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婚約破棄の夜

「リリアーヌ。君との婚約を破棄する」


 王宮の大広間で開かれていた夜会。

 オーケストラが奏でる華やかなワルツがかき消されるほど、セドリック殿下の冷たい声はよく響いた。


 周囲の貴族たちの視線が、一斉に私――公爵令嬢リリアーヌへと突き刺さる。

 ざわめきが波紋のように広がり、ダンスを踊っていたペアたちが次々と足を止めた。煌びやかなシャンデリアの下、好奇と嘲笑の視線だけが私に降り注ぐ。


 私は手にしていたクリスタルのグラスを、音を立てないよう静かにテーブルへと置いた。

 指先がわずかに震えそうになるのを、公爵家の娘としてのプライドで抑え込む。

 そして、ゆっくりと顔を上げた。


 殿下の隣には、男爵令嬢のエレナ様が寄り添っていた。

 彼女は勝ち誇ったような笑みを浮かべ、私の反応を楽しんでいるようだ。扇で口元を隠してはいるが、その双眸には隠しきれない優越感が滲んでいる。


「理由は……私の『浪費』でしょうか?」


 私が静かに問うと、セドリック殿下は忌々しげに鼻を鳴らした。金色の髪を掻き上げ、まるで汚いものを見るような目で私を見下ろす。


「自覚があるなら話は早い! 君は王宮の料理長に文句をつけ、高価な食材ばかりを買い漁らせているそうだな。民が飢饉に苦しんでいる時に、自分だけ美食に興じるとは……王妃の器ではない!」


 周囲から、「あぁ、なんて浅ましい」「公爵令嬢ともあろうお方が」と、嘲笑うような囁き声が聞こえてくる。

 彼らの軽蔑の眼差しに、私は心の中で冷ややかなため息をついた。


 反論したところで、無意味だろう。

 殿下も、ここにいる貴族たちも、何もご存じないのだから。


 私が取り寄せていたのは、ただ「高価」なものではない。

 この国の衛生観念は、前世の記憶を持つ私からすれば、絶望的なまでに低く、不潔だった。


 王宮の厨房ですら、平気でドブネズミが走り回り、少し傷んだ肉やカビの生えた小麦を使おうとする。

 緑色に変色しかけた牛肉を前に、料理長はこう言ったのだ。

『加熱すれば毒は消えますよ、お嬢様』

『小麦に虫が湧くのは、栄養がある証拠です』


 そんな馬鹿げた迷信がまかり通る中で、私は私財を投じて、衛生管理が徹底された他国の商会から「安全」な食材を取り寄せていただけだった。

 新鮮な野菜、適切に血抜きと冷蔵処理がされた肉、そして泥や虫の混じっていない小麦。

 それらは当然、市場に出回る粗悪品よりは値が張る。


 けれど、それは私の「贅沢」ではなく、未来の国王夫妻の健康を守るための、最低限の「必要経費」だったはずだ。


 そして、私が厨房に伝えていたのは、文句ではない。

 素材の味を殺すような濃い味付けや、菌を殺そうとするあまり焼きすぎて炭になった肉を改善するため、「前世の知識」をもとに助言していただけだったのだ。


「エレナを見習いたまえ。彼女のユニークスキル『聖女の祈り』は、堅いパンですら柔らかく変えることができる。君のような金のかかる『無能な美食家』は、我が国には不要だ」


 殿下の言葉に、エレナ様が一歩前へ進み出た。

 ピンク色のふわふわとしたドレスを揺らし、彼女は可憐に小首を傾げる。


「リリアーヌ様、残念ですわ。でもご安心ください。これからは私が、殿下の胃袋も、この国も支えますから」


 その言葉に、殿下はうっとりとした表情でエレナ様の肩を抱いた。


「ああ、エレナ。君こそが真の聖女だ。食材の質など関係ない。君の愛と祈りがあれば、どんな料理も極上の味になるのだから」


 ……ああ、なるほど。

 私は彼らにとって、ただの「口うるさいお飾り」でしかなかったのだ。

 安全な食事を守ろうとした努力も、彼らの体を気遣って整えた献立も、すべては「浪費」と「文句」として処理された。


 胸の奥で、何かが冷めていく音がした。

 それは悲しみではなく、諦めと――不思議なほどの解放感だった。


 もう、カビの生えたパンをどうやって安全に食べるか悩まなくていい。

 ドロドロに腐りかけた野菜をスープに入れようとする料理長と、顔を真っ赤にして喧嘩をしなくていいのだ。


「承知いたしました。……今まで、美味しいお食事を共にできたこと、感謝いたします」


 私は完璧な角度でカーテシーをした。

 公爵令嬢として、最後の矜持を見せるように、背筋を伸ばして背を向ける。


 最後に一つだけ、殿下に伝えようとして、やめた。

 

 ――『祈り』で味は甘く誤魔化せても、腐りかけた食材の毒までは消せませんよ、と。


 それを言う義理すら、今の私にはもうないのだから。

 私は顔を上げ、一度も振り返ることなく大広間を後にした。


 

 王宮を出る準備は、驚くほど呆気なく終わった。

 もともと、いつかこうなる予感があったのかもしれない。

 私は最低限の荷物だけをトランクに詰め、用意された粗末な馬車に乗り込んだ。

 護衛もつかず、侍女もいない。たった一人での追放だ。


 公爵家の紋章が塗りつぶされた、みすぼらしい馬車。

 御者は無言で手綱を握り、馬車はガタゴトと音を立てて石畳を走り出す。


 窓の外を流れる王都の景色。

 人々は楽しそうに笑い、屋台からは香ばしい匂いが漂ってくる。

 けれど、私のお腹は鳴らなかった。

 騒動のせいで夕食を一口も食べていないというのに、空腹よりも心の渇きの方が強かった。


「やっと、解放されたのね」


 ポツリと、独り言が漏れる。

 これからは、誰かのために味を調整する必要はない。

 誰かの顔色を窺って、不味いものを「美味しい」と嘘をついて飲み込む必要もない。


 私は、私のためだけに「美味しいもの」を食べていいのだ。


 そう思った瞬間だった。

 目の前に、淡い光の粒子が集まり始めた。


「……え?」


 薄暗い馬車の中で、光は四角いウィンドウの形を成していく。

 そこに表示されていたのは、見慣れたこの世界の文字ではない。

 私が前世で慣れ親しんだ、日本語の羅列だった。


【追放条件達成:スキル『お取り寄せ』が解放されました】


「お取り寄せ……?」


 驚いて目を瞬かせる。

 半透明の画面には、懐かしい商品写真がずらりと並んでいた。

 

 スーパーマーケットでよく見た、赤や黄色のパッケージ。

 湯気を立てるカップラーメン。

 新鮮な卵に、透き通った醤油のボトル。

 そして、何よりも目を引いたのは――艶やかに輝くコシヒカリの袋。


 ゴクリ。

 私の喉が、下品なほど大きく鳴った。

 その瞬間、忘れていた強烈な空腹感が襲ってきた。胃が収縮し、「食べたい」という本能が全身を駆け巡る。


「嘘……これが、全部手に入るの?」


 王太子妃教育の厳しさも、婚約破棄の屈辱も、一瞬で吹き飛んだ。

 私の頭の中は今、これから何を食べるかという、人生で最も重要な選択で埋め尽くされていた。


 馬車は王都の門を抜け、暗い森へと続く街道へ入っていく。

 私の新しい人生は、どうやら前途多難な追放劇ではなく、最高の美食ライフの幕開けとなるようだった。


最後までお読みいただき、本当にありがとうございます!

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