第一章 冬の熊 (3)
厳重注意
大晦日と正月は絶対に無為に過ごしてはいけません。
元日をピークに、三日目の夕方ぐらいから気分が落ちます。
五
初日の訓練が終わった後は悲惨だった。
体中が激痛で悲鳴を上げて、まるで年寄りみたいに背中や手足に湿布を貼る羽目となった。その疼きは一晩続いた。
「水島先生、他の人にもあんなに酷い事をするの?」
ある日の昼休み、外を散歩していると、偶然、看護師の薫と出会った。嬉しい気分を隠しながら隣を歩きつつ輝馬は聞いた。
「訓練は大変だったでしょ?」
「一日中歩かされました」
「へえ、結構スパルタね」
「この間は、部屋の中をウサギ飛びさせられました」
これは嘘だ。でも、あの人ならやりかねない。
「すごくハードな訓練なのね」
「昨日は半日中スキップさせられました」
これは本当である。三日目にさせられた。
「むしろ、訓練についていく輝馬君もすごいわね」
「……」
「どうしたの?」
「いえ、なんでもないです」
輝馬はそれ以上言うのを止めた。薫には、水島がいかに酷い奴なのかを非難してほしかった。彼女なら味方になってくれるとほのかな期待を抱いていた。
代わりに周りの風景をなんとなしに眺めた。安堂寺病院の裏庭は、おとぎの世界のような場所だった。妖精のオブジェや彫像が各所に置かれ、動物を象った生垣も並んでいる。バラの迷路に、コロセウムの形をした噴水が中心に鎮座している。病院とはあまりにも不釣り合いな世界観を呈している。
薫が言うには、院長の趣味で造られたらしい。
「水島さんは厳しいけど、輝馬君はちゃんと頑張ってるじゃない」
「本当は嫌いです」
「でも、嫌いなのに頑張るのがすごいと思うよ」
強制なのだから仕方がない。嫌だと言えば終わるのだが、それでは何だか悔しい気持ちになる。水島に負けるのと同じだ。
「もし、リハビリを頑張ったら、家族の皆と遊園地に行くって、目標を持ってみたらどうかな?」
「目標か……」
輝馬はちらりと、隣の薫を見た。本当は彼女と一緒にいけたらいいなと思った。
「何事も乗り越えたら、こんな楽しみが待っているとか、御褒美があるとか考えると、人は頑張れちゃうものなの」
「ふうん。じゃあ、そうします」
一年生の頃に家族で行った遊園地は、今もあるだろうか? 六年も経っているので、今でもあるか分らないけど。それを糧に水島を見返してやろうとも考えた。
「輝馬くんって好きな子とかいる?」
藪から棒に聞かれたせいか、輝馬は心の中を覗かれたと思い、わざとらしい咳を出してごまかした。
「いないです! いきなりなんでそんなのを聞くんですか?」
「だって、さっきからずっとボンヤリしてるよ。そういうのって、岡目八目って言うの。あ、この子って恋をしてるなって。同じ棟で入院している子と仲良くなったとか?」
意地悪く薫が笑いながら顔をのぞかせる。
「いません」
輝馬は強く答えた。しかし、薫はどうしてそんな事をいきなり聞いてきたのだろうか? まさか本当に自分に気があるのかも、なんて思っていると――。
(うそつけ)
薫ではない別の声がそう言った。
「え?」
輝馬は声の主を探した。しかし、迷路の中には、彼と薫以外に誰かがいる気配はない。
(今の子供はませてるわね)
(あんな時から、好きとか愛してるとか言った日には、ろくな大人にはならん)
口々にささやく声が頭上から聞こえ、輝馬はバラの壁を睨みつけた。
「誰かいるの?」
「どうしたの、輝馬君?」
薫が怪訝な顔を浮かべる。
「今、そこで誰かが言ったんです」
「何を?」
「うそつきって」
迷った挙句そう答えると、薫は吹き出して、ケラケラ笑った。
「やっぱり好きな子がいるのね」
「そうじゃないです!」
輝馬は足早に迷路を進んで、ゴールで待ち伏せする事にした。だが、二人の後に出てくる者はいなかった。入口はゴールの隣にあるので、そこから出てくればすぐに分かるが、気配はなかった。
さっきの声を発したのは誰だったのだろうか? 輝馬は周りを見たが、やはり誰もいない。ただ、入口に飾られたフクロウの彫刻が羽を広げたまま、うつろな目が見つけているだけであった。
「おかしいな、今さっき声が聞こえたのに」
「変なの。誰もないよ」
薫に促され、輝馬は仕方なく病室に戻ろうとした時だった。
(あの子、わたしたちの声が聞こえるの?)
かすかな声が耳に流れてきた。何人かのささやきが幾重にも聞こえたかと思うと、すぐに止んだ。輝馬は踵を返しかけたが、また気のせいに違いないと、そのまま無視した。単なる空耳に違いない。訓練で疲れているせいだと、自分を納得させた。
六
「一〇〇+五は?」
「一〇五です」
「三七八-二三六は?」
輝馬は一瞬考えてから答えた。
「……一四二です」
「足し算と引き算はパーフェクトだ。君は暗算が得意なんだな」
深谷に褒められ、輝馬は少し嬉しかった。
十二月の暮れになり、大晦日へと変わる時期、午前の訓練が休みである。代わりに、深谷の診察で知能の検査が行われた。この日を父の和郎が楽しみにしていたのは、終始、後ろで張りつく無言の期待で嫌というほど伝わった。
国語と算数、それと簡単なクイズをこなしていく。ここまでは間違はなく、全問正解で続いていた。学校や塾でずっと勉強していただけあって、頭の中で数日――実際は六年半も経っている――病院のベッドの上にいても忘れるはずもない。朝から簡単に復習していた甲斐もあった。
ここまでは順調だった。
「九九を一の段から九の段まで言えるかい?」
「九九……?」
輝馬は言葉に詰まる。深谷がプリントに何かを書き込む。きっと、それはいい内容ではない事は確かだった。全問正解の快進撃は、未知の問題の前にあえなく潰えた。
「じゃあ、二×二は?」
輝馬は首を振る。
「じゃあ、一×三は?」
「ごめんなさい。わかりません」
「謝らなくてもいいよ。まだ習っていないのだから、分からないのは当たり前だ」
深谷はその後いくつか問題を言ったが、どれも答えられなかった。
「分かりません」
答えられなくなる問題が多くなる度に、輝馬は心が重くなった。父親は呆れた顔をしていし、母親は口を閉じて窓の方を眺めているのが分かる。それは思い違いではなく、壁に飾られた古代の鏡に映っているのだ。
「お疲れ様。よく頑張ったね、輝馬くん。親御さんと話す事があるから、君はリハビリを続けなさい」
輝馬は一礼して診察室を出ると、扉から耳を澄ましていた。どうしても彼らの話が気になったのだ。
「何て事だ……九九もできないなんて」
「それは仕方ありません。彼は小学二年生の一学期から昏睡の状態だったのです。私立は公立より学習内容が進んでいるとはいえ、学んでいない事の方がずっと多い」
「輝馬は十二歳ですよ。来年には十三歳になる。本来なら中学生のはずなのに、英語はおろか、九九もできないなんて……あれではまるで――」
和郎の声がやや大きく響いた。
「まるで?」
「いえ……声を荒げて申し訳ありません」
「お気持ちは分かります。しかし、これだけは御理解いただきたい。一番苦しんでいるのは輝馬くん自身なのです。特に今が重要な時期でもある」
「あなた……」と母の声が聞こえる。「すみません、先生。主人は輝馬にまだ期待を抱いているんです」
「心中お察しします。ところで、あの件をもうお話を?」
「いいえ、まだです」
――あの件?
「今は話すべき時期ではないでしょうね。彼の進路も含めて。とにかく、検査の結果を待ちましょう」
診察室から両親が出てきた時、物陰から輝馬は伺っていた。訓練の事などすっかり忘れたままであった。
「あの子は俺の方に行くか、君の方を選ぶかは分からないが、その時は恨みっこなしだぞ」
「こんな場所で言うべきじゃないわよ」
母は重ねて言った。
「私達の事を、あの子に言ったら、どうなるかくらい、あなたでも分かるでしょ? きっと心を引き裂かれると思う」
「まるで俺が悪者だな。忘れているようだが、別居したいと言ったのは君の方だぞ」
二人が通り過ぎる時、輝馬は口を塞いで必死に耐えていた。大声で喚きたいのを我慢するしかなかった。
べっきょ? 言葉の意味は知らない。だが、それが決していい意味を持っていないのは、輝馬には何となく分かった。
七
その日の訓練は、全く身が入らなかった。足に力を入れようとしても、すぐに歩くのを止めてしまう。水島が何度か強い調子で注意するが、脳に届く前に一方の耳を通り過ぎていった。
「どうした? 今日は全然体に身が入ってないじゃないか」
輝馬は何も言わずに歩いた。もっとも、いつもよりもゆっくりとしたペースだった。本当はもっと早く進めるようになっている。歩くよりも、今は考える時間がほしかった。九九ができない問題、両親の不平不満、そして、“べっきょ”という言葉。
「手抜きしているのは、こちらが観ているだけでも分かる」
「じゃあ、ほっといて下さい」
「何だって?」
「ほっといてって言ったんだ!」
「新しいルールに、僕に対する暴言は禁止と加える事にしようかな」
「ほっといて下さい。中学生になるのに、九九もできない僕は馬鹿なんだから」
「九九? かけ算のあれかい」
輝馬は返事もせずに遅く歩いた。
「輝馬くんは、学校のテストで0点を取った経験はあるか?」
「ありません」
そんなのあるはずがない。とんでもない話である。そんな点数を取った日には、父親になんて言われるか分かったもんじゃない。きっと、さっきみたいに馬鹿にされる。中学生のくせに九九もできないなんて、あれじゃあ、まるで――。
「僕はある。小学五年の頃だ。割り算の四捨五入をまったく理解できず、テストで0点を取った。提出した順に担任が採点するもんだから、すぐに結果が出た。担任に呼び出されて、すぐ再テストをさせられたが、結果は同じだった。四捨五入の原理を理解できたのは、中学に上がってからだ」
「四捨五入ってなんですか?」
「割り算で、小数点以下を、四までなら繰り下げて、五以上なら繰り上げるというものだ。電卓があれば済むものに頭を悩ませていたんだよ」
「わり算なんて知らない」
「そうか」
水島は頬をさすると、天井を見上げていた。輝馬は構わず、トロトロ歩いていた。
「ここに犬が一頭いるとしよう。では、犬の耳は全部でいくつある?」
「え?」
「え、じゃない。犬の耳はいくつだね?」
「二つです」
「では、犬が一頭増えたとして、耳の数はいくつになる?」
「四つ」
「では三頭になると?」
「六つ」
「四頭は?」
「八つ」
水島は犬の数を九頭まで言い、輝馬は最後まで耳の数を答えた。
「これに何か意味があるんですか?」
「これがかけ算だ。九九では二の段になる。かける数は九まで。ニイチがニ、ニニンがシ、ニサンがロク。段は全部で九まである」
輝馬は歩くのを止めていた。頭の中で知らなかったかけ算の原理が明確になっていく。診察室にいた時には頭が真っ白だったのに、今思うと、どうしてこんな簡単な計算が分からなかったのか不思議だった。
「次の問題だ。君は飴玉を三つ持っている。君と同じ数の飴を持ったクローンが二人いる。さあ、飴玉の数は全部でいくつだ」
「九個」
輝馬は即答した。
「正解。いい傾向だ。では歩きながら、答えていきなさい」
輝馬は仕方なく歩き出した。水島は次々と問題を繰り出してくる。五円玉を持っている子供が何人いたら、全部で何人か? クモは六本足だが、数匹いたら全部の足の数は? 延々と問答が続く中、輝馬はある事に気がついた。水島の質問が何かに似ている。これと同じ問題を以前に習った事があった。
夕方の五時になった頃、輝馬はそれを思い出していた。
「水島先生……」
訓練の時間が終わり、「おつかれさま」と帰ろうとする彼を呼びとめた。
「ありがとうございました。今日はごめんなさい」
「君にお礼は言われても、謝られる筋合いはない」
「今日の僕は頑張りませんでした」
「そうかな? 途中からそうは見えなかったがね」
「九九を教えてくれたんでしょ? 先生が出していた問題を幼稚園の頃にしたのを思い出したんです」
さすがの水島も少し驚きの表情を浮かべた。
「そんな頃から九九の勉強していたのか? 君の通っていた幼稚園は、天才の養成でもしていたのか?」
輝馬は首を振った。
「今の小学校に上がる受験で、お父さんに勉強させられたんです。でも、その時の僕は意味が全然分からなくて、すごく怒られて……」
どうして、こんな事も出来ない! 難しくないんだぞ! 父の叱責が脳裏によみがえる。犬が三匹いる絵を見せて、全部で足の数は? とか答えさせられた。結局、父の真意も分からなかったし、それがかけ算を教えているとは理解できなかった。
中学生にもなって、九九もできないなんて……。診察室から漏れ聞こえた、父の嘆きが昔の叱責に重なる。今思えば、九九も難しくなさそうだった。ただ、いやな思い出が邪魔していたせいだったのかもしれない。
「世間では、三つ子の魂百までという諺を、早期教育の金科玉条に誤用している残念な人もいるが、君のお父上もそうだったようだな。もっとも、今の君ならば、九九はさほど難しくないんじゃないのか?」
こちらの心を見透かすように、水島は言った。
「君の体が今に追いつくように、心と知力も猛スピードで追いかけてきている。できないままで終わる事は何もない」
「ありがとうございます」
輝馬は頭を下げた。
「前半の怠けは気にしなくてもいい。明日の訓練を一時間早くすれば、容易く取り戻せるロスに過ぎん」
本当にやな奴……。輝馬は心の中で毒づいた。
筆者は新作の計画を練りながら、カウントダウンを知らないままにやり過ごしたいと思います。では、よいお年を。