第五章 窓木 (1)
一
閑散とした駅を出ると、輝馬は凝り固まっていた体を伸ばした。
「けっこうな長旅だったね。一時間ぐらい走ったかな?」
「梅田からここまでならそれぐらいだね。でも、ここからも遠いよ。バスで三十分くらいかかるし、一日に二本しか走らないし」
同じく伸びをしながら、幸弥がそう説明した。
帰りも行きぐらいかかると思うと、力が抜けて倒れそうになった。電車はあまり冷房が効いていなかったので、軽いサウナの状態だった。外は外で、線路の先がぼやけて見えるぐらいの暑さであった。都会でも田舎でも蝉の鳴き声とうだる汗の量は同じである。
しばらくして、駅から美紀と里桜が遅れて出てきた。
「毎年、この駅から出てから思うんだけどさ、毎回後悔するんだよね。なんで、あたしは夏休みの真っ只中に、クーラーのきいた家や図書館、ショッピングモールをほっぽり出してまで、こんなところにいるんだろうって」
「よく言うよ。幼稚園の頃から皆勤賞のくせに」
美紀のぼやきに、幸弥は小声を漏らす。
「まあ、今回は里桜と相沢、それにあの子もいるし、少しは賑やかになっていいかな」
輝馬は駅前を見渡した。美紀の不平も間違いではない。掘立小屋と見紛う停留所と、落書きされた自販機と電話ボックスがたっているだけ。あとは田んぼと山が四方に広がっている。当然、四人をのぞいて人の姿はなかった。
「でも、たまにはこんな自然に囲まれてるのもいいかもしれない」
「福田さんのいう通りかもね」
確かに梅田の喧騒は嘘のようだ。七月末なのだから、日本中どこへ行こうと暑いのには変わらない。同じ猛暑地なら、自然の多い所だって悪くないだろう。輝馬は自分で納得しようとした。そうだ、思い切って合宿への参加を決めたのは間違いではないと。
「ところでさ、相沢――」
「何だい?」
「学校の外でも集団行動は大切だと思わない」
「うん、そうだね」
「うん、そうだねって……もう一人足りないんだけど?」
その時、五人目の参加者――愛奈が今頃になって駅から出た。
「ねえ、めっちゃ暑いんだけど、冷房のある場所はないの?」
キヨスクで買ったのか、アイスキャンディを片手に持っている。ここにいるメンバーの中で一番大人っぽい服装をしている。すなわち、一番背伸びをしているのだ。ガラガラとタイヤの音を立てながら、目の痛くなりそうな模様のキャリーケースを引いている。
「一つ質問していい?」
「どうぞ」
「あの子って、本当にあんたの妹なの?」
「一応」
あまり背も変わらない上に、どうやら愛奈が化粧しているらしい。美紀が疑うのも無理はなかった。傍から見ても兄妹とは思えないだろう。
妹を合宿に誘ったのは、急な思いつきだった。入院の頃から尾を引くわだかまりを、輝馬は何とか解決したかったのだ。
母からは快く承諾を得たが、案の定、父は烈火のごとく反対した。
「愛奈は中学受験を控えている。余計な時間の無駄をさせるな」
引きこもりの息子に対するあてつけのような言い方だが、輝馬は反論しなかった。
意外なのは、愛奈が父を説得した事だった。
「あたし行こうかな」
「え? だが、愛奈は受験が――」
「向こうではホテルで勉強しとくから大丈夫。ちょっとは息抜きしたいし」
「そうか……まあ、確かに気晴らしにはいいかもしれないな」
父は相変わらず愛奈には甘い。二人の同意をもらい、妹と仲直りする機会ができた。
期待と不安のうちに当日を迎えた輝馬を、思わぬ気苦労が待ち構えていた。
今朝、妹の支度が長引いたせいで、集合に一時間近く遅れた。さらに、買い忘れた物があると駅構内の店でブラブラ、結局、何も買わないで出て来た。電車内では、冷房が効いてないと不平から始まり、家族への文句――大半が兄に対する事ばかり――をベラベラと喋りまくった。
妹の急なひねくれぶりと比例して、美紀の怒気が静電気みたいに伝わり、幸弥と里桜がそれとなくなだめると繰り返し。連れて来た本人は、両端から押し潰されるほどの、肩身の狭い思いを味わわされた。
排気ガスを尻からまき散らせながら来たバスに乗り込んで三十分ほどの後、一行は目的地である《静貞寺》に到着した。
「金毘羅さんじゃないのに、なんでこんな階段を上らないといけないの。ああ、しんどいし、うざい。あ、そうか、人がいない理由が分かった。エレベーターもエスカレーターもないし、今時バリアフリーもないものね。だから田舎は嫌いなんだ……」
ブツブツと不満の念仏を唱える妹に、兄は耳が痛かった。少し長い石段を登り続け、大きな門の前に辿り着いた頃には、正午を大きく過ぎていた。
山門を過ぎた先の境内に、一人の僧侶が待っていた。深い髭をはやした大男だった。
「こんにちは、草野のおじさん」
幸弥が挨拶すると、大男はやはり大きな手で彼の頭を撫でた。
「おっ、遠路はるばるよく来たな、幸坊、それに美紀ちゃん。長旅は大変だっただろ?」
大男が挨拶を交わすと、二人に後ろで隠れるように固まっていた輝馬と里桜を見つけるや否や、「ほほお」とあごのひげをさすった。
「今年は新入りを三人も連れてきたな。上出来じゃないか」
本当にこの人がお寺の住職なのかと、輝馬は疑った。ザンバラの髪に無精ひげの見た目のせいか、お坊さんと言うよりも山男か、昔の山賊か泥棒にしか見えなかった。
「まあ、ここではなんだ、積もる話は本堂でしようか」
草野住職に連れられるまま、畳敷きの薄暗い本堂へ通された。大きな仏壇を奥に配し、太鼓と巨大な茶碗に似た鐘(おりんと呼ぶらしい)が置かれている。
草野住職が本尊に向かって一礼すると、五人の前にどんと座った。これから座禅でもさせられるのかと冷や汗をかいたが、住職はだらしなく足を崩した。そして、四人もくつろぐように勧めてきた。
「よく、座禅というものを精神の訓練になるとうたう者もいる。だが、あれはまあ、気休めに過ぎん。背筋を伸ばして正座するだけで心が清くなるならば、こまいガキの頃から先代にしごかれた俺が、こんな生臭坊主に育つ訳がなかろう」
美紀がクスクス笑った。里桜も我慢しているが、肩が震えているのが分かる。
「童の時は童のごとく遊べ、童のごとく語り、童のごとく考えろ。されど人になりしか人となり、童を捨てよ。まあ、つまりだ、ガキの頃はガキらしく振舞い、大人になったら多少は大人らしい身の振り方を心掛けろという教えだ。有難い感じがするだろ?」
当の住職は、まだまだ童を捨てていない様子である。輝馬は笑うのを堪えていた。住職の奥さんが運んできた麦茶を住職がカブ飲みする間、幸弥が耳打ちして教えてくれた。
「おじさんは毎年同じ事を言うけど、あれは聖書の言葉なんだ」
同じタイミングでお茶を飲みかけた輝馬は喉に詰まって込んだ。
「さてと、改めて新入りの自己紹介をお願いしようかな。ここはまず男からかな」
指名された輝馬は立ち上がった。自己紹介には慣れないものだ。
「相沢輝馬といいます。今年の四月に大阪に引っ越してきました。あるきっかけで、幸弥くんとは親友になりました。ええと、大自然に囲まれたここで過ごすサマースクールは期待で一杯です。妹も一緒に来ました」
相変わらず挨拶が下手だと思った。転校初日からまるで成長していない。
「輝馬か、いい名前だ。それに小学生にしては老練な感じがする。少し大人びている感じだね」
住職の当たらずとも遠からずな感想に冷や汗が出た。
「幸弥の親友か。いい言葉だな、親友とは。この子は父親に似て根は本当に心優しい。少々気が弱いのが玉に傷だが、心は竹林を流れる清水のごとく澄み切っている。そんな奴が認める男だ。竹を割ったように芯の通ったやつに違いない。よろしくな」
「おじさん、実は、輝馬くんはある事情で二年遅く六年生に進級したんだ。まだ慣れない事も多いんだ」
女子たちが驚きの表情を浮かべるのも無理はなかった。今回のサマースクールに参加する旨をメールで伝えた時に、輝馬が幸弥に頼んだのだ。彼は何度も「本当に言ってもいいの?」と心配したが、これからはあまり秘密にしないようにした。
「そうか。まあ、長い人生を生きるには色々な山があるものだ。それぞれ歩く速さなぞ関係ない。世の中競争と言われて久しいが、所詮、七十、八十年、長くとも百年しか生きられん人の営みにすぎん。同じは皆同じならば、未知が楽しくなければつまらん」
幸弥と竹馬の友になってくれよ、住職は最後にそう締めくくった。
「さて、女の子はどっちから言う?」
愛奈はつまらなさそうに里桜に振った。
「ええと、瀬川くんと同じ班の、福田里桜と言います。都会にはない自然に触れてみたと思い、参加しました」
「そうか。ここは川の水もきれいだ。山も自然に溢れている。その反動のせいか、娯楽は少ない。里桜ちゃんは、ゲームは好きか?」
「いえ、あまりした事は……」
「それはよかった。この町にはゲームセンターが一軒しかない。おまけに、四十年前に入荷したテトリスとインベーダーが未だに新作扱いになっているぐらいだ」
里桜が安心して座ると、次は愛奈の番だった。愛奈はわざとらしくため息を漏らした。
「相沢愛奈です。今日は兄に無理やり参加させられました。正直、不満で一杯です。早く家に帰りたいと思ってます。紹介を終わります」
「コラ、愛奈……」と注意する輝馬を無視するように、愛奈は座った。
「そうか、無理やり来ちゃったか。だけど、ここはここで楽しい事がたくさんがある。ないなら自分で見つける。時間は戻らないから今を楽しむのが一番だ。おや、もうすぐ三時か。もうそろそろ、悪童達が来る頃合いだ」
悪童達? 幸弥に耳打ちして聞こうとしたその時、廊下をドタドタ走る音に次いで、大声で「暇つぶしに来てやったぞ、生臭坊主!」と高い声が響き渡った。
本堂に入って来たのは、幼稚園から小学低学年の一団だった。一斉に本堂に駆け上がり、元気よく走りまわる。
「こらこら、小僧ども、落ち着け! 総太がいないか?」
同じぐらいの年齢の少年が「オレならここにいるぞ」と走り出してきた。シャツと半ズボン、片手に虫籠と網を携え、麦わら帽子を被った少年だった。
今時、こんな姿の同年代に会えるとは思わなかった。丸顔で眉毛が太く、浅黒い肌をしている。いかにもやんちゃ坊主といった感じだ。彼の後ろから女の子が一人いる。少年とは正反対に落ち着いた雰囲気を醸し出す。
「今年は新顔がいるから自己紹介を頼む」
住職に言われて、先頭の少年が甲高い声で言った。
「大村総太って言います。幸坊と美紀とは小さい頃から知ってる仲だ。よろしくな」
手を伸ばしてくる総太と握手すると、強い握力に輝馬は「いててて」と悶絶した。
妹が「だせえ」と冷めた声を寄せる。
「どうだ、おれは強いだろ?」と自慢する総太の頭を女の子がポカリと叩いた。
「総太を許してあげて下さい」
深く頭を下げる女の子の名前は、橋本梓といい、総太とは幼馴染だという。
「さて、皆はこの三日間、楽しく遊んで楽しく学ぶようにしてくれ。じゃあ、大人は退散するぞ」
二
地元の子供達に連れられ、輝馬達は寺の麓を流れる河原へ向かった。山から流れる浅瀬は、夏なのに凍えるほどに冷たかった。澄み切った川底には、苔の生えた石ころや小魚の群れが鮮明に映えていた。
「それにしても、男の親友同士って水臭いよね。私らに一言もカミングアウトするって言わないなんて」
「ごめん言うのを忘れてた」
「まあ、相沢がそうしてスッキリするんならいいけど。ねえ、里桜」
「うん」
自分の住んでいるマンションの近くにも川はあったが、ここまで鮮やかではないだろう。輝馬は耳をすませると、石や水草、そして川が織りなす八百万の声が聞こえてくる。小さなささやきと明るい笑いが幾重にも重なり、周りの世界を語り出す。
(人の子がたくさんがいる。みんな、元気があっていいな)
(わたしたちも遊びたい。あの子らのように走りたい)
(私は苔のついた石だ。私を踏んで、足を滑らさんようにな)
夏休み前まで家に引きこもっていたせいかもしれない。自然の声に耳を傾けるのに夢中になっていた輝馬は、川底の苔に足を滑らせてしまった。川にダイブする羽目になり、全身ずぶ濡れになった。
「大丈夫、相沢くん」
里桜は駆け寄ると、ハンカチを貸してくれた。彼女は普段おとなしいが、班の中では一番面倒見がよかった。
「ありがとう、福田さん」
「どういたしまして。でも、こんなに冷たい川があるなんて、わたしも知らなかった」
「うん。実感してるよ」
おかげで服はびしょぬれの状態だった。着替えを取りに戻った方がいいかもしれない。それに一人で残っている愛奈も気になる。
輝馬は三人に着替えを取りに戻ると伝えると、濡れた服を脱いだまま寺に戻った。午後の日差しに照らされながら、長い階段を上がりきる頃にはすっかり乾いていた。部屋の中へ戻ると、愛奈は机に向かって本を読んでいた。
「愛奈は遊びに行かないの?」
「わたしはいい。勉強してる方が楽しいから」
だが、妹が呼んでいるのは少女漫画だった。
「参考書には見えないけどな」
「うるさいな。今は休憩中なの」
「はいはい。頑張れ、頑張れ。兄は悠長に遊んでくるから、勉強頑張りなよ」
少し意地悪く言ったかもしれないと後悔した。
「輝兄もこんなところまでお人形を持ってきたんだよね」
愛奈は輝馬のリュックを開けて、月子人形を出してみせた。家に置いておくのも気になるので持って来てしまったが、やはり見抜かれていた。
「別にいいだろ。きれいな人形だから粗末にするなよ」
(ありがとう)と月子の声が言った。
「ねえ、輝兄は受験どうするの?」
「どうしたんだよ、いきなり」
「いいから答えて。受けるの、それとも止めるの?」
「考え中」
「答えになってない」
どうして、いきなりそんな事を聞いてくるのだろうか?
「わたし、受験止めようと思ってる。お父さんに言ったら、きっと怒るよね」
「たぶん。でもいいじゃないの。愛奈が自分で決めたならさ」
「輝兄はどうするの。受験は諦めたの?」
「それを聞いたら納得するなら答えるよ。中学受験はしない。中学に上がれば最初から学ぶから、高校受験まで雌伏しとく」
「でも、パパが――」
「お父さんは関係ない。親だから感謝はしてるけど、自分の人生は自分で決める。僕はもうそれぐらいに考えないといけない時期に来てる気がする」
「輝兄変ったね」
「変わってないよ。むしろ、元に戻ろうとしてる。軌道修正してるんだ。愛奈も自分の進路は、最後は自分で決めるんだよ。時間は元にも戻らない」
「そうだよね。お兄ちゃんの眠っていた時間は後戻りしないし、パパとママも戻らない。あの家で過ごした時間はもう戻らない」
「そうじゃないと思う」輝馬は考えながら言葉を続けた。「今もまだ一緒にいる。一緒にいたと思っていれば、またきっと家族は戻れる」
「ああうるさいな。外の綺麗な空気でも吸ってこよ」
わざとらしく手で払いながら、愛奈は立ち上がると部屋を出て行った。
(輝馬くん)
リュックから顔を出す月子人形。愛奈の仕業か、黒い髪に髪留めがしてあった。
(妹さんが私に話しかけてきたの。あなたやご両親の事で)
「なんて言ってたの?」
(教えられない)
「なんでさ?」
そこが肝心なところだというのに。
(あなたが想像しなくなるから)
「月子さんが何を言ってるのか、さっぱり分かんないよ」
(私が答えを教えたら、あなたはすぐにそれにすがる。自分で推し量るのを止めてしまうでしょう。特に、あの子の想いは又聞きで知っていいはずがないの。それに……)
「それに……何?」
(彼女に念を押されたの。さっき言ったのは内緒だよって)
「そうですか」
輝馬は力が抜けたように床に座り込んだ。愛奈はまだ戻って来ない。「よし」と彼は体を越すと、月子の入ったリュックを持ち上げた。
「ずっと部屋に閉じ籠っていてもつまらないよ」
リュックを背負ったまま、輝馬は川へ戻った。幸弥達と合流すると、美紀が面白い物を発見したように目を輝かした。
「何も気にしなくてもいいから」
「いやいや気にするって。相沢、リュックから出てるそれは一体何?」
「うちの居候。家に残したままだと、気の毒だから連れて来た」
腹を抱えて払う美紀を気にせずに、輝馬は浅瀬に入っていく。
次に総太の目を引いた。
「お前、なんだそりゃあ?」
「おじいちゃんの形見。肌に放さず持ってろって言われたんだ」
嘘だ。輝馬の祖父母はどちらも健在である。
(妹さんはともかく、私まで連れて来たのはどうして?)
「気分転換にいいと思ったから」
(馬鹿みたい。私は人形なのよ。水の冷たさは感じないし、それで心がきれいになる訳でもない。人に似せた人形だもの)
「思い込みだよ。月子さんは人間のままだ。人間だったら心が勝手についてくる」
(心はナギニが持って行ったわ)
「この間、月子さん言ったよね? 幸弥と一緒に行ってあげたらって。僕は嬉しかったんだ。もうちょっと勇気があれば、あの時電話していたかもしれない」
(言わなきゃよかった)
「もう遅いよ」




