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第四章 となりの声 (1)


      一


 薄暗い部屋の中で、輝馬は浅いまどろみから目を覚ました。そして、壁にかかるカレンダーを何の気なしに一瞥した。

 七月二十四日。今日は一学期の終業式のはずだ。

 枕元に置かれた時計は、十一時ちょうどを差している。蒸し風呂と化した体育館での終業式が終わって、通信簿の配布も済んでから、「夏休みを元気に過ごしましょう。クーラーを点けっぱなしの部屋にこもっていたら駄目ですよ」と鈴村先生が挨拶をしている頃だろう。

 部屋は窓を全開にしているにもかかわらず、外とあまり変わらない蒸し暑さだった。

 輝馬は一度部屋から出ようとした時、ドアの下に一枚の紙が挟まっているのを見つけ、それを拾い上げた。父の書置きだった。


『今日から夏休みだが、まだ手遅れじゃない。いい加減に引きこもってないで部屋から出ろ。さもないと、ずっと人生の負け犬のままだぞ。世間はお前が思っているほど甘くもないし、お前のために止まっていてはくれない』


 最後まで読む前に書置きを丸めると、輝馬は台所のクズ入れに向けて投げた。惜しくも縁に当たってしまい、床に落ちたが構わず無視しようとすると、(私は用済みならゴミ箱に入れなさい)と堅苦しい八百万の声が耳に入る。輝馬はため息しつつ、紙くずを入れた。

 父は相変わらず何も分かろうとしないのに、要求ばかり押し付けてくる。正直、ウンザリで仕方がなかった。昨夜など、父はドアを蹴破って部屋から引っ張り出そうとしたほど怒鳴った。いっその事、自分なんか見限ってほしい。ほっといてほしかった。

 輝馬は洗面所に向かった。冷や水で顔を叩くうち、熱で干上がっていた頭の中が鮮明になっていく。

 数日前、実と舞子によって、自分の秘密を暴露された。もっと後に、実をそそのかしたのは記者の石川だと分かった。実からのメールの経緯からして、記者Iはあいつしかいない。

 たかが、二年分の学年が遅れただけだが、物笑いの種には十分だったに違いない。怒りに任せて、張本人の実の秘密を皆の前で話してやったので、喧嘩両成敗だろう。秘密を公然にすれば皆に溶け込めるとか持論を言っていた割に、自分の事をばらされた途端、彼は怒り狂った。要は、自分のルールには自分は無関係だったわけだ。


 本当の問題は、騒動の後に待っていた。

 二組の授業だけ二時間目まで中断する羽目になり、鈴村先生は緊急のホームルームを開いて、事の発端を聞き出そうとした。実が輝馬の秘密を暴露した件に進むと、話の内容と勝手に切り上げてしまった。先生の下した結論は、輝馬にとっては納得のいかない、最悪なものであった。

「長谷川くんに悪気はなかったのね。そうか……相沢くんんに皆の輪に入ってきてほしかったのね。むしろ、それを嘘で仕返しした相沢くんも褒められたものじゃないわよ」

「嘘じゃありません」

 その時、輝馬は反論したが、確固たる証拠もない主張が通るはずもない。

「相沢くん以外に、長谷川くんがカンニングを見た人はいる? 彼が消しゴムを盗んだのを目撃した人はいますか?」

 鈴村先生は皆に向かって聞いたが、当の机が証言してくれるはずもなかった。

「ほら、誰もいないじゃないの」

(面倒くさい子……虚言癖まであるみたい)

 言霊はいつも本音を教えてくれる。

 鈴村先生の裁量には、騒動の話題をできるだけ早く終わらせたがっているのが分かった。おかしな程に真逆の感想を放つ言霊が聞こえたならば尚更である。

「先生も間違っていたわ。相沢くんの件を、転校の初日から皆に話しておけばよかったと、今は反省してるわ。人にはプライバシーというのがあるのよ、長谷川くん」

「はい、本当に反省してます。ごめんなさい」

 実はわざとらしい低い声でしおらしく謝ったが、輝馬の方を見ようとはしなかった。

(どうして、僕が謝らなくちゃいけないんだよ、ヘボ教師め)

 ホントに言霊は正直だった。

「相沢くんも転校してきて、まだ一ヶ月ちょっとだから、皆の輪に入るのが恥ずかしかっただけなの。無理強いするのは良くないわ。――なんでしょうか、岡野さん?」

 舞子が挙手したのだ。

「私達は相沢くんに、できるだけ早くクラスになじめるように頑張ってきました。だから、こんな事が起こって、正直ショックです」

「何もやってないけど?」

 美紀が小声で皮肉をささやいた。隣の里桜はとっくに泣き止んでいる。騒動の際に頭を打った幸弥は、保健室に運ばれたので空席のままだった。

 うんうんと頷きながら、鈴村先生は舞子に着席を促した。

「相沢くん。このクラスには誰かをいじめようとする人なんて一人もいないの。瀬川くんの時も何か行き違いがあっただけなのよ」

 行き違いなんかで、一日もいなくなったり、その父親が怒ってきたりするものか? いじめではなかったのならば、あの時に面と向かって言えばよかったのだ。

「残念だけど、相沢くんの事情はもう秘密ではなくなっちゃったけど、先生はこれでよかったと思うわよ。だって、秘密を背負い込むのって結構大変なのよ。先生も子供の頃に、悪い事をして親や先生に黙っていた時があるの。あの時もとても辛かったわ。でもね、秘密を押し通すのに意固地になり過ぎるとね、ますます自分の殻に閉じこもるの。時にはそれを自分からこじ開けて、皆に打ち明けるのも大事なのよ」

 鈴村先生の悪い印象は転校してきたときから全く変わっていない。進歩がない。友達に話すような馴れ馴れしさを、語調の端々からにじみ出る。なのに、熱意は不思議なほどに感じない。あるのは無味乾燥な自分語りだけだと、輝馬は冷めた気分で聞いていた。

 できる事なら耳を塞いでいたかった。まるで、事故で昏睡したしたせいで中学生のはずが学年下の六年生になるのは悪い事のようだ。それを恥ずかしく思うか、当然と胸を張るかは、本人の自由のはずだ。明かしたくもない秘密をそのままにするのが殻に閉じこもる事になるのか、まったく理解できない。

(早く授業を始めないと、時間が押して来ているのよね)

 先生の言霊が流れた時、輝馬はランドセルに荷物を入れ始めた。

「相沢くん?」

「秘密をバラされて、僕はすごくショックを受けました。だから、早退します」

 先生が止める言葉も聞かず、輝馬はランドセルを背負って教室を出て行ったのは、一週間までの十一時頃……ちょうど今ぐらいの時間だった。


 風鈴の涼しげな音を聞きながら、輝馬は冷たいお茶を飲み干した。

 帰宅した父に事情を話すと当然ながら激怒して、担任を変えろ、クラスを変えろと電話口で怒鳴り散らした。だが、最後の矛先は輝馬に向いた。

「お前も悪い。俺はよせばいいと言ったんだよ。瀬川とかいう子を助けたから、いじめをしてる連中から目をつけられた。それがこのザマだ」

 とにかく、明日は学校へ行け。父はそう締めくくった。

 翌日、輝馬が部屋を出る事はなかった。代わりに部屋に閉じこもるようになったのだ。世に言う引きこもりになったのである。


       二


 呼び鈴が鳴った。面倒なので最初は居留守を使おうと思った。だが、訪問者は立て続けに鳴らしてくる上に、呼び鈴の八百万が甲高く叫んでくる。

(早く出てあげなさい! 客人を待たせるのは失礼だぞ!)

「うるさいなあ……居留守したいんだよ」

(居留守をしたいならば、なぜ、私はドアの横に付いている。私は決して飾りではないぞ!)

 輝馬は舌打ちしながら仕方なく玄関に向かって、ドアの魚眼から訪問者を確かめた。丸みのある黒い髪に大人しそうな幼い顔。開けるべきか迷った末にノブを回した。

「何か用?」

「何か用じゃないよ。今日から夏休みだよ」

 呆れる顔を浮かべる幸弥が、通信簿を突き付けた。相沢輝馬と名前がある。

「持って来てくれたの?」

「中身は見てないからね」

 幸弥の後ろには美紀もいて、「よお、サボリ魔」と声をかける。隣には里桜もいた。魚眼越しで派両サイドのふたりは見えなかった。やっぱり、開けるべきではなかった。

「班のメンバーが揃ってどうしたんだよ? まさか、先生に頼まれて説得しに来たとか」

「馬鹿じゃないの。学校行きたくないなら行かなかったらいいじゃん」

 美紀は腕を組みながら強く言った。言霊は聞こえないので心からの本音だろう。

「はっきり言って、あの時のあんたは、ただ逃げたようにしか見えなった。男としては0点。長谷川を煽ってキレさせたのは、百点だったのにさ」

「じゃあ、もっと、鈴村に正論を吐けばよかった?」

「無理だったと思う」

 里桜が遠慮がちに言った。

「あの先生、クラスの問題をすぐに解決したがるの。瀬川くんとは別のいじめがあっても、お互いに握手させて仲直りさせたと思ったら、それっきり。いじめは続いたままなのに」

「鈴村は五年の頃からそうだった」

「今回だってそう。相沢くんを一方的に悪い扱いにした」

「でもさ、相沢はそれで悔しくなかったわけ?」

「悔しいよ。親も信じてくれなかったし。だから、こうして引きこもってる」

「そう言うのを逃げるっていうんだよね」

「美紀、言い過ぎだよ」

 里桜が慌てて諌めるが、美紀に悪びれた様子はない。

「あたしははっきり言う方だから」

「一宮さんの考えが正しいよ」

「あのね、相沢くん……」

 幸弥は恥ずかしそうにもじもじしながら、やがて言った。

「七月末の三日間、僕は父の知り合いの御寺まで合宿に行くんだ。毎年の恒例行事なんだけど、輝馬くんも誘おうと思って」

「僕を?」

「うん」

「別に行かなくてもいいけど」

 真横で美紀が言い、また里桜が止めた。お笑いコンビみたいに息が合っている。

「夏休みの宿題も向こうでできるよ。私達も一緒に行くの」

 里桜は、セミロングにメガネをかけた、大人しい子だった。成績は体育を除けば、上位に近い。しかし口数が少ない分、正反対の美紀と一緒にいる事が多い。

「幸弥が一人だと肩身が狭そうだから、一緒に来てあげたら?」と美紀。

「考えとく。とりあえず、今晩メールするよ」

 ドアを閉めかけるのを、幸弥が止めた。

「合宿に来られなくても、絶対に遊びに行くからね」

 真剣な眼差しから逃げるように、「ありがとう」とだけ答えて、輝馬は扉を閉めた。

 重い響きが逆に後ろめたい思いを抱かせる。

(また友達が来てたの?)

 自分の部屋に戻ると、隅に置かれた月子人形が言った。

「うん。通信簿を持ってきた」

(いい子達じゃない。合宿に行ってあげたら?)

 余計なお世話だった。今は外に出て行く気分にはなれない。何もかもが無気力で体がだるいし、頭も馬鹿になったみたいに働かない。今も月の体でどこかにいるであろう、ナギニに関する調査も完全に頓挫した。《八百堂》の面々も手掛かりは得ていないし、妙な事に壱与野家ともあの日から連絡がつかない。また西宮まで行くのも面倒だったし、あの夜の父との口論を思い出してしまうのも嫌だった。

「やめとく」

(じゃあ、今から追いかけて返事をしてあげたら、どう?)

「そんなに早くノーって言ったら、幸弥達に悪い」

(そうかな?)

「月子さんは違うんだね」

(声が聞こえていたけど、あの子達はあなたが参加してくれると信じているみたい。その気もないのに、期待を持たせる方が一番酷だと思う)

「どっちも同じだと思うけどな」

(こちら側の心の持ち方の問題なの。心から嫌だと思うなら面と向かった方が、相手のためになるし、自分のためにもなる。人を好きになるのと同じぐらい、人を嫌うのにも勇気がいるんだよ)

「幸弥たちは別に嫌いじゃないよ」

(じゃあ、今すぐ返事をしてあげたら?)

「それは無理」

(なぜ、意固地になるの?)

「人に関わるのが怖くなったから」

 月子は押し黙った。返す言葉もないらしい。

 今の自分は彼女と同じか、それ以下だった。輝馬は開け放たれた窓から顔を出した。マンションの下には、先ほどの三人の後姿があった。あの中にはもう戻れない。なんとなくそんな気がして、輝馬は泣きそうになった。

(早まらんでくれ、少年)

 老いた男の声がした。下からでも上からでも横からでもない。全方向から聞こえるような感じだった。何の八百万だろうか?

「誰?」

(私はこのマンションだ。君の噂は風を通して知っている)

 マンションの主か。建物にまで八百万が宿っているのは知っていたが、今まで自分の住む場所を意識した事はなかった。

(もしや、君はそこから飛び降りる気じゃないだろうね?)

「そうだったらどうなの?」

(願わくば、思い留まってほしい)

「ここのマンションは優しいんだね」

 ところが、マンションの主の言い分は少し違った。

(君がここから飛び降りると、地価が下がってしまうのだ。つまり、私の価値が落ちてしまう。私の大事な一室を、曰くつきの訳あり物件にはしたくない)

「心配しなくても自殺なんかしない」

 輝馬は壁にもたれた。窓から吹きかける風が顔を叩いた。

無駄だとは思いつつも、夏休みの宿題でもやってみようと思って、輝馬が机に向かいかけた時だった。壁の向こうから、小さな子供の声が聞こえた。

「パパとママ、いつ帰って来るの?」

 女の子の声だった。誰かと話しているみたいだ。

「あいつらが帰ってくるもんか。おれ達は捨てられたんだ」

「きっと帰って来るよ」

 ベランダで聞いた時と同じ子供達に違いない。輝馬は壁に耳をすませた。

 確か、隣は《鏑木》という表札だった。ここへ引っ越してからは、ほとんど会った事のない隣人である。鏑木さんは若い夫婦だと父が言っていたが、どうやら、幼い子供いるみたいだ。しかし、なんだか様子がおかしい。

「おなかすいた……」

 女の子の声はなんだが弱々しかった。

「おれが何とかする。だから、少し寝てろ」

「うん」

 女の子は素直に応じて、しばらく静かになった。

「さてと――さっきから聞き耳を立てているお前!」

 輝馬は小さく叫んだ。後ろに転んだ拍子に、強かに頭を床に打った。

「お隣さん、他人の話を盗み聞きするのは、あまり感心はしないな」

 利発そうな少年の声が、壁一枚を隔てても鋭く突き刺さる。

「ごめんなさい」

 相手が目の前にいるかのように、輝馬は土下座をして謝った。

「どこから聞いていた?」

「パパとパパがいつ帰って来る、からです」

「初めから聞いていたな。これが初めてじゃないだろ。お前の親父に言ってやる」

「そんな! それだけは勘弁して、お願い」

「許してほしいか?」

「はい。反省してます」

「じゃあ、おれ達の部屋に食べ物を差し入れろ」

「食べ物?」

「そうだ。リサはプリンが好きだ。おれはバナナが好きだ

 輝馬は急いで冷蔵庫の中を調べたが、生憎、どちらもなかった。

「じゃあ、買ってこい」

 輝馬の弁明に、声の主はやはりこう返した。

「もしも、嫌だと言ったら?」

 クックック、と押し殺した低い笑いを漏らしながら、少年の声は告げた。

「ドンドン、相沢さん、おたくの引きこもりの息子さんがね、退屈しのぎに人の家の会話を盗み聞きしてるみたなんですよ、耳に壁をつけて、録音までしてますよ、きっと。おれ達の生活音を舐め回すように聞いているんですよ。これはプライバシーの侵害だ!――というのはどうだい」

 もはや選択の余地はなかった。輝馬は深いため息を吐いた。

「分かった。買ってくるよ」

 クスッと月子は小さく笑った。

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