息を止めると楽になる
朝、蛇口をひねる音が目覚ましになった。
いつも通りの音。細く出した水がシンクを叩く、あの軽い拍子。
コップを濡らし、飲み口を指でなぞってから、僕は一杯の水を喉に落とした。
冷たいはずなのに、喉ぼとけのあたりでぬるい幕が張りつく。ほんの一秒、呼吸が止まる。
むせて、流しの中に少し吐いた。透明だから誰にもわからない。
僕にも、まだわからない。
玄関で靴を履き、ドアを引く。
外の廊下が、やけにしっとりしていた。
廊下の端、消火栓の脇にある目地の隙間に、細い水が湧いている。
アパートの貯水槽からの滲みだろうか。
管理人に言うほどのことじゃない、と背を向ける。
毎日ある何かに名前をつけないと、日常はすぐに壊れてしまうから。
出勤の電車は少し混んでいた。
窓に額を寄せると、曇りがつく。
内側を人差し指で拭うと、指先に水の筋が冷たくまとわりついた。
都心の耐えがたい湿度。
となりの女子高生が、ペットボトルのミネラルウォーターを傾ける。
ラベルの青が揺れるたびに、喉の奥が痒くなる。
次の駅で降りたサラリーマンの席に座ると、ズボンの太腿が冷えた。
座面が湿っていた。僕は何も言わない。
何も言わないことが、いちばん楽だ。
会社の給湯室でコップをすすぎ、コーヒーを淹れる。
沸騰した湯が紙コップに注がれていく瞬間、表面張力の丸みが見えた。
丸い膜の向こうに、僕の顔が歪んでいる。
「最近、うちのマンション、上の階から水漏れしてるんだよね」
背後から声。総務の高田さんだ。僕はあいづちを打つ。
「この時期、多いですよね」
「うん。天井から。夜中にぽたぽた言っててさ、寝られないの」
ぽたぽた。ぽたぽた。
かすかな音が、耳の奥に残る。
紙コップを唇につけた瞬間、熱いはずのコーヒーがやけに重たく、口いっぱいに広がり、喉にまとわりついてくる。
僕はまた一瞬、息を止めた。
「どうしたの?」
「いえ。少し、むせただけです」
帰り道、コンビニで牛乳とパンと、トイレットペーパーを買う。
店を出たところで、足元の白線が濡れていた。雨は降っていないのに、白い塗料の上だけがテカっている。
その上を踏むと、ぬるりと滑った。
顔を上げると、ビルの屋上に貯水タンクがあった。
スチールの胴に夕焼けが映っている。
赤い光の輪郭が揺れた。
タンクの脇から垂れた配管の一本が、かすかに震えている。
水の重さ。夜が来る。
自宅の浴室は、いつものように曇りやすい。
熱い湯をシャワーから出して換気扇を回す。
壁のタイルに細い水の筋が無数に走る。
シャワーカーテンの下端に黒い点々。
僕の手が動作を覚えている。
ボトルを右から左へ、スポンジを軽く握りしめて。
顔を上げずに、鼻から息を吸い、口から吐く。
そのとき、床の排水口から、ぼこ、と気泡の音がした。
湯気の白い中で、床が微かに盛り上がる。
しゃがみ込んで排水口の蓋を外す。
髪の毛が絡んだヘドロをティッシュでつまみ上げた瞬間、指先に冷たいものが巻きついた。
髪が生き物のように指に絡み、引いた。
驚いて手を振ると、ティッシュごと黒い束が床に落ちた。
床はたちまち濡れて、黒い束は蛇みたいに伸び――いや、僕の見間違いだ。
湯気のせいだ。僕は、蓋を戻し、シャワーを止めた。
鏡に顔を近づける。
頬がこけて、目の下に青い隈。瞳孔の縁に、薄い水色が混ざる。
僕は鏡を曇らせ、指で適当に笑顔を描いてから、手のひらを洗い流した。
薄い膜が指間に残る。ため息をつく。湿っているため息。
夜中、目が覚めた。
寝室の天井から、ぽたり、と水が落ちる音。
目を凝らすと、暗闇のどこかで光が揺れる。
枕元のスマホを手探りで取る。時刻は二時二十二分。通知がひとつ。
「上階の佐野さん」からのマンションLINEグループのメッセージ。
《すみません、水漏れがひどくて管理会社に電話しました》
画面に水滴が丸く広がった。
僕は反射的に拭こうとし、指先にそれが本当に湿っていることを知る。
天井の一点が黒く膨らみ、次の一滴が落ち、スマホの上で弾けた。
ベッドから起きてバケツを置く。
音はバケツの底で鈍く響き、水面に円が波紋を描く。
波紋の輪は、どこまでも広がる気がした。
部屋は六畳なのに、波紋だけは、遠くまで。
翌朝、出勤前に管理会社に電話した。
呼び出し音の向こうで水が流れているような雑音。
担当者が出た。
「すぐ伺います」
玄関のドアを閉めると、廊下に湿った足跡が続いていた。
僕の靴底の形ではない。
もっと小さく、丸い。
裸足の子どものような足跡が、消火栓の方から僕の部屋の前まで来て、そこで止まっている。
隣の部屋のドアがかすかに開いた。
上階の佐野さんの奥さん――いや、未亡人になって半年。
彼女が、そこに立っていた。パジャマの袖口が濡れて垂れている。
「昨夜、うるさくしてすみません」
「いえ……大丈夫ですか」
「大丈夫。慣れましたから」
慣れました、のところで、彼女の口の中に水が溜まっている音がした。
ぺちゃ、と舌に触れる水の音。
彼女の足元に、濃い水の色が広がっている。
廊下に染み込む速度が速い。僕は目を逸らした。
彼女はドアを閉めるとき、「息、長く止められますか?」と、聞いた。
答えられなかった。
ドアの隙間から、浴室の鏡が見えた。
鏡の向こうに、知らない誰かが、ぼんやり立っていた。
会社。午前の会議は、空気が重かった。
空調が止まっているらしい。
机の下でスラックスの裾が湿っている。
皆のパソコンの底面から、ファンの音とは違う、遠い水音がする。
「ニュース見た?」と、営業の望月が言う。
「今月に入って、風呂場での事故が増えてるって」
スクリーンに投影された記事。
〈風呂で意識失い溺水か〉という見出しが並ぶ。
詳細はない。湯船で眠る、心臓発作、持病、統計の言葉が、乾いた口の中に貼りつく。
昼休みに、僕は水を買わなかった。
自販機の光るボタンの列が、深い井戸の底に見えたからだ。
喉が渇いたまま、午後が過ぎた。
帰宅すると、管理会社の掲示板に張り紙があった。
〈貯水槽点検のお知らせ〉
〈高架水槽の配管補修〉
〈当面、濁り水が出ることがあります〉
玄関で靴を脱ぐと、廊下の床板が柔らかい。
指で押すと沈む。木材の繊維が水を吸って膨らんでいる。
リビングから、ぽた、ぽた、という音。
バケツは半分まで満ち、溢れそうになっていた。
僕は台所の流しにそれを捨てようとして、ふと躊躇う。
バケツの水面に、僕の顔が映っている。
輪郭が柔らかく溶け、目元が膨らみ、口が小さな泡を吐く。
その泡が、僕の名前を吐く。
聞き間違いだ。
僕は水を捨て、バケツを戻す。
帰り道に買った刺身のパックを開ける。
台所の蛍光灯の下で、赤い身が濡れている。
口に入れると、塩の味もしない。
ただの水の味。噛むほどに表面が崩れ、舌の上で溶けていく。
僕は醤油を多めに垂らした。味は戻らない。舌にも膜が張っている。
夜。風呂をためる。湯船に手首を入れて温度を測る。
ほどよいはずの熱さが、がくん、と冷える。耳の奥で、水の流れる方向が逆転する感覚が走る
。
止水栓を閉めようとする。つまみが重い。
床が傾いでいるのか、湯が片側だけ高くなる。
水平線が斜めなのに、湯面の反射は天井の電球を正確に映す。
湯船に浸かる。胸の下に浮力がかかる。
皮膚の表面にぬるい手が触れ、そっと上へ、上へ押し上げる。
耳が塞がれ、世界の音が低くなる。
水中の世界は、いつもそうだ。
やわらかく、遠く、静かで、圧倒的に近い。
目を閉じると、まぶたの裏に小さな泡が浮かぶ。
泡が破裂する瞬間に、音が生まれる。ぽ、と、ぷ、と、ぺ、と。どの音も、日常の音に似ている。
目覚まし時計、電子レンジ、電子決済のピッ。
目を開けた。湯面の向こう、浴室のドアのガラスに、人の影。
隣の佐野さんの奥さんだ。どうやって入ったのか考えるより先に、彼女はガラス越しに唇を動かした。
読唇できる程度にゆっくり。「息を、止めると、楽になります」
僕は立ち上がろうとした。体が重い。
湯が足首、膝、太腿を掴む。
手すりに手を伸ばす。指が濡れて滑る。
ドアノブは遠い。
ガラスの向こうの彼女の足元から、水が逆流する。
廊下が水槽になる。ガラスの中の世界のほうが先に水で満ちていく。
彼女の顔が水に歪み、泡が唇から生まれる。泡は言葉になる。日常の単語が次々に。
――朝食。出勤。お疲れさま。おやすみ。
泡が破裂するたび、僕は少しずつ息を吐いた。
肺が軽くなる。軽くなるほど、胸の内側が冷える。
わかっている。息が尽きるのは怖い。
でも、息を止めるのは、たぶん、楽だ。
スマホのアラームが鳴った。
風呂場の外の洗面台に置いたスマホ。
水の向こうで、既定のメロディが、鈍い鐘のように響く。
僕は湯船から片足を出し、床に踏みつける。
水が指の間から噴き出すような感覚。滑る。膝を打つ。
痛みはない。痛みは水に吸われる。
這ってドアを開ける。
廊下がスローモーションで波打っている。
板目の線がゆらぎ、床板の隙間から細い水が噴き出す。
スマホを掴む。画面に水滴が重なり、通知が膨らむ。
《明日の朝会、八時からに変更》
画面の文字がゆっくり溶け、濁流の中を漂う紙片みたいになる。
僕は上滑りする親指で「了解しました」と打とうとし、できない。
親指の腹に付いた膜が、ガラスに吸い付く。
打てるのは丸い「。」「、」だけ。
風呂場に戻る。湯面がさっきより高い。
止水栓は閉めたはずだ。蛇口からは出ていない。
なのに、湯は増えている。
鏡の中の僕が水を吐いている。
吐いた水が湯船に戻る。循環。僕の中の水が、外の水に帰る。
インターホンが鳴った。
玄関のモニターに、管理会社の作業服を着た男が映る。
帽子のつばから水が滴る。
彼はにこやかに名乗り、胸ポケットから検針のメーター写真を取り出した。
写真のメーターの数字は、逆に回っている。
「お客様、ここ数日、水道の使用量がマイナスになってましてね」
「……マイナス?」
「はい。お戻しになっている、ということです。良いことですよ。皆さん、最近は戻しておられる」
彼は笑った。笑うと、口の中で魚が反転するように舌の影が動いた。
「確認のため、中を拝見しても」
僕は答えない。ドアのチェーンが震え、金属に水の膜が張る。
彼はモニターの向こうで耳に手を当て、廊下の空気を聴くようなしぐさをした。
「息、止められますか?」
ドアを閉めた。
鍵をかけ、チェーンをかけ、二度、三度確かめる。
ドアの向こうで、彼の足音が遠ざかる。
遠ざかりながら、廊下に足跡を増やす。
裸足の小さな丸い跡。僕の足跡ではない。
夜がきた。
天井から、ぽたぽたと規則的に落ちる音。
バケツは満杯になり、床にあふれだした。
電気はついているのに、部屋は水底のように暗い。
台所でコップに水を入れる。
水はもう透明ではない。うっすら乳白色で、とろみがある。
コップの内壁に残る輪。僕の唇に触れる冷たい輪が、首輪みたいに喉を締める。
テレビをつける。
ニュースキャスターが淡々と話す。音声が水の中の英語みたいに聞こえる。
下のテロップだけがはっきりしている。
〈入浴中の事故に注意〉〈水深十センチでも溺水します〉〈息を止めないで〉
リモコンのボタンが沈む。押し込んだところに水が満ち、戻ってこない。
テレビの画面にノイズ。水の中で光が千切れる。
浴室のドアの向こうから、音がした。
湯船の縁を、誰かが爪で叩く音。
トン、トン、トン。
僕は立ち上がる。
足元がぬるぬるする。
廊下の水が足首まで来ている。
冷たくない。むしろ、僕の体温をなぞる。
浴室のドアを開ける。
湯面が天井近くまで上がっている。
浴室は水で満ち、脱衣所のほうへ溢れようとしているのに、廊下の水位はそれ以上にはならない。
見えない境界。
湯の中に、誰かがいる。
髪が、藻のように揺れる。
指が、ゆっくりと縁を叩く。
トン、トン、トン。
顔が上がる。
見知らぬ男だ。目が開いている。
口も。口から泡がひとつ生まれ、僕の足元まで転がってきて、弾けた。
――ただいま。
泡はそう言った。
僕は、わかったふりをした。
誰かの家の言葉を、合鍵で開けた部屋の匂いのように吸い込む。
日常は、誰かと共有するとすぐに腐る。
水は腐ると甘い匂いがする。甘い匂いは、眠気を呼ぶ。
眠い。
床に座り込む。水が膝を包む。
太腿。腰。鳩尾。鎖骨。耳。頭頂。
息を吸う。水が肺に入る。
咳は出ない。苦しくない。
むしろ、呼吸が楽だ。
肺の中で水が波打つたび、通勤の車内アナウンスが、給湯室の湯沸かしの音が、電子レンジの終了音が、遠く再生される。
日常が肺で再生される。
目を閉じる。開ける。
開けたままで、暗闇が降りる。
天井のシミが近づいてくる。
シミの中にゆっくりと黒い目が開き、僕を見る。
僕は見返す。
水の顔が、皆、笑っている。
誰も叫ばない。
叫び声は泡になる。泡は言葉になる。
言葉は生活の断片になる。断片は何度も再生される。
朝食。出勤。
お疲れさま。
おやすみ。
僕も、笑う練習をする。
鏡の指の絵の通りに。唇の端を引き上げる。
頬の筋肉が水に溶ける。目尻の皺に水がたまる。
息を止める。長く。もっと長く。
楽になっていく。
日常は、溺れると完成する。
僕は、完成に向かって、沈む。
翌朝、目覚ましが鳴った。
ベッドの上に僕はいない。
バケツは空っぽで、床は乾いている。
浴室のドアは閉まっている。
誰も気づかない。
ただ、湯船の水面に映る天井のシミの中に、新しい小さな輪がひとつ、増えている。
輪は、息を止めるたび、少しずつ大きくなる。
輪の中心に、笑顔の形だけが残る。
朝の水道をひねる音が、今日も、目覚ましになる。




