第20話 頑固な老公爵
ワガママ王女の襲来から数日。
帝国の食卓改革は順調に進んでいたが、新たな「壁」が立ちはだかろうとしていた。
謁見の間。
カイル陛下の前に、一人の老人が仁王立ちしていた。
白髪の髭を蓄え、歴戦の傷跡が残る顔には、深い皺が刻まれている。
帝国の保守派筆頭、ガラハド公爵だ。
「陛下! 最近、城の食事が軟弱になっていると聞き及びましたぞ!」
ガラハド公爵は、床を杖でドン! と叩き、雷のような大声を上げた。
「ふわふわのパンだの、甘い野菜だの……。そのような女子供の食べるものを兵士に与えてどうするのです! 帝国軍の強さは、石のように硬い『黒パン』と、塩辛い『干し肉』を噛み締めることで培われてきたのですぞ!」
「……ガラハドよ。時代は変わったのだ。兵の士気を上げるには、美味い飯が必要だ」
カイル陛下が諭すが、老公爵は聞く耳を持たない。
「軟弱な! わしは認めんぞ! 特に、その元凶となっている小娘!」
彼は、陛下の横に控える私をビシッと指差した。
「リリアーヌと言ったか。そなたが持ち込んだ『美食』とやらは、帝国の伝統を汚すものだ。わしは断じて認めん。……伝統ある帝国の名物『ミートパイ』すら、最近は姿を消したそうではないか!」
ミートパイ。
確かに、この国には古くから伝わるミートパイがある。
だが、それは小麦粉と水を練ってカチカチに焼き固めた皮の中に、筋張った肉の欠片が入っているだけの、文字通り「食べる鈍器」のような代物だ。
私も一度試食したが、歯が折れるかと思った。
「公爵様。その伝統のミートパイがあれば、ご満足いただけますか?」
私が静かに問いかけると、ガラハド公爵は鼻を鳴らした。
「ふん! 作れるものなら作ってみせよ! だが、そなたのような細腕に、あの鋼のような生地が練れるとは思えんがな!」
「鋼のような生地は練りません。……ですが、貴方様の記憶にあるものより、数百倍美味しく、そして心まで温まる『真のミートパイ』を作って差し上げますわ」
* * *
厨房に入った私は、すぐに準備に取り掛かった。
今回作るのは、硬い携帯食としてのパイではない。
熱々のシチューをパイ生地で包み込んだ、レストラン仕様の『ポットパイ』だ。
まずは中身のシチュー作り。
牛肉のブロックを赤ワインとデミグラスソースでじっくりと煮込む。
ホロホロに崩れるまで柔らかくなった肉に、マッシュルームと玉ねぎの甘みをプラス。
これだけでも十分美味しいビーフシチューだが、今回はこれが「具」になる。
そして、主役のパイ生地。
公爵は「鋼のような生地」と言っていたが、私が作るのは正反対だ。
たっぷりのバターを練り込んだ生地を、何度も何度も折り畳み、層を作る。
この層が、焼いた時に空気を含み、サクサクとした食感を生むのだ。
耐熱容器にシチューを注ぎ、その上から冷やしておいたパイ生地を被せる。
隙間がないようにしっかりと縁を押さえ、表面に卵黄を塗る。
これをオーブン(魔道具)に入れ、高温で一気に焼き上げる。
数十分後。
厨房には、バターの芳醇な香りと、小麦が焼ける香ばしい匂いが充満していた。
「よし、完璧な膨らみね」
オーブンから取り出したのは、こんがりときつね色に焼け、ドーム状に膨らんだパイ。
見た目のインパクトも抜群だ。
* * *
「お待たせいたしました」
私がワゴンで運んできた料理を見て、ガラハド公爵は目を丸くした。
「な、なんだこれは……? 器の上に、茶色い帽子が被さっておるぞ?」
「これが私の『皇帝風ミートパイ』です。……どうぞ、スプーンで崩してお召し上がりください」
「崩すだと? 帝国のパイは手づかみで齧るものだぞ!」
文句を言いながらも、漂ってくるバターの香りに抗えなかったのか、公爵はスプーンを手に取った。
そして、ドーム状のパイの中心にスプーンを突き立てた。
サクッ……パリパリッ……!
静かな部屋に、軽快で乾いた音が響き渡る。
「なっ……!?」
公爵が驚愕した。
スプーンは抵抗なくパイを貫通し、その穴から真っ白な湯気がボワッと立ち上ったのだ。
閉じ込められていたビーフシチューの濃厚な香りが、一気に解放される。
「中身は……汁物か!? いや、肉がゴロゴロ入っておる!」
彼はスプーンでパイ生地とシチューを一緒にすくい上げ、口へと運んだ。
ハフッ、ハフッ。
「…………っ!」
熱々のシチューを頬張った瞬間、公爵の動きが止まった。
「……サクサクだ。まるで枯れ葉を踏んだ時のような、軽やかな食感……。なのに、噛むとジュワッとバターの風味が溢れ出してくる!」
彼は目を閉じ、味わうように咀嚼する。
「そして、この中の肉! 歯がいらないほど柔らかい! 濃厚なソースがパイ生地に絡みつき、サクサクとしっとりの二重奏を奏でておる……!」
頑固だった公爵の表情が、みるみるうちに緩んでいく。
眉間の皺が消え、代わりに少年のような高揚感が浮かんでいる。
「美味い……。今までわしが食っていた『鈍器』は何だったのだ……。こんなにも温かく、優しいパイがこの世にあったとは……」
彼は夢中でスプーンを動かした。
器の縁に残ったパイ生地まで綺麗にこそげ落とし、最後の一滴までスープを飲み干した。
完食した後、公爵はふぅ、と長く息を吐き、少し涙ぐんだ目で私を見た。
「……リリアーヌ殿。わしは間違っておった」
「公爵様?」
「『伝統』とは、ただ形を守ることではない。……その心を守ることなのだな。かつて帝国のミートパイは、戦場の兵士に少しでも腹持ちの良いものをと願って作られたものだった。……それがいつしか、『硬ければいい』という形式だけになってしまっていた」
彼は立ち上がり、私に深々と頭を下げた。
「そなたのパイには、食べる者への『愛』があった。……これぞ、真の帝国の味だ。非礼を詫びる」
「顔を上げてください、公爵様。分かっていただけて嬉しいです」
私が微笑むと、カイル陛下が満足そうに頷いた。
「どうだ、ガラハド。俺の伴侶は最高だろう?」
「ええ、完敗です陛下。……ですが、一つだけ不満がありますな」
「なんだ?」
「なぜ、わしの分は一つだけなのですか! こんなに美味いなら、孫の分も土産に包んでくだされ!」
「はっはっは! 強欲な爺め!」
カイル陛下が豪快に笑い、執務室は温かな空気に包まれた。
こうして、帝国の保守派筆頭すらも、リリアーヌの「サクサクパイ」の前に陥落したのだった。
窓の外では、木枯らしが吹いている。
けれど、この部屋と、そして帝国の食卓は、もう二度と冷えることはないだろう。




