勝った。ただそれだけだ。深谷先生にも、この結果を伝えておく。退院には間に合いそうだとね」
輝馬はもう一度深く礼をした。体育館の風は嘘のように止んでいた。
十一
「おめでとう、輝馬くん!」
クラッカーが鳴り響いて、部屋中に七色の紙屑が飛び散った。
「いやあ、君がこの病院で目が覚めて、ここから巣立っていくのは、私としても感無量の思いだよ」
糊で塗りつけたような髪を撫でつけて、院長が言った。年は父親よりも少し上ぐらい。病院の院長と言えば立派なひげに白衣を着た人を想像していただけに、真逆の印象を輝馬は受けた。まるで大会社の社長といった風情だ。唇を歪める際に、タバコの吸い過ぎで薄汚れた歯に混じって金歯が光る。
――こういうのが作り笑ってやつなんだろうな。
部屋の端で水島と薫が冷めた目で院長を眺めていた。石川という記者を手引きしたのは院長だと知っているので、輝馬もぞんざいに聞き流していた。
「今になって思えば……六年半は長かっただろうね。君も色々あって大変だっただろう。ところで、今年から中学生だったかな?」
「はい、中学生です」
「あのその事ですが……」
父が申し訳なさそうに口を挟んだ。
「進学の件ですが、私達や息子も不本意なんですが、輝馬は原級留置として小学六年生から始める事に決まりました」
原級留置――難しい言葉だが、父から説明を聞いた時、輝馬には『やり直し』が浮かんだ。病気や事故、不登校が原因で長く休んだ事で、学力についていくのが難しい場合、留年という形で下級生をもう一度やり直すものだ。
村野という中年女性の学習カウンセラーが昨日説明したのがそうだった。
だがよく考えてみると、そもそも三年生から体験していないのだから、『やり直し』と言うはおかしいか。むしろ、二年生から六年生に進級するのが正しい。
「ほお、六年生に留年ですか」
院長は身も蓋もなく言った
「しかし、相沢さん、そうした方が正解でしょうな。私が輝馬の立場なら中学受験が受けられるから万々歳ですから」
父が顔を曇らすのを輝馬は見逃さなかった。さすがに失言だと気づいたのか、院長は決まりの悪い咳払いを出してごまかす。
「それで、輝馬君がこれからどっちと暮らす予定だい?」
「院長先生……」
失言を重ねる若い院長を薫がたしなめる。
輝馬の決心は決まっていた。一月からずっと考えていたのだ。母には愛奈がいる。自分を嫌う妹と一緒に暮らせる自信はあまりない。離れ離れに暮らす方が妹のためになると思ったのだ。
「僕は、父と一緒に暮らします」
「輝馬、お前……」
父が驚く顔を浮かべる。それが、嬉しい証なのか、単なる困惑の表れなのか判別できないし、余計な事をあまり考えないようにした。
「そうか。よかったですな、お父さん」
院長は一人だけでごまかすように笑いを上げるが、場の雰囲気を和ませるまでにはいかない。ただ一人、薫がせき払いして輝馬の前に進み出た。そして、両手で持つ大きな花束を彼に渡した。
「本当におめでとう」
「ありがとうございます」
「一つ忘れないで、明日、あなたは退院するけど、私や水島先生の患者だから。もしも、何かあったらいつでも連絡して」
「はい」
六年と半年の眠りから目覚めて、最初に出会ったのが薫だった。看護師の割には大げさに動揺して、最初はこちらが心配するほどそそっかしかったのは、今になると懐かしくなる。彼女との別れが、輝馬には名残惜しかった。
「輝馬くん、リハビリではよく頑張った」
今まで口を閉じていた水島が沈黙を破る。
「だが本当のリハビリはまだ終わっていない。結局、あの狭い訓練室でやったのは、準備運動に過ぎない。病院から外の世界で歩くのが、君にとっての本当のリハビリだ」
「はい」
「リハビリの意味は『再適合』だが、周りに合わせて生きるという意味ではない。自分にとって一番正しい理想に近づくという事だ」
輝馬は黙って聞いていた。まだ外の街を歩いた事がない。六年もの月日が経ち、どんなに様変わりしているのか気になるし、そこで生活していけるのか不安もまだ残っている。だが、それらと同じぐらいの期待もあった。
「本当に今までありがとうございました。僕、時々迷惑をかけたりしたけど、その、頑張ってみます」
「頑張ってみます、か。慎重な物言いは年相応だ。その慎重さを忘れないように。君は冬の熊だ。決して遅い目覚めじゃない。成長に遅速は関係ない。思慮深く伸びていけ」
退院のパーティの時間は、今まで最高のひと時だった。あっという間に過ぎ去るほど、時間を忘れるほどであった。
十二
退院の前夜、何度目か分からない寝返りを打ち、輝馬は目を覚ました。心が高ぶっていてまったく眠れない。まるで朝のように意識は冴えわたっていた。
眠るのが怖いのかもしれない。また眠りに着いたら最後、再び起きる事ができなくなるのではないかと。
ふと、彼は暗い天井が見た。今まで気にしていなかったが、少し大きなシミが人間の形に見えなくもない。輝馬は毛布で頭を隠した。季節外れの怪談話が脳裏によぎる。人間のシミが大きく広がって、そこからこの病室で亡くなった患者が出てきて、自分をどこかの世界へ連れて行ってしまう。
――やめろ。そんなのいるはずがない。
輝馬は自分で言い聞かせた。幽霊なんているはずがない。あんなものはテレビや本の作り物に過ぎない。幽霊なんていない。そうだ、幽霊なんて……。
(何がいるはずないって?)
耳元でささやく声に、輝馬の眠気が吹き飛んで、ベッドから飛び出した。
「誰? 誰かいるの?」
輝馬は壁に備えられた懐中電灯を取って部屋の中を照らすが、誰かがいる様子はない。ドアも閉まったままだ。そもそも、自分は今まで起きていたのだから、人が入って来たら気がつかないはずがない。
――気のせいか?
その時、複数の声がまた聞こえた。
(そんなに驚いて、この人間の子供はどうしたのかな?)
(もしかして、私達の声が聞こえるんじゃないの?)
(まさか、人の耳に我々の声が入るはずがないじゃないか)
「誰? どこにいるの?」
輝馬が戸惑いながら問いかけた途端、声の主達が一斉に息を飲んだ。
(やっぱり、そうだ! この子、私達の声が聞こえるんだよ)
(馬鹿な。相手は人間だぞ)
(しかも、ずっと今の今まで眠りこけていたのに……)
「君達は誰? どこにいるの?」
姿のない声。そうだ、今と同じ状況が前にもあった。バラの迷路の時だ。スポーツテストの時もそうだった。
「君達の姿を見せて」
束の間の沈黙の後――。
(我々はあなたの前にいる)
一人の声に、輝馬は目を凝らした。前方の闇に浮かぶのは、アニメキャラの人形だった。寝ている間に見舞客の誰かがプレゼントしてくれた物だ。
「君が喋ったの?」
(そうだ。よもや、人の子と話ができるとはな)
隣に立つロボットから別の声がする。学者みたいに格式ばった喋り方をする。
(我々が進化したのか、それとも、君が進化したのか?)
「僕にもわからないよ」
ふと、輝馬はハッとした。これはもしかすると、夢なのかもしれない。しかし、試しに頬をたたくが、確かな痛みがあった。これはまぎれもない現実なのだ。
「話ができるのは君達だけ?」
ワ二のぬいぐるみが(違う)と高い声で答えた。
(お前にも聞こえるだろう。今日は数日ぶりに雲の晴れた空だ。星達がうるさい)
「星が?」
(うむ。今も小さな小僧みたいに騒いでおるぞ)
輝馬は気になり、窓を開けようとしたが、生憎、窓の前方は大木の枝葉で隠れている。ここからでは、残念ながら空が見えない。
見つかったら怒られるかもしれない。しかし、高まる気持ちが足を動かした。輝馬は裸足で病室を抜けだすと、薄明かりが照らす廊下をヒタヒタと駆けた。真っ暗闇の階段を上がり、『立入禁止』の扉を開けて屋上に出た。
いきなり、突風が叩きつけた。輝馬は顔を腕で庇いながら屋上の真ん中まで歩くと、空を仰いだ。
少年の目はくぎ付けになる。夜空を覆う無数の星がそこにあった。大小の輝きが燦然と闇夜を彩り、中心に滑る満月は地上のどんな物よりも丸く、大きくそして美しい。今までこれほどの星空を見た事がなかった。
輝馬が見惚れていると、その耳にまた小さなささやきが入ってくる。
(あの子がそうだ!)
(我々の声が聞こえる)
(僕らと話ができるなんて!)
声の数は増えていき、鼓膜を震わせる。あまりにもうるさくなり、輝馬は耳を塞いだ。
「君達は空の星なの」
束の間の沈黙ののち――。
(そうさ!)
一億の人が同時に答えたような声の合唱が轟いた。
「もしそうなら、僕の願い事を聞いてくれる?」
輝馬は息を吸い込み、大声で叫んだ。
「流れ星を見せて!」
沈黙が生まれた。風もいつの間にか止んでいる。やはり、気のせいだったのか?
また、奇跡が目の前で起きた。
流星の群れが空から。細い線になって次々と降り注ぐ。山の方へと消えていき、途切れる事はなかった。
「すごいや! ホントにすごいや!」
輝馬は腹の底から笑った。長い眠りから覚めて、これほど笑ったのは初めてだった。白い光を放つ星の雨は途切れず、山と川と街のある地上に降り続けた。
翌日、輝馬はベッドの上にいた。着替えを済ませると、看護師の薫が入って来た。
「おはよう、輝馬君。今朝のニュース見た?」
「いいえ」
「昨日、この一帯で流れ星がたくさん降ったの。まったくの季節外れで、天文学者も首を炊げてるんだってさ。私も起きていたら、願い事をたくさんしたのになあ」
子供みたいに悔しがる薫をしり目に、輝馬の心臓に熱が帯びていった。
アレはやっぱり夢ではなかったのだ。
じゃあ、昨夜の声は一体なんだったのだろう……?
外面内面両方の理由により、今のところ想い人はいませんので、誕生日にいきなり巡り合って、伏線もなく想いが届くのでしょうか?
信じたいか信じたくないかは、筆者次第です。