第六章 付喪神の国 (2)
五
相沢愛奈は、梅田駅一階にある大型書店の前で、両親と待ち合わせの約束をしていた。スマホで時間を確認すると、彼女は首をかしげた。合宿に行っているはずの自分の声に驚かせつつ、何とか約束にこぎつけてから三十分も経つというのに、母と父がやって来る様子がなかった。二人には別々に待ち合わせを取り次いだ。だから、顔を合わせて驚かせてしまうだろう。
もう一度、本屋に戻って適当に立ち読みでもしようと思った。某大型書店の梅田本店は、夏休みのせいか連日にも増して殺人的な来客でごった返している。夏でもマスクをしないと夏風邪をもらってしまいそうなほどだ。
今日は日曜日。なんとか二人と一緒にレストランや映画に行って、また家族で暮らす話し合いをするつもりだった。昨晩思いついた事だった。兄には話さずにいた。愛奈は自信を持っていた。きっと、まだ間に合うはずだと信じている。今なら自分が間に入り、五年間にできた二人の溝を埋めてみせる。兄のせいで生まれた不和を修復してやるのだ。
母だって、父の元に戻りたいに決まっている。父もそうだ。でも大人には大人の事情があるのだって分かっていた。なかなか、よりを戻したいと簡単に話してそれで解決できるほど単純ではないと、愛奈は幼いながらも気づいていた。
だから、今日は家族にとって大切な日になる。二人に再婚させる気にさせて、そして家族として再出発できるか、永遠の別れになるか。愛奈の決意は固かった。
彼女の輝馬に対する感情は複雑だった。自分自身でさえ、それを口に出して説明する事が出来ない。兄のせいで家族は滅茶苦茶になった。自分もその代わりをさせられた。早朝の電車通学は、高学年になっても慣れる事はないし、濁流のようなカリキュラムもうんざりであった。でも、それは本人のせいではないし、昨年の暮れに、兄に言い放った暴言も少なからず後悔していた。
もしも……両親がやり直してくれるのなら、自分はもう少しがんばれる。頑張るだけの理由がほしかった。日曜に遊園地へ行き、夏休みに海へ旅行するなんて夢物語まで高望みしない。せめて、二人のいる家の娘でありたかった。そうすれば、自分は少しでも兄を許せるかもしれない気がしてきた。
そのために、絶対に今日は成功させないといけないのだ。
それにしても遅いな……。
読書感想文の本でも探そうと思い、本屋の入口に立った愛奈は、前方の奇怪な光景に思わず足を止めた。
「あれ?」と声にまで出てしまった。それほどおかしな事が起きていた。
店内が無人なのだ。さっきまでたくさん人で詰めかけていたというのに、奥行きの豊かな書店内はモヌケの殻なのだ。
愛奈は店内に足を踏み入れた。好奇心からであった。もしかすると、何かイベントでもしているのかもしれない。例えば、ベストセラー作家のサインとか。
最新刊、単行本、文庫本、児童書とジャンル別の棚を廻っていくが、人の気配はまったくない。不思議にもカウンターにも店員の姿がない。
「すみません! 誰かいませんか?」
愛奈はたまらず声を上げた。だが、誰かがやって来る様子もなく、さすがに気味が悪くなってきた。外に出た方がいいかもしれないと、踵を返した時だった。
「メロスは激怒した」
青年の声を耳にした。噛みしめるような発音。慌てては振り向いた時に何かが横切った。
「誰かいますか?」
また真横を何かが飛んでいく気がした。視界の端で飛び去っていく。最初は鳥かと思った。それにして早過ぎる。
「親譲りの無鉄砲で子供の時から損ばかりしている」
能天気な調子の声がした。
今度は店内の奥を、小さな物体が羽ばたくのが見えた。まるで蝶々のようだが、それにしては大きい。それにあの言葉は聞き覚えがある。
メロス……走れメロス? それにさっきの親譲りの無鉄砲から始まる作品は、坊っちゃんだ! そうだ、さっきから聞こえたのは古典の文学作品だ。
一体どうなってるの?
「関西の一押しグルメスポット!」
馬鹿なくらい明るい女の声が響いて、真正面から大きな物体が飛来した。咄嗟にしゃがんだおかげで、愛奈は衝突を免れた。それは棚にぶつかって床に落ちた。
飛行物体の正体は、関西では有名なグルメ雑誌の最新号だった。どうして、こんなものが空を飛んでいたの? 恐る恐る近づいた途端、本がばたつき始めた。
愛奈は悲鳴を上げて、思わず雑誌を上から踏みつけた。本が苦痛の声を上げる大きな虫をふんづけているような気持ち悪さを覚え、愛奈は足を話した。
「酷いわ……本の私を踏むなんて。一杯美味しいお店を教えてあげたのに……」
信じられない光景だった。本が喋っている。一体どうなっているのだろう?
「本を踏む奴なんて酷いと思わない、皆?」
喋る本から逃げると、そこら中の棚から本が次々と飛行機のように飛び立った。風を切って、まっすぐ見な方へ飛んでくる。悲鳴を上げながら、彼女は入口の方へ急いだ。だが、またも信じられないものを目撃した。
枕に使えそうなほど分厚い百科図鑑が束になって積み上がり、本の壁となって書店の入口を塞いでいく。これでは逃げ道がない。愛奈は別の棚に逃げ込むと、店内の右奥にある別の出口を目指した。
「読者諸君よ、驚く事なかれ。かの卑弥呼が統治した幻の国、邪馬台国は近畿でも九州でも四国でもなく、なんと、今はアメリカ合衆国のある新大陸に存在したのである!」
どうだと言わんばかりに尊大な持論を発しながら、トンデモ本が紙の羽をはばたかせながら追いかけてくる。邪馬台国がどこにあろうがどうでもいい。今は逃げるのが先決だった。
出口が見えてくる。すぐ背後まで本の群れが追いかけてくる。愛奈は一度しゃがんで本の取りをやり過ごすと、出口を突っ切った。構内に出たが、底にも人の姿はなく閑散としていた。近くには大きな道路やタクシー乗り場があるというのに、恐ろしいぐらい静かだった。
いつからなのか分からないが、足元には霧が立ち込めていた。いきなり手が伸びてくる気がして、足でドライアイスのような霧を蹴った。
「一体どうなってんの?」
いつの間にか泣いている自分に気づいた。今まで一人でどんな事も自分一人の力で乗り越えてきた。その陰でいつも一人泣いていた癖がこんな時に出てくるのを嫌悪した。
泣いちゃ駄目だ。自分でそう言い聞かせると涙をぬぐった。とりあえず、パパとママを探さないと――。
その時、背後に気配を感じて、愛奈は振り向いた。そして息を飲んだ。
そこには、年上の女の人がいた。高校生ぐらいだろうか。整えた黒髪は光沢をなし、不思議な模様の着物で包まれた体は痩せている。白い顔は美しさが際立っていた。
とにかく、今は他人でも構わない。大人がいたら安心したのか、愛奈は少女に駆け寄ろうとした。
「すみません? お姉さんは一人ですか?」
「そうよ」
愛奈はふと足を止めた。目の前にいる女の人はなぜか楽しげに笑っているのだ。他に誰もいないこんな異常な状況の中だというのに。
「助けて、お姉さん。私、とても怖い目に遭ったの」
「どんな?」
「言っても信じられないかもしれないけど……」
「本が言葉を話したのでしょ?」
「あ、はい、そうです」
動揺するこちらを小馬鹿にするように、着物の少女はゆっくりと回った。
「人間でなかったら言葉を出さないなんて、誰が決めたのかしらね」
「え?」
「何もおかしな事じゃないのよ。器物が喋って、自分の力で動くのは当然の権利なの。人間や他の生き物の専売特許じゃないわ」
この人は何を言っているのだろう? 愛奈は不安になった。
「あの、他の人を知りませんか?」
「知ってるわ。案内してあげる」
少女が手招きするが、愛奈がついていく気にはなれなかった。得体のしれない危険を感じたせいかもしれない。
「ついて来なさい、相沢愛奈」
女が自分の名を呼んだ。その瞬間、信じられない事が起きた。足が勝手に動いたのである。止めようとしたが無駄だった。
「もうすぐ、選別を始める。あなたの魂を別に移すか、そのまま握り潰すか。すべては私達付喪神が決める」
声が出ない愛奈の真横を歩きながら、女が手を伸ばして彼女の髪に触れた。
「恐れるな。そなたの親も天守閣にいる。そして、そなたの兄も直にやって来るだろう」
お兄ちゃんが? もう忘れようとしていた顔が脳裏に浮かんだ。
「家族水入らず、器はモヌケの殻になる。それからどうなるか、そなたの兄に選ばせる。逆らえば、魂を粉々にしてやる」
女が邪悪な笑みを浮かべる。美奈は心の中で叫んだ。嫌いだった兄。以前、あれほど死んでしまえばいいとさえ憎んでいた兄に向かって、一心不乱に願った。
逃げて、お兄ちゃん……ここに来ちゃダメ……。
六
特急電車に揺られながらも、輝馬は窓に移る光景に釘づけになっていた。幸弥も同様だった。
「あれは何なの……」
「霧だよ。駅が霧に包まれてる」
前方には終着駅の梅田駅が見えたが、その建物が濃霧に包み隠されていた。その上空を、テレビ局のヘリコプターが何機も旋回する。あの中に愛奈が残っていなければいいのだが。
「もうどこかに避難してるかもしれないよ」
輝馬は首を振った。
「たぶん、ナギニがそうはさせてはくれないよ」
「ナギニ?」
こんな事態になれば、もう隠し事なんか意味がない。
輝馬はリュックから月子人形を取り出すと、すべてを包み隠さず幸弥に話した。長い眠りから覚めてから、八百万の声や言霊が聞こえ始めた事や、月子とのいきさつなど……。すべてを言い終わるまで、幸弥は静かに聞いていた。
「バカバカしい話なのは分かってる。あまりにも荒唐無稽だ。でも、これは事実なんだ。信じるのは難しいかもしれないけど……」
輝馬は頭を下げて、彼の反応を待った。
だが、なかなか返答はない。無理もないと思った。普通の人には月子の声も聞こえないので、証明できるものは一つもない。いきなり言って理解してもらうなんて期待していなかった。
「僕をおかしな奴だと思っただろ?」
「信じるよ」
「え?」
「輝馬くんの言った事を信じる」
輝馬は思わず顔を上げた。なぜか、幸弥は茫然と前を向いて、口を半開きにしている。友人の性格からして、最初は自分の嘘をおかしいと思いながら無理して信じてくれているのだと思った。
「無理はしなくていいよ。こんな事を簡単に信じてもらおうなんて思ってないから」
「あんなのを見たら信じるしかないよ」
幸弥がこちらに向かって指差した。正確には輝馬の後ろに向かって。何だろうと振り返った時、親友同様口をアングリする羽目になった。
二人しかいない車両に、座席が床から離れて動いていた。釣り天井が激しく叩き合いながら音を奏でている。誰かの忘れ物であろう黒い傘が開いて車内を回転しながら滑空していた。網棚に放置されていた雑誌や新聞もパタパタと飛んでいる。
物が勝手に飛ぶポルターガイスト現象というのがあるが、輝馬だけが知っていた。彼らにも心があるのを。彼らは声に出してこう叫んだ。
「自由だ、自由だ、我らは自由だ! これで毎日毎日、人間の尻に踏まれずに済む」
吊り下げが振り子のように揺れながら、互いに持ち手の輪が交差する。
「我らも自由だ、これで自由の身だ。毎日毎日、体がちぎれんばかりに、人間に引っ張られずに済む」
傘も同じように叫びだ。
「私も自由だ。感謝感激! これで雨の日に、人間の代わりに雨に打たれずに済む」
電車にあるあらゆる物達が自由の大合唱をとどろかしていた。
一体これはどうした事だろうか?
「ナギニの仕業ね」
月子人形がしゃべった。いつもと違い、ささやく声ではない。まるで普通の声だった。その証拠に、幸弥が叫んでいた。
「驚かしてごめんなさい。でも、輝馬くんの言ったのをこれで信じてくれた?」
「月子さん喋られるの? どうして……」
「私にも分からない」と言って、月子は首を横に振った。傍から見れば、人形が勝手に言葉を出して動いているようにしか見えないだろう。
幸弥は真剣な眼差しで月子を観察した。
「梅田駅に近づいたら、急に動けるようになってしまって」
「きっと、あの霧のせいだ」
もしかすると、ナギニが何かの力で八百万が宿る器物を動けるようにしたのかもしれない。きっと、この現象は自分達のいる車両だけではないはずだ。
そう思っていた矢先、隣の車両から甲高い悲鳴が響いた。
二人は扉の窓から覗いた。
そこには、座席や吊り下げの輪が同じように自分で動ける自由を謳歌して、乗客の恐慌をかきたてた。会社員のいじっていたスマホや学生のゲームデッキが、手足が生えたように持ち主の手から離れ、縦横無尽に歩きまわる。天井を雑誌や新聞が羽をはばたかせるようにして飛んでいた。
慌てふためく乗客達がこちらの車両になだれ込んできた。しかし、こちらも同じ状況と分かると、押し合いへし合いで引き返そうとする。あまりの喧騒に、輝馬も幸弥も唖然としていた。
「これも、そのナギニとかいう奴の仕業なんだね?」
幸弥が困惑しながら聞いた。
「間違いない。でも、ナギニは一体八百万に自由を与えて何をするつもりなんだろう?」
「それは――」
月子が言い淀んだ。輝馬はリュックから彼女を取り出した。
「月子さん、何か知っているなら教えて。もうこれは僕達だけの問題じゃない。僕の家族も人質にとられているはずだ」
人形の顔はどことなく月子に似ていた。瑠璃色のガラス玉の瞳を細める。白い肌はどこか血色が浮かんでいた。このままだと、彼女はずっと人形のままだ。もう戻れなくなるかもしれない。
もう時間は残されていない。輝馬は彼女に強く迫った。
「月子さん!」
「……ナギニは、王国を作ろうとしているの」
「王国?」
「ここを八百万だけの王国をつくりつもりなの。そしてここを拠点に、世界中の八百万を煽って、人間を一人残らず追放しようとしている」
その時、列車が急停止した。続いてドオンッと地響きが聞こえ、床が上下に振動した。それが一定の間隔で起こる。まるで巨人の足音みたいだった。急に窓から影が差し込み、社内が暗くなった。輝馬達は外を見た。
「何だよあれは……」
輝馬は町中を進む巨大な二本の足を見た。表面が無数のガラス張りできた足が地面を踏む度に社内が揺れた。
巨人の足の正体は高層ビルだった。二棟からなる高層ビルが巨人の下半身のように梅田の街を一歩、また一歩と邁進し、ついには二人のいる電車を跨いで行った。
「梅田スカイビルだよ、きっと」
「一体どこに行く気なんだろ?」
きっと、自我を持ったスカイビルに目的地などない。ここで狂喜乱舞している八百万達もそうだ。突然手に入れた自由を持て余している。
スカイビルの後ろには梅田の有名な建造物が追随していた。
まだ電車が発進しないのかと待っていると、車内アナウンスが流れた。
(乗客の皆さまにお伝えします。本日未明、異常事態により梅田駅近辺は禁止区域に指定されました)
乗客は乗務員の指示に従って、線路を伝って前の駅まで戻るように言われた。だが、輝馬は引き返すつもりなどなかった。濃霧の覆う駅構内に、ナギニに囚われた愛奈がいる。
輝馬は先頭車両まで進んで下車すると、乗務員の目を上手く盗んで、終着駅へ辿る線路を目印に進んだ。幸い立ち込める霧のおかげで大人に見とがめられる心配はなかった。
プラットホームに登ると、後ろから幸弥が走って来た。
「幸弥、君は戻れ。ここからは危険しかない」
幸弥は首を振った。
「言ったでしょう。僕は君の友達だ。ここで逃げたくないよ」
「これは遊びじゃない。緊急事態なんだ」
「だからこそ、僕は輝馬くんの力になりたい」
彼の瞳は真剣そのものだった。迷いの揺らぎがない。輝馬はそれ以上反対する言葉を見いだせなかった。体中に気恥ずかしい熱を帯びながら、彼に向かって言った。
「ありがとう、幸弥くん」
梅田駅のプラットホームは文字通り無人だった。新開地行きから京都行きの路線まで広がるプラットホームに人の姿がないのは、あまりに奇妙な光景だった。
とりあえず、行くべき場所はあった。地下街の《八百堂》だ。埴輪様なら何か知恵を貸してくれるに違いと思った。
「地下に行こう」
そう言った矢先、アナウンスが一斉に流れ始めた。
(間もなく、梅田駅着の電車が到着します。白線より内側に立ってお待ち下さい)
霧の中から警笛が響いた。さっき来たばかりの入口から、二本のヘッドライトが光った。電車がやって来る。だが妙だ。梅田駅はさっき禁止区域になったはずなのに。
「ねえ、輝馬くん。あれ見て」
幸弥が指さす方を見た。霧の中から別のヘッドライトの目が光った。その数は次第に増えて行く。電車の数は一編成だけではなかった。新開地方面や京都方面などからも列車がやって来る。けたたましい警笛が方々から響く。
「まさか……」
次に流れたアナウンスに、二人は愕然とした。
(間もなく、全車線の電車が突っ込みます。白線の内側にいても大変危険です。一目散に逃げましょう)
アナウンスの言う通り、すべての路線から電車がやって来るのだが、どれもスピードを緩める気配がない。獣の咆哮のように警笛をかき立てながらまっすぐプラットホームに突っ込んで来ようとした。
「逃げろ!」
輝馬と幸弥は駈け出した。改札を抜けて、階段を目指そうとする。その直後後ろで、轟音が響いた。振り返ると、何と電車がプラットホームに乗り上げ、車輪に火花を散らせながら滑り込んでくる。一編成が改札をなぎ倒して、こちらにやって来る。
二人揃って階段に滑り込んだ。数秒してから列車の顔が入口にぶつかった。コンクリート片が降り注ぐ中、何とか下の階に降り立った。
本当に手荒い歓迎だった。本当にこの駅の周辺は、ナギニに支配されてしまったようだ。急がないと段々ひどくなってしまう。
「輝馬くん、地下に何か手掛かりがあるの?」
「地下街に《八百堂》という店があるんだけど、そこに偉い八百万がいるんだ。僕らに何か知恵を隠しくれるかもしれない」




