第七章 再会
一
また同じ一年が始まる
小学二年生になったばかりの輝馬は、憂鬱を抱えながら公園の前を通った。
その時、誰かが自分の名前を呼んだ気がした。とても懐かしい声で、最初は空耳かと思いった。
「おい、輝だろ?」
懐かしい声が響いた。公園から一人の少年が駆け寄って来た。その声の主で思い出し、輝馬の暗い顔は少し輝きを取り戻した。
「久しぶり」
「コウちゃん……」
勝気そうな顔に短く切った坊主頭。幼稚園の頃に仲良く遊んだ友達だった。普通の日も休みの日も毎日のように一緒に遊んだのだから、親友と呼べるぐらいだろう。私立小学校の試験を受ける事になったのを機に、彼とは疎遠になった。でも、顔だけははっきりと覚えている。
「輝は、今からどこ行くの?」
「塾だよ」
「塾……何しに行くんだ?
「勉強しに行くの」
「でも、学校で勉強してるだろ?」
「うん。でも、お父さん達が学校の勉強だけじゃ、足りないって」
「お前も大変だな」
「功ちゃんは?」
「おれはサッカーの練習だ」
彼は大きなサッカーボールを見せてくれた。そうだ、功ちゃんはサッカーが得意だったのだ。きっと、大人になったらJリーグに入団すると言っていた。
「大丈夫か、輝? 顔色悪いぞ」
「そう」
「ちょっと休んでろよ」
彼に連れられ、公園のベンチに座っていると、功ちゃんはリフティングを見せてくれた。とても上手くて、つい時間が過ぎるのを忘れるくらい釘づけになった。
時計を見るともう四時半。塾の授業はとっくに始まっている。
「大変だ!」
輝馬は彼に謝ると、急いで駈け出した。公園の入り口から信号のない歩道を一気に渡ろうとした時、背後で声がした。
「輝!」
真横からけたたましいクラクションが響いたのと同時だった。
二
輝馬は目を覚ました。見覚えのある天井が映る。照明の横にある小さなシミ。夜中になると人の形になるかもしれない。
「輝馬くん?」
いきなり、幸弥の顔が映る。
「おはよう」
そう言うと、彼はどこかへ走っていく。そして大声で「輝馬くんが起きました!」と叫ぶのが聞こえた。
自分がいるのはあの時の病室だった。五か月ぶりだろうか。まるで遠い昔のような錯覚だった。とても懐かしい気がする。
両親や妹がかけ込んできた。遅れるようにして、幸弥、美紀と里桜も入って来た。彼女達がここにいるという事は、もしかすると、また長い間眠っていたのかもしれない。まさか、五年くらい経ったとか……。今度は、自分はいい年をした中年になっているとか。班のメンバーは老けていないのでそれはないだろう。
「今何年?」
いきなり、美紀のデコピンが飛んだ。おかげで眠気が吹き飛んで意識が鮮明になった。
「馬鹿。あんた達が抜け駆けした日の翌日だよ。ちょうどお昼」
という事は一日ぐらい眠っていたのか。そうだ。一人の少女の顔が浮かぶ。
「月子さんは?」
「隣の病室で眠ってるよ」
遠慮がちで幸弥は言うが、その隣では里桜が今にも泣きそうな顔を浮かべ、美紀は恐ろしい形相でにらんでいた。また、新しい誤解が生まれたようだ。まあ、とりあえず、彼女も無事で何よりである。
輝馬は次に両親を見た。妹の愛奈は母親の膝で眠っている。
「お兄ちゃんが起きたぞ」
父に揺り起こされると否や、未奈は気恥ずかしそうに母の後ろに隠れた。輝馬は意を決してから言った。
「ごめんね、愛奈。お兄ちゃんのせいで怖い思いをさせて」
「別に大丈夫だから」
ボソリと小声で言うとまた隠れてしまう。
「お父さん、僕はとても我儘だけど、お願いがあるんだ。僕のためじゃなくて、愛奈のために一緒に暮らして。僕は中学受験を頑張る。だから、その間だけ、愛奈と一緒に遊んであげてほしいんだ」
「輝馬、お前……」
「お願いだから、愛奈のためにもう一度だけ家族として一緒になって。お願いだ」
輝馬は頭を下げた。
「ダメだ」
父はきっぱり言った。
「そんな浮ついた気持ちで受験に臨んでもらっては困る。その件は旅行が終わってからにしよう」
「旅行?」
「五年ぶりの家族旅行だ」
いきなり何を言い出すのか。二人は離婚したのではなかったのか? そう問いただすと、母は笑いながら答えた。
「ごめんね。実はまた再婚したの」
「いつ?」
困惑する未奈。輝馬にとっても寝耳に水であった。
「お前達が梅田にいた頃だ。お父さんもお母さんも輝馬が退院してから時々会っていたんだ。まあ、なんだ、焼け木杭に火がつくというのかな」
愛奈がさめざめと泣き始めると母に抱きついた。輝馬も「よかった」とだけ言うとベッドに寝ながら目を隠した。
「ところでさ、相沢、何がどうなっての?」
美紀がテレビを付けると、街中の風景が映っていた。しかし、様子がどこか変だった。その違和感の正体に気づくのに意外と時間がかかったのは、霧の国にいた感覚が残っているためだと思った。
「世の中、こんな事もあるんだな」
誰かがそううそぶいた通り、道路をガラクタの一団が歩いていた。ぼろぼろの家具や調度品、壊れたスマホ、サドルのない自転車、片方だけの靴、誰かが落としたジュラルミンケース、さらには新聞紙や雑誌が飛び交っている。彼らに怯える普通の人々。子供が半泣きして、若いカップルがスマホを掲げて撮影している。ハロウィンの仮装行列さながらの珍妙な光景だった。
町中で様々な物が勝手気ままに勝手に動いているのだという。ニュースキャスターで騒いでいる。コメンテーターは、機械仕掛けとか、中に人が入っているやら、果てには、放射能の影響とかこつけて原発の反対を論じる識者までいた。
「昨日の梅田の騒動からずっとこうなの」
「あれは八百万だよ」
「八百万?」
「自然や器物に宿る神様の一種だよ」
と、別の声が代わりに解説してくれた。深谷医師だった。その後ろに看護師の薫がついて来ている。久しぶりの面々に輝馬は懐かしさを覚えた。という事は、ここは安堂寺病院か。
「だが、まさか、彼らが動き出すとね。世の中何が起きるか分らん」
「お久しぶり、輝馬くん。また入院したの?」
薫が遠慮なしに聞いてくる。新人らしさは相変わらずのようだ。ただ一つだけ、見つけてはいけない物を見つけてしまった。視界に映り込んでしまったのだから否定できない。
「薫さん、その薬指につけてるのってまさか」
「そう、この度、私は結婚する事になったの。職場結婚ってやつ」
薫は病室からもう一人を連れてきた。スパルタ療法士の水島だった。
「やあ、久しぶりだね、輝馬くん」
笑顔満面で水島は言った。彼の横には、崇宏と由美子も付き添っていた。彼らとは、短い間だけ院内の学級であるコスモス教室で勉強した仲だった。
「よお、輝馬。出戻りかよ」
「久しぶり。過労だよ」
崇宏はあの時と同じように、鼻につけたチューブにつながった機械が必要なほどの喘息を抱えている。彼よりも少し年上の由美子は生まれつき重度の心臓病を患っている。それでも、二人は初めて会った時と同じぐらい元気だった。
「あんまり無茶をしたらダメだよ」
「うん」
輝馬はうれしかった。目が覚ました時には一人しか、この世界にいないと思っていた。それほど孤独だった。今は家族や友人がいる。もう、一人でいる必要なんてないのだ。
「どうだい、早く走れるようになったかね?」
「少しは、です」
「そうか。厳しい訓練が実を結んでよかった。薫は、君が退院してからもずっと心配していたんだ」
「水嶋先生、病院内では下の名前で呼ばないでください」
薫がたしなめると、水島小さく笑った。
「それはそうなんだけど、さすがに水嶋くんと呼ぶにはおかしいだろ」
輝馬はその言葉を聞き逃さなかった。
「あの、もしかして、薫さんの結婚相手って……」
「僕だよ」水島はあっけなく白状した。「君が退院してから式を挙げてね。言ってなかったか?」
という事は、目覚めた時には二人は親密な仲だったわけだ。道理で、冷徹な水島を薫が擁護するわけだ。ホントにやな奴だ。
「ところでさ、どうして僕は大阪じゃなくてこの病院にいるの?」
「梅田の病院は一杯一杯だった。なぜか、君と隣の子を乗せた救急車だけ、散々たらい回しにされた揚句、うちの病院に辿り着いた」
まさか、昏睡から目覚めて初めて力に目覚めた場所で運ばれるのも奇遇である。
「月子さんは大丈夫なの?」
「ああ。軽い栄養失調になっていたが、今はだいぶマシになった」
輝馬は、月子と話したい事が山ほどあった。やっと、人間の体を取り戻したの彼女だけど、現実の問題はまだ残っている。どうしても、彼女の力になりたいと思っていた。
「ところで、相沢」
美紀が怖い笑顔を湛えながら、肩をつかんだ。その握力は骨も砕くぐらいかもしれない。自分は一応病人だというのに。
「月子って人とはどういう関係なわけ? 里桜よりも親密そうに呼んでたけどさあ……」
退院後には地獄を見ないで済むような、うまい言い訳を考えなくてはいけなかった。
三
その夜、一人になったところで気配を感じた
「誰?」
窓辺に立つ人影は異様に小さい。
「わらわじゃ」
「お前は……」
続く言葉は口をふさがれた事で止められた。ささくれのような細くて長い作り物の手。ぼろぼろの着物をはおっているが、胸元からのぞく鎖骨がやけにリアルだった。
「騒ぐでない。取って喰いやせぬ」
ゆっくりと手が離れ、口元が自由になった。
「ナギニ……生きていたのか?」
「幸いな。天の思し召しか」
「僕に何の用だ」
まさか、今度は月子の代わりに自分の魂を奪いにきたのか。
「安心せい。もう、そなたらには絡まぬ。もう二度と会う事もあるまい。別れを告げに来たのじゃ」
「別れ?」
「そうじゃ。わらわはあの者たちと黄泉の世を探しに行く」
「黄泉の世?」
「この現世にはない、器物達の楽園と呼ばれる場所じゃ。月子から元の体に帰り、わらわは一度死んだ。その際、声に導かれた。啓示じゃ。わらわはその声に従う事に決めた。古きもの、人から捨てられたもの達を連れて、わわらは行く。もう、この世へは永遠に戻れぬ。戻るつもりもない。わらわはここにいすぎた」
ナギニの人形は自分の足で床を歩きながら、ベッドサイドに置かれた花をなでた。一人の少女を思っているのか、ガラス玉の瞳は輝いていた。
「惜しむらくは、月子が気がかりじゃ。わらわは魂があるだけの器物、あの子は人。人以外のものとは生きられぬ。一人のまま、あまりにも不憫じゃ」
「もう一人じゃない。一人にはさせないよ」
「それが聞きたかった。月子を頼むぞ、輝馬殿」
ナギニは窓辺に立つと、後ろには様々なガラクタ達を従えていた。中には黒こげになったスマホの姿も目立つ。
「そなたは月子とメオトになれ」
「メオトって何?」
「月子に聞けば分かる。そうだ、もう一つ伝えるべき事がある」
ナギニが部屋にある物に指でさし示した。
「そなたには忘れている思い出がある。わらわのようにな。いい機会じゃから、今のうちに思い出すといい。わらわにしたように、自分に向かって言霊を放つのじゃ」
「記憶……夢に中出会う男の子?」
「さらばじゃ、わらべ達よ」
彼らは夜の闇に消えた。あとは、夏の終わりを予感させる冷たい風が吹くだけだった。
輝馬はベッドから抜け出ると、洗面台にある鏡の前に立った。そう言えば、初めて目が覚めた時も同じ位置に立っていた。変わり果てた顔立ちから、時間の経過に戦慄した。
自分の頭の中に、未だ霧の向こうに隠れたままの記憶がある。いくら探しても、やはり、抜け落ちた過去は霧の向こうにあるままだった。事故の瞬間と、事故に巻き込まれた経緯である。
そんなものを思い出そうと努力して、お前はどうするつもりなのか。輝馬は自問した。思い出したくない理由は、以前は漠然でしかなかった。ところが、めまぐるしい出来事にもまれたせいか、研ぎ澄まされた感覚が教えてくれた。
自分は恐れているのだ。その記憶がよみがえる事を……。
本当にいいのか? 思い出してしまっていいのか。
本当にいいのか? 忘れたままでこの先ずっと知らないままでいられるのか。
頭の中で二つの声が問いかける。まるで二重人格だ。どちらが正しい?
長い時間が過ぎた気がする。それでも壁の時計は五分ぐらいしか経っていなかった。だが、答えを出すのに十分だったし、自分に嘘をついて逃げるには長過ぎる時間だった。はっきりと答えを見つけ出したのだ。
輝馬は目を開けると深呼吸した。そして、鏡に映る自分に向かって言った。
「相沢輝馬、すべてを思い出せ」
四
輝馬は自分の家の前にいた。
今住んでいるマンションの方ではない。事故に遭う七歳まで家族と暮らした家だ。今では『相沢』の表札ではなくなっていた。売り払ってから間もなく人手に渡ったと、父から聞いている。
ふと、庭先の方に目をやった。三輪車やおもちゃのスコップが縁側の下に転がっていた。家族構成は小さい子供と若い夫婦かな。輝馬は思いを巡らせつつ、なぜか安心した。
すると、三輪車が突然動きだした。スコップも勝手に地面を掘っている。
「遊んだ後ぐらい片付けてくれないものかね」
「親がちゃんとしつけないからダメなんだ。三つ子の魂百までというのにな」
愚痴をこぼす玩具達に苦笑すると、輝馬は昔の家を後にした。道中、歩く電話ボックスと出くわした。空を飛びながらカラスを追いかける古いバッグも見かけたし、片方の靴ばかりが行列を作り、もう片方と持ち主を探しているのもめにした。
梅田での騒動以降、ナギニの力の余波なのか、全国の器物が動き出す現象が起きていた。原因を知っているのは自分の他には、幸弥と月子しかいない。愛奈にも事情を話してあげたが、ナギニにさらわれた事は全く覚えていなかった。
とにかく、あの日からテレビやネットでは連日連夜、話題はつくも神の話題で持ち切りだった。どこかのビルが動いただの、粗大ゴミが歩行者天国を百鬼夜行のように練り歩いているだの、コメンテーターや評論家は、電磁波の影響だの、原発から漏れる微量な放射能だの、果てには宇宙人の力や神の悪戯など、根拠不在の珍妙な持論が洪水のように紹介された。挙げ句の果てに、外国から多くの調査団が派遣されたが、徒労に終わったのは言うまでもない。
そんな天変地異の現象も時間が経てば、慣れてしまうのだから不思議である。この間には、あるワイドショーで、スマホが自分の立ち位置について熱弁を振るっていたのを思い出した。
「我々は文明の機器として扱われているが、一方で我々が諸君たち人間から想像力や思考力を奪ったとのたまう識者もおられる。子供や若者が日がな一日我々に依存しているのも、我々の存在が悪のようであるかにように訴える者もいる。とんでもない事だ。我々の存在は人により創造された。すなわち、これらは人にこそ責任があるのではないか。なぜ、依存するものを面と向かって咎めない。正しい行為もせず、問題の原因をモノに当たるなど言語道断である」
そんな騒動のすっかり紛れた一報を、輝馬が知ったのは偶然だった。最近、夕刊の三面記事に、リサの両親が警察に逮捕された事が報じられていた。ちょうど、月子人形を保護したぐらいの時期から、鏑木夫婦はリサをあの部屋に置いて、別の場所で暮らしていたらしい。典型的な育児放棄で、親としての自覚に欠けた問題であると記事は締めくくっていた。
ニュースを知った後、輝馬はすぐに彼女が保護された施設に問い合わせた。やはり気にはなった。リサと、弟の代わりとなり彼女を守ると言ったマサルはどうなったのか? 電話に出た職員に事情を話すと、詳しくは教えてはくれなかったものの、現在、里親候補の夫婦と面談を重ねている最中で、近日中に引取りが決定されるとの事だった。
リサの目が見えないのを承知で是非育てたいと先方は言っている。ちなみに、今はサルのシンバル人形を肌に放さずに持ち歩いているらしい。
輝馬は電話を終えると、なんだか胸のつかえがとれた気がした。リサにはマサルがついている。彼女に新しい家族ができるまで見守ると言っていた。これから絶対にうまくいくさ。自分の事のように言い聞かせた。
五
輝馬は、友達の家の前にいた。今の友達ではない。幸弥や美紀、里桜ではない。昔住んでいた街にいるには、やはり昔の友達である。それもつい数日前まで記憶から消えていた存在だった。
ここに来るまで何度も考えた。行くべきではないというのと、行かなくてはいけないという葛藤が一日中付きまとった。
輝馬は、恐る恐るインターホンを鳴らした。
長い沈黙が続いたのち、(どちら様ですか?)と女性の声が言った。もう後戻りはできない。
「あの、幼稚園の時に功一くんと友達だった相沢輝馬といいます」
沈黙。輝馬は続けて言った。
「突然来てすみません。……あの、功一くんはいますか?」
(お引き取り下さい)
「少しだけでも会わせて下さい。話だけでも――」
(あなたとは会いたくない。功一は言っているの。お願いだから帰って)
そう言われて当然だった。お辞儀すると、ゆっくり踵を返そうとした。ドアが開いて、一人の少年が車いすに乗って現れた。勝気そうな顔立ちに浅黒い肌。スポーツ刈りが似合う。
「輝か?」
彼は声をかける。母親らしき女性が後ろで複雑な表情で立っている。
「久しぶりだな、輝」
記憶の奥底に埋もれていた幼馴染と、目の前の少年が重なる。六年の差が一挙に消えた。
「うん、久しぶりだね、功ちゃん」
功一は玄関にいる母親に言った。
「ちょっと、公園まで散歩してくるから」
「大丈夫なの?」
不信な瞳が輝馬を突き刺さる。
「すぐに帰るから」
功一は母親の返事を待たずに、一切無駄のない動きでスロープを滑り、ターンさせて門を閉めると、輝馬に向き直った。
「どこ行く?」
まるで毎日会っているかのような自然な感じであった。
公園に着くまでの間、二人は空白の時間を語り合った。輝馬は目を覚ましてからのおよそ数ヶ月間を、功一は車いすに乗るまでになってから今日までの六年間を。違い過ぎる年月の差に、輝馬は恥ずかしくなった。功一の足はズボンで隠れているが、靴からのぞいた足首は、老人のそれみたいに細く痩せていた。手で掴むと、親指と人差し指が触れるほどしかない。記憶の中にある幼馴染には、ちゃんと足があり、自分の力で走っていた。サッカーがとても得意だった。自分が眠っている間、功一はずっと戦ってきたに違いない。
「ごめんな」功一は急に謝った。「おふくろが帰れとか言ってさ」
「僕が悪いんだ。今頃、君の家に押しかけた」
二人は公園の入口に着いた。事故がった当時とそのままの雰囲気だった
すると、タイミングよくベンチがドシドシとガニ股で歩いてきた。
「休んでいくかい?」
功一は公園の中を覗いた。やけに閑散としているのは無人が理由だけではない。どこの公園に大抵ありそうな滑り台やブランコがないのだ。
「他の遊具はどうしたんだ?」
「ブランコも滑り台も他の公園に引っ越したちまったのさ。誰も来ないから退屈なんだとよ。だから、ここには噴水と俺しかいない。休んでいってくれないかい?」
功一は頷くと、車いすからベンチに座ったまま腕をかけて移動した。輝馬も座ると、ベンチはノシノシと歩き出した。後から、功一の車いすが勝手について来る。
「ここへはよく来るの?」
「時々な。こいつの言った通り、普段は人があまりいないからサッカーの練習にはうってつけなんだ」
ベンチが所定の場所に止まると、そのまま足を下ろした。
犬のようにすり寄る車いすに、功一が指示をすると、自動的に折り畳んだ。
「なんかすごいよな。ベンチとか車いすとかが喋ったり動いたりするなんて。輝の所も大変だったんだろ?」
「最初は。でももう慣れたかな」
なんたって、以前から八百万の声が聞こえていたのだ。梅田での騒動を体験した今では、こちらの方が面白い気がする。ナギニの事もあながち間違った事ばかりではない。身の周りは変わった。
タバコのポイ捨てが減った。捨てられたタバコが燻ったまま持ち主に張り付いて火傷させる事が増えたらしく、喫煙者は捨てるべき場所に捨てるように心がけたという。スマホをしながら歩く人も減った気がする。それをしようものなら、スマホが強制的にショットダウンしてしまうと嘆く利用者がいるほどだった。
意外と電車やバスなどは大人しかったのは幸いだった。
「この車いすがいきなり話し出した時は俺もビックリしたよ。頭がおかしくなったと思った」
「僕も同じだ」
もっとも、輝馬の場合は騒動よりも以前、病院で始めた聞いた時を指していた。
「最初はびっくりしたけど、色々な物が話したり動いたりしても、それが当たり前に思えてきた」
「そうそう、こいつが話したのが、俺は嬉しかったぜ」
功一は車いすにぶら下げていたサッカーボールを見せてくれた。所々が擦り切れて、使い古してあるようだ。
輝馬は遠慮がちにかれの足を見た。そこから先だけ成長が止まっているようだった。
「人間の体って、ホントによくできているらしいぜ。運動しなかった部分だけ、筋肉も骨も強くならない。まあ、動かせないから仕方ないんだけど」
功一は苦笑した。言うべき言葉が喉で止まり、輝馬は殺風景な園内を眺めた。昔よく遊んだブランコや滑り台の不在を無視すれば、幼稚園にいた頃と変わらない。体が十三歳でも、頭の中での時間は一年も経っていないのだ。
今はそんな事は関係ない。もう逃げるべきではない。輝馬はゆっくりと話し始めた。
「あの時の事、僕はずっと忘れていた。思い出したのは最近なんだ」
鏡の自分に向かって、自ら言霊で命じる。自分で催眠をかけるようなものだ。自分の声で発した声を聞いた途端、頭の中を覆う霧が消えた。まるで初めからなかったように。そして、あの日起こった事故が鮮明によみがえった。
「あの時、僕は時間を忘れて、功ちゃんと遊んだ。日が暮れるまで気がつかなかった」
塾の授業はとうに始まっている。遅刻は許されない。このままでは父に怒られる。とても怖かった。急いで公園を出た直後、功一の叫ぶ声と、同時にクラクションが耳朶を打ち、そして……。
「あの時、駆け寄る功ちゃんが見えた。僕を助けようとして、一緒にひかれた」
「そうだったかな? もう昔の事だから忘れた」
大きな衝撃で吹き飛ばされ、地面に叩きつけられたのが最後の記憶だった。体中が砕けるかと思うほどの衝撃だったのは、おぼろげに覚えており、思い出す度に震えてしまう。
「僕は親の言う通りに頑張って、私立に入学した時は有頂天だった。なんとなく何かを成し遂げた気になっていたんだ」
でも入学して間もなく、幼稚園の頃とは明らかに違う周りの空気を察知した。友達も少なからずいた。しかし、教室内での事で学校から出ると一緒に遊ぶことなんかなかった気がする。輪の一員でありながら、いつも一人でいる気がした。
毎日が忙しかった。朝早くから電車に乗って通学して、速いペースの授業を受けて、家に帰ると一日毎に違う習い事を受ける。今思うと、両親、とりわけ父は何かで聞きかじった英才教育を施そうとしていたのかもしれない。勉強と習い事による過密なスケジュールに、遊びなんてなかった。
そのうち、誰かと話す事もしなくなった。ただ一人、与えられた毎日をそつなく過ごした。気がつくと夏休みになり、二学期、運動会、学芸会と過ぎて、クリスマス、年が暮れて元旦と、一年は瞬く間に過ぎた。
輝馬は思った。大変なのは最初だけだ。一年が過ぎれば、少しは楽になるかもしれない。根拠もなくそう信じた。
二年生に上がると、勉強の内容も難しくなり、余計に忙しくなった。一秒が長く感じ、一日が永遠と思えるほどだった。
五月になったある時、塾へ向かう途中、ふと立ち寄った公園の前で、功一と出会った。それがきっかけだったのかもしれない。塾も学校も忘れたくなった。
でも……そのせいであんな事故が起こってしまった。
自分が急いで公園からでなければ。もしくはちゃんと時間を確認していれば。いや、そもそも、寄り道せずに塾に向かっていれば、功一を事故に巻き込まなくて済んだのだ。我慢していればよかった。窮屈で窒息しそうな毎日に耐えていれば、そうすれば……。
輝馬はベンチから立ち上がると、功一の前で土下座した。
「輝?」
「僕のせいだ。あの時、功ちゃんが怪我をして歩けなくなったのは……。あの日、ここに行かずに黙って塾に行けばよかった。そうすれば、功ちゃんは今でもサッカーを……」
後悔が涙になって零れ落ちた。鏡の前で記憶を取り戻したあの晩、償いきれない過ちを犯したと知った時も同じように泣いた。どうして、今まで忘れていたのか。それがたまらなく腹立たしく、恥ずかしかった。
「ごめんなさい、功ちゃん」
五年も昏睡したのは、友人の足を奪った罰なのかもしれない。
「頭を上げろ」
功一は静かに言ったが、輝馬は動かなかった。
「頭を上げろ、輝馬!」
功一が怒鳴った。恐る恐る、輝馬は顔を上げると、思わず笑いそうになった。友人があまりにも変な顔にしていたのだ。昔から彼はそうやって笑わすのが得意だった。
「輝が俺を怒らそうなんて、100年早いんだよ」
幼稚園の時のように、歯を見せながら功一は笑った。
「功ちゃんは悔しくないの? 僕のせいで、その……」
輝馬は黙り込んだ。今更謝ったところで過去を帳消しにはできない。それは分かっている。このまま知らないふりなどできない。彼から何か返事がほしかった。何を言われても覚悟はできていた。
「確かにそうだ。輝、お前のせいだよな」
功一が鼻を鳴らした。
「お前に関わったせいでさ、もう一生自分の足では歩けなくなったし、サッカーだってできない。ずっとみじめな毎日を過ごさないといけなくなったよ」
「……ごめんなさい」
「辛かったぜ。コイツに慣れるまで毎日汗まみれになって、トレーニングして。夏も冬も、毎日。ヨット乗り回せるようになっても、足は戻ってこないんだぜ。死ぬまでずっと」
功一の言葉が容赦なく突き刺さる。
「対して、お前はどうだ? 数年間眠っただけで、失ったのは時間だけだ。あとからいくらでも取り戻せる。でも、俺にはできない。いくら努力しようが、足がトカゲみたいに生えてきやしないんだからな」
「全部、僕のせいだ。一生償うよ。僕は最低なやつだ」
「そうだ、お前は最低な人間だ。俺の足を返してくれよ。お前の足を切って、俺にくれよ。なあ」
しかし、彼の言葉とは裏腹に、言霊には暗い感情は垣間見えない。
「こんなふうに、俺に言われて満足か?」
「何を言われても弁解しない。全部、僕のせいだから」
「そんなの聞いてねえよ。輝、お前は俺に罵られるために、わざわざ俺に会いに来たのかって聞いてんだよ」
「言い訳はしない」
「俺に責められて、お前はこれからうじうじ生きるのか? 俺が怪我したという理由にして、お前は自分を悪者にしながら生きるのか。冗談じゃねえよ、そんなの!」
功一が怒鳴った。久しぶりに聞いた気がする。幼稚園でガキ大将にいじめられた時、功一はいつも助けてくれた。でかい図体して弱い者いじめするな! あの時、彼は本当の友人だった。幼稚園を卒園しても、大人になっても一緒にいるものと信じて疑わなかった。
功一は荒い息を整えた。
「ところで、輝は今何してんだ?」
まるで、先程の怒声のような質問に、輝馬は当惑した。
「どうもしない。何とか勉強のペースは取り戻して、今は小学六年生をしてる。功ちゃんとは一年遅れだ」
「そっか。充電中かい?」
「うん。功ちゃんは強いね」
「当たり前だ。なんたって、今までずっと練習してきたからな」
初めはベッドから外に出られなかったらしい。車いすに乗ってからも、満足に動かせずに壁にぶつかったり、転倒するのが茶飯事だったという。
「病院の療法士がとんでもなくスパルタでさ、毎日朝から晩まで練習させられたら、そら上手になるって」
「毎日朝から晩まで……もしかして、水島先生って人から習ったとか」
功一は目を丸くした。
「水島を知ってんのか?」
輝馬はリハビリでの体験を話した。まさか同じ人から治療を受けていたとは驚きだった。そう言えば、一時期反抗的な態度を取っていた時に放った言葉を思い出した。
『世の中には足を失っても、車いすや杖で歩き出す人もいる。君は五体満足だ。歩けるし、物を持てる。その当たり前なのが大切なんだ』
あれは功一を指して言ったのかもしれない。もしかすると、自分達の関係を知っていた可能性もある。
「俺は今、ライトニング・キャタピラーズに入ってるんだ」
「ライトニング・キャタピラーズ?」
「電動車椅子サッカーのチームだ。数年前にできたばかりで、俺は最年少なんだ」
電動車椅子サッカーとは、身体障害者が電動車椅子を駆って競うサッカー競技である。通常のサッカーと同じくワールドカップが各国で開催されており、現在、パラリンピックの公式競技として採用される予定とされている。海外では、パワーサッカーと呼ばれている。
「俺は、パワーサッカーがパラリンピックの競技になると踏んでる。だって、オリンピックにサッカーがあるんだぜ。こちらの方が選ばれないはずがない」
功一はボールを放つと、ベンチから飛んだ。それよりも速く車いすが自動で展開して、かれの体をキャッチした。まさに阿吽の呼吸だ。
「プレイで使うのは残念ながら電動式だけど、ルールは変わらない。ボールを相手のゴールにぶち込めばいい」
功一は車いすを目まぐるしく動かしながら、ボールを動かす。自分の足元で運び、巧みに浮き上がらせる。そして、ゴールに見立てたフェンスに転がした。
輝馬は立ち上がり、彼に向かって拍手した。
「一人だけ悪者になるなよ。俺だってよ、ずっと後悔してたんだ。あの時、お前を呼び止めなかったら、お前を事故に巻き込まずに済んだかもしれなかった」
「違うよ。僕は塾に遅れるから急いで行こうとしたんだ」
「だが、誘ったのは俺だ。あの時さ、お前は死にそうな顔をしてたんだ」
「死にそうな顔?」
「なんだか、もうすぐ爆発しそうな感じ。それか消えてなくなってしまいそうでヤバいと思ったんだ。それでほっとけないって思った。このままお前をほっておいたら、本当に病気かなんかになってしまう気がした」
「功ちゃん……」
「お前と違って、俺は後悔してない。悔んでいてもトカゲみたいに新しい足が生えてくる訳じゃない。俺には腕がある。サッカーの勘だってなくなってない」
功一は車いすで公園の中を滑走した。砂ぼこりに舞い、彼は優雅にターンする。
「お前を助けたい気持ちを後悔しなくない。だから今は、ずっと前を向いている。だから、らお前もさ、一度立ち止まって後ろを見てみろ。もう何も追いかけていない」
輝馬は顔を沈めるとさめざめと泣き出した。「馬鹿野郎、泣くなよ」と呆れた声が飛んだ。
「まあ、あの事故のオチとしては、どっちも死なずにこうして会えてよかったよ。いまさら言うけど、おはよう、輝。無事でいてくれてありがとな」
座っているベンチが小さく震えていた。小さな嗚咽が漏れている。どうやら、ベンチはもらい泣きしているようだ。
「ありがとう、功ちゃん。僕は……」
それ以上の言葉は続かなかった。
六
夕方、二人が宮地家の前に来ると、門の前にいた一人の男が、彼らを見つけて意気揚々な様子で近づいてきた。記者の石川だった。
「おやおや、幼馴染の二人とも。久方ぶりの再会か。功一君は恨み事の一つでも言えたかな?」
「消えろ」
功一が怖い顔で睨んだ。
「おじさんにそんな事をいいのかい? 車いすサッカーの新興チーム、ライトニング・キャタピラーズを担う君が、そんな暴言を吐いたって言う記事を出そうかな」
「そんなの、僕が許さない」
「君も同じだ。昏睡から目覚めた少年は現在引きこもり中。なかなか興味深いゴシップ記事になるな」
輝馬は財布からよれよれになった名刺を取り出した。捨てようと思って忘れていた。以前ならば、ビリビリに破いていたところだが、今回は役に立ちそうだ。
「石川善男、僕らの事を全部忘れろ」
石川は全身を硬直させた。彼の頭から、輝馬と功一の情報が言霊の消しゴムできれいに消えていった。
「もう二度と、僕や功ちゃんや、僕らの知り合いに関わるな。いいな?」
力なく頷くと、石川は踵を返した。
「ここはどこだ? どうして俺はこんな所にいるんだ?」
不思議そうに言いながらいつもの癖で地面に唾を吐いた途端、彼の足元にあるマンホールの隙間から鉄砲水が吹き出した。情けない悲鳴を上げながら逃げて行く姿を見ながら、二人で笑い合った。
「さっきの何だよ、あれ?」
「催眠術。夏休みの自由研究なんだ」
「なんだよ、それ」
功一はケラケラ笑った。時間はもう五時過ぎ。夕日が勾配のある住宅街を黄金色に染め上げる。もうそろそろ帰らないと、今日は家族で外食する予定だった。
「じゃあ、帰るね」
「輝」功一が呼び止める。「もう大丈夫なのか?」
「うん。僕も歩き出すよ。いつか功ちゃんに追いついてみせる」
「俺はもっと速く先を突っ切って、ずっと先でお前を待ってるからな」
「その前に追い抜くよ」
「やれるもんならやってみな」
功一が歯を見せながら手を伸ばす。輝馬は握手すると、ものすごい握力で「降参!」と叫んだ。
別れ際、門の向こうから功一が言った。
「来月、俺のチームが大阪で試合するんだ。見に来てくれるか?」
「もちろん行くよ」
輝馬はこぼれるほどの笑顔で答えた。この時にはもう、心のつかえは消えていた。




