第一章 冬の熊 (1)
注意:クリスマス・イブのこんな時間帯に投稿したのは適当でも設定の間違いでもありません。
坂道の続く住宅街を抜けると、この街の中では数少ない公園がある。
公園と言っても、ブランコ、滑り台、砂場ぐらいの遊び場しかなく、あとは幅の広いベンチがポツンとあるだけだった。
夕焼けの園内で、二人の少年が遊んでいた。彼らの他には誰もいない。まるで時間が止まったかのような、静かで健全な世界に戯れていた。
静かな時はいつかは終わる。公園の時計が重苦しい鐘の音を響かせると、少年の一人が慌てた。
「ごめんなさい。ぼく、もう行かないと……」
戸惑う親友に背を向けて走り出した。
公園から出て、左右を確認する事なく道路に駈け出した。
「あぶない!」
自分を呼び止める彼の声が、はっきりそう聞こえた。
公園の出口から続く道路には、あまり自動車は通らない。一応、『止まれ』の標識があるので安全であった。
いつもなら安全なはずだった。
道路の真ん中あたりまで来た時、真横から耳をけたたましいクラクションが突き刺した。直後、タイヤの軋む音が頭の中に響いた。
大きな衝撃が襲ったのを最後に、黄昏の時間は終わりを告げた。
一
ふと――誰かが自分を呼んだ気がした。
まるで縫い合わしたように固く閉じられた瞼、そのうちの片目をゆっくりと上げ、続けてもう片方を開けると、相沢輝馬は正面を見た。この時初めて、自分が寝ている態勢なのに気がついた。
ぼやける視界が鮮明になる。薄暗い天井が映った。途端、言い知れぬ不安が襲った。何かがおかしかった。その正体がなんだか分からず、輝馬は焦りを抱いた。
頭を動かそうとすると首がやけに痛かった。背中もだるい感じがする。両親からは寝相が悪いとよく注意されていたから、また寝違えたのだろうと最初は思った。
寝返りを打とうとしたが、体が恐ろしいほど硬くて身動きが取れなかった。わずかに移動させただけなのに、全身の骨が軋んだように痛んで、声にもならない呻きを漏らす。喉が焼けつくほどの渇きを感じた。
どうしても体が動かない。そう、これは金縛りだ。生まれて初めての体験に、幼い輝馬は戦慄した。とにかく逃げたかった。首だけでも無理して動かそうと、全神経を集中させる。骨がパキパキと鳴りながら、頭を向かって右に転ばした。
――あれ?
向かって右の壁に窓があった。窓は左側にあったはずなのに……。あまりに寝相が悪くて、枕元と足側を逆転させてしまったのだろうか?
輝馬は闇に慣れるとすぐに、また妙な事に気づいた。
ベッドの周りがカーテンで仕切られていた。色落ちした薄いカーテンのそばには見慣れない機械が置かれていた。勉強机と本棚はどこにも見当たらない。
机の上にはランドセルと、やりかけた学校の宿題があったはず。塾から帰ったら、片づけてしまわないと。
輝馬は急に思い出した。
……そうだ、塾だ。僕は塾に行こうとしていた。家をから出て、いつもの道を通り、それで、公園の前に差しかかり……ダメだ。そこから先は思い出せない。
もう一度体を起こそうと試みた。全身を締め上げるかのような激痛に、今度はかすれた声を漏らした。結局、輝馬はベッドの上に戻る羽目となった。
少し時間が過ぎた。一時間ぐらいだろうか。指先がわずかに動かせるようになった。一本一本の指を運動するように曲げる。ラジオ体操のリズムできほぐすと、次は手首が自由になった。上下左右からグルグルと回す。いいぞ、順調だ。
そして、手で毛布を払いのけると、体の上を這うようにして顔へ持っていく。鼻から伸びている細いチューブに触れた。
……何だ、これは?
チューブはベッドのわきにある、例の機械とつながっていた。緑色の波線の数字が表示され、ピッ……ピッ……ピッと小さな音が小刻みに鳴り続けている。
テレビドラマか何かでこれと似た物を見た事があった。病院で人が死ぬと波線が平らになってピーと音を鳴らす。父に聞いたら、あれは心電図モニターと言って、人の心臓が動いているかを教えてくれる機械らしい。
心電図モニターから赤、緑、黄色と何本もの電極線が伸びており、それらの先が体に貼りついている。輝馬は手を薄い寝巻に差し入れると、左胸の辺りについている一本を引っ張った。黄色の電極線が抜けた途端、モニターの波形が平らになり、やがて等間隔の音が一定に変わる。
――御臨終です。
ドラマの中で医者がそう言っていたのを思い出す。
こんな機械があって、自分はベッドに寝かされているという事は、ここは病院だろうか。じゃあ、どうして自分は病院にいるのだろうか? 怪我か病気にかかった? そんなはずはない。まったく記憶がないのだ。そうだ、塾に行こうとして、それから……。
遠くから足音が聞こえた。徐々に近づいてくる。やがて扉が引かれる低い音が響いて、カーテンの向こうが明るくなり、影法師が浮かんだ。影法師が手を伸ばして、カーテンを引いてその姿を現した。
それは一人の女性で、輝馬が想像していた通り、看護師の格好をしている。手に持つ懐中電灯の光りがこちらを照らす。目を潰すほどの眩しさに輝馬が瞬きすると、「え?」と彼女は驚きの声を上げた。
「ああ……そんな、信じられない。こんな事ってあるの」
彼女は懐中電灯を消すと、ゆっくりと近づいてきた。若い顔には困惑が浮かべている。胸元の名札には、『山瀬薫』とある。
「ダメ。落ちつかないと。落ちつけ、私」
薫は自分自身に言い聞かせた。かなり驚いているみたいで、まるで自分が悪い事をしているような気がした。
「ええと、あなたのお名前は分かる?」
薫という名の看護婦が聞いてきた。かわいらしい声だった。輝馬はゆっくりと頷く。
「どこも痛くない?」
首を振る。かすれて声が出ない。喉が渇いたせいだろうと思い、輝馬は手を喉につけた。喉が渇いた仕草をしようとしたのだ。
「喉が渇いたのね。ちょっと待ってね」
薫は病室を急いで出て行く。パタパタと廊下を走る音が響く。
戻って来た彼女に体を起こしてもらい、初めて自分のいる部屋の様子が分かった。大きな医療器具が両脇を挟んだベッド。向かって右側の窓はカーテンがかかっている。ベッドの枕元には、千羽鶴がぶら下がり、別の棚にはおもちゃがたくさん飾られている。部屋の隅には、なぜか、クリスマスツリーが置かれていた。
今は四月のはずなのに。そうだ、今は新学期が始まったばかりだ。今年から小学二年生になった。そう、今年からまた同じ一年が始まる。
――同じ退屈な一年が……。
薫は持ってきたパックのジュースにストローを突き刺して、優しい手つきで輝馬の口元へ運んだ。
「ゆっくりと飲んで」
冷たい果汁がカラカラに渇いた口内を潤していく。何度かせき込みながらも、一気に飲み干してしまった。
「言葉は話せる、輝馬くん?」
「うん」
やっと声が出たが、何かがおかしい。それが何かはまだはっきりしない。
「いつ目が覚めたの?」
「今さっき」
「本当に奇跡だわ。先生に報告しないと。ええと、どの先生だったっけ? 主任の方がいいかな? それとも親御さんに……うん、そうよね、まずご家族に報告を」
ブツブツつぶやきながら、部屋の外に出ようとして戻って来た。
「待って、看護師さん」と呼びとめる。「ここは病院なの? ぼくはどうして……」
「あなたはずっと眠っていたの。もう大丈夫よだから今は安静にして。すぐに先生を呼ぶからね」
そう言い残して、薫はまた廊下に消えた。なんだかせわしない看護師さんだな。
――一時間ぐらい経っただろうか。また永遠に一人ぼっちにされたと不安になりかけた頃になって、やっと廊下の足音が聞こえてきた。
ドアが開いて、薫が別の医者を連れて戻って来た。父よりも少し年上で、白い毛が少し交じった髪に、白い縁の眼鏡をかけている。
「おはよう、輝馬君。気分はどうだい?」
薫とは違い、医者は冷静にそう言った。
「分かりません」
「そうか。僕は、君のお医者さんで深谷というんだ。これから色々と診察するけどよろしくね」
深谷医師が聴診器で診察する間、少しだけ話を交えた。
「ここはどこですか?」
「ここは、病院の小児科の病棟だよ。君の住む家から少し遠いかな」
「僕はどうして病院に?」
「事故に遭った。公園で遊んでいて、道路を渡ろうとして車に轢かれて。何か覚えていないかい?」
「はい」
「そうか。君はそのせいで長い間眠っていたんだよ。おかげで怪我はすっかり治った。特に後遺症、あとで出てくる病気とかは特にないようだ」
深谷医師が言葉を選びながら説明する。ただ、一つの言葉が頭の中で引っかかった。
「あの、先生、ぼくはどのくらい寝てたんですか?」
「あとで教えるよ。今の君はとても疲れているはずだ」
「また眠るの?」
「心配しなくても、ちゃんと朝には起きられる。君は帰って来たんだ。念のために、僕らがモーニングサービスで起こしてあげよう」
薫は毛布をかけてくれたが、輝馬は不安で仕方なかった。意識は今までにないほど冴えわたっていた。
「さあ、もう一度眠って。そしたら朝だから」
薫の子守り声を聞きながら、輝馬はゆっくりと目をつぶろうとした。全然眠くはなかった。目は視界に入るすべてを映したがり、鼻は部屋の中を漂うほのかな薬品の臭いを拾おうとし、部屋中の空気を吸い尽くすくらい酸素を欲した。
外から音楽が聞こえてくる。クリスマスソングのようだ。部屋の隅に置かれたクリスマスツリーはそのためだったのか。
今は十二月……。サンタ(たぶんパパだと思う)には何をお願いしようかな。そうだ、新しいゲームにしよう。そう思いながら、輝馬は心を躍らせていると、部屋の中で見当たらない物が何なのか分かった。
たぶん、それはカレンダーだろう。病室のどこにも見つからないのだ。
二
輝馬は目を開けた。いつの間にか眠ってしまっていたようだ。
体の痛みはさっきよりは感じなくなった。ゆっくり体を起こすと、椅子に座っている少女と目が合った。知らない子だった。椅子倒す勢いで後ろへ下がった。相当驚いたらしく、目を丸くしたまま固まったまま立ちすくんでいる。
自分より少し年上で高学年ぐらいか。幾何学模様のブローチを髪に止めていた。
「こんにちは。ええと、君は誰なの?」
輝馬がそう聞くと、少女は答える事なく病室から出ていく。廊下から大声が響いた。
「パパ、ママ! お兄ちゃんがホントに目を覚ましたよ!」
お兄ちゃん……? 確かに女の子はそう言った。聞き違いではなくはっきりとそう言った。いや、そんなのおかしい。そんなはずはない。輝馬の記憶の中では、一つ違いの妹、愛奈は今年から小学生に上がったばかりのはずだから。
開いたままの戸口から二人の男女が慌ただしく入って来た。先程の少女が後ろから不安げな顔でうかがっている。二人は信じられないというような感じでこちらを見つめてくる。輝馬は考える余裕を失った。女の子同様、彼らも誰かに似ていた。
「本当に輝馬なのね」
女の人が駆け寄ると、彼を抱きしめた。突然の出来事に言葉が出ない。男の人も近づいて、おもむろに頭をなでてきた。
「よかった。病院から電話があった時は、夢かと思ったよ」
――この人達がぼくのパパとママ……。
何かがおかしかった。それが言葉にならない。頭では気づいているのに、あまりにも突拍子がなくて受け入れられないでいた。
深谷医師が遅れて入室する。
「今までよく頑張りましたね」
「いえ、先生の治療のおかげです」
「私は何もしていませんよ。輝馬君の力の賜物です。私も二十年医者をしていますが、彼のケースは初めてです。奇跡、そう呼んでも支障はないでしょう」
感激する両親は、なんだかすごく年を取ったように見えた。そうだ。輝馬は違和感の正体を理解した。二人はもっと若かったはずだ。今みたいにしわも多くなかったし、父の方は白髪なんて一本もなかったはずなのに。
自分だけ置き去りにされているような気がして、輝馬は口を開いた。
「ぼくはどのくらい眠ってたんですか?」
両親が様子がおかしいほど硬直するのが分かった。深谷先生に小声で何かを尋ねる。先生は咳払いすると静かに言った。
「輝馬くん、君は今年で何歳になるかな?」
急な問いに輝馬は迷いながらも、「七歳になります。小学校二年生です」
親の薦めで私立小学校の試験を受けて合格して、家族でお祝いに遊園地に行ったのは、確か去年だった。
「そうか。じゃあ、君が事故に遭った日が、何月何日の何曜日か覚えているかい?」
「四月、七日……」少し考えてから、「水曜日です」
数日前にロケットの打ち上げがあったのを思い出した。女性の日本人の飛行士が参加した。ニュースで話題になっていた。確か、ロケットの《ディスカバリー》だったか。
両親らしき、妹らしき人達が妙に驚いているのが気になった。
自分の名前は、相沢輝馬、今年で七歳、私立英南小学校二年生で、親と妹の四人家族。母がアレルギー体質だったために動物は飼っていないけど、アゲハ蝶の幼虫を飼育した事はあった。最初、妹の愛奈は気持ち悪がったけど、成虫になると手の平を返したのは今でも覚えている。
「今年が何年か分かるかい?」
どうして、深谷医師は誰でも知っているような事を聞くのだろうか。輝馬の中に言い知れぬ不安がよぎった。けれど、答えないわけにはいかない。
「ええと……二〇一〇年です。先生、教えて下さい。僕はどれだけ眠っていたの?」
「そうか」
「先生」輝馬は恐る恐る質問を重ねた。「ぼくは、どのくらい眠っていたの?」
先生は家族に目配せした。父らしき人は仕方がないという風に頷いた。
「五年と七カ月」
「五年と七カ月……?」
「ああ。正確に言えば、五年と七カ月と二十四日。その間、君はこのベッドの上でずっと眠っていた。今日は二〇一五年十二月二十四日のクリスマス・イブだ」
深谷医師の言葉を聞き間違えたかと思った。五か月の間違いなんじゃないかと。でも、現実はどうだ。両親は老けているし、妹は明らかに高学年だ。他人の空似にしては面影がある。頭が混乱してしまい、輝馬は笑いそうになった。
変な冗談か、夢でも見ているんじゃないか。
「じゃあ、ぼくは……」
「今の君は十二歳なんだよ」
部屋の中が静かになった。廊下の足音、名前を呼ぶアナウンスさえもとても遠くに聞こえた。この部屋の中にはカレンダーがなかった。今になって、もう一つ欠けている物が分かった。部屋の隅にある手洗いの上にかかっていた跡で明らかだった。
輝馬はその方向を指さした。
「先生、あそこには何があったの?」
「鏡だよ」
「顔を見せて下さい」
「いいのかい?」
輝馬は無言で何度も頷いた。心配そうに見つめる薫から手鏡を受け取ると、彼は自分の顔を覗きこんだ。
輝馬は息を飲んだ。そこに“今”の自分の顔はなかった。
面影を残すまま違う人の顔が目の前にいた。自分であって似て非なる顔。不安に揺れる二重の瞳、薄く隈が残っている。小さな鼻に干からびた薄い唇、口から覗く八重歯。痩せこけた頬、ボサボサに伸びた髪。血色の悪そうな青白い肌は死人のそれだ。
手鏡が手からすり抜け、ベッドの上に落ちる。今すぐに鏡を叩き割りたかった。
「どうか気持ちを落ち着かせてほしい。君の診察はその後でも遅くない。家族と話をしなさい」
深谷医師は家族に会釈すると、部屋を後にした。
「これは夢なの?」
「夢なんかじゃない。輝馬は今、目を覚ましたし、俺や母さん、愛奈と一緒にいる」
父の和郎は落ち着いた口調で言った。幼稚園の頃、何か悪い事をして怒られた時も、今みたいに言葉を選んだのを思い出した。
紛れもない。目の前にいる人は、間違いなく父の相沢和郎であったし、その横に
いる女性は母の博美で、その後ろから不安げに見つめるのは妹の愛奈だ。疑いようのない確信を受け入れるしかなかった。
「輝馬、ありがとう」
博美が頭を優しくなでた。
「私達の元に帰って来てくれて、本当にありがとう」
母に寄り添いながら泣く愛奈に、輝馬もまた、今まで強く抑え込んでいた感情が目の奥からにじみ出て行く。毛布にしがみつきながら、彼は嗚咽を漏らし続けた。ちょうど、隣室から陽気なリズムでクリスマスソングが流れ始めた。
主人公が目を覚ましたタイミングとシンクロさせるためという、棒にも箸にもつかず、毒にも薬にもならない、しょうもない理由でした。




