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息を止めると楽になる

作者: 天御夜 釉
掲載日:2025/08/27

 朝、蛇口をひねる音が目覚ましになった。


 いつも通りの音。細く出した水がシンクを叩く、あの軽い拍子。

 コップを濡らし、飲み口を指でなぞってから、僕は一杯の水を喉に落とした。


 冷たいはずなのに、喉ぼとけのあたりでぬるい幕が張りつく。ほんの一秒、呼吸が止まる。

 むせて、流しの中に少し吐いた。透明だから誰にもわからない。


 僕にも、まだわからない。


 玄関で靴を履き、ドアを引く。


 外の廊下が、やけにしっとりしていた。

 廊下の端、消火栓の脇にある目地の隙間に、細い水が湧いている。


 アパートの貯水槽からの滲みだろうか。

 管理人に言うほどのことじゃない、と背を向ける。

 毎日ある何かに名前をつけないと、日常はすぐに壊れてしまうから。


 出勤の電車は少し混んでいた。

 窓に額を寄せると、曇りがつく。

 内側を人差し指で拭うと、指先に水の筋が冷たくまとわりついた。

 都心の耐えがたい湿度。

 となりの女子高生が、ペットボトルのミネラルウォーターを傾ける。

 ラベルの青が揺れるたびに、喉の奥が痒くなる。


 次の駅で降りたサラリーマンの席に座ると、ズボンの太腿が冷えた。

 座面が湿っていた。僕は何も言わない。

 何も言わないことが、いちばん楽だ。


 会社の給湯室でコップをすすぎ、コーヒーを淹れる。

 沸騰した湯が紙コップに注がれていく瞬間、表面張力の丸みが見えた。

 丸い膜の向こうに、僕の顔が歪んでいる。


「最近、うちのマンション、上の階から水漏れしてるんだよね」


 背後から声。総務の高田さんだ。僕はあいづちを打つ。


「この時期、多いですよね」


「うん。天井から。夜中にぽたぽた言っててさ、寝られないの」


 ぽたぽた。ぽたぽた。


 かすかな音が、耳の奥に残る。

 紙コップを唇につけた瞬間、熱いはずのコーヒーがやけに重たく、口いっぱいに広がり、喉にまとわりついてくる。

 僕はまた一瞬、息を止めた。


「どうしたの?」

「いえ。少し、むせただけです」


 帰り道、コンビニで牛乳とパンと、トイレットペーパーを買う。

 店を出たところで、足元の白線が濡れていた。雨は降っていないのに、白い塗料の上だけがテカっている。

 その上を踏むと、ぬるりと滑った。


 顔を上げると、ビルの屋上に貯水タンクがあった。

 スチールの胴に夕焼けが映っている。

 赤い光の輪郭が揺れた。

 タンクの脇から垂れた配管の一本が、かすかに震えている。


 水の重さ。夜が来る。


 自宅の浴室は、いつものように曇りやすい。

 熱い湯をシャワーから出して換気扇を回す。


 壁のタイルに細い水の筋が無数に走る。

 シャワーカーテンの下端に黒い点々。

 僕の手が動作を覚えている。


 ボトルを右から左へ、スポンジを軽く握りしめて。

 顔を上げずに、鼻から息を吸い、口から吐く。


 そのとき、床の排水口から、ぼこ、と気泡の音がした。

 湯気の白い中で、床が微かに盛り上がる。


 しゃがみ込んで排水口の蓋を外す。

 髪の毛が絡んだヘドロをティッシュでつまみ上げた瞬間、指先に冷たいものが巻きついた。

 髪が生き物のように指に絡み、引いた。


 驚いて手を振ると、ティッシュごと黒い束が床に落ちた。

 床はたちまち濡れて、黒い束は蛇みたいに伸び――いや、僕の見間違いだ。

 湯気のせいだ。僕は、蓋を戻し、シャワーを止めた。


 鏡に顔を近づける。

 頬がこけて、目の下に青い隈。瞳孔の縁に、薄い水色が混ざる。

 僕は鏡を曇らせ、指で適当に笑顔を描いてから、手のひらを洗い流した。


 薄い膜が指間に残る。ため息をつく。湿っているため息。


 夜中、目が覚めた。

 寝室の天井から、ぽたり、と水が落ちる音。

 目を凝らすと、暗闇のどこかで光が揺れる。

 枕元のスマホを手探りで取る。時刻は二時二十二分。通知がひとつ。


「上階の佐野さん」からのマンションLINEグループのメッセージ。


 《すみません、水漏れがひどくて管理会社に電話しました》


 画面に水滴が丸く広がった。

 僕は反射的に拭こうとし、指先にそれが本当に湿っていることを知る。

 天井の一点が黒く膨らみ、次の一滴が落ち、スマホの上で弾けた。


 ベッドから起きてバケツを置く。

 音はバケツの底で鈍く響き、水面に円が波紋を描く。

 波紋の輪は、どこまでも広がる気がした。


 部屋は六畳なのに、波紋だけは、遠くまで。


 翌朝、出勤前に管理会社に電話した。

 呼び出し音の向こうで水が流れているような雑音。

 担当者が出た。


「すぐ伺います」


 玄関のドアを閉めると、廊下に湿った足跡が続いていた。

 僕の靴底の形ではない。

 もっと小さく、丸い。

 裸足の子どものような足跡が、消火栓の方から僕の部屋の前まで来て、そこで止まっている。


 隣の部屋のドアがかすかに開いた。

 上階の佐野さんの奥さん――いや、未亡人になって半年。

 彼女が、そこに立っていた。パジャマの袖口が濡れて垂れている。


「昨夜、うるさくしてすみません」

「いえ……大丈夫ですか」

「大丈夫。慣れましたから」


 慣れました、のところで、彼女の口の中に水が溜まっている音がした。

 ぺちゃ、と舌に触れる水の音。

 彼女の足元に、濃い水の色が広がっている。


 廊下に染み込む速度が速い。僕は目を逸らした。

 彼女はドアを閉めるとき、「息、長く止められますか?」と、聞いた。

 答えられなかった。

 ドアの隙間から、浴室の鏡が見えた。


 鏡の向こうに、知らない誰かが、ぼんやり立っていた。


 会社。午前の会議は、空気が重かった。

 空調が止まっているらしい。

 机の下でスラックスの裾が湿っている。


 皆のパソコンの底面から、ファンの音とは違う、遠い水音がする。


「ニュース見た?」と、営業の望月が言う。

「今月に入って、風呂場での事故が増えてるって」


 スクリーンに投影された記事。

 〈風呂で意識失い溺水か〉という見出しが並ぶ。

 詳細はない。湯船で眠る、心臓発作、持病、統計の言葉が、乾いた口の中に貼りつく。


 昼休みに、僕は水を買わなかった。

 自販機の光るボタンの列が、深い井戸の底に見えたからだ。


 喉が渇いたまま、午後が過ぎた。


 帰宅すると、管理会社の掲示板に張り紙があった。

 〈貯水槽点検のお知らせ〉

 〈高架水槽の配管補修〉

 〈当面、濁り水が出ることがあります〉


 玄関で靴を脱ぐと、廊下の床板が柔らかい。

 指で押すと沈む。木材の繊維が水を吸って膨らんでいる。

 リビングから、ぽた、ぽた、という音。

 バケツは半分まで満ち、溢れそうになっていた。


 僕は台所の流しにそれを捨てようとして、ふと躊躇う。

 バケツの水面に、僕の顔が映っている。

 輪郭が柔らかく溶け、目元が膨らみ、口が小さな泡を吐く。

 その泡が、僕の名前を吐く。


 聞き間違いだ。

 僕は水を捨て、バケツを戻す。

 帰り道に買った刺身のパックを開ける。

 台所の蛍光灯の下で、赤い身が濡れている。

 口に入れると、塩の味もしない。


 ただの水の味。噛むほどに表面が崩れ、舌の上で溶けていく。

 僕は醤油を多めに垂らした。味は戻らない。舌にも膜が張っている。


 夜。風呂をためる。湯船に手首を入れて温度を測る。

 ほどよいはずの熱さが、がくん、と冷える。耳の奥で、水の流れる方向が逆転する感覚が走る

 。

 止水栓を閉めようとする。つまみが重い。

 床が傾いでいるのか、湯が片側だけ高くなる。


 水平線が斜めなのに、湯面の反射は天井の電球を正確に映す。

 湯船に浸かる。胸の下に浮力がかかる。

 皮膚の表面にぬるい手が触れ、そっと上へ、上へ押し上げる。


 耳が塞がれ、世界の音が低くなる。

 水中の世界は、いつもそうだ。

 やわらかく、遠く、静かで、圧倒的に近い。


 目を閉じると、まぶたの裏に小さな泡が浮かぶ。

 泡が破裂する瞬間に、音が生まれる。ぽ、と、ぷ、と、ぺ、と。どの音も、日常の音に似ている。

 目覚まし時計、電子レンジ、電子決済のピッ。


 目を開けた。湯面の向こう、浴室のドアのガラスに、人の影。

 隣の佐野さんの奥さんだ。どうやって入ったのか考えるより先に、彼女はガラス越しに唇を動かした。


 読唇できる程度にゆっくり。「息を、止めると、楽になります」


 僕は立ち上がろうとした。体が重い。

 湯が足首、膝、太腿を掴む。

 手すりに手を伸ばす。指が濡れて滑る。

 ドアノブは遠い。


 ガラスの向こうの彼女の足元から、水が逆流する。

 廊下が水槽になる。ガラスの中の世界のほうが先に水で満ちていく。

 彼女の顔が水に歪み、泡が唇から生まれる。泡は言葉になる。日常の単語が次々に。


 ――朝食。出勤。お疲れさま。おやすみ。

 泡が破裂するたび、僕は少しずつ息を吐いた。

 肺が軽くなる。軽くなるほど、胸の内側が冷える。


 わかっている。息が尽きるのは怖い。

 でも、息を止めるのは、たぶん、楽だ。


 スマホのアラームが鳴った。

 風呂場の外の洗面台に置いたスマホ。

 水の向こうで、既定のメロディが、鈍い鐘のように響く。


 僕は湯船から片足を出し、床に踏みつける。

 水が指の間から噴き出すような感覚。滑る。膝を打つ。

 痛みはない。痛みは水に吸われる。


 這ってドアを開ける。

 廊下がスローモーションで波打っている。

 板目の線がゆらぎ、床板の隙間から細い水が噴き出す。

 スマホを掴む。画面に水滴が重なり、通知が膨らむ。


 《明日の朝会、八時からに変更》


 画面の文字がゆっくり溶け、濁流の中を漂う紙片みたいになる。

 僕は上滑りする親指で「了解しました」と打とうとし、できない。

 親指の腹に付いた膜が、ガラスに吸い付く。


 打てるのは丸い「。」「、」だけ。


 風呂場に戻る。湯面がさっきより高い。

 止水栓は閉めたはずだ。蛇口からは出ていない。

 なのに、湯は増えている。


 鏡の中の僕が水を吐いている。

 吐いた水が湯船に戻る。循環。僕の中の水が、外の水に帰る。


 インターホンが鳴った。

 玄関のモニターに、管理会社の作業服を着た男が映る。

 帽子のつばから水が滴る。

 彼はにこやかに名乗り、胸ポケットから検針のメーター写真を取り出した。

 写真のメーターの数字は、逆に回っている。


「お客様、ここ数日、水道の使用量がマイナスになってましてね」

「……マイナス?」

「はい。お戻しになっている、ということです。良いことですよ。皆さん、最近は戻しておられる」


 彼は笑った。笑うと、口の中で魚が反転するように舌の影が動いた。


「確認のため、中を拝見しても」


 僕は答えない。ドアのチェーンが震え、金属に水の膜が張る。

 彼はモニターの向こうで耳に手を当て、廊下の空気を聴くようなしぐさをした。


「息、止められますか?」


 ドアを閉めた。


 鍵をかけ、チェーンをかけ、二度、三度確かめる。

 ドアの向こうで、彼の足音が遠ざかる。

 遠ざかりながら、廊下に足跡を増やす。

 裸足の小さな丸い跡。僕の足跡ではない。


 夜がきた。

 天井から、ぽたぽたと規則的に落ちる音。

 バケツは満杯になり、床にあふれだした。


 電気はついているのに、部屋は水底のように暗い。

 台所でコップに水を入れる。

 水はもう透明ではない。うっすら乳白色で、とろみがある。

 コップの内壁に残る輪。僕の唇に触れる冷たい輪が、首輪みたいに喉を締める。


 テレビをつける。

 ニュースキャスターが淡々と話す。音声が水の中の英語みたいに聞こえる。

 下のテロップだけがはっきりしている。


 〈入浴中の事故に注意〉〈水深十センチでも溺水します〉〈息を止めないで〉


 リモコンのボタンが沈む。押し込んだところに水が満ち、戻ってこない。

 テレビの画面にノイズ。水の中で光が千切れる。


 浴室のドアの向こうから、音がした。

 湯船の縁を、誰かが爪で叩く音。


 トン、トン、トン。


 僕は立ち上がる。

 足元がぬるぬるする。

 廊下の水が足首まで来ている。

 冷たくない。むしろ、僕の体温をなぞる。


 浴室のドアを開ける。

 湯面が天井近くまで上がっている。

 浴室は水で満ち、脱衣所のほうへ溢れようとしているのに、廊下の水位はそれ以上にはならない。


 見えない境界。


 湯の中に、誰かがいる。

 髪が、藻のように揺れる。

 指が、ゆっくりと縁を叩く。


 トン、トン、トン。


 顔が上がる。

 見知らぬ男だ。目が開いている。

 口も。口から泡がひとつ生まれ、僕の足元まで転がってきて、弾けた。


 ――ただいま。

 泡はそう言った。

 僕は、わかったふりをした。

 誰かの家の言葉を、合鍵で開けた部屋の匂いのように吸い込む。

 日常は、誰かと共有するとすぐに腐る。

 水は腐ると甘い匂いがする。甘い匂いは、眠気を呼ぶ。


 眠い。


 床に座り込む。水が膝を包む。

 太腿。腰。鳩尾。鎖骨。耳。頭頂。


 息を吸う。水が肺に入る。

 咳は出ない。苦しくない。

 むしろ、呼吸が楽だ。

 肺の中で水が波打つたび、通勤の車内アナウンスが、給湯室の湯沸かしの音が、電子レンジの終了音が、遠く再生される。

 日常が肺で再生される。


 目を閉じる。開ける。

 開けたままで、暗闇が降りる。

 天井のシミが近づいてくる。

 シミの中にゆっくりと黒い目が開き、僕を見る。


 僕は見返す。


 水の顔が、皆、笑っている。


 誰も叫ばない。

 叫び声は泡になる。泡は言葉になる。

 言葉は生活の断片になる。断片は何度も再生される。

 朝食。出勤。


 お疲れさま。


 おやすみ。

 僕も、笑う練習をする。

 鏡の指の絵の通りに。唇の端を引き上げる。

 頬の筋肉が水に溶ける。目尻の皺に水がたまる。


 息を止める。長く。もっと長く。

 楽になっていく。

 日常は、溺れると完成する。

 僕は、完成に向かって、沈む。



 翌朝、目覚ましが鳴った。

 ベッドの上に僕はいない。

 バケツは空っぽで、床は乾いている。

 浴室のドアは閉まっている。


 誰も気づかない。

 ただ、湯船の水面に映る天井のシミの中に、新しい小さな輪がひとつ、増えている。

 輪は、息を止めるたび、少しずつ大きくなる。

 輪の中心に、笑顔の形だけが残る。


 朝の水道をひねる音が、今日も、目覚ましになる。


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― 新着の感想 ―
これはすごい…!文章がヌルっとしてて、読んでるだけで皮膚に膜が張りつくような気持ち悪さ……でも、それがクセになる!!気持ちいい!!! “日常が水に浸食される”感覚がじわじわ広がってきて、最後には息をと…
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