第30話 いつか見る夢
あれから、どれほどの月日が流れただろうか。
かつて「鉄血の覇王」と恐れられた皇帝カイルと、彼を支えた「食の聖女」こと皇后リリアーヌ。
二人が築き上げたガルア帝国は、今や大陸一の豊かさを誇る「美食の大国」として、その名を歴史に刻んでいた。
そんな帝国の皇城の奥にある、静かな離宮。
春の日差しが降り注ぐ縁側で、二人の老夫婦が並んで座っていた。
「……ふあ。良い天気ですね、あなた」
白髪交じりの髪を緩く結った老婦人――リリアーヌが、シワの刻まれた手でお茶を啜る。
隣に座る老人――カイルもまた、好々爺とした穏やかな表情で頷いた。
「ああ。……平和だな。昔は、こんな風に空を見上げる余裕などなかった」
彼の瞳の色は、かつての燃えるような紅蓮から、焚き火の残り火のような優しい茜色に変わっていた。
けれど、その奥にある光だけは、若い頃と変わらない。
「昔は酷いものでしたわ。……初めてお会いした時、あなたは泥水のようなスープを飲んで、『味などどうでもいい』なんて強がっていましたもの」
「ふん。……言うな。あれは若気の至りだ」
カイルは照れくさそうに笑い、膝の上に乗っていた小さな毛玉――何代目かのフェンリルの幼体を撫でた。
「だが、あの日。……貴様が俺にくれた『白い塊』。あれが俺の人生を変えたのだ」
「ふふ、これのことですか?」
リリアーヌが竹籠から取り出したのは、海苔を巻いた三角形の『おむすび』だった。
具は、昔と変わらない。
梅干しと、塩鮭。
豪華な宮廷料理でも、流行りのスイーツでもない。
ただの、塩むすびだ。
「……ああ、それだ」
カイルは震える手で、大切そうにおむすびを受け取った。
そして、一口かじる。
パリッ。
海苔が弾ける音。
口の中に広がる、米の甘みと、程よい塩加減。
「……美味い」
彼は目を細め、噛み締めるように呟いた。
「世界中のどんな贅沢な料理よりも、貴様が握ったこのおむすびが、一番美味い」
「あら、嬉しい。……何十年経っても、あなたの胃袋は単純で助かりますわ」
リリアーヌも自分のおむすびを頬張り、幸せそうに微笑んだ。
庭先では、ひ孫たちが元気に走り回る声が聞こえる。
息子も、娘も、それぞれが家庭を持ち、この国の食卓を守っている。
もう、この国で「お腹が空いた」と泣く子供はいない。
野菜嫌いな子供も、リリアーヌのレシピブック(今は国定教科書になっている)のおかげで、笑顔でピーマンを食べていることだろう。
「……リリアーヌ」
カイルが、食べかけのおむすびを置き、彼女の手をそっと握った。
その手は、長年の料理仕事で節くれ立っていたが、彼にとっては世界で一番美しい手だった。
「礼を言う。……俺の灰色だった人生を、こんなにも鮮やかで、美味しい色に染めてくれて」
「……」
「貴様と出会えてよかった。……俺は、世界一幸せな男だ」
真っ直ぐな言葉に、リリアーヌの目元が熱くなった。
彼女は握り返された手を見つめ、静かに答えた。
「私こそ。……私の料理を、残さず綺麗に食べてくれて、ありがとうございました」
風が吹き、桜の花びらが二人の湯飲みにひらりと落ちた。
「……のう、リリアーヌ。生まれ変わっても、また俺に飯を作ってくれるか?」
「ええ、もちろん。……でも、次はもう少し野菜を多めにしますよ?」
「へっ、手厳しいな」
二人は顔を見合わせ、クスクスと笑い合った。
その笑顔は、まるで出会ったばかりの少年のように無邪気だった。
空は青く、どこまでも高い。
遠くから、夕食の支度を知らせる鐘の音が聞こえてくる。
今日もまた、帝国のどこかで「いただきます」の声が響くことだろう。
それは、二人が蒔いた種が咲かせた、永遠に枯れない『幸福』の花だ。
「さて、そろそろ戻りましょうか。……今夜は何が食べたいですか?」
「そうだな。……やはり、味噌汁が良いな」
「ふふ、分かりました」
老夫婦は手を取り合い、ゆっくりと立ち上がった。
繋いだ手の温もりは、最期の時まで、きっと離れることはない。
――これが、ある料理人と覇王が紡いだ、美味しくて、愛おしい物語。
ごちそうさまでした。
最後までお読みいただき、本当にありがとうございました!!
これにて
『「浪費家」と追放された美食令嬢、スキル『お取り寄せ』で覇王の胃袋を掴む~粗悪な飯を食っていた元王子が今さら縋ってきても、私は最高級和牛と溺愛生活で忙しいので放置します~』
完結です!
皆様の食卓にも、素敵な笑顔が溢れますように。
本当にありがとうございました!




