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第五章 窓木 (2)

 

      三


 夕方、子供達は寺の近くにあるキャンプ場に集合し、班ごとに分かれてから飯盒炊飯に取りかかった。輝馬は里桜と、幸弥は美紀と別々になった。

 新鮮な体験に輝馬の胸は躍った。長い眠りの間、屋外で何かを作るという体験が少なかったせいだった。私立の学校にいた頃の記憶と言えば、勉強と習い事に忙殺された日々であり、それらは今、おぼろげになりつつある。自分の中では取り立てて重要ではなかったのか、単に忘れてしまいたいのかもしれないと、最近になって思うようになっていた。

 とにかく、新しい何かに取り組む楽しさは人一倍にあったのである。

 輝馬と里桜が後輩らに教えながらカレーの具材を手際よく刻んでいく一方で、別の班では、美紀がジャガイモを皮むき器で剥いているのになぜか指を怪我して、幸弥に手当てしてもらう形で離脱した。

「福田さんはうまいね」と褒めると、彼女は恥ずかしげに言った。

「全然そんな事ないよ。相沢くんの方がすっと上手いよ。家で手伝ったりしてるの?」

「お父さんが夜遅いし、朝は朝で忙しいから」

 引っ越した当初の当番制はすでに消えた。輝馬は気にしていなかったが、むしろ、多忙な父が心配だった。

「へえ、すごいな。私も見習わないといけないな。将来、調理師になって、外国で三つ星の店を開きたいの」

 大人しい里桜の壮大な夢に、輝馬は驚くばかりだった。彼女の父親は、梅田界隈でイタリア料理のコックをしており、時々、父親に料理の指導を受けているという。

「なかなかうまくいかないかな」

「なんかすごいよ。もう将来の夢とかはっきり持ってるなんて」

「相沢くんは何か夢はあるの?」

「今は考え中。というか充電中かな」

 いけない事を聞いたのかと思ったのか、里桜は小さな声で謝った。

「私、余計な事を聞いちゃった」

「構わないよ。僕もさ、いつまでも過去を引きずる訳にはいかないもんな。もういい加減に、前を向いて歩かなきゃいけない」

「うまくいくよ、相沢くんは勇気があるもの。瀬川くんを助けたのも、相沢くんでしょ?」

 輝馬は、《ロクツー部屋》に初めてログインした時、最初に会ったクラスメイトが里桜だったのを思い出す。幸弥に関わるのは止めた方がいいと、それとなく止めていた事から、たぶんあの時から、彼がいじめに遭っているのを知っていたのだろうか。

 今更、そんな事を蒸し返しても仕方がないのだが……。

「わたしね、あの騒動の後に瀬川くんに謝ったの。ごめんなさいって」

「知ってる。幸弥くんから聞いた」

「瀬川くんは別にいいってはにかんだだけだった。けど、私はずっと自分が許せなかった。長谷川くんより卑怯なのは、黙って見ていた自分なんだって」

 里桜の包丁のリズムはさっきよりもゆっくりになった。

「福田さんは自分がどうすべきか気がついたから、そうしたんだろ? そういうのは早いも遅いも関係ないと思う」

「二回目だったら?」

 里桜の声が沈みがちになる。

「もしも、同じ目に遭っていたのにまた同じように傍観者になっていても、また救えないと思う」

「福田さんにそんな事があったの?」

 里桜は小さく頷いた。

「わたしって、小さい時から引っ込み思案だったの。でも、仲間外れにされるのは何となく怖いって分かってた。だから、いつも周りを観察しながら、皆の中に溶け込んできたの」

「どんな風に?」

「仲の悪い女子同士が遊びに誘ってきたら、友人の多そうな方を選んだし、いじめに遭いそうな暗い子がクラスにいたら、いち早くその子から距離を置いた。一番自分が巻き込まれにくくて、損もせずに、当たり障りのないポジションを選び取ってきたの。カメレオンみたいでしょ、まるで」

 里桜の言葉に乗るようにして、目に見えない言霊が輝馬の耳へ流れてくる。言葉の波が変形して、一つの風景を頭の中で形作っていく。

 そこは教室だった。小さな机と椅子。壁にかかる五十音の一覧表。棚に収まるランドセルはどれもピカピカだ。どうやら一年生の教室のようだ。

 明るく話す女子の集まりがあった。和気あいあいと井戸端会議に興じる子供の中に、絶好のタイミングで合いの手を入れる一人がいた。ショートの髪に、眼鏡の奥で瞳が不安で揺れている。里桜だ。今よりも幼い。さらに弾む女子の輪から外れて、一人ぼっちで座る一人の女子生徒。

 前触れもなく、別の風景が現れてはすぐに消えた。公園で遊ぶ二人の幼稚園児。あの少女と里桜が仲良く遊んでいた。

 場面が次々と変わる。二年生、三年生、四年生と学年は上がっていっても、その女の子はいつも教室の端にいた。誰かが彼女が暗い子と心ない噂を流し、その度に仲間外れにされてしまう。

 四年生の二学期になり、彼女は学校に来なくなった。

「彼女は心の病気で休んでます。その理由を一番よく知っているのは、皆のはずです。何があったのか、先生に話して下さい」

 沈黙。誰も答えない。名前順に次々と呼ばれるが、返事は同じだった。知らない。知りません。あまり話をした事がない。

「福田さん。あなたはどう?」

「し、知りません」

 震える声で里桜は答えた。

「福田さんはあの子と友達だったのでしょ? 今も仲がいいはずでしょ?」

 全員の目が里桜に注がれる。みんなが期待している。余計な事を言わないでよ。適当に嘘をついとけ。あたしらを裏切らないでね。もしもヘマをしたら、今度はブラれるのはあんただからね。

 壁の裂け目からにじみ出るような黒い思念が、里桜をがんじがらめにするのを、輝馬は幻視した。まるで蛇が体中にまきつくようにして、小さな勇気さえもそぎ落としてしまう。皆に合わせろ、そんな呪詛で苛んでいく。

 やがて、里桜はゆっくりと答えた。

「全然話した事もないです。友達でもありませんでした」

 そこから先の風景は薄く霧が漂っている。かすかに見えるのは、一軒家に止まる引っ越しの車。あの女の子が俯きながら家族と家を後にする。そして、担任の声が響く。

「一宮さんは、家族の都合で別の学校に転校しました」

 一宮……? どこかで聞いた事のある名前だった。

「相沢くん、大丈夫?」

 里桜に心肩を叩かれ、輝馬は夢から覚めた。気がつくと周りは元のキャンプ場だった。遠くでひぐらしが静かに鳴くのが聞こえた。広場では、聡太が飯盒から黒焦げのご飯を取り出して大笑いしている。「何やってんのよ、馬鹿聡太」と梓が怒鳴った。

「ごめんなさい。なんだか、暗い話ばかりしちゃって」

 輝馬は黙って、顔を隠す彼女にハンカチを手渡した。(便所から出る時はろくに使わず、こういう時だけ私を使うのは都合がいいな)とハンカチのささやきが聞こえた。

「ちょっと休みなよ。後はやっとくからさ」

「ありがとう、輝馬くん」

「福田さん、いつかやり直すチャンスがいつか来ると思うよ。今の福田さんには勇気があるから」

 里桜は無言で手洗い場の方へ向かった。

背中におぶさる月子人形がクスクス笑っている。

「何がおかしいの?」

(後悔してるのかなって思って)

「あの子の事?」

(あなたよ。あの子に何か気の利いた言葉の一つや二つかけてあげられなかったって思ってるんじゃない?)

 輝馬は黙って野菜を刻み始めた。玉葱のせいで目が染みてくる。

(彼女はたぶん、あなたに気があると思う)

 まるで秘密を告白するように、月子がささやいた。出しぬけに何を言うんだ。

「人形なのに、人の気持ちが分かるんだね」

(ずっと君のそばから見ているもの。あの子はいつも君に気をかけていたし、あの時もあなたの怒りを止めようとしたわ)

 あの時とは、実が秘密をばらしたあの日を指している。

(人形から眺めるとね、面白いほど人の気持ちが分かってくるの。あの子は、君を通じて自分の理想像を見出したの)

「理想像?」

(あなたが幸弥という子を助けたのを、かつての自分がそうでありたかった願望と重ねているのよ。君のそばにいて仲良く接する事で、昔の過ちをごまかそうとしているの。虫が良過ぎると思わない?)

「違うよ、きっと。福田さんは変わろうとしているんだよ」

(そう?)

「そうだよ」

 輝馬は譲らなかった。気がつくと、玉葱をみじん切りにしてしまっていた。

「だれだってそうだ。誰だって、辛い目が遭っても戦うしかない。僕は五年間を失って、最近になってようやく分かった。立ち直れるかは分からない。また塞ぎこむかもしれない。でも、少しずつ変わっていける自分が分かるんだ。幸弥くん達やマサルが教えてくれた」

(私には無理)

「どうして?」

(私にはいないもの)

 月子はそれだけ言った。

「じゃあ、月子さんが誰かにとっての理想像になったらいい」

「言うのは簡単ね」

「そうだね。難しいと思う。だからやってみる価値はある、ていうのは間違ってるかな」

 輝馬はそう言い終えると、淡々と野菜を刻み続けた。

 月子人形はそれっきり黙り込んでしまった。


       四


 夕食後、輝馬達は本堂に集められた。時刻は七時を過ぎて、境内はすっかり闇に包まれている。本堂の中では、蝋燭の心細い光が仏像の顔を薄ぼんやりと照らし出していた。昼間来た時には気づかなかったが、天井の梁には蜘蛛の巣が至る所にあった。今の雰囲気だと、化け物寺さながらの不気味さを演出している。

(掃除もしてくれんと、わしらは蜘蛛の住みかではないぞ)

(そうじゃな。だが、その坊主に期待しても無駄だ)

(風の便りで聞いたが、世界遺産とやらに選ばれたら、わしらも大事に扱われるかも知れんぞ)

(どうすれば選ばれるんのだ?)

(知らん)

 仏像達が世間話をする中、子供たちは本堂ですし詰めの状態だった。

「一体何が始まるのかな?」

 月子を背負ったままの輝馬が聞こうとするとして躊躇した。幸弥の顔が青白くなっている。隣に座る美紀はニヤニヤしている。

「夏の夜の風物詩に決まってんでしょう」

 里桜もバツの悪い顔を浮かべる。ここへ来て初めて後悔している感じだろうが、もう遅い。輝馬も同様だった。

「集まったようだな、皆の衆。今夜は納涼にはちょうどいいイベントを用意したぞ。何をするか分かるかな?」

「肝試しだ!」

 総太がハイテンションな声で先に言ってしまった。

「こら、先に言うな。聡太の言った通り、肝試しをしようと思う。皆、一度目を閉じてみるがいい」

 輝馬は目を閉じた。

「さて、何が聞こえるかな?」

 遠くからは、ふもとの国道を走る車の音が、近くで虫の鳴き声がかすかに聞こえるぐらいだった。柔らかく吹く夜風が心地いい。

「静かだろ。こう静かだと、逆に落ち着かなくなると思わんか? 人は何もないと逆に不安になる。自分以外に何かが近くにいるかもしれない。そいつは人間じゃないかもしれない。闇と静けさに、昔の人は恐怖を持ったのだ」

 草野住職は目を開けるように言った。

「さて、この寺の近くに、いかにも深そうな森があるのを知っているだろ? 初めての参加者に教えておくが、あれは鎮守の森と言ってな、神様のいる森だ。だが、樹海のように入り組んでいるせいか、地元のもんは絶対に足を踏みいたりはせん」

「俺と父ちゃんは先週、カブトムシを採りに入ったぞ」

 聡太が野次で小さな笑いが起きた。すぐに梓に叩かれて引っ込んだ。

「そこの悪童、うるさいぞ。ところで、お前達は窓木という木を見た事はあるか?」

 周りの子供達は知らないと答える。総太が「去年聞いたぞ、その話――」のところで、梓に口を塞がれた。

「窓木というのは、幹の部分が二つに分岐して、円を描いて合流している形をしている木だ。その形から、神様や天狗が腰掛けると信じられてきた。そして、昔から伐採をするのは禁じられてきたのだ」

 ありそうでないような形の木を、輝馬は頭に思い描いてみた。

「ここ、鎮守の森にも窓木があるらしいが、俺は見た事ない。親父が昔見たと言っていたのは覚えている。だが、あの森に子供は言ってはならんと言われておるから確かめる術がなく、いつの間にかこうして年をとった」

 その時、涼しい風が蝋燭の炎を揺れた。この時すでに子供らのどよめきはピタリと止んでいた。代わりに、本堂の端から無数のささやきが聞こえた。何を話しているかは定かではないが、声の主は、どうやら壁に掛けられた地獄絵のようだ。生前に悪い事をした罪人を、地獄の鬼達が追いたている。今この時ほど怖い絵はないだろう。

 住職は滔々と森の話を語り始める。

 今から数百年前、江戸時代――若い樵ばかりが十二人、伐採のためにこの鎮守の森へやって来た。森の中を分け入った一行は、一本の大木の前で足を止める。幹の部分が窓のように風穴のある、珍しい大木だった。 なんと立派な木だ。伐採するにはちょうどいい。

 若い樵達は意気揚々と大木を切ろうとした。

 そこを案内役の老人が止めた。

『待ちなさい! これは窓木と言って、神木なのですじゃ。切ってはならぬ。もしも切れば、そなた達にきっと災いが降りかかる』

 老人は、彼らに何とか木を切らないように説得しようとした。

 しかし、樵達は迷信と一笑に伏した。老人の忠告を無視して、結局、彼らは窓木を切り倒してしまう。

 作業が終わる頃には夕日はすっかり落ちてしまっていた。森を出ようとした一行は、ある一軒の空き家を見つけた。

『森を出るには時間がかかるし、夜の森を歩くのは危険だ。今夜はここで泊まろう』

 頭領の提案で樵達は空き家で休んだ。

 その夜、樵の中で一番年の若い少年が目を覚ました。誰かの気配を感じたのだ。

 少年は思わず息を殺した。闇の中で、大人の樵達が寝ている場所に、一人の女が立っていたのである。女は寝ている男達の顔に近づき、次々と口と口を合わせている。すると、男達の手足がバタバタと痙攣した。

 少年は怖くなった。何か分からないが、恐ろしい事が起きていると。女が自分の布団にやって来た時、もう駄目だと諦めた時、雌鶏の鳴き声が聞こえた。

 周りが明るくなり、少年が恐る恐る布団から抜け出ると、樵達は一人残らず死んでいた。舌を抜かれていたのだ。皆、口の中を血で溢れさせていたそうな。

 少年は鎮守の森から逃げ出した。森を出たか、生き倒れになったかは定かではない。いずれにせよ、その女は逃げた子供を探し、今もあの森の中をさまよっているという。

 それ以来、子供があの森で女に出会ったら、生きながらにして舌を抜き取られただろう。

 住職の話が終わってから気がついたのだが、里桜が腕にしがみついていた。

「俺の親父から聞いた話だ。その親父も三年前に死んだ。鎮守の森に子供を入れてはならん。今際の床で何度もそう言ったものだ」

「わしが何と言ったんじゃ?」

 その時、ふすまが突然開き、三年前に死んだはずの住職の父が顔を出した。子供達が一斉に叫んだ。輝馬は何とか我慢したが、心臓が破裂する寸前だった。

「実の親を物故者扱いにしよって……罰当たりの上に親不孝者の与太郎めが。早く嫁を連れてこんかの……」  ぶつぶつ不平を漏らしながら、老人は退場した。

「さて、今宵は曇りも雨もない満月だ。夏の夜にしては涼しい。鎮守の森に冒険するにするにはうってつけだと思わんか?」

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