先輩との再会
外を見ると桜が咲いていた。どこの大学でもそうだろうが、僕の大学でも新入生を相手にしたサークルの勧誘を始めるこの季節。3年生の僕もサークルの一員として新入部員の勧誘に尽力しなければならない。むしろ、僕の大学では、3年生は主力だ。薬学部が6年生に変更になって以来、3年生までは比較的自由な時間が取れるようになったからだ。僕の所属する薬理研究会では、部員不足が悩みだ。毎年のことだが、なかなか部員が集まらない。各学年4~5人程度所属しているが、幽霊部員だったり、部室でゲームすることしか興味のない人達。他のサークルと比べても際立って良い点も無く、部員集めは困難だ。大学一ゲームの種類が多いとか、自由に活動できるとかアピールするが、それで入部する人ってかなり限られる。こんな感じの人が部員の多くなので、勧誘も正直あまり魅力的ではない。僕も、サークル活動にあまり興味無くて、とりあえずテスト資料とか手に入ればいいやってことで、このサークルを選んだが、今になって少し後悔している。後の祭りだが。
入学式の日から毎日、僕は校門に立った。新入生を集めるためにビラを配っているのだ。2年前、この桜の木の下を通って、新しいスーツに身を包み、一生懸命勉強しようと思って入学したことをふと思い出した。初めの時は、やる気があってもなかなかそれは持続しないのが世の常。周りに流されがちな僕は、試験前はやるものの、試験が過ぎるとほとんど勉強しないような毎日を送っていた。勉強できる人は良いなぁ、何て事を考えつつ、ビラを減らすことに力を注いだ。
勧誘の成果もあり、わずかだが、今年も新入部員の獲得に成功した。皆、入学したばっかで、右も左もわからないところを半ば強引に引き込んだような感じもするが、サークルとしては取りあえず、一仕事終了した感がある。例に倣って、新入部員も入ったので、歓迎会を開くことにした。部長が皆の予定を確認し、4月の終わりごろにやることが決まった。
新入生歓迎会には多くの部員が参加し、OBやOGの先輩も何人か参加してくれた。もちろんあの先輩も参加していた。
あの先輩とは、川島先輩だ。大学6年になった川島先輩は、学内でもとにかく有名だ。彼は、無口でほとんど話さない人だ。目つきも鋭く、正直近寄りにくい印象を受ける。悪い人ではないが、かなり緊張するし、気を使ってしまうような人だ。久々に会ったので、挨拶をしに近くに行った。
「先輩、お疲れ様です。病院実習はいかがでしたか。」
「大変だったが、すごく勉強になった。やっと、薬剤師っぽいことが体験できたよ。」
僕は、この日の先輩にちょっといつもと違う何かを感じた。いつもより、口調が穏やかだし、何せ、失礼だが人間味があるように感じた。彼の中で何か変わったのではないのか、考えすぎかもしれないが、それほどまで、今日の口調や表情が普段と違った。
川島先輩のことは、学内でも多くの人が知っている。なぜ、そんなに有名かというと、彼の知識の量が学部生のレベルとは考えられないほどだからだ。後輩の僕が見て、すごい人だなと思うのは、当たり前かもしれないが、彼の同級生の先輩方に聞いても、皆、口を揃えて彼を称賛する。彼の噂は、後輩達の間でも有名で半分都市伝説化している。学年では、常にトップクラスの成績を収めていて、休みに入ると、気になる薬や病気について一人で勉強しているらしい。以前、医者の教授と感染症のことで議論となったが、教授の方がむしろ劣勢だったそうだ。薬の構造や作用機序と言われる薬の効き方、どんな副作用があるのか、どういう患者に適しているのかまで、医師顔負けの実力であったようで、他の友人たちはただ単にビックリして身動きすらできなかったそうだ。
薬学部は、勉強が大変だとよく言われる。確かに大変だ。国家試験に受からなければ免許がもらえないので、皆、一生懸命勉強する。しかし、学生の勉強というのはたかが知れてる。大抵の場合、大学の授業でやったことを試験前に一生懸命覚えて、何とか国家試験に受かり、実際に現場で何十年も働いて、やっと一人前の薬剤師になるのが普通だ。免許取りたての薬剤師なんかは、メモを見ながら薬の説明を患者にしたり、何か相談された際には、一生懸命に調べている。普通の生徒であれば、ある意味当たり前の行動である。また、どんなに優秀な生徒でも知識は頭の中に入っていても、なかなか知識を自由に使いこなせないといった感じだ。薬の知識は、ものすごく膨大なのだ。薬関係の医療ミスの訴訟とかを見ると、医師や薬剤師の見落としや知識不足を指摘するケースは多い。しかし、世の中にある薬を簡単にまとめた本だけでも2000ページ以上あり、それ以外に、それぞれの薬に関する詳細に述べた本や、国によって示されたガイドライン、学会資料などを入れるとかなりの量になる。一朝一夕に知識は身に付くものではない。長く現場で経験して、それで身についていくことはものすごく多い。大学では、相当勉強するが、一度聞いただけで、一度勉強しただけで、全て覚えていられる人間はいないだろう。薬学部に入る生徒は、患者さんを助けたいとか何らかの熱い思い持って入ってくるやる気のある生徒が多いが、それでも、やはり人間なのだ。時には、遊びたいとか他の学部の生徒と同様にそういった感情を持っている。1年生から定期試験はかなり厳しく留年者も多いが、必死に試験勉強し、試験が終わったら遊ぶといった生活をする人が多い。人間のモチベーションの限界がやはりあるように感じている。だからこそ、川島先輩は、すごいと称賛されているのだ。なぜ、そこまで一生懸命勉強しているのか、何でそこまでやるのか、誰もその理由は知らないが……。
楽しい時間は刻々と過ぎ、次から次に新しい料理も運ばれてくる。新入生に声をかけたり、友人たちと色々な話をしてとにかく盛り上がった。酔った勢いもあり、普段ではしないようなギャグを披露したりする者もいた。そんな感じで過ごしていて、ふと川島先輩のことが頭を過った。今日の先輩は、いつもと違うと最初に感じたが、やっぱり違うのだ。まるで別人なのだ。僕の知ってる先輩ではないのだ。新入生にも積極的に声をかけているし、友人たちを笑わせているような様子であった。先輩自身もとにかく楽しそうである。この時、僕は初めて、先輩の白い歯を見たのだ。
酒というのは、不思議な飲み物である。少しの酒は場を盛り上げる。まるで魔法のように。しかし、量が多くなるとこれまた、眠ってしまう。歓迎会も、この頃になるとむしろ静かだ。酒の強者のみが生存できる世界とでも言おうか。一部の人間のみが、会話している程度であった。僕は、思い切って川島先輩の元に行った。そして、単刀直入に尋ねてしまった。「先輩、あの、今日の先輩、何か今までの先輩じゃないみたいです……。あの、すごく楽しそうで、何か生き生きとされてました。」自分でも質問になっていないのがよくわかった。そもそも、いつもと違うなんて先輩に対していうべきことではないだろう。自分の興味本位で聞いてしまった。言葉を選んだつもりが、この有様であった。急に心臓がバクバク言ってきて、汗のようなものも出てきたような気がした。先輩は、少し笑みを浮かべた。そして、一言。「高校までは、こうだったんだよ。」一瞬、僕の瞳が大きくなったのではないだろうか。言葉に詰まってしまった。全く想像できないのだ。今日の性格も今までの性格もまるで正反対だ。先輩が変わってしまったのには、何か理由があるのだろう。だが、それを尋ねるのは、ちょっと敷居が高かった。もう、これまでで疲れ切っていた僕には、尋ねることができなかった。
酒の飲みすぎで、トイレに行く人や、酔い潰れてしまっている人も増えてきた。そして幹事の山崎が飲み会の費用を徴収し始めた。それとともに、帰り仕度を始めた。寝ている人を取りあえず起こす。一人で帰れなそうな人は、近くの人が責任をもって送るというのは、どこの世界でも普通のことだろう。この人数ともなると居酒屋から撤退するだけでも結構時間がかかる。そもそも学生だから、ダラダラする傾向もあるし、帰り際になって飲む人もいる。この日に使用した居酒屋もさほど大きなところではないので、いつも通り準備の出来た人から店の外に出て、全員揃うのを待つことにした。5分くらい待っただろうか。やっと全員揃い、幹事の山崎が締めの挨拶をし、家路についた。もう4月も終わりに近いが、池袋の夜は少し冷える。薄い上着しかもっていなかった僕は、少し寒い思いをして、駅へと向かった。駅に着くと、皆バラバラになった。多くの人とはここでお別れになる。別れる仲間に挨拶をし、僕は埼京線に急いだ。
終電近くになると、各駅停車が増えてしまう。大宮でさらに私鉄に乗り換える僕にとって、一本でも早い電車に乗りたいと思うのは、自然なことである。電車の中で一人でいると、やはりさっきの川島先輩の発言が気になる。「高校までは、こうだったんだよ。」ってことは、大学に入るか入らないかくらいの頃に何かあったのではないのか。気にはなったが、すぐに確かめる訳にもいかず、ただ単に電車の揺れに身を託していた。