沈黙の懐中時計
見慣れた忘れ物にも、よく見れば“違和感”が潜んでいる。
それがただの偶然なのか、それとも――
観察することで、過去の経験が意外な形で目を覚ますことがある。
それが“推理ごっこ”の面白さであり、時に過去と今をつなぐ橋になる。
午後の Café Komorebi は、柔らかなスイングジャズと、ミルクを泡立てる音に包まれていた。
ふと、手元のクロスでテーブルを磨きながら、僕は店内の静けさに耳を澄ませる。
そして、視線の端に“それ”が見えた。
カウンター横の文具トレーの中に、そっと置かれていた銀色の懐中時計――今朝の開店前に、ベンチの下で見つけたものだ。
カチリ。
ふたを開けると、針は二時三十八分で止まったまま、音も立てない。
(妙に、重い……)
時計の構造には昔から興味があった。大学時代は部品図を書く授業も多く、同期には精密機械系の研究に進んだ友人もいた。
何より、前職では設計図面とにらめっこする日々だった。機構を見れば、おおよその構造や用途の見当はつく。
懐中時計のふた裏には、型番らしき打刻があった。
だが、見覚えのないものだった。いわゆる大量生産品のものとは異なる。
(やけにケースが厚いし、ムーブメントの大きさと比べて中が詰まりすぎてる。……これはもしかして、何か改造されてる?)
「こんにちは」
視線を上げると、日下部綾さんがふわりと入ってきた。
淡いピンクのシャツに、ベージュの細身のパンツ。バッグから手帳が少しはみ出ていて、足元には雨の名残が少し。梅雨の合間の晴れ間だった。
「いらっしゃいませ。今日は……」
「午後からの勤務です。少しだけ寄り道させてください。……なんだか最近、こういう場所で頭を切り替えたくて」
いつもの席に着きながら、彼女の視線も自然と、懐中時計に吸い寄せられた。
「それ、新しい忘れ物ですか?」
「ええ。朝、見つけました。……ちょっと気になる点がありまして」
「というと?」
彼女はグラスに口をつける前に、僕の前の懐中時計を見つめた。
僕はそっとそれを手渡し、ふたを開いたまま示す。
「止まってますね。しかも、この数字……二時三十八分」
「そこまでは普通なんですが、ケースの厚み、構造、打刻……いくつか妙な点があります。市販品にしては精度が高すぎるんです」
「精度……ですか?」
「はい。まず、このケースの合わせ目、量産品ならプレス成型ですが、これはCNCで削り出したような精密な噛み合わせ方をしてます。さらに裏蓋のヒンジ、あれは手作業で加工しないと、この遊び幅にはならない」
「つまり……機械に詳しい人が関わってる?」
「それもただの趣味ではなく、設計あるいは加工の知識がある人だと思います」
綾さんは、時計を光にかざしてじっと見つめる。
「……中に何か、あるとか?」
「可能性はあります。たとえば、これは“懐中時計の形をした別の道具”かもしれません」
「隠し機能、ということですか?」
僕は頷き、懐から小さな精密ドライバーを取り出すと、時計裏のネジをひとつずつ慎重に外す。
「……まさか、カフェのカウンターで分解されるとは思いませんでした」
「……趣味みたいなものですので」
ヒンジを外し、裏蓋を開いた瞬間――「カチャリ」と異音が響いた。
そこには、通常のムーブメントの横に、薄く作られた金属製の筒が仕込まれていた。
「これ……メモリスティック?」
「いえ、もっと旧式の記録メディアですね。見たところ、設計データか記録媒体。CADデータの保管とか、そういう類の……」
綾さんが目を丸くする。
「こんなもの、どうして懐中時計に?」
「たぶん、誰にも渡したくないデータなんでしょう。記録媒体としては今や時代遅れだけど、それゆえに目立たない」
「つまり、これを忘れた人は……設計職か、技術系の人?」
「おそらく退職間際、あるいは独立直前で、大事な資料を保管していたんじゃないかと」
僕は改めて、筒の形状や素材に目を凝らした。チタン合金。切削痕。
量産には向かないが、手元の試作品や大切な一件を守るにはふさわしい作りだった。
そのとき、カラン、とドアが鳴った。
「すみません……時計、忘れてしまって」
入ってきたのは、四十代後半と思われる男性。くたびれた作業着に、肩からかけた革の鞄。
その表情には、切羽詰まったような緊張と、懐かしさの入り混じった色が浮かんでいた。
「……ああ、よかった。やっぱり、ここでしたか」
懐中時計を見た瞬間、男性の手が微かに震えた。
「これ、父が最後にくれたもので。……中に、残しておきたかったデータがあったんです。会社を辞める前に、自分の設計をまとめてて」
綾さんは、そっと目を伏せた。
「ちゃんと、お戻しできてよかったですね」
「ほんとうに、ありがとうございます……」
*****
「……まさか、設計の知識がこんなふうに役に立つとは」
「機械設計って、すごく繊細な仕事なんですね」
「……そうですね。すべての部品が、きちんと噛み合ってないと、どこかで止まるんです」
綾さんはグラスを両手で包み込むようにしながら、微笑んだ。
「そういう考え方、ちょっと好きかも」
「ありがとうございます。……今日の推理ごっこ、楽しんでいただけましたか?」
「もちろん。また、“少しだけ”お付き合いしてもらいますよ」
スピーカーからは、静かにウッドベースの音が響いていた。