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第26話 極寒の荒野

 砦の重い門が、ギギィ……と音を立てて閉じられた。

 その瞬間、私たちの視界から「温かい光」と「香ばしい味噌の香り」が完全に遮断された。


 後に残されたのは、吹き荒れる吹雪と、どこまでも続く白い闇だけ。


「……開けろ! 開けてくれぇぇ!」


 セドリック王太子は、凍りついた鉄の扉を素手で叩き続けた。

 しかし、中からは何の返答もない。

 ただ、風に乗って微かに聞こえてくるのは、難民たちの「うめぇ!」「温まる!」という歓喜の声だけだった。


「くそっ……! なぜだ……私は王太子だぞ……選ばれた人間なんだぞ……」


 彼は扉に背中を預け、ズルズルと崩れ落ちた。

 かつて艶やかだった金髪は凍りつき、氷柱のようにボサボサになっている。

 豪華だった軍服も、泥と雪で雑巾のように汚れていた。


「……殿下。もう諦めましょう。……歩かないと、凍死します」


 側近の一人が、力なく声をかけた。

 彼らもまた、限界だった。

 リリアーヌがいた頃は、どんな過酷な行軍でも、夜になれば温かくて美味しい食事が待っていた。

 だから耐えられた。

 しかし今は、ただの「飢え」と「寒さ」しかない。


「……お腹が、空きましたわ」


 聖女エレナが、虚ろな目で呟いた。

 彼女のドレスは破れ、自慢の巻き髪も見る影もない。


「ねえ、殿下。……あそこに、美味しそうな『白い山』がありますわ」


 彼女はふらふらと、積もった雪の山へと歩き出した。


「待てエレナ! それは雪だ!」


「いいえ、違います。……ほら、よく見てください。あれはリリアーヌさんがよく作っていた『ホイップクリーム』ですわ。……きっと、私たちが可哀想で、こっそり置いていってくれたんです」


 彼女は雪山に顔を突っ込み、両手で雪をすくい上げた。

 そして、それを夢中で口に運んだ。


「……あまい。あまいですわ。……冷たくて、フワフワで……」


 ガリッ、ガリッ。

 彼女が雪を噛み砕く音が、不気味に響く。

 実際には甘いわけがない。極寒の中で氷を食べているのだ。体温は奪われ、胃袋は痙攣しているはずだ。

 しかし、彼女の壊れた精神は、それを「ご馳走」だと誤認していた。


「あはは! やっぱり私は聖女ですわ! 世界は甘いお菓子でできているんですもの!」


 彼女は狂ったように笑いながら、雪を食べ続けた。

 その唇は紫色に変色し、震えているのに。


「……よせ! 見ているだけで寒気がする!」


 セドリックは彼女から目を背け、懐を探った。

 そこから出てきたのは、砦を追い出される前に隠し持っていた、一片の「干し肉」だった。

 帝国軍が廃棄した、古くて硬い牛革のような肉片だ。


「……私にはこれがある。これを食べれば……!」


 彼は震える手で、石のように硬い干し肉を口に入れた。

 そして、思い切り噛みしめた。


 ガリッ――!!


 鈍い音が響き、セドリックの口から鮮血が溢れた。


「あ、ぎゃあああぁぁッ!!」


 彼が吐き出したのは、砕けた歯と、血まみれの肉片だった。


「は、歯が……私の歯が……!」


 彼は激痛にのたうち回った。

 リリアーヌがいた頃は、どんな硬い肉でも、彼女がワインや果実で煮込み、ホロホロに柔らかくしてくれていた。

 だから彼は、自分が食べているものが「硬い」ということすら知らなかったのだ。


「……痛い。寒い。ひもじい……」


 彼は雪の上に大の字になった。

 薄れゆく意識の中で、走馬灯のように「かつての食卓」が蘇る。


 ――リリアーヌが笑顔で運んでくる、湯気を立てたシチュー。

 ――焼きたてのパンの香り。

 ――肉汁が溢れるハンバーグ。


 あれは当たり前じゃなかった。

 彼女の献身と、魔法のような技術があったからこそ成り立っていた「奇跡」だったのだ。


「……リリアーヌ。……戻ってきてくれ……」


 彼は虚空に手を伸ばした。

 目の前に、幻覚の『豚汁』が見えた気がした。

 あの温かい湯気。味噌の香り。柔らかく煮込まれた大根。


「……一杯でいい。……あの大根ひとかけらでいいから……食わせてくれぇ……」


 彼の手は空を切り、力なく雪の上に落ちた。


 * * *


 翌朝。

 吹雪が止み、砦の門が開かれた。


「……おい、あそこを見ろ」


 見回りの兵士が指差した先には、雪に埋もれた数名の姿があった。

 セドリックたちは、お互いに身を寄せ合い、凍りついていた。

 死んではいないようだが、意識はなく、生ける屍のようだ。


「……憐れなものだな」


 カイル陛下が、彼らを見下ろして冷たく言い放った。


「自ら『温もり』を捨てた者の末路だ。……衛兵、こいつらを国境の向こう側へ放り投げておけ。帝国の土を踏ませるな」


「はっ!」


 兵士たちは、まるでゴミを扱うように彼らを引きずっていった。

 かつて一国の王太子と聖女と呼ばれた者たちは、誰にも看取られることなく、歴史の闇へと消えていった。


 その様子を、私は砦の上から静かに見送った。

 同情はなかった。

 ただ、一つだけ思ったことがある。


(……さようなら。貴方たちが教えてくれたわ。食事とは、作ってくれる人への『感謝』と『敬意』がなければ、決して美味しくはならないものなのだと)


 私はくるりと背を向けた。

 背後からは、今日も炊き出しに並ぶ人々の元気な声と、大鍋から漂う「最高にいい匂い」が聞こえてくる。


「さて、今日のメニューは何にしましょうか。……カイル様、何が食べたいですか?」


「そうだな。……昨日の豚汁も捨てがたいが、今日はガツンと『カツ丼』でも食いたい気分だ」


「ふふ、いいですね。卵でとじた熱々のカツ丼、作りましょう!」


 私たちはもう振り返らない。

 目の前には、湯気が立ち上る「幸せな未来」だけが待っているのだから。

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