古びた文庫本
忘れ物というのは、誰かの無意識が落としていったものかもしれない。
それを拾い、手に取って、少しだけ想像してみる。
「どんな人が、これを持っていたんだろう?」
それだけの遊びが、こんなにも心をほぐしてくれるとは、思いもしなかった。
昼下がりのCafé Komorebiは、午後の日差しとスイングジャズに満たされている。
レンガの壁には柔らかなランプの灯りが滲み、木のテーブルにはガラスの影がゆらめいていた。
冷房の風がゆっくりと空気を巡り、コースターの上のグラスにはうっすらと水滴が浮いている。
僕――柳瀬透は、カウンターの奥で空いたグラスを拭きながら、今日の来客を思い返していた。
そんなとき、小さくベルが鳴る。
「こんにちは。……ふふ、今日もご出勤ですね」
声に顔を上げると、入口に立っていたのは日下部綾さんだった。
白のノーカラーブラウスに、淡いグレーのスラックス。首元には控えめなシルバーのネックレスが揺れている。髪は肩で軽く揺れ、整った横顔に知的な雰囲気が漂う。
「いらっしゃいませ。今日も、午後からお仕事ですか?」
「ええ、フレックス制度の特権です。……気持ちを整えてから会社に行きたくて」
カウンターの端に腰を下ろすと、鞄からスマートフォンと文庫本らしきものをそっとテーブルに出す。
「アイスカフェラテ、いつもの感じでお願いします」
「かしこまりました」
僕は冷蔵庫からグラスを取り出し、氷を数個落とす。
エスプレッソを注ぐ音が短く響き、ミルクがその上にふわりと重なる。グラスをコースターに乗せて出すと、綾さんは一息ついてグラスに手を添えた。
その細い指先が、少しだけ冷たさに驚いたように動く。
「ありがとうございます……あ、テーブルの上のそれ、忘れ物ですか?」
彼女が視線を向けたのは、カウンターの隅に置かれた一冊の古びた文庫本。
表紙は色あせ、角がわずかに反り返っている。背には小さなひび。タイトルはすでに読み取りにくいほどすれていた。
「ええ。窓際の席の下に落ちていました。昼前に見つけて、スタッフにも尋ねたんですが、該当者がいなくて」
「今日も推理ごっこ、できますね」
綾さんはグラスを軽く持ち上げ、ストローを少しだけかじるようにして口元に運んだ。
ゆっくりと飲んでから、テーブルに戻す動作もどこか慎ましい。
「……お付き合いは、少しだけです」
「もちろん」
彼女は笑いながら、そっと文庫本を手に取った。両手で包むように開くと、ページの隅々をなぞるように目を落とす。
「ページの角が折られてる……五か所、いえ六か所。しおりの代わりにしてたのかな」
「折り方も統一されてませんね。綺麗に折る箇所と、雑な折り方の箇所がある」
「ということは、読むときの気分に左右されてる。几帳面さより感覚派ですね」
「読書の習慣があって、物語にのめり込む人……だと思います。中身は……?」
綾さんがゆっくりとページをめくりながら答える。
「家族のこと、仕事のこと、誰にも話せない思いを抱える登場人物が出てきますね。感情を飲み込んで、それでも前に進もうとする人たち」
「現実に疲れて、ちょっとだけ他人の人生に逃げてる……そんな読者像が浮かびます」
綾さんは再びグラスを手に取り、氷の音を聞きながら一口飲む。
「つまり、感受性が豊かだけど、自分の気持ちを押し込めてるタイプですね」
「職業は……たとえば、事務仕事や接客業など、他人の言動に気を遣う職場かもしれません。自分の感情より他人の都合を優先してしまうような」
「あるいは……私みたいに、広告の現場で“感情を見せすぎるな”なんて言われたりね」
冗談めかして言いながら、彼女は目線を下げて文庫本の背を親指でなぞった。
「この本の持ち主も、今ごろ慌てて探してるかもしれませんね」
「今日の午前中、来店されたお客様については、念のためスタッフから聞き取りをしてあります。特に記憶に残っているのが、白いワンピースを着た女性。一人で来て、読書に没頭していたそうです」
「……間違いないですね。読書のためにこの店に来て、文庫本を忘れてしまうほど夢中だったんだと思います」
グラスの中で氷がカランと音を立てる。
そのとき、入口のベルが鳴った。
「すみません……こちらで本の忘れ物って、届いてませんか?」
控えめな声の女性が、白いワンピースに薄手のカーディガン姿で立っていた。
声の調子、落ち着いた雰囲気、そして本を忘れたことを気にかけて急いで来たような表情――僕たちの推理と、まるで重なっていた。
「もしかして……これですか?」
「はい、それです! ありがとうございます……この本、もう何度も読み返していて、つい夢中になって」
女性は何度も頭を下げ、大事そうに文庫本を抱えて帰っていった。
*****
「……今回は、ほぼ正解でしたね」
綾さんは笑いながら、ストローを指で転がす。氷が減ったグラスの中で、音がまた鳴った。
「読書に救われてる人って、なんだか……放っておけないですね」
「そうですね。少し、見覚えがあるような気もします」
「また推理ごっこ、してくれますか?」
「……少しだけ、ですよ」
スピーカーからジャズピアノが流れるなか、彼女はアイスカフェラテの最後の一口を飲み干した。
人は誰でも、気づかないうちに何かを置き忘れていく。
それは物だけじゃなく、思いとか、疲れとか、小さな自分自身だったりする。
Café Komorebiのテーブルの上では、そんな忘れ物を拾い上げて、そっと誰かの輪郭を想像する。
それが“推理ごっこ”の面白さであり、あたたかさなのだと思う。