エピローグ 風がまた聞こえる
一
夏休みが明けてからの二学期、輝馬は教室の前に立った。早く開ける中に入るべきなのに、なかなかそれができない。最後に学校に来た日の苦い思い出がよみがえる。喧嘩するように逃げたのが一学期の終わりなのだから、みんな忘れているかもしれないし、教室に入った途端、注目を浴びるかもしれない。
「ねえ、相沢」
後ろから気だるい声がかかる。振り返ると、そこには敬太がいた。保健係でクラスメイトの中では一番背が低い。なぜか、いつも自分のすぐあとにやって来る。
「ドアに鍵でもかかってんの?」
彼は眠そうな欠伸をしながら、先に教室に入っていく。仕方がないので、後ろからさりげなく入ると、幸弥が手を振った。
「おはよう、輝馬くん」
数人が振り返って、輝馬を見た。一瞬、心臓が止まる思いがした。最後の日の光景が嫌でもよみがえってくる。あの後、実が自分の秘密を暴露したのだ。その前にはメールでクラスの皆に配信していたのは学級委員の長谷川実だと、幸弥から聞かされた。
輝馬は勇気を振り絞り、自分の席に座った。
「おはよう、幸弥くん」
「気にしなくてもいいよ。もう、皆は夏休みで忘れているみたいだから」
幸弥の言う通りだった。二学期一日目は何事も起きなかった。
ただ一つ変わったのは、当の実の方だった。席で常に縮こまり、顔を沈めている。あの時のような勝ち誇った様子が嘘みたいに消えていた。その机には落書きや傷が目立つ。
始業式が終わり、ホームルームで新しい班を決めた時、決定的な事実を知った。輝馬と幸弥は同じ図書係になった。腐れ縁なのか、女子は美紀と里桜だった。
「なんで、あんた達まで一緒なの? これじゃ、一学期の時と同じじゃん」
美紀から散々嫌味を言われたが、満更いやそうでもない。
ほとんどの班が決まったから、担任の鈴村先生が「あら?」と何かに気づいた。
「長谷川君がまだ入ってないわね。長谷川君、はやく席を決めてね」
教室中から小さなささやきが聞こえてくる。言霊ではなく、生の声だった。
「うちの班には来るなよ」
「私達の班も嫌だから」
「カンニングする奴なんか来てほしくないから」
実は今にも泣きそうな顔をしていた。
そうか。輝馬はある事実に気づいた。かつて、幸弥をいじめていた実は今、いじめられる側になったのだと。彼がした事を考えれば自業自得と言えなくないが、反面少し気の毒な気がした。不思議にも溜飲の下がる思いは湧いてこなかった。時間が経ちすぎて、それから色々問題が起きては解決したせいか、正直どうでもよくなっていた。
「どこの班か、長谷川君を入れてくれないかしら?」
うちは駄目とか、カンニング万引き班でも作れとか、容赦のない中傷が聞こえる。教室の空気が陰湿になるのを感じた。
どうせ、二学期までの間だ。うちの班に入れてあげてもいいだろう。輝馬が提案しようとした。その時、一人が手を上げた。
里桜だった。
「はい、福田さん?」
「私達の班でよかったらいいです。ねえ、みんな?」
「うん、別にいいよ」
輝馬はさりげなく返事すると、長谷川君が泣きそうな顔でこちらを見た。何か言いたげだったが、それよりも積極的に彼を受け入れた里桜もすごいと思った。以前なら傍観しただろうに。
(ありがとう……ごめんなさい)
実の言霊が流れてくる。初めて聞いた時とは違い、暗い感情はなかった。
言霊から浮かぶのは、電気のつけない部屋で、一人で泣いている彼の姿だった。机のパソコンには、彼に対する誹謗中傷が映し出されていた。おかげで、二組のサイトも更新されないまま、野ざらしの状態になっていた。
席替えをした後、実が幸弥と輝馬に向かって言った。
「本当にごめんなさい」
「もう気にしないから」
幸弥はすぐに許したが、輝馬は一つだけ聞きたい事があった。
「どうして、僕らをいじめたの?」
実は答えなかったが、言霊が事実を教えてくれた。
(僕は不幸だ。誰か巻き添えがほしかった)
言霊がある光景を映し出した。机しかない勉強部屋で彼に向かって怒鳴る親。その手にはどうやら、全国模試の結果が握られていた。
「何だ、この成績は? まだ落ちているじゃないか。こんな事で受験に勝てると思うのか? うちは公立に生かす気はないから。もっと性根を入れ替えて勉強しろ」
針のような言葉が彼に降り注がれる。一人でなく実は、パソコンをつけて、クラスメイトに向かって誹謗中傷をふりまいた。そのターゲットが幸弥に絞られていく。誰でもよかった。自分よりも傷つく者が増えるなら、誰でも……誰でも……誰か助けて。
そうか。輝馬は納得した。実も自分と似たようなものだ。親に勝手に期待されている。もしかすると、自分も彼のようになっていたのかもしれないのだ。
「もういいよ。それより、福田さんにお礼を言った方が良いと思うよ」
「えっ、私は何もしてないよ」
里桜が恥ずかしそうに言った。その真横で美紀が怖そうな目つきを飛ばす。(速く里桜に良い返事をしてあげろよな、相沢)と恨みの言霊が流れる。
別の意味で二学期は大変かもしれない。
二
世の中を騒がせていた付喪神たちも夏休みが終わる頃には、すっかり動かなったせいか、梅田の騒動は徐々に過去の出来事になりつつあった。あれだけ、国内を問わず、世界中で取り沙汰されていたのに、今では最初からなかったように別の事件や芸能人の電撃結婚などを報じている。
言霊や八百万の声を聞こえなくなったのは、それから間もなくのことだった。何の前触れもなかった。いつもは聞こえる小さな喧騒が嘘のようにやんでいた。自分の部屋やトイレ、台所、学校へ行くまでの道に打ち捨てられた自転車屋や空き缶、タバコの吸い柄、教室の黒板、時計に至るまで――すべての声が耳に入らなくなった。
聞こえなくなったのは自分だけで、彼らは今もささやいているのだろう。
ある日、輝馬はふと気になって、地下街の《八百堂》に向かうと、シャッターが降りていて、閉店を知らせるポスターが貼られていた。
偶然、隣の居酒屋から出てきた店主に聞くと、どうやら、あの老人は店を畳んで娘さんの家族と暮らすらしい。
埴輪様、招き猫、福助……彼らはこれからどうなるのだろうか? 最後にお別れの挨拶も交わせなかったのが残念だったが、彼らなりに何とかやっていけるだろうと思った。もしかすると、別の骨董屋で売られているかもしれない。 自分の役目が終わったのかもしれない。ナギニとの対峙の後から感じていた不安が形になっていく。自分もまた、元通り寝たきりに戻るのではないかと。もっとも、そんな兆しはないので杞憂に終わったのだが。
夏のけだるい暑さがなりを潜め、運動会の準備が差しかかった頃、意外な人物からメールが届いた。
月子だった。その内容を確認するなり、脱兎のごとく家を飛び出した。買ってもらったばかりの自転車を駆り、ある場所へ向かった。
三
そこは、梅田駅のバスターミナルだった。バス停のベンチに、彼女は座っていた。足元には大きなボストンバッグとスーツケースが置かれていた。
輝馬は息を切らせて、彼女がこちらに気づいた。
「輝馬くん……わざわざ来てくれたんだね」
「当たり前だろ!」
輝馬が大声で言った。
「何の前触れもなく、今梅田駅のバスターミナルにいます、海外留学します、今日の夜から日本を発ちますなんてメールをもらったら誰だって飛んで来るに決まってるだろ」
「家族は来てくれなかったけどね」
「喧嘩したの?」
「うん。でも、輝馬くんだけでも来てくれてよかったかな。一人よりマシ」
そう言いつつも、月子は明るそうだった。
「どこの国へ行くの?」
「アメリカのワシントン。しばらくは、水島さんのお姉さんの家でホームステイする予定。自分の家は落ちついてから探そうと思う」
梅田騒動の後、自分の体を取り戻した月子だったが、精神的なダメージの方が大きかった。水島のリハビリを経る中で、彼女は進路を思い立った。
功一と定期的に会うついでに、病院にいる彼女と面会する度、輝馬は気が気でなかった。彼女の家族は入院費を出す以外、彼女の見舞いにも一度も来る事はなかった。
「もう完全に見捨てられたのかもね」
そう言ってばかりいる月子に輝馬は励まそうとした。しかし、心の傷はあまりにも深すぎた。
どういう経緯かは知らないが、水島の姉がアメリカで暮らしていると聞いて、月子は彼を通じて水島の姉と連絡を取り合った。
そして、十月に海外留学を決めたのだという。
「どうして、もっと速く教えてくれなかったのさ」
「ごめんなさい。反対すると思ったから」
「反対しても仕方ないよ。月子さんが決めた事でしょ。ただいきなりだったから」
生きる事に投げやりだった彼女が、自分の力で歩き出そうとしている。その道がおかしくても構わない。反対などできる訳もないし、理由もなかった。
「でもさ、また、帰って来るよね?」
「分からない。でも、将来は向こうで暮らすかも」
「もう会えないの?」
「ごめんなさい。でも、生まれ育った街には、良い思い出はないの。このままズルズル暮らしても、また家出を繰り返す気がするの」
「分かった。月子さんは強くなったね」
「あなたのおかげよ。それに、このままま何もしなかったら、ナギニにも悪い」
器物たちを率いて、この世の最果てへと旅立った彼女は、どうなったのかは誰も知らない。きっと、理想郷を見つけていると、輝馬は信じたかった。
月子は手を差し伸べた。白くてきれいな手だった。輝馬は握手をした。
「僕も見習って歩き出すよ」
「輝馬くんならできるよ。あなたには家族がいる。友達もいる」
「そんな事言わないで。月子さんにだってきっと……」
「私はこれから作っていくわ。あの時、一度死んで、ナギニに助けてもらって生まれ変わったの。そう思いながら再出発するつもり」
バスがやって来た。もう時間だ。伝えておくべき言葉が残っている。なのに、なぜか口が動かない。
月子は荷物を持って立ち上がった。
「向こうに着いたら、一度だけ連絡するね」
「月子さん」
「どうしたの?」
「あの、僕は……」
大丈夫だろうか。こんな事を言って。体中に熱がこもり沸騰する勢いだった。心臓がちくちくと痛む。今まで経験した事のない気恥ずかしい感覚だった。
「さようなら」
月子がバスに荷物を入れると、乗り込もうとした。もう時間がない。こうなったら、もうどうなってもいい。
「僕、僕、月子さんの事が――」
勇気を振り絞り、続きの言葉を言ったまさにその時、ターミナルの中を風が乱暴に吹きつけた。近くのポスターが壁からはがれ空に舞う。輝馬の声がかき消された。
なんて、タイミングの悪い風なのだろう。もう一度言おうとしたが、口の中はすっかりカラカラに干上がっていた。
次は心地よい風がまた流れた。それらに交じり、小さな子供の声が何人も聞こえた。いたずらっぽく笑いかけている。もう聞こえないと思っていた。間違いなく八百万の声だった。周りの喧騒が消えて、静かになっていた。
「ありがとう、輝馬くん」
月子がこちらに向かってほほ笑んでいた。
「ちゃんと聞こえたから」
生まれて初めて好きになった人の笑顔を、輝馬はきっと忘れまいと心に刻んだ。
《了》
やっと終わった。でも、安心しきれない理由もある。次は学校の怪談を何とかせねば。安西さんと愉快な三人組がおりなす悪行も増やしたい。そして、頭の中でくすぶる新作も形にしたい。俺たち(一人)の戦いはこれからだ!




