セロト人
ぼくは心の弱い人間だ。何100社と受けた会社にことごとく落ちた。余裕のなくなったぼくは、名前を書けば採用されるという甘言(広告)に唆され、何とか新卒枠で入社したものの、激務とパワハラに耐えきれず、1ヶ月もしないうちに辞めた。
その後のことは、あまり覚えていない。
今はひとり白い部屋の中でベッドに横になっている。ここが病院だということは親が教えてくれた。
「……どうしてこんなことに」
ぼくは心の弱い人間だ。どうしても過去を振り返ってしまう。成績は優秀で卒論でも褒められたこと。ぼくには明るい未来が、希望があると思っていた。
毎日叱られて、仕事も覚えられなくて。出来ても増えていって積み重なって、失敗して怒鳴られて。なのに、飄々と出世する同期もいたりスパッと辞めてしまう人もいたり。
ぼくはあの時、どうするべきだったかなぁ。
「う……うっ」
唇の皮を噛んでしまう。ガサガサで平らにならないのが苛ついて、つい血が出るまで噛んでしまう。痛い。だけど、少しだけスッとする。
親が面会に来た。
静かにぼくの顔を見て、
「疲れたよなコウキ。よく休んでなさい」
「母さんはあなたの味方よ、コウキ」
それぞれ言葉をかけてくれた。ちょっと心がギュッとなった。どう返したらいいか分からない。傷ついた訳でも感動した訳でもない。この気持ちに当てはまる言葉をぼくは知らない。
看護師さんが部屋に入ってきた。面会の終わりを告げるためだ。未だボーッとしているのは薬のせいか。でも、今日は何だか頭の中に数字が浮かんだ。
友人の携帯番号だ。
「父さん母さん」
久々のぼくの言葉を聴いて、慌てたように振り返る2人。「何か欲しいものはないのか!?」と両手を掴まれて言われた。だから言った。
「10円玉、500円分」
病院に設置されている公衆電話に使うんだ、と言い切る前に父親が慌てて、赤い革の小銭ケースをぼくに渡した。
「ぼくが大学生の頃あげた小銭ケースが、こんなかたちで返ってくるなんて思わなかった」
ぼくが冗談交じりに話すと、母さんは後ろを向いて嗚咽をもらしていた。泣かないでよ。冗談だったのに。
父さんは、
「私たちは覚悟できている。ゆっくり直していこうな」
そう言って母さんと室内から出ていった。面会が終わり、大嫌いなシャワーも介護付きで終わる。就寝時間までやることがなくなったぼくは、友人に電話を掛けた。
「……どちらさん?」
あ、そうか。
病院から掛けてるから、ぼくだということに気付かないんだな。むしろ怪しまれてる。非通知表示になっているのかもしれない。
「やぁヒトシ君。学生パスを使って君と美術館ビンゴをした、コウキだよ」
「ん、桜ノ宮かぁ? 久しぶり! なんで非通知なん?」
ぼくが笑いながら事情を説明する。陽気な相槌がだんだん様子を窺っているように思えた。ヒトシ君は、
「こんな時、なんて言えば良いんや?」
とストレートに訊いてくる。昔からこんな性格だから、話しやすかった。無性に『こういう人』と話したかった。
「迷惑だったかな?」
「迷惑やろ、時間考えろや」
「……ごめん。じゃあ切るよ」
ぼくが言ったら、ヒトシ君が少し怒ったような声で、
「面談? 面会? よく分からんけど、俺いつ行けばええねん」
そう言った。いろいろ説明していたら500円どころか1600円も使っていた。膨らんでいた小銭ケースが痩せている。
(本当に、来るのかな)
今のぼくに時間という概念は無い。眠りたい時に寝て。眠れない時に起きて、生きる意味や生まれてしまった意味を考えて。大嫌いなシャワーがいつの間にか行われていて、看護師がドライヤーをしながら話しかけてくる。
「今日は何を話しますか?」
「何って?」
「面会ですよ、御友人との!」
もう、そんなに経ったのか。確かヒトシ君は3日後に来ると言っていたはず……。
髪が乾くと、少し気分がいい。その流れで横になった。身体が深く沈み込んで、自分の存在が泡になって消えていくみたいだ。
(ぼくは本当に存在しているのかなぁ……)
天井を向いている両目を右腕で隠した。真っ暗な世界。また、生きる意味を考える。
「このまま消えてしまえばいいんだ」
ぼくの視界は真っ暗で、(これからの未来もそうなのかな)と考えると涙があふれた。
部屋の扉の開く音がする。急なことにぼくは涙を止めることが出来なかった。
「……泣いてるし」
それは、少し落ち着いた友人の姿だった。スカルやらピアスやらは辞めたらしい。
「そっか、ヒトシ君はちゃんと社会人になれたんだね。おめでとう」
「……ありがとさん」
気まずそう。きっと直ぐ帰っちゃうな。
「来てくれてありがとう、うれしかったよ」
「……無いなぁ……」
(?)
ぼくはヒトシ君の発言の意図がわからず、視線の先を追いかけることしかできなかった。
……窓?
「光が差さへん部屋で1日居ったら更に病むやろ、せや! この光るキーホルダーガチャガチャでもろてんけど、要るか?」
ヒトシ君の誘いを断る前に、看護師が止めた。自殺の可能性があるものは持ち込めないようになっている、とやんわり説明されて、
「なんでや! 鬱にはセロトニンとか、ドパミンがええんやろ? あと光とかバナナとか。あ、バナナなら差し入れてもええよな。1本だけの買ってきてるで!」
と、大学の頃とあまり変わらないテンションでキレていたから、それが面白くて、笑った。
「何がおもろいねん」
友人が顔を真っ赤にしながら真顔で言うのに耐えかねて、声を出して笑った。
「……なんやねん、元気そうやな。心配して損したわ」
「ごめんごめん、でも。ホントになんだか、ありがとうって気持ちだ」
「どんな気持ちや」
笑ったあとは吹っ切れて、回復が早かった。朝ご飯のパンの温かさや、ミキサー食じゃないスパゲッティの美味しさを噛み締め、たまに来る友人とよく分からないことを話して過ごした。
そんな入院生活も、今日で終わり。
退院の日。
親だけじゃなくてヒトシ君も来てくれた。そして、ウズウズした顔で言った。
「これ、やっと渡せるな、キーホルダー。もう明かり付かんけど、退院祝いにもろてくれるか?」
「まだ憶えてたんだ。笑える」
「うっせーな、また生意気になりやがって」
きっと心の声なんて全員にダダ漏れだけど、ぼく、このキーホルダー。ずっと大事にするね。鬱病の人に【死神が月を切ってるキーホルダー】を渡そうとした、天然のヒトシ君。
おしまい