第一章 冬の熊 (4)
八
年が明けて新年早々、母と妹の愛奈が見舞いに来た。
最初は人見知りしていた愛奈は相変わらずであったが、こちらが質問すると、遠慮がちに学校や両親の話をするようにはなった。今も、彼女がレンタルしてきたアニメ映画を一緒に観ていた。
「輝兄はもう慣れた?」
最初、妹からそう聞いてきた時は、正直うれしかったが、何事もないように言葉を返したかった。
「今はもう歩けるようになったよ。勉強もかけ算とわり算も分かるようになった」
「かけ算……?」
実は自習を始めていたおかげで、国語と算数の勉強内容は二年生の内容は飛ばし飛ばしだができるようにはなった。今のところがあまり難しい内容ではないので、もう少しい急ごうと思っていた。五日からは院内の勉教室が開かれる。その時までには三年生の頭で臨むつもりだった。
「直に、愛奈に追いついちゃかもしれないわね」
洗濯物を畳みながら、母の博美が言った。
「まだまだ先の話だよ。今の僕は、小学三年生だ。でも、九九はできるようになったよ」
輝馬は九九を最後まで諳んじてみせた。自分でも幼稚だと分かっていたけれど、あの時の会話以来気になって仕方がなかった。母の口から父に伝ってほしかった。自分はもう、九九のできない中学生ではないのだと。
「あたしだって、ちゃんと勉強してるよ」
愛奈はアニメから目を離して、真顔でそう言った。少し前は幼稚園だったのが、今年の四月から小学六年生に上がるのだ。それだけが時間の流れを雄弁に物語っている。そう言えば、父が九九に教えるのに失敗した後、愛奈にも読み聞かせていたのを思い出す。てる兄ちゃんより上手に言えるよと、間違いだらけの九九をいつも歌っていたものだ。
「四月までには中学生の勉強ができるようなに頑張ってみる」
「お兄ちゃん、それってすごく難しいんじゃない?」
「やってみないと分からないじゃないか」
「そうよ、愛奈。お兄ちゃんはこの前、リハビリですごく頑張ったのよ」
「別に当たり前だと思うけど……」
母に聞こえないぐらいの小声で愛奈は言ったが、輝馬の耳には入っていた。なんだか妹の言葉には辛辣さを感じた。
「ところで、輝くん」
「その呼び方止めてよ、お母さん。僕はもう十二歳なんだから」
正直十二歳である実感がわかない。つい先月まで七歳だったのに。
「輝馬は、お父さんとお母さんのどっちが好き?」
いやな質問だった。選ばれなかった方がショックを受けるに決まっているのに。
「両方はダメ?」
「なんとなくでいいの。例えば、一緒で暮らすなら、輝馬はどっちを選ぶ?」
輝馬は頭の中で思い描いた。それぞれと暮らせばどんな風になるかを。
お母さんとだったら、朝ごはんと晩ごはんは食べられる。けれど、車の免許がないから、休みの日に遊びに行けないかもしれない。
お父さんならどうだろうか? 休みに遊びに行ける。でも、家事や掃除は全くできないかもしれない。手伝わされるだろうな。
ふと、輝馬は別の考えを抱いた。退院すれば家族で一緒に暮らすはずなのに、どうして、母はそんな事を聞くのだろうか? ふと、この前の学力テストの後に聞いた二人の会話を思い出した。あの時に出てきた“べっきょ”という言葉と関係があるのかもしれない。
彼の顔色を眺めていた母が、急に思いついたように立ち上がった。
「いけない、職場の人に伝えるのを忘れていたわ」
母はスマホを持って、慌てて病室を出ていった。
「職場の人?」
「お母さんはまた仕事してるの。キャリアウーマンってやつ」
「キャリアウーマン……」
聞き慣れない単語を無視して、輝馬はさらに聞いてみた。
「どうして、お母さんは仕事をしてるの? お父さんが頑張ってるのに。まさか、お父さんクビになったの?」
愛奈は首を横に振った。
「じゃあ、どうして?」
「知らないのは輝兄だけだよ」
今まで家にいないのだから、知らないのは当たり前だ。さっきから、愛奈は絡んでばかりだ。やっぱりあまりよくない何かが起きているのではないか。
「愛奈は知ってるの? お母さんがあんな事を聞くなんておかしいよ」
愛奈は顔を沈めている。手で隠している。覗きこもうとして、輝馬は止めた。妹が泣く時は、いつも顔を隠していた。何か辛い事があるといつもそうする癖がある。
「何があったか話して」
「パパとママは別々に暮らしてるの」
「僕が眠っている間に喧嘩を?」
うん。妹はか細い声で答えた。
「愛奈はお父さんと暮らしてるの?」
「……ママと」
愛奈は、空白の間に起きた事を話してくれた。両親が小さないさかいから喧嘩が多くなり、去年の六月に離婚した。母は未奈を連れて、実家で暮らしている。
「二人が喧嘩してるのに、わたしは何もできなかった。ずっと部屋にこもってたの。パパはいつも言ってた。愛奈は心配せずに勉強しなさいって。ママとの事はちゃんと自分らで解決するからって。そしたら、別々に暮らすようになった」
愛奈の声は震えている。輝馬はそれがかわいそうでならなかった。どうして、二人は自分にそれを教えてくれなかったのか。さっきの子供じみた質問だってそうだ。あれで、母の顔を立てて選べば、一緒に暮らす事になったのか。
「お母さんもお父さんも卑怯だ」
「卑怯?」
「そうだよ。二人とも教えてくれなかった。僕から逃げて、愛奈に答えさせるなんて――」
輝馬の言葉はそれ以上続かなかった。泣きはらした目が睨みつけてきたからだ。
「ずるいのは輝兄の方だよ」
「僕が?」
「だってそうじゃない。ずっと寝てばっかりいて。なんで、もっと早く起きてくれなかったの。パパとママが喧嘩する前にさ!」
「愛奈、落ち着いて」
「わたしは輝兄と同じ学校に入ったの。勉強だって大変だし、友達も少ない。ずっと一人で頑張ってたの。でも、パパもママもてる兄ちゃんばっかりかかりきりで、わたしには何もしてくれなかった。お兄ちゃんばかり、二人を独り占めしてずるいよ。今だって二人に大事にされちゃって」
愛奈は立ち上がると、指をまっすぐ向けた。
「輝兄なんて、死ぬまでずっと寝ていればよかったんだ!」
大声でそう喚くと、彼女は病室を出ていった。入れ替わるようにして、薫が飛び込んできた。
「一体どうしたの?」
「ごめんなさい、僕がいけなかったの」
「愛奈ちゃんが言ってた事は気にしちゃダメよ。あの時期の女の子は複雑なのよ。心のバランスが少し不安定になるの」
「でも、僕がずるいのは当たってる」
「そんな言い方をしちゃダメよ、輝馬君。昏睡になったのは誰のせいでもないわ。自分を責めないで、いいわね?」
薫は輝馬の肩に手を重ねた。優しさが暖かさで伝わる。しかし、脳裏では、愛奈の罵りが何度も反芻していた。
――輝兄なんて、死ぬまでずっと寝ていればよかったんだ!
九
病院の中にも学校はある。院内学級と呼ぶらしい。
時間は少し戻ってクリスマスが過ぎて、輝馬が理学療法の訓練を受け始めた頃――退院までの間、リハビリと並行して安堂寺病院の中にある《コスモス教室》に通う事となった。息子の学力を心配する父の意向である。
教室の壁や窓にはカラフルな絵がたくさん貼られている。机と椅子が並び、それらの前には教卓、壁にはホワイトボードがかかっている。理学療法の訓練室と同じく、教室の中には時計がどこにも見当たらない。
彼と同年代ぐらいの少年少女がすでに座っていた。
「こんにちは」
ボサボサ頭をした少年が言った。挨拶を返しつつ、輝馬は彼の顔を凝視した。鼻からチューブが伸びて、隣に置かれた機械につながっている。よくないと思いながらもすぐに目を離せなかった。
「息をするのに機械に頼ってる奴が、そんなに珍しいか?」
「ごめんなさい」
「別にいいぜ。初対面の奴らはみんな、俺を馬鹿みたいに憐れむんだよ」
少年の隣の席に座る少女が代わりに謝った。彼よりも少し年上のようだった。
「ごめんね。この子はいつも機嫌が悪いの。だから、気にしないで」
少年の名は崇宏、少女の方は由実子という。
「気にしないよ。大変だなって思って」
「大変なのはお互い様だろ、相沢輝馬くん」崇宏は意地悪く笑った。「六年以上も寝坊して、勉強が大変だぜ」
「どうしてそれを知ってるの?」
「新聞で君の事が載っていたの」
由美子が答えた。彼女が言うには、輝馬が昏睡から目覚めた奇跡の少年として記事になり、この病院で入院している事が載っているらしい。テレビのニュースにもなったらしいが、当の輝馬は寝耳に水だった。
その時、扉が開いて先生らしき人物が入って来た。二人は挨拶したが、相手の顔を見た途端、輝馬は言葉に詰まった。初対面の顔ではなかったのだ。なぜか、理学療法士の水島がそこにいるのか。
「どうかしたかい、輝馬君」
「先生に一つ質問があります」
「どうぞ」
「先生には、理学療法士をしている双子の兄弟とかいるんですか?」
「妙な質問だな。僕には姉が一人いる。今はアメリカで暮らしているが、親が隠し事でもしていなければ、我が家の男子は僕一人のはずだ」
「……どうして、水島先生が《コスモス教室》の教師なんですか?」
「僕は教員免許も持っているんだ。普段は理学療法の仕事で、余った時間を院内学級の教師をしている。他に質問がないなら、授業を始めたいのだが。いいかな?」
嫌がらせだ。きっと、そうだ。そうに決まってる。
授業と言っても、ほとんど自学自習に近い。科目別のプリントを順番にこなしていき、自己採点、そして、新しいプリントが配布される。どうしても分からない問題を、水島に聞く。それぞれ学年が違うので、勉強の内容も全く違う。
《コスモス教室》に通っている間の輝馬は、フルパワーの掃除機のように新しい知識を吸収した。もちろん、病室にいる間も読書をした。一夜で一冊を読み終えるほどだった。年が明けて、水島から課された最後のテストに合格して、退院後の進路が決まる一月末頃には、四年生の二学期までの学力を取り戻していた。
水島先生はいつもいる訳ではない。急な仕事が入ると別の先生に変わるが、大抵は生徒達で教え合ったりした。そんな時には、由美子は親身になって教えてくれた。崇宏も勉強とは関係ないが、笑い話をして彼女の顰蹙を買った。
崇宏は重度の喘息で低学年からこの病院で通院している。常に酸素を送る機械を持っていて、それがないと自分で呼吸ができない体なのだ。
由美子は心臓に重度の病気を抱えていた。簡単な運動をするのも難しく、頻繁に発作に襲われる。通っていた高校では、設備が整っていなという理由で、自主退学を余儀なくされた。発病する前は、陸上部のエースで駅伝にも上位になるなどの活躍をしていた。
「病気になった時、周りは心配してくれたの。皆は同じ事ばかり言ってた。すぐによくなる。また陸上頑張ってね、とか。でも、治らない病気だって分かると、皆は何も言わなくなった。見舞いにも来なくなっちゃった。もう、皆の中に私はいなくなっていたの」
「そんなの、あんまりだ」
「でも、私はここが好きなの。水島先生は厳しいけど、親身になってくれるし、同じ病気の子とも知り合ったし。昔の私はね、自分の事しか頭になかったの。陸上選手になる夢とか、オリンピックを目指すとか。それ以外はろくに考えもしなかった。自分が病気になって、初めて死ぬかもしれない未来を考えたの」
輝馬は否定した。彼女に死ぬなんて言ってほしくない。
「でも、それは大事なことかもしれない。生きる事は死に近づくのと同じなの。何も考えずに生きていると周りが見えてこなくなる。病気になって、私はそれを知ったの」
由美子の言葉が正しいかは、輝馬にも分からなかった。
「だから、私はその時が来るまで、人の役に立つ仕事がしたい。死を意識して生きるのなら、他の誰かに生きる希望を与えたい。水島先生みたいに」
「僕は、あの人のスパルタで生きる絶望ばかり教えられてます」
輝馬はそう言うと、由美子はケラケラ笑った。
《コスモス教室》に通っている間、ある事件が起きた。水島がちょっとした用事で訓練室を出た後、一人の男が入った。茶髪にガイコツみたいに細い顔をしている。首には来訪者用の名札をかけているので、誰も気にも留めなかった。見学者が珍しくない。
「こんにちは、僕は番匠出版の石川と言います。今日は院長先生の許可をいただいて、皆さんの取材をしに来ました」
それを聞くと、崇宏が手を上げた。「おれ、おれ、おれを取材してよ。新聞とか載るんでしょ」
「週刊誌の『ライズ』になりますよ。皆はそのまま授業を続けて、僕が順番にインタビューしていくから」
石川が最後尾の席の子から何事か聞いていく。輝馬は緊張した。何を聞かれるのかと、どう答えようとか……。
しかし、彼の順番が回って来た時、その期待は裏切られた。
「君、相沢輝馬君だよね。五年も昏睡してたんだっけ?」
「はい」
石川の聞き方はどこか乱暴で、デリカシーが全くないように思われた。
「どう? 今は元気に歩けたりもする」
「少しは」
「五年も眠っていた感想はどう? 浦島太郎みたいな気分?」
地上に戻った浦島太郎がどんな気分なのか知らないが、今の自分の気分は不快であった。
「君は車にひかれて事故ったみたいけど、その時の事は覚えてる?」
「いいえ」
「君らをひいた車の運転手は外回りの営業マンなんだけど、事故の後は悲惨だったらしいよ。君の治療費を払うために借金までしたけど、足りないものだから家まで売ったんだ。おかげで奥さんとも離婚しちゃったらしいよ。娘さんが二人いるのに引き離されて。ちょうど、今の君もそうだろう。君の両親も別れたんだよね?」
「違います」
「嘘はよくないな。でもね、加害者よりも大変な思いをしている人もいるんだな。もちろん君じゃない」
「あの、これは取材なんですか?」
「そうだ。君に聞きたい事が山ほどあるんだ、相沢輝馬くん。君は事故に遭った時、一緒にいた――」
その時、ドアが開くのを聞いた。
「そこで何をしてる!」
水島が怒鳴り声を上げた。
「部外者が院内に立ち入るなと言ったはずだ」
「とんでもありませんよ。今日はちゃんと、来訪の許可は取ってますよ」と、石川は名札を見せつけたが、水島は問答無用で彼を戸口に連れていった。
「ひどいな。私は記者ですよ。今日は純粋にリハビリで頑張る子供達を取材しようとしていただけですよ」
ドアが閉まる直前、石川は輝馬に向かって言った。
「あの事故で一番の被害者は君じゃないんだよ」
水島がドアを施錠すると、教卓の前で頭を下げた。
「申し訳ない。用事で出ている隙に、あんな不届き者を入れてしまった。ごめんなさい。どうか気にしないで、自習を続けてくれ」
輝馬は石川の捨て台詞が気になって仕方がなかった。あの事故とは、昏睡の原因となった交通事故だろうが、その時の記憶は、なぜか、細かく思い出せなかった。思い出そうと記憶を辿ろうとすると、霞がかかったようにボンヤリとしてしまう。
それよりも何かが引っかかるものがあったのだが、突然の出来事でその正体がわからないでいる。
「輝馬くん、あの男の事は気にするな」
いつの間にか横に来ていた水島が小さくささやいた。
「僕の不手際を許してくれ。君の御両親は、あの男が君に近づくのを大層嫌っている」
「あの人は一体何で僕に?」
「余計な事は考えなくてもいい。ある事ない事書きたてる三流週刊誌だ。君をネタにしようとしているだけだ。もしも、退院した後に奴が近づいてきたら、構わず警察に通報したまえ。いいね?」
「はい」
輝馬はなんだか複雑な思いで、四年生の計算ドリルに向かい合わなくてはいけなかった。前の席に座る崇宏が深い息を吐いた。
「俺も取材してもらいたかったな……」