晴れた日の忘れ物
この物語は、郊外の静かなカフェで交わされる、小さな推理ごっこの記録。
人の営みの中にある、ほんの些細な「忘れ物」から始まる会話が、ふたりの心を少しずつ繋いでいく。
これは、そんな昼下がりの出来事。
郊外にある個人経営のカフェ「Café Komorebi」は、駅から歩くと十五分ほど。
周囲には地元のスーパーと、商店街の名残のような古い文具屋と和菓子店がぽつぽつと並んでいる。
木製の引き戸を開けると、ほのかにコーヒーの香りが広がる。天井から吊るされた観葉植物が、ゆるやかな陰影を落とす。静かな音楽と、日差しが作る木漏れ日。ここは喧騒から少しだけ離れた空間だ。
僕、柳瀬透は、ここでバイトを始めて数ヶ月になる。
年は三十を少し過ぎたところ。前職は機械設計だったけれど、働くうちに、自分が組織の“歯車”としてうまく噛み合わなくなっていった。疲れがたまって、判断も人間関係も、次第にぎくしゃくし始めた。最終的には、部署で孤立し、転職も失敗した。
気づけば「働くってなんだっけ」と呟きながら、ふらりと入ったのがこのカフェだった。
今はこうして、注文を取ったり、コーヒーを淹れたりしながら、少しずつ呼吸の仕方を思い出している。
*****
その日、午後三時を少し回った頃。
開いたドアの向こうから、日下部綾さんが現れた。
ミディアムヘアを後ろでまとめ、白いシャツの上に淡いグレーのカーディガンを羽織っている。細身のベージュのパンツと、小ぶりのショルダーバッグが似合っていた。立ち姿がまっすぐで、姿勢に無駄がない。
「こんにちは、柳瀬さん。今日は少し早めの休憩をもらえたので、ふらっと」
「いらっしゃいませ。アイスコーヒー、いつもの席でよろしいですか?」
「はい、お願いします。……あ、それと、今日は上司に“もうちょっと情緒を込めて”って言われてしまって。メールにですよ?」
彼女は苦笑を浮かべながら席に向かった。
日下部さんは、数週間前からこの店に通っている常連客。僕より少し年上か、同じくらいかもしれない。広告代理店で働いていると言っていた。最初は仕事の帰りにふらっと寄ったらしく、以来、週に二、三回ほど顔を見せる。
物腰が丁寧で、でもどこか積極性を隠さないところがある。落ち着いた声で話すけれど、視線や言葉の節々に芯のようなものを感じる。
僕がコーヒーを運ぶと、彼女はちらりとカウンター奥の棚に目をやった。
「あの……あそこに置いてある傘、忘れ物ですか?」
「はい。今日のお昼過ぎに、テーブルに残されていました」
彼女は少し首を傾げて、傘を見つめた。
「白地にグレーの縁取り……目立たないけど、ちゃんと選ばれてる傘ですね。男性のものではなさそう」
「おそらく女性かと。持ち手も細くて軽いですし」
「それで、今日の忘れ物なんですね?」
「ええ。念のため、ランチタイムのあとにスタッフに確認して、どんなお客さまがいらしたか、記憶の限り聞いてみました」
「ということは……はい、やりましょう。“推理ごっこ”」
彼女は小さく笑った。
推理ごっこ。それは彼女が持ちかける、小さな謎を紐解く遊び。以前にも少しだけ、一緒にやったことがある。
「少しだけ、ですよ」
「ふふ、分かってます」
*****
テーブルの上に傘を置いて、彼女はそっと取っ手に触れる。
「今日の天気は晴れ。でも夏の強い日差しがあった。これは日傘として持ってきたと考えるのが自然ですね」
「ですね。雨傘としてはやや軽すぎます」
「白にグレー。目立たないけれど、地味すぎない。年齢層は……二十代後半から三十代中盤くらい。落ち着きはあるけど、地味を狙ったわけじゃない人」
「服装もそれに合わせたものを想像します。華美ではないが、きちんとしている」
「そして、今日の昼過ぎに来店された方は三人――お年寄りの女性、スーツのビジネスマン、それと……」
「ワンピース姿の女性。色は淡く、アイスティーを頼んで十五分ほどで帰られたとのことです」
「それです。その方が怪しい」
彼女は笑う。
「きっとその人は、日差しが強いからと普段は使わない日傘を持って出てきた。でも、店の中に入って、すっかり忘れてしまった。長居する気がなかったから、置き場所の意識も薄かったのかもしれません」
「傘を持ち慣れていない人かもしれませんね」
「はい。たぶん、自分が“傘を持っている”ということを意識しづらい人。あるいは、持ち物にあまり執着しない性格かも」
「それが本当なら……少し疲れているか、急いでいるかのどちらかですね。ゆっくりできない事情がある人」
「あるいは、何か考え事をしていたのかも」
そう言ったとき、扉のチャイムが鳴った。
カラン――。
入ってきたのは、控えめな色合いの白いワンピースに、小ぶりな手提げ。髪を一つにまとめた女性が、ゆっくりとカウンターに近づいた。
「あの……すみません。今日のお昼に、傘を忘れてしまって……白に、少しグレーの縁の……」
「こちらでしょうか」
僕が傘を手に取って見せると、彼女はほっとしたように頷いた。
「よかった……。すみません、急いでいたもので。ありがとうございました」
軽く頭を下げると、そそくさと店を後にした。
*****
「……ほぼ、正解でしたね」
日下部さんがそう言ったとき、僕もふっと頷いた。
「持ち物に執着がなさそう、というのは当たっていたかもしれませんね」
「今日も、楽しかったです。“推理ごっこ”。」
彼女はそう言って、テーブルの端に指を置く。
「また、新しい忘れ物が見つかったら……少しだけでも、お付き合い願えますか?」
「ええ、少しだけですよ」
僕がそう返すと、彼女は目を細めて笑った。
「それでいいです。推理ごっこって、ほどほどが楽しいんです」
外では日差しが傾き、木々の隙間からこぼれる光がテーブルの上にゆれていた。
人の忘れ物には、その人の輪郭がかすかに滲んでいる。
“推理ごっこ”という名のやさしい会話が、その輪郭をほんの少しだけ浮かび上がらせる。
Café Komorebiの午後は、今日もそんな静かな謎解きで幕を閉じました。