【連載版始めました】【短編】魔女の汚名を被ったとしても ~聖女の姉を救うため、過去へ戻り偽聖女と神殿への復讐を誓う~
私の姉、エリシア・モランテスは、美しい聖女だった。
透き通るような淡金色の髪は、陽の光を浴びて柔らかく波打って。
優しげに垂れた瞳は、慈愛そのもののように世界を映していた。
アルディナ王国において、「神に選ばれし聖女」は数世代に一人しか現れない、と言われている。
奇跡をもたらす存在。国の象徴。神殿の頂点。
エリシアお姉様は、その栄誉ある座に座るはずの人間で――現に、アルディナ王国の聖女として神殿に認められていた。
けれど、私がお姉様を好きだった理由は、そんな肩書きとはまるで関係がない。
聖女だから、じゃない。
ただ、私のお姉様だから。家族だから。
それだけの理由で、私は姉が大好きだった。
子供の頃から、ずっと一緒だった。
「レイナ、こっちこっち。お花が咲いてるわ」
屋敷の庭で泥だらけになって転んだ私を、姉が「大丈夫?」と笑いながら手を引き起こしてくれたことを覚えている。
私は膝を擦りむいて痛くて泣きそうになっていたのに、姉の声を聞くだけで、その痛みが半分くらいになった気がした。
「っ……いたい」
「もう、また転んだのね。じっとしてて?」
姉が小さく息を吸い込み、私の膝にそっと手をかざす。
淡い光が灯る。ほんの、小さな灯火。
あの頃はまだ、聖女の奇跡ほどはっきりした力ではなかったけれど、それでも傷はみるみるうちにふさがっていって――。
「ほら、痛くないでしょう?」
微笑む姉は、とても可愛くて、綺麗で、優しかった。
私は何度も何度も、そんな姉に助けられてきた。
(私は昔から、お姉様ばかり見ていた)
私にとって世界で一番輝いているのは、姉だった。
伯爵家モランテス家の長女として生まれた姉は、十六歳のときに聖女として覚醒した。
そして神殿に正式に認められ、アルディナ王国の聖女として働くことになった。
神の名のもとに、人々を癒す力。
怪我や病気を治す奇跡。
もちろん、王都には昔から医師などはいたけれど――姉の力は、そのどれとも違っていた。
「ありがとうございます、聖女様! 本当に、本当に……!」
ある日、私は姉の後ろについて、王都の施療院へ行ったことがある。
姉が神殿から送り込まれている場所のひとつ。
そこには、貧しい服をまとった人々が列をなしていた。
痩せこけた子供、顔色の悪い母親、粗末な杖をついた老人。
皆が皆、もじもじと視線を伏せながら、それでも姉の方へ手を伸ばす。
「順番に診るから、大丈夫よ」
白いローブに身を包んだ姉は、列に圧されることなく穏やかに微笑んだ。
ゆるやかな淡金色の髪が揺れ、光を受けて柔らかく輝く。
その姿に、周囲の空気がふっと和らぐのがわかる。
泣きそうな顔の子供の傷口に、姉が手をかざす。
暖かな光が生まれ、じゅわり、と染み込むように肌へと溶けていく。
目に見えて血が止まり、腫れが引いていく。
「……痛く、ない」
「よかったわね」
「ああ、ありがとうございます、聖女様……!」
母親が肩を震わせて泣き、姉の手を取って何度も頭を下げる。
けれど――。
「料金は……。わ、我々には大した金は……」
「お金のことはいいの。今は、身体を治すことが先でしょう?」
姉はそう言って笑った。
貧しい服の者たちに対しても、姉は金を受け取らなかった。
どうしてもと言って差し出された小銭や野菜、パンのかけらを、姉は「ありがとう」と言って受け取りながら――決して、治療の前提条件にはしなかった。
「聖女様は、本当に女神様のようなお方だ……」
「前の聖女様は、こんなところには滅多にいらっしゃらなかったのに」
そんな声が、自然と周囲から漏れる。
私の胸の内は、誇らしさでいっぱいだった。
(そうよ。お姉様こそ、本物の聖女なの)
歴代の聖女は、平民にとっては遠い存在だったらしい。
怪我や病気を癒やすことはしても、その対価として高額な金を取るのは当たり前で――それ自体が普通であり、当然だったのだと、私は後から知った。
でも、姉は違った。
貧民だから。平民だから。
そんな理由で誰かを切り捨てることを、姉はしなかった。
だからこそ、姉は愛されていた。
平民からも、貴族からも、兵士からも。
歴代の聖女の中で、人気は断トツだっただろう。
――少なくとも、外側から見える限りは。
「まったく……あの方は、聖なる力の意味をわかっておられない」
「聖女の力は、神殿と王家のためにある。平民ごときに無償で与えては、神の威光が薄れるというものだ」
施療院の奥、神殿から派遣された神官たちが、ひそひそと話していたのを覚えている。
彼らは私に気づいていなかった。
私は柱の影に身を隠し、その会話を聞いていた。
「それに、神殿の収入も減っていると聞く。寄進も『聖女様が治してくださったから』と、施療院に直接持っていく者が増えたそうだ」
「困ったものだ。あのお方のおかげで、神殿の権威に傷がつく」
口ぶりはあくまで敬語で、「あのお方」と呼んでいても、その実、姉を疎ましく思っているのが手に取るようにわかった。
(……何様のつもりよ、あんたたちは)
そのとき既に、私は神殿というものを心の底から信じてはいなかった。
聖女という肩書きがあってもなくても、姉は姉だ。
そんなお姉様を、数字や権威のために値踏みするような連中を、私は好きになれない。
とはいえ、そのときはまだ――これがどれほど致命的な亀裂になるのかまでは、考えていなかった。
姉が聖女になって、しばらく経った頃。
王都に、ある知らせが走った。
「新たな聖女の出現、ですって……?」
「ええ。神殿が正式に発表したそうですわ。数世代に一人の存在が、二人――ですって」
母が、半ば呆れたような声でそう言ったのを覚えている。
貴族たちが一斉にざわめき、噂は瞬く間に広がった。
神に選ばれし聖女が、二人。
常識的に考えれば矛盾だ。
けれど、神殿はそれを「神意」で片づけた。
王国は少し混乱しつつも、最終的には受け入れた。
多くの人が「聖女が二人いれば、それだけ多くの人を癒せるのだから、喜ばしいことだ」と口にした。
私も、最初はそう思った。
(姉様がひとりで抱え込んでいた負担が、少しでも軽くなるなら……)
ただ、それだけだった。
ところが――そこから、おかしくなったのだ。
しばらくして、王都に妙な噂が流れ始めた。
『エリシア・モランテスは、本物の聖女ではないのではないか』
最初は、誰かが酔った席で言った戯言だと思った。
どこでどう繋がったのか、誰が言い出したのかもわからない。
けれど、その噂は、まるで水を吸った布のようにじわじわと広がっていった。
『二人も聖女がいるなんて、おかしいでしょう? 本当に神に選ばれたのは、新しい方なのかも』
『最初の聖女様の奇跡も、神殿がそう言っているだけかもしれませんし』
貴族たちの中で、そんな会話が交わされる。
街角の酒場でも、商人たちが声を潜めて囁く。
人の噂というものは、本当に、ろくでもない速度で広がるものだ。
「レイナ、そんな顔をしないで」
お姉様は噂を聞いても、ぶれなかった。
「私のことをどう思うかなんて、人それぞれよ。噂は、風みたいなものだわ」
「……でも――」
「大丈夫。私は、私の目の前にいる人たちを癒やす。それだけだから」
そう言って笑うお姉様は、いつもの姉で。
けれど、ほんの少しだけ――瞳の奥に、影が差したように見えたのは、気のせいだったのだろうか。
(あんなに……あんなに愛されていたのに)
国中を駆け回り、寝る間も惜しんで人々を治していた。
その背中を、私はずっと見ていた。
疲れて帰ってきて、ソファの上でぐったりしている姉の肩を、子供の頃のように揉んであげたこともある。
「お姉様、ちょっとは休みなさいよ」
「ふふ、そうね。レイナに怒られちゃった」
そう言って優しく笑うお姉様が。
いつの間にか、「偽物」と呼ばれるようになっていた。
(おかしい。何かが、おかしい)
私は何度も、心の中で繰り返した。
神殿と姉の間には確かに確執があるようだった。
「聖なる力を平民ごときに使うなど」と陰で言われているのも知っていた。
けれどそれと、この噂が――まさか、繋がっているのだろうか。
考えれば考えるほど、胸の奥がざわざわして落ち着かなかった。
そんなある日だった。
「今日、神殿に行ってくるわ」
朝食の席で、姉はいつも通り穏やかな笑みを浮かべていた。
それなのに、私の胸には嫌な予感がひっかかって離れなかった。
「お姉様……」
思わず声が漏れる。
姉は、少しだけ首をかしげた。
「どうしたの、レイナ?」
「なんでも……ない。ただ、その……」
言葉が喉に引っかかる。
行かないで、と言えればよかったのに。
姉はそんな私の内心を見透かしたように、すっと席を立ち、側まで歩いてきた。
「大丈夫よ、レイナ」
頭に手を置かれる。子供の頃と同じ仕草。
「今日の夜にはちゃんと帰ってくるから。だから――」
いつもと変わらない、優しい笑顔。
その笑顔が、どうしてだか胸を締め付けた。
「だから、そんな顔をしないで」
その言葉を最後に、姉は家を出て行った。
神殿へ向かう馬車に乗り、振り返って手を振る。
私も、ぎこちない笑顔で手を振り返した。
――その姿を見たのが、私が生きている間に見た、最後の姉の姿だった。
その日のうちに、神殿で事件があったと聞いたのは、夕刻を過ぎてからだった。
血相を変えた使用人が走り込んで来て、父母と私の前で震える声を出した。
「こ、国王陛下の御前において……聖女エリシア様が……神殿にて告発され……その場で……っ」
言葉が続かない。
父が苛立ち混じりに声を荒げる。
「要点だけ言え」
「は、はい……! 聖女エリシア様は、偽聖女であったと、人々を騙していたと。神殿長カルディス様より告発がありました。さらに、その……ご自身の立場を利用して神官を不当に扱い、平民に暴力を振るうよう指示していた、との罪状が……」
「そんな――」
母が口元を押さえる。
けれど、その顔に浮かんでいたのは驚愕だけで、信じられないという怒りではなかった。
「そして、さきほど。偽聖女として、国を欺いた大罪により――エリシア様は処刑された、とのことです」
その瞬間、時間が止まった。
「…………は?」
間の抜けた声が、自分のものだと認識するまでに、数秒かかった。
視界から色が抜け落ちる。
耳鳴りがして、誰かの叫び声が遠くに聞こえた。
(処刑……? 姉様が?)
偽聖女?
神官を不当に扱う?
平民に暴力をするように指示?
「そんなわけ、ない……」
口の中が乾いて、舌がうまく回らなかった。
ありえない。
姉はそんな人じゃない。
怒鳴りつけることすらなくて、いつも誰かのために自分を削っていた。
「エリシアが? まあ……。神殿長様がそう仰るなら、仕方ないことなのかしらね」
母の口から出た言葉は、私の胸を鋭く貫いた。
父は難しい顔をしながらも、「家名に傷がつく」とか「どう責任を取ればいいのか」などと、自分たちのことばかりを話していた。
怒りも悲しみも、すべてがごちゃまぜになり、内臓を掴まれたような感覚だった。
(何かがある。絶対に、おかしい)
――調べなければならない。
「そんなわけ、ないんだから……!」
夜、自室に戻った私は、机を叩いて叫んだ。
ありえない。
絶対にありえない。
そのありえないを、証明しなくてはならない。
けれど、神殿は巨大だ。
王家すら巻き込む権威の塊。
力も、情報も、人も、すべてを握っている。
だから私は、禁忌とされる魔法に手を伸ばした。
――闇魔法。
法律上は、禁止されていない。
けれど、その名が世間に出るだけで「魔女」と恐れられ、忌避される属性。
私は他の人間よりも魔力の質が高いと言われていた。
特に、忌避される闇魔法に対して。
そんな私が、陰で触れた古い書物のひとつに、闇魔法の記述があった。
『闇は、すべてを呑み込み、隠し、暴く』
その一文に、胸がざわりと震えた。
(……隠されたものを、暴いてくれるなら)
私は迷わなかった。
誰に止められても、止まらなかっただろう。
屋敷の書庫に眠っていた禁書。
裏市場でこっそり買った、破れかけの魔導書。
それらを夜な夜な読み漁り、魔力を自分の内側へと沈めていく。
闇魔法は、確かに危険だった。
制御を少しでも誤れば、自分自身の精神をも侵す。
けれど、私はその痛みすら、怒りの燃料に変えていた。
(姉様を殺した連中を、絶対に許さない)
神殿の内部。
あの日、姉を告発した者たち。
証言者とされた神官。
処刑の場にいた貴族たち。
闇魔法は、影を伝って人の声を拾い、残留魔力に触れて過去の痕跡を辿る力をくれた。
夜の神殿の外壁に張り付く影に、自らの魔力を溶かし込む。
私は、何度も何度も、そこから内側を覗き込んだ。
『エリシア様を罪に落とすのは、いささか気が引けますが……』
『仕方あるまい。あの女のせいで、神殿の収入は目に見えて減っている』
誰かの会話が、闇を通して耳に届く。
別の夜には、噂を操作するための文書を作っている神官の姿が見えた。
そして――決定的な情報も。
『新たな聖女のミネルヴァ様の神力は、まだ不安定ですが……』
「構わぬ。あの娘は私が育てた。いくらでも演出の仕方はある」
白髪の老人。
常に細い目で笑っている、神殿長カルディス。
その傍らに、淡い茶髪の少女が跪いていた。
絹のような茶髪ストレート。
氷のように白い肌。
ほんのり青みがかった瞳は、表向きは儚げに伏せられて――けれど、その口元には、確かな嗤いがあった。
『ミネルヴァ。お前は『本物の聖女」だ。あの女は偽物。そうだろう?』
『はい、お義父様』
ミネルヴァ――新しい聖女とされた女。
神殿長カルディスの養女。
養父と娘。神殿長と新聖女。
その二人が手を組み、姉を陥れた。
……いや、それだけじゃない。
『聖女は、金を稼ぐ道具に過ぎない』
別の夜、カルディスが側近の神官にそう言い放つのを聞いた。
姉がほぼ無償で平民を治していたせいで、神殿が得られるはずの寄進は減っていた。
貴族も平民も分け隔てなく癒やす姉は、彼らにとって邪魔でしかなかった。
(だから、お姉様を殺した……!)
新しい聖女ミネルヴァは、確かにある程度の力を持っていた。
けれど、それは姉の足元にも及ばない。
なのに、神殿は彼女を「真の聖女」と持ち上げ、姉を「偽物」として処刑した。
(偽物なのは、ミネルヴァの方だ)
怒りで、胃の中が焼けるようだった。
「殺して、やる……!」
喉から漏れた声は、自分でも驚くほど低くて、震えていた。
その瞬間、何かが私の中で切れた気がする。
私は――神殿へ突撃した。
夜、月が雲に隠れ、ちょうどいい闇が王都を覆う。
(ここに、あの二人がいる)
闇魔法で気配を消し、影から影へと身を滑らせる。
門の前に立つ兵士が気づくよりも早く、足元に落ちる影を足掛かりにして、私は内側へと侵入した。
「な、なんだ――ぐっ!」
「――邪魔をしないで」
気づいた衛兵が剣を抜こうとした瞬間、その喉元に闇が絡みつく。
声にならない呻きとともに、男はその場に崩れ落ちた。
殺したのか、意識を奪っただけなのか、それすら冷静に判断できない。
ただ、邪魔する者は排除する。
それだけだった。
「カルディス、ミネルヴァァァァ!!」
私はそう叫びながら先へ進む。
殺したい、復讐したい相手のもとへ。
神殿の廊下を進み、祭壇のある大広間へ向かう。
そこには、数人の神官と兵士、そして――。
祭壇の前。
そこに立っていたのは、見慣れた白髪の老人と、新しい聖女のローブを身にまとった少女だった。
神殿長カルディス。
偽聖女ミネルヴァ。
私は止まれなかった。
「よくも――」
怒りに任せて、私は闇を解き放った。
黒い魔力が渦を巻き、矢となって二人へと殺到する。
「きゃっ……!」
ミネルヴァが悲鳴を上げ、カルディスが杖を掲げる。
同時に、周囲の神官たちが一斉に防御術式を展開し、兵士たちが盾を構えて前に出た。
「貴様……っ!」
「神殿長と、聖女様を守れ!」
「――退けぇ!」
兵士の胸元に闇の槍を突き立て、神官の詠唱を遮るように影を絡める。
血の匂いが鼻を刺す。
それでも、足は止まらない。
(あの二人に、届けばいい……殺せたら……!)
それだけを考えていた。
けれど――。
「捕らえた!」
「油断するな! 闇魔法を扱う魔女だ!」
復讐は――届かなかった。
「がっ……!」
地面にねじ伏せられる。
冷たい石床の感触。
「独学でここまで闇魔法を……ははっ、恐ろしい才能だ」
一人の魔術師がそんなことを言う。
そいつがいなければ、どちらか一人の命は殺せたかもしれないのに……!
顔を上げると、祭壇の奥で、ミネルヴァがカルディスの陰からこちらを覗き見ていた。
その顔。
怯えているのではない。
口元が、三日月のように吊り上がっていた。
嘲笑っている。
姉を殺し、私を踏みにじり、勝ち誇っている。
「あ……あぁぁぁぁッ!!」
私は喉が裂けんばかりに絶叫した。
届かない。
あと数メートルなのに。
手を伸ばせば届く距離に、姉の仇がいるのに。
魔力が尽き、身体が動かない。
そのまま私は、地下牢へと引きずられていった。
裁判など、形式だけのものだった。
姉と同じだ。
私は「悪魔に魂を売った魔女」として、処刑を宣告された。
そして、処刑台へと登る日。
広場には、姉の時と同じように民衆が集まっていた。
人々は私を見て、「あれが偽聖女の妹だ」と口々に罵った。
処刑台の上。
首に冷たい刃の感触を感じながらも、憎悪だけは燃え尽きなかった。
(ミネルヴァ。カルディス。神殿――)
姉を殺した神殿。
(絶対に、許さない)
最後の瞬間まで、その思いだけが胸を占めていた。
それでも現実は残酷で、私の首はあっけなく落とされ――視界は、血のような赤に染まって、すべてが途切れた。
◇ ◇ ◇
――次に私が感じたのは、ふかふかとした柔らかい感触だった。
背中と頬に伝わる、馴染みのある布の感触。
(……なに、これ)
重たかったはずの身体が、嘘みたいに軽い。
瞼をゆっくりと持ち上げると、視界いっぱいに、見慣れた天蓋が広がっていた。
白いレースと淡い水色の布で飾られた、天蓋付きのベッド。
そこは、幼い頃からずっと過ごしてきた――私の、自室だった。
「…………え?」
喉から、間の抜けた声が漏れる。
頭がうまく働かない。
(処刑……された、はずよね、私)
あの刃の冷たさも、首筋に走った感覚も、鮮明に覚えている。
あれが夢や幻覚だったとは、とても思えない。
なのに、今、私は。
自分のベッドの上で、パジャマ姿で、仰向けになっている。
慌てて上体を起こすと、布団がばさりと音を立てた。
身体に痛みはない。
首筋を触ってみても、傷ひとつない。
「なんなのよ……これ……」
呟きながら、ベッドの端に足を下ろす。
死後の世界とか、天国とかなのかとも思うが、自分の部屋で普通の光景すぎる。
(じゃあ、これは……)
混乱する頭を抱え込もうとした、そのとき。
――コン、コン、と。
扉を叩く軽いノックの音が、部屋に響いた。
心臓が、嫌な意味で跳ね上がる。
このノックのリズムを、私は知っている。
何度も、何度も、聞いてきた。
そして、聞けなくなった音だ。
「レイナ?」
扉越しに聞こえた声に、思考が真っ白になった。
あまりにも懐かしい声。
あまりにも、恋しかった声。
扉の前まで行くこともできず、私はベッドの端に座り込んだまま、ただ固まっていた。
「入るわね?」
がちゃり、とドアノブが回る音。
扉が開き、光が差し込んで――。
「おはよう、レイナ。体調はどう?」
そこに立っていたのは。
もう二度と戻らないはずだった。
私の姉、エリシア・モランテスだった。
「……お、ねえ、さま……?」
掠れた声が、自分の喉から零れた。
エリシアお姉様は、少し驚いたように目を瞬かせ、それから小首を傾げる。
「どうしたの、そんな顔して。具合が悪いの?」
いつもの柔らかな淡金色の髪。
優しげに垂れた瞳。
ふんわりとした部屋着姿で、そこにいる。
そこに、生きている。
私は、理解が追いつかなかった。
現実感が、ぐらぐらと揺れる。
でも、ひとつだけはっきりしている。
目の前にいるのは、息をし、瞬きをし、私の名を呼ぶ――私の、姉だ。
「レイナ?」
心配そうに呼ばれた瞬間、張り詰めていた何かがぷつんと切れた。
思考より先に、身体が動いていた。
私はベッドから飛び降りるように立ち上がり、そのまま勢いよく姉に抱きついていた。
「――っ!」
柔らかい身体の感触。
胸元に顔を埋めると、ふわりと優しい香りがした。
涙が、勝手に溢れ出す。
腕を回して、ぎゅっと抱きしめる。
抱きしめた腕の下で感じる、確かな鼓動。
(あたたかい……鼓動してる……)
夢じゃない、と断言できるほどの現実感。
もしこれが夢だとしたら、こんなに温かくて、こんなに苦しい夢を誰が考えたのか教えてほしい。
「レイナ? どうしたの、急に……?」
戸惑ったような声が、頭の上から降ってくる。
それでも私は、離れられなかった。
「……ごめん、なさいっ」
喉の奥から、自然と謝罪の言葉が零れた。
自分でも、何に対して謝っているのか整理できていない。
けれど――。
(あのとき、神殿に行くのを止めていれば)
『大丈夫よ、レイナ。今日の夜にはちゃんと帰ってくるから』
あの日の朝の笑顔が、頭の中で鮮やかに蘇る。
あの時、もっと強く引き止めていれば。
腕を掴んででも、「行かないで」と言っていれば。
(あの処刑の日、私は何もできなかった)
姉はひとりで神殿に行き、ひとりで告発され、ひとりで処刑された。
国中から「偽聖女」と罵られながら。
歴代最高の聖女だったはずの人間が、あんな最期を迎えていいはずがないのに。
何より。
たった一人の、世界で一番大好きなお姉様を。
私は、たったひとりで死なせてしまった。
(何よりも、嫌だった)
寒くて、暗くて、冷たい処刑台の上。
少なくとも私は、姉のそばにいてあげたかった。
泣いて縋ってでも、手を伸ばしてでも。
それなのに。
私がしてあげられたのは、あとから「真相」を暴いて、復讐を誓って、暴走した末に自分も処刑されることだけ。
「ごめんなさい……ごめんなさい、お姉様……っ」
気づけば、何度も謝罪の言葉を繰り返していた。
姉の部屋着の胸元を握りしめ、子供みたいに声を上げて泣いていた。
エリシアお姉様は、最初こそ困惑していたようだが――やがて、そっと両腕を回して、私を抱きしめ返してくれた。
「レイナ……どうしちゃったの?」
優しい手が、背中をぽんぽんと撫でる。
くすぐったくて、懐かしい感触。
「ごめんなさい、ごめんなさい……一人で……一人で行かせて、ごめんなさい……っ」
「一人で……? なにか、怖い夢でも見たの?」
姉の声は、いつも通り穏やかで、どこまでも優しい。
私の言葉の意味は、おそらく半分も伝わっていないはずなのに。
それでも、否定しない。
責めもしない。
ただ、泣きじゃくる私を、子供の頃と同じように抱きしめてくれる。
エリシアお姉様が処刑されてから――私の感覚では、もう一年近くが経っていた。
久方ぶりに感じる、姉の温もりと、声と、匂いと、優しさ。
(夢でも、天国でも……なんでもいい)
たとえここが死後の世界でもいい。
どうせ私は、処刑された身だ。
でもそれよりも何よりも、今は――。
生きているお姉様の温もりに縋りついていたかった。
どれくらい泣いていたのかはわからない。
時間の感覚が、ぐちゃぐちゃになっていた。
しばらくしてようやく嗚咽が収まり、私はぐしぐしと目元を拭った。
顔を上げると、姉が心配そうに覗き込んでいた。
「……落ち着いた?」
「……うん」
声が少し掠れている。
自覚はないが、きっとひどい顔をしているだろう。
「ごめんなさい、お姉様。いきなり……泣いて抱きついたりして」
羞恥心が遅れて押し寄せてきて、思わず視線を逸らす。
こんなにみっともない姿を見せるつもりじゃ、なかったのに。
エリシアお姉様は、小さく首を横に振った。
「いいのよ。……でも、本当に大丈夫? 体調が悪いとか、どこか痛いところはない?」
何も聞かず、私の心配をしてくれる。
その優しさに、また涙が滲みそうになる。
(だめ。ここでまた泣いたら、本当に子供みたいじゃない)
私はぐっと唇を噛み、深呼吸をひとつ置いてから、無理やり笑みの形に口角を引き上げた。
「……大丈夫。身体は、なんともないわ」
「そう? ならよかったわ」
ほっとしたように微笑む姉を見ていると、胸がぎゅっと締め付けられる。
「さっきは……その……変な夢を見て。びっくりして、つい……」
「ふふ。そうだったのね」
エリシアお姉様は、くすりと柔らかく笑った。
「でも、レイナがあんなふうに甘えてきてくれたの、ずいぶん久しぶりだったから……私は、ちょっと嬉しかったわ」
「――っ!」
顔が一気に熱くなるのを感じた。
「べ、別に……! 甘えたくて甘えたわけじゃないわよ。ただ、その、びっくりしただけで……」
「そうなの?」
くす、と喉の奥で笑う音。
私がどれだけ取り繕っても、姉には全部お見通しなのだろう。
わかっていても、恥ずかしいものは恥ずかしい。
「もう、からかわないで。……子供じゃないんだから」
「ごめんなさい。レイナが可愛かったから、つい」
「かわっ――」
言葉が喉でつかえて、私はそれ以上何も言えなくなった。
視線を逸らし、頬に手を当てて熱を誤魔化す。
そんな私を見て、エリシアお姉様は、相変わらず優しい瞳で微笑んでいた。
「でも、その目……かなり腫れちゃってるわね」
「えっ」
慌てて鏡を覗き込むと、そこには見事な泣き腫らし顔の私がいた。
自分でも笑ってしまいそうになるくらい、ひどい。
「少し、じっとしていてくれる?」
正面に回り込み、両手で私の顔を包み込むように優しく触れた。
「目を閉じて」
「……うん」
言われるままに目を閉じると、瞼の上にほんのりとした温もりが降りた。
次の瞬間、淡い光の感触がじんわりと広がる。
聖女の癒しの力。
ひりひりしていた瞼の腫れが、すうっと引いていく。
先ほどまで熱を持っていたのが嘘みたいに、楽になる。
「はい、もういいわよ」
目を開けると、姉が満足そうに微笑んでいた。
「うん、治ったわ」
「……ありがとう、お姉様」
礼を言いながら――私は、そこでようやく、はっとした。
(……今の)
これは、紛れもなく聖女の癒しだ。
あの処刑のあと、決して見ることができなかったもの。
もしここが夢でも幻でもなく、本当に現実だとしたら。
(……過去に、戻ってる?)
そんな考えが、ようやく具体的な形を取り始める。
私が処刑されたのは、姉が殺されてからほぼ一年後だった。
あのときの自分は、確か十八歳。
今、自分の身体を見下ろすと、見慣れたパジャマも、成長具合も――しっくりくる。
幼すぎもしないが、処刑のときほどやつれてもいない。
確かめるべきものは、すぐそこにあった。
壁に貼られたカレンダーに記されている日付を見て、私は息を呑んだ。
私が処刑された日から、約二年前の日付。
つまり――。
姉が処刑される、ほぼ一年前。
そして、偽聖女ミネルヴァが神殿から発表される、およそ一ヶ月前の時点。
(……本当に、戻ってる?)
背筋に冷たいものが走ると同時に、身体の奥で熱い何かが燃え上がる。
「どうかした?」
不思議そうに首を傾げる姉に、私はもうひとつだけ確認した。
「ねえ、お姉様。今って……他に聖女は、出てないわよね?」
「他に?」
エリシアお姉様は少し考えるように目を細め、それから苦笑した。
「聖女は数世代に一人だから……少なくとも今代の聖女は、この国では私だけよ」
お姉様は少し気恥ずかしいと言ったような感じで答える。
自分が特別だと言うのが恥ずかしいのはお姉様らしい。
そんな謙虚なところも好き。
だが、あと一ヶ月ほどでひっくり返される未来を、私は知っている。
(ミネルヴァは偽物。……でも、神殿はそれを本物にする)
今ここにいない新たな聖女の姿が、脳裏に浮かぶ。
茶髪で、氷のような肌。青みがかった瞳。
カルディスの陰で、三日月の笑みを浮かべていた少女。
(今の時点では、まだ表舞台には出ていない。でも――)
不気味な確信があった。
あの神殿長の性格からして、もうすでに準備は整っているはずだ。
ミネルヴァは、すでにカルディスの養女として神殿で飼われている。
あとは、タイミングを見計らって、「新たな聖女」を発表し、姉を貶める布石を打つだけ。
未来と同じことが起こるなら――そうなる。
「レイナ?」
「あ、ううん。なんでもないわ」
考え込んでいた私に、姉が首を傾げる。
危ない、危ない。
ここで変に詮索するようなことを言えば、姉に余計な不安を与えてしまう。
私の中で、ひとつの事実だけははっきりしていた。
(私は、約二年前に戻ってきた。十七歳のときに)
目の前にいるお姉様は十八歳。
神殿と確執はあっても、国中から愛されている、本物の聖女。
「あ、そろそろ神殿に行かなきゃ。今日は午前中から施療院で診察の予定なの」
姉が壁時計に目をやり、立ち上がる。
さっきまで私を抱きしめていた腕が離れていくのが、少し名残惜しかった。
本当は一日中でも一緒にいたい。
でも、そんなことを言ったら、また子供みたいだ。
「じゃあ、行ってくるわね」
「……行ってらっしゃい、お姉様。ちゃんと、帰ってきてね」
「? ええ、もちろん」
エリシアお姉様は、軽く手を振って部屋を出て行った。
まだお姉様と話したいと思っていたが、それは我慢した。
残された部屋の中。
私はしばらくベッドの上に座り込み、深く息を吐いた。
「…………落ち着きなさい、レイナ」
自分に言い聞かせるように呟き、頬をぱしんと軽く叩く。
状況を整理しなければならない。
ここが、天国でも夢でもなく、現実であることはほぼ確定している。
触れるものすべてに、ちゃんとした重みと感触がある。
念のため、部屋の外にも出てみた。
廊下。階段。窓から見える庭。
屋敷の中をひととおり歩いて回る。
出会った使用人たちは皆、普通に私に頭を下げ、「おはようございます、お嬢様」と挨拶してきた。
誰も、私を処刑された魔女として扱っていない。
父も母も、まだあの日のことなど知らない顔で、食堂で朝食を取っていた。
父は書類を読み、母は貴婦人たちの噂話をしている。
(ここは、間違いなく現実。しかも――)
会話の中で出てくる日付や出来事も、壁のカレンダーと矛盾していない。
私は、あの処刑台から約二年前――偽聖女ミネルヴァが発表されるおよそ一ヶ月前の過去に戻っている。
(……なんで戻ったのかは、正直どうでもいい)
理由を考え始めれば、神だの運命だの輪廻だの、面倒な単語が頭に浮かぶ。
そんなものに構っている暇はない。
重要なのは――。
(もう一度、チャンスをもらったってことよね、これ)
廊下の窓から外を見下ろしながら、私は小さく笑った。
自嘲とも、決意ともつかない笑い。
未来と同じように放っておけば、きっと、同じことが起こる。
神殿長カルディスは、ミネルヴァを本物の聖女に仕立て上げ、姉を偽物として処刑する。
それが、この世界の既定路線だ。
だが。
(そんなの、認めるわけないでしょう)
私は、ここにいる。
処刑を経験し、復讐を誓い、闇魔法を手に入れた――未来の記憶を持ったまま。
屋敷を一周して自室に戻り、扉を閉める。
ベッドの縁に腰を下ろし、ぎゅっと拳を握りしめた。
「今度こそは、助ける……!」
小さく、けれどはっきりと声に出して誓う。
あの神殿長カルディスの、歪んだ笑み。
ミネルヴァの、三日月みたいに吊り上がった口元。
思い出すだけで、胃の中が煮え返る。
胸の奥から、黒い感情が噴き上がるのがわかった。
そのとき――足元の影が、ぼうっと揺らいだ。
「……っ」
私自身の影が、意思を持った生き物のように、床の上で蠢いている。
闇が、私の感情に呼応してざわめいているのが、はっきりとわかった。
(闇魔法……)
未来で身につけたはずの力が、ここでも確かに存在している。
手のひらを上に向け、意識を集中させる。
黒い霧のようなものが、うっすらと手の上に集まってきた。
けれど、それはすぐに形を保てなくなり、ぱちんと弾けて消える。
「……まだ、全然ダメね」
苦笑が漏れた。
未来で手探りで習得した闇魔法の感覚は確かに残っているけれど、この身体は十七歳の頃のものだ。
魔力量自体は変わらなくても、鍛錬の密度が違う。
(使えるけれど、練度は低い。……でも、ゼロじゃない)
それなら――鍛えればいい。
もう一度、一からやり直せばいい。
今度は、ただ復讐のためだけじゃない。
「姉様を守るため。……そして、復讐のために」
呟いた言葉が、部屋の中に溶けていく。
二度と、姉を失わない。
二度と、あんな寂しい最期を迎えさせない。
歴代最高の聖女が、偽聖女の茶番に踏みにじられるなんて、もう二度と許さない。
たった一人の、大好きなお姉様を――今度こそ、私が守る。
拳をぎゅっと握りしめると、足元の影が、先ほどよりも静かに、しかし確かに揺れた。
まるで、その決意に応えるように。
そして、一カ月後――新聖女ミネルヴァが現れた、という新聞記事が出てから、数日が経った。
予想通り、街はざわついていた。
酒場でも、市場でも、神殿前の広場でも。
どこに行っても「聖女が二人」「神の奇跡」「新しい時代」という言葉が聞こえてくる。
(うるさいわね……)
新聞の紙面に浮かんでいた、三日月みたいな笑みを思い出すだけで、胃が重くなる。
あの顔が、これから「祝福」と称して街中にばらまかれていくのだと思うと、苛立ちで喉が焼けそうだった。
そんな中で――神殿が、これ見よがしに通達を出した。
『二人の聖女による共同施療』。
掲示板に貼られた紙の上には、太い文字でこう書かれている。
『今代の聖女エリシア様と、新聖女ミネルヴァ様による奇跡の共演』
吐き気がするほど甘ったるい文言だ。
(お姉様も、駆り出されるのね)
神殿としては、新聖女の実績作りに、既存の聖女の信用を利用したい。
あからさま。露骨。手口が雑で、だからこそ腹が立つ。
(お姉様の信用を、あなた達の茶番に利用する気ね)
許せない。
けれど――。
(むしろ、好都合かもしれない)
偽物が、人前に立つ。
本物の聖女と並んで、「奇跡の共演」とやらをやる。
そこに、私も顔を出せば。
面白いことができるかもしれない。
私は、蔵書室の机に肘をつき、新聞の見出しを指先でなぞった。
(……闇魔法の、ちょっとした試運転くらいなら)
独学で鍛え上げた闇は、見せびらかすためのものじゃない。
守るため。暴くため。必要なら、歯を折るため。
紙面のミネルヴァを見つめながら、私はゆっくりと息を吐いた。
(――見せてあげる)
本物と偽物の差を。
少しだけ、痛い目を見せてあげるわ。
神殿本部の前は、人でごった返していた。
病人、怪我人、その家族。
好奇心で見に来た野次馬まで。
誰もが聖女達の姿を一目見ようと押し合いへし合いしている。
「レイナ、こっちよ」
人混みを抜けた先で、白いローブ姿のお姉様が手を振っていた。
いつもの聖女服ではなく、少し装飾を抑えた実務用の衣。
それでも、彼女が立っているだけでそこだけ空気が柔らかくなる。
「お待たせ、お姉様」
「ううん。来てくれて嬉しいわ」
少し無理を言って付き添いをしたいと言ったけど、無事に通ったようでよかった。
これで問題なく、中に踏み込める。
神殿の中に足を踏み入れると、すでに神官たちが慌ただしく走り回っていた。
いつも見慣れた顔ぶれ――その中に、白と金の豪奢なローブをまとった男の姿がある。
「エリシア様、よくお越しくださいました」
神殿長、カルディス。
回帰前に、お姉様をいらない者としてでっち上げの罪で断罪し、処刑した男。
人当たりのいい笑みを浮かべながら、ゆったりとした動作で近づいてきた。
「本日は、お二人の聖女様による共同施療とあって、民たちの期待も高まっております」
「お二人」という言葉に、わざとらしく重みを乗せる。
ああ、この男を――今すぐこの場で殺したいくらいだ。
だが、今は我慢だ。
「エリシア様のご尽力があってこそ、神は新たな聖女をお遣わしになられたのでしょう。あなたの献身こそ、今代の奇跡なのです」
一見、褒め言葉。
けれど、その実――。
(お前の役目は終わりつつある、と暗に言っているような感じね)
お姉様は、困ったように笑った。
「私はただ、できることをしているだけですわ」
「その謙虚さも、また神に愛される所以でしょう」
カルディスはそう言うと、ふと思いついたように手を叩いた。
「そうだ。エリシア様、本日の儀式に際して、特別な御品をご用意いたしました」
「……御品、ですか?」
お姉様が首を傾げる。
カルディスは神官の一人に目配せをし、小さな木箱を持ってこさせた。
「神殿の奥に長らく秘されていた、神聖なる加護の証です。どうか本日の施療の折、身につけていただければと」
木箱の蓋が静かに開かれる。
中には、細い銀鎖のブレスレットが一つ、柔らかな布の上に乗っていた。
中央には、小粒の透明な宝玉がはめ込まれている。
光の加護と称しているくせに、妙にぬめるような魔力の揺らぎ。
「神聖なるもの……?」
お姉様はためらいがちに問い返す。
カルディスは穏やかな笑みを崩さない。
「ええ。癒しの祈りを捧げる際、心を静め、神とのつながりを感じやすくするよう設計された儀式具です。効果そのものは穏やかなものですが……本日ほどの大役の前には、きっとお役に立つでしょう」
何やら丁寧に説明している風だが、効果の説明は特にない。
お姉様は真っ直ぐな目でブレスレットを見つめていた。
「ではありがたく、お預かりしますわ」
「寛大なお心に感謝いたします」
カルディスが恭しく頭を垂れる。
その仕草は絵に描いたような敬虔さだ。
「レイナ・モランテス嬢。ご機嫌よう」
視線が、すっと私に向けられる。
「ご挨拶痛み入ります、カルディス様」
表向きの礼儀は守る。守りたくないけど。
こいつの挨拶なんて吐き捨てたいけど。
だが彼に対する本音は、決して表には出さない。
「本日は、姉の付き添いとして参りました」
「ええ。聖女様のご家族がそばにいらっしゃることは、聖女様にとっても患者にとっても、大きな安心となりましょう」
言葉の裏には何もない。
ただの社交辞令。
だからこそ、たちが悪い。
(神聖なるもの、ね……)
お姉様の手首には、すでに銀鎖が巻き付けられている。
透明な宝玉が、わずかに光を受けて瞬いた。
(どう見ても、ろくでもない仕掛けがありそうなんだけど)
何かあっても、必ず私がお姉様を守る。
そう決めている。
「新たな聖女、ミネルヴァ様ももうすぐお見えになります」
カルディスがそう言ったときだった。
「失礼いたします、神殿長様」
柔らかな声が、私たちの背後から届く。
振り向いた先に――。
「本日はお招きいただき、光栄です」
あの絵で見た少女、さらには回帰前に見た少女が、そこにいた。
淡い茶髪を、きちんと結い上げている。
雪のような白い肌。青みのある瞳。
白と水色の聖女服は、どこかお姉様のものを模しているようでいて、細部が微妙に違う。
「ミネルヴァ様、お忙しい中ありがとうございます」
カルディスが恭しく頭を下げる。
ミネルヴァは控えめに手を振った。
「私はまだ未熟者です。エリシア様のような聖女様になれるか、不安でいっぱいですわ」
そう言って、小さく俯く。
周囲の神官たちが、「そんな」とか「ご謙遜を」とか囁いた。
(お姉様のような聖女、ね)
その言葉に、視線が自然とお姉様に向かう。
ミネルヴァも、青い瞳をそっとお姉様へ向け――柔らかな笑みを浮かべた。
「エリシア様。お会いできて光栄です。あなたのような素晴らしい聖女様がいらっしゃるのに……私などが選ばれてしまって、本当にいいのか、今でも戸惑っているのです」
言葉だけを聞けば、謙虚そのもの。
「そんなことありませんわ」
お姉様は慌てて首を振る。
「神がお選びになったのですもの。きっと、意味があるはずです」
「ありがとうございます、エリシア様」
ミネルヴァは、まるで『守ってもらって当然』と知っている人間の笑みで微笑んだ。
(よくもまあ、そんな顔で……)
胸の内で毒を吐きながら、私はミネルヴァの手元に目を向ける。
彼女は、銀の杖を持っていた。
水色の宝玉が先端にはめ込まれている。
(あれが、補助用の魔道具ね)
表向きは「祈りを形にするための儀式具」。
けれど実際は、ミネルヴァ自身の不足した癒しの力を補うための、神殿製の杖だ。
私は、ずっと前から神殿の儀式具や魔道具の類を、蔵書で調べてきた。
魔力波形の記述、補助陣の構造、増幅器の反応。
神殿は「奇跡」と呼ぶけれど、仕組みは簡単だ。
(あの杖が、ミネルヴァの命綱ってわけね)
手のひらの内側が、じんわりと熱を持つ。
闇が、蠢く。
「それでは、そろそろ始めましょう」
カルディスの声で、私たちは神殿の大部屋へ移動した。
ベッドがずらりと並び、その上には患者たちが横たわっている。
「皆さま、本日はお二人の聖女様が、あなた方のために祈りを捧げてくださいます」
神官が声を張り上げる。
ざわ、と空気が揺れた。
「こちら側の列は、新聖女のミネルヴァ様が診てくださいます。こちら側は、エリシア様が」
自然と人の列が分かれる。
最初は好奇心からか、ミネルヴァの方へと人だかりが多かった。
(まあ、最初はそうよね)
新しいものは、いつだって注目される。
「レイナは、そばで見ていてくれる?」
お姉様が、不安そうにこちらを見上げる。
私はすぐに頷いた。
「もちろんよ、お姉様」
エリシアの列のすぐ側に立ちながら、私は首だけをわずかに傾けた。
視界の端に、ミネルヴァと、その杖をとらえる。
(……さて)
深く息を吸い――そこで、違和感に気づいた。
お姉様の手首の銀鎖が、かすかに光った。
透明な宝玉の奥で、淡い光がゆらゆらと揺れていた。
(……今、空気が少し、変わった?)
闇魔法を学んでいるからか、真逆に近い性質を持つ癒しの力に敏感になったのか。
何かが変わったような気がするが、よくわからない。
「それでは、こちらから始めましょう」
最初の患者が、お姉様のベッドの前に運ばれてくる。
腰を押さえて顔をしかめた、中年の女性だ。
「大丈夫ですか?」
お姉様は、いつものように優しく問いかける。
患者が小さく頷いたのを確認すると、そっと手を重ね、目を閉じた。
「神よ、その御手を……」
祈りの言葉が紡がれ、淡い光がエリシアの掌から溢れ出す。
だが――。
(……薄い?)
私の知っている、お姉様の癒しは、もっと濃くて、暖かい。
それは、患者に触れているこちらの肌まで温もりを感じるほどに。
今、目の前で揺れている光は――確かに癒しの魔力を帯びているけれど、どこか「削がれて」いる。
「ふぅ……どう、ですか?」
お姉様が手を離す。
女性はしばらく身じろぎをし、それから申し訳なさそうに顔を上げた。
「あ、はい、楽になった気はしますが……まだ痛みが少し……」
「そう、ですよね。ごめんなさい、もう一度……」
エリシアはもう一度祈りを捧げる。
今度は、無理をして魔力を押し出しているのがわかった。
「お姉様」
私は小さな声で呼びかける。
お姉様が私を見上げたその目には、わずかな戸惑いが浮かんでいた。
「さっきから少し、変なの。力の通りが悪いというか……」
(やっぱりそうよね)
視線を、さりげなく彼女の手首へと落とす。
銀鎖のブレスレット。
表面の光は穏やかだが、その内側で、別の魔力がぐるぐると循環している。
(周囲の癒しだけを薄めるように組んである……減衰陣、かしら)
蔵書で読んだ通りの癖がある。
特定の属性だけを鈍らせる、環境操作系の魔法具。
(お姉様の足を引っ張ろうとしているのね。新聖女のほうがすごいって印象を作るために)
喉の奥が、じり、と焼ける。
「お姉様、そのブレスレット……少し、見てもいい?」
「え? ええ、いいけれど……」
銀鎖の上に、自分の指先を軽く滑らせる。
宝玉の奥に刻まれている魔法陣が、見えないはずの線を浮かび上がらせる。
私には、それがはっきりとわかった。
「レイナ?」
「少しだけ、預かりますわ」
私は笑ってみせると、するりとブレスレットを外した。
そのまま自分の手の中に握り込む。
「えっ、で、でもカルディス様が……」
「『あまり効果がなかったので、儀式が終わったら返します』って言えばいいだけですわ」
柔らかい笑みを貼りつけたまま、内心では冷たく吐き捨てる。
(神聖なるもの、ね。よく言うわ)
今のままでは、お姉様の力が半分も出せない。
この場で一番困るのは――患者たちだ。
私はブレスレットをスカートの影に隠すと、足元の影に意識を沈めた。
(魔道具本体を壊すのは簡単だけど――)
パキンと宝玉を砕いてしまえば、それで終わりだ。
でも、そんなことをすれば証拠たる破片が残る。
誰かが調べれば、すぐに「ここに何か細工されていた」と気づくだろう。
(だから、『上から布をかける』ように……)
癒しを「鈍らせる」式そのものを、闇で丸ごと包み込んで働かなくする。
(式の輪郭は、ここ。魔力の流路は、こう……これで、遮断)
黒い膜のようなものが、ブレスレットの内側をすっぽり覆っていくのがわかった。
癒しの属性を食う減衰陣が、闇の中で窒息していく。
手の中の宝玉から、先ほどまで感じていた嫌なざらつきが、すっと消えた。
「お姉様」
私はブレスレットをそのまま握ったまま、顔だけ彼女に向ける。
「もう一度、お願いしますわ。今度は、きっと大丈夫」
「え、ええ」
お姉様は不思議そうに私を見る。
けれど、患者は目の前で痛みに顔を歪めている。
迷いを振り払うように、彼女は再び手を差し伸べた。
「神よ、どうかこの方に――」
温かい光、さっきよりも美しい光だ。
(……これよ)
さっきまでと違う。
肌を撫でるような優しい温もりが、波のように患者へと流れ込んでいく。
「……あれ?」
お姉様自身も、それに気づいたようだった。
驚いたように目を見開く。
ベッドの上の女性が、ゆっくりと身を起こした。
「……あ、あれ。腰が……」
恐る恐る腰をひねり、曲げ、伸ばす。
先ほどまで苦痛に歪んでいた顔が、信じられないものを見るように変わる。
「痛く、ない……?」
「本当ですか?」
「え、ええ……! 本当に、軽い……!」
女性の目に涙が溜まる。
「エリシア様、本当にありがとうございます……!」
周囲から、ほっとしたような歓声が上がった。
(よし)
ブレスレットの中は、完全に沈黙している。
カルディスの思惑は、一つ潰した。
(あとは、もう一人の方ね)
私はブレスレットを握ったまま、意識の一部を再び床の影へと落とす。
黒い糸がするすると伸び、今度はミネルヴァの杖の影へと滑り込んでいく。
(直接いじくると痕跡が残る。だから、周りから)
蔵書にあった注意書きを思い出す。
魔道具は「壊す」より「働かせない」方が綺麗だ。
杖の周囲に張り巡らされている、目に見えない魔法陣の残滓。
それを、闇でそっと覆う。
布をかけるように、光を鈍らせる。
杖自身の魔力は、そのまま。
けれど、確実に弱くなるように。
「ミネルヴァ様、こちらの方の診察を」
神官に呼ばれ、ミネルヴァが最初の患者の前に立つ。
痩せた中年の男だ。
咳が止まらないようで、肩を震わせている。
「お辛かったでしょう」
ミネルヴァは杖を軽く掲げ、祈りの言葉を口にした。
杖の宝玉が、柔らかな光を放ち始める。
(さあ、どこまでできるのかしら)
私はお姉様の列の方に視線を戻しつつ、意識の半分をミネルヴァの方に残した。
「ふぅ……どうですか?」
ミネルヴァが問う。
男はしばらく息を整え、それからおずおずと答えた。
「あ、ああ……少し、楽になったような、気がします。ゴホッ、し、失礼しました」
曖昧な返事。
その顔色は、ほとんど変わっていない。
周りの人々の反応も、どこか微妙な空気だった。
「治ったのか?」
「さあ、よくわからないわね」
囁き声の中に、わずかな疑問符が混じる。
(ふふっ)
完全に無効化はしていない。
だから「何も起きなかった」と言われるほど露骨に邪魔をするつもりはない。
あくまで、「聖女の癒しの力では物足りない」程度に。
「では、次の方を」
ミネルヴァが二人目、三人目と治療していく。
どの患者も、「楽になったような気がします」「たぶん……」といった曖昧な反応ばかり。
対照的に――。
「ああ、エリシア様……ありがとうございます……!」
お姉様の前に来た患者たちは、目に見えて顔色を良くしていった。
長年関節痛に苦しんでいたという老人は、立ち上がってひざを曲げ伸ばししている。
「痛みが、消えた……!」
「そんな、夢みたいだ……!」
周囲から、驚きと歓声が上がった。
「エリシア様、こっちにも……!」
「順番を守ってください、押さないでください!」
神官がそう制すほど、列が膨れ上がる。
ミネルヴァの列から、じわじわと人が流れてくるのがわかった。
「おい、あっちの新しい聖女様はどうなんだ?」
「さあ、俺の知り合いは、あまり変わらなかったって……」
「やっぱりエリシア様のほうが……」
そんな声が、何度も何度も耳に届く。
(当然よ、あちらは偽物で、お姉様は本物なんだから)
心の中で呟きながらも、表情は変えない。
私はただ淡々とお姉様のそばに立ち、必要なときに水を運んだり、枕を整えたりしていた。
ふと視線を横に向けると、ミネルヴァの笑みがほんの少し強張っているのが見えた。
カルディスは、無理やり拍手を誘導するように声を張り上げている。
「新聖女ミネルヴァ様の奇跡に、感謝を!」
けれど、その声に応じる拍手は、どこかまばらだった。
(奇跡、ね)
私は足元の影をそっと撫でる。
(偽物の奇跡は少し布をかけてやるだけで、すぐに薄汚れて見えるものよ)
それに比べて、お姉様の癒しは――。
「大丈夫ですか?」
お姉様が、まだ幼い少女の額に手を当てる。
高熱でうわごとを言っていたその子は、ぐったりしていた身体に少しずつ力を取り戻し、うっすらと目を開いた。
「……おねえちゃん……」
「ええ、もう大丈夫よ」
優しく微笑むお姉様の姿に、周囲の空気がふわりと和らぐ。
(この光は、本物)
誰がなんと言おうと、それだけは揺るがない。
私が弄ぶのは、偽物のほうだ。
それに私がしているのは不正をただしているだけ。
「……レイナ?」
ふいに、お姉様がこちらを見た。
その表情には、わずかな戸惑いが浮かんでいる。
「さっきまで、力の通りが少し変だったのに……今は、いつも通りというか、それ以上に軽いの。何か、した?」
「いいえ、特には。ただ……」
私は少しだけ笑ってみせる。
「皆さん、お姉様の方に来たがっているみたい。さすが歴代最高の聖女ね」
「そ、そんな……!」
エリシアは困ったように眉を寄せた。
「私一人では、とても全部は……」
「それでも、目の前の人を助けようとしているお姉様を、みんな見ているから」
ミネルヴァは今、上手くいかない現状を、自分以外の何かのせいにしようとしている顔をしている。
「え、えっと、まだやっぱり聖女の力が目覚めてすぐなので、不安定でして……」
そんなことを言っているが、もちろん嘘だろう。
ただちょっと癒しの力があるだけなのだから。
「……レイナは、本当に私の味方ね」
「当たり前じゃない」
即答すると、お姉様は一瞬だけ目を丸くし、それから少しだけ笑った。
そうして――施療は、夕方まで続いた。
終わる頃には、エリシアの前の列は一旦全員が診てもらい終え、満足した顔で帰っていく人々で溢れていた。
ミネルヴァの前からは、途中で何人かが離れ、お姉様の方へ移動していたらしい。
「本日は、これにて終了とさせていただきます!」
神官がそう宣言すると、神殿の中には「ありがとうございました!」の声がこだました。
「エリシア様、ミネルヴァ様、本当にありがとうございました!」
多くの人々が、深々と頭を下げる。
その多くの視線は、お姉様の方に――ほんの少しだけ、長く留まっていた。
「いえ、私たちは神の御心のままに動いただけですから」
お姉様はいつも通りの微笑みで答える。
ミネルヴァも同じように頭を下げたが、その指先はわずかに震えていた。
(あれくらいの邪魔なら、許されるでしょう。神様とやらも)
誰も傷ついていない。誰も死んでいない。
ただ一人の嘘つきと、その後ろにいるクズが、思い通りにことを運べなかっただけ。
それで十分だ。
「本日は、お疲れ様でした、お二人とも」
カルディスが、二人の聖女の前に歩み出る。
口元には、いつもの柔らかな笑み。
しかし、その瞳の奥は読めない。
「特にエリシア様。あなたの安定した奇跡は、民たちの大きな支えとなっております」
言葉だけを聞けば、素直な称賛。
けれど、その直後に続く言葉が――。
「今後は、新聖女ミネルヴァ様の御力を世に示すためにも、こうした共同施療の場を増やしていきましょう」
「……はい」
お姉様は素直に頷く。
ミネルヴァは、横目でカルディスを見上げた。
「私も、エリシア様からたくさん学びたいと思います。そうして、いずれはエリシア様のように……いえ、それ以上に人々を救える聖女になれたら」
言いながら、青い瞳が一瞬だけ冷たく光る。
(それ以上に、ね)
その言葉を、私は逃さない。
喉元まで出かかった嘲笑を飲み込む。
するとカルディスの視線が、ふと私の手元をかすめる。
「レイナ様、そのブレスレットは……」
「ああ、失礼しました。神聖なるものと聞いておりましたが、姉には必要なかったようです。新聖女のミネルヴァ様のほうが、これを上手く扱えるのでは?」
私がそう言ってミネルヴァに渡そうとすると、彼女は「えっと……」と目を泳がせる。
どうやらこれがどういう効果があるのか、彼女も知っているようだ。
(やっぱり、この二人はお姉様の敵ね)
「失礼しました、レイナ様。これは私が預かっておきます。何か効果があるのか、詳しく調べますので」
「……かしこまりました」
笑みを崩さない神殿長のカルディスに、ブレスレットを渡す。
今はまだ、軽く足元をすくっただけ。
本番は、これからだ――。
「レイナ」
帰り道、神殿の馬車に乗り込む前に、お姉様が私の腕をそっと掴んだ。
「今日、どうだったかしら……新しい聖女様のことも含めて」
その瞳には、不安が滲んでいる。
自分の立場ではなく、ミネルヴァのことを案じているような目。
(本当に、どこまでも優しいんだから)
私は、少しだけ空を仰いでから、お姉様を見た。
「……今日見た限りでは」
言葉を選びながら、はっきりと告げる。
「やっぱり、本物の聖女はお姉様だけですわ」
お姉様の目が、驚きに丸くなる。
その頬が、夕焼けとは違う色でうっすらと染まった。
「そ、そんなことないと思うけど」
照れたように笑うお姉様、やはり綺麗で美しい。
「本当のことですもの」
誰よりも知っている。
前の時間軸で、彼女を失った私が。
(偽物がどれだけ飾り立てても)
この人の光には、絶対に届かない。
私が、この人の光を絶やさない。
例え、魔女と罵られようとも。
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