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代わりの印鑑

作者: 夏野 篠虫

 風が吹けば鉄錆の匂いがするようなシャッターが目立つ商店街。その一角に潰れそうで潰れないはんこ屋がある。

 20年前から見た目が変わってないと噂のヨボヨボしわくちゃの店主は目も耳も悪いお爺さんで、身体は丈夫で心優しいが最近は記憶が曖昧だ。

 経営は――実情は知らないが1年ほど前から毎日店前を通りがかっても利用客を見たことない。たまに近所のお年寄りが数人集まり店頭に円卓を持ち出し煎餅や饅頭を(さかな)にお茶をしている。商売っ気がまるでない、その気概は嫌いじゃない。

 狭苦しい店内を外から眺めると曇ったショーケースに並ぶ印鑑やその材料は今では入手困難なアフリカゾウの牙や中国の”(ぎょく)”を中心に高価なものが埃をかぶっている。今どきペーパーレスからの印鑑レスで需要は激減。安くても売れないのにどうするのだろうか。


 そう思っていたらある日の夕暮れに店前を通ったとき、2つの回転式ラックに入った安価な認印が『ご自由にどうぞ』という貼り紙とともに店頭に置かれていた。貼り紙は白のコピー紙に黒ペンの手書きだが、何故か一方だけ赤地の和紙で文字は墨書きだった。どちらも色に関係なくお年寄り特有の達筆でやや読みにくい。

 荷物の受け取り時に使っていた印鑑をちょうど昨日失くした自分はラッキーと思い、自分の苗字を探した。一台に1000ほどの苗字が彫られた印鑑が五十音順に並ぶラックには見たことない苗字も多い。自分の苗字は少し珍しく、同じ漢字の苗字も多いので数多(あまた)に埋もれて探しにくい。一台目には見当たらず、もう一台の赤紙が貼られた方を探すとすぐに見つかった。

 一応店内に入って「この印鑑、本当に貰っていっていいんですかー?」と、奥のカウンターで新聞を読む店主に目の前で尋ねた。「ああね。えぇーよ」という許可を得るまで大声で2回言った。

 ありがとうございますと一礼して立ち去ろうとしたら、不意に店主が思い出したように話しかけてきた。

「お客さん。今日はあれよあれ、庚申(こうしん)やから印鑑置いとるんよ。だからあっちのは取っちゃいかんよ」と大きな声で、喉の震えを抑えきれない喋りをする。

「え、駄目なんですか? あっちってどっちですか」

「あのーほれ、紙ぃ貼ってったろ。あっかい方。ありゃ”()()()()()()”のためのもんやから。触っちゃいかん」

「あの、これ赤い方から持ってきちゃいましたけど、戻した方が?」

 そう言うと店主が私の持っていた印鑑をひったくって字を確認した。

「……あんたぁ”藤縄(ふじなわ)”言うんか。地元のもんじゃないな」

「そうですけど……」

「ここいらの人はみんな知っとるでいつもなんも言わんで置いとったが……うぅむ……時間がない、ちょっと待っとれ」店主は腰を叩きながら、店の奥のドアに入っていった。


 よくわからないけど貰ったら駄目なら置いとくなよと思ったが口に出さなかった。さっきから店主が何を言ってるのかわからない。こうしんも知らないし”じょっけん様”は聞いたこともない。そのじょっけん様のための印鑑を何故置いてるのか。何のために? 置かないと、取ってしまうとよくないことがあるのかもしれない。

 ふと店内の様子が気になった。古臭い骨董のような印鑑やはんこ、そのケースや材料がガラスケースに収められている。日焼けで青白く変色したポスターの俳優たちがこちらを笑顔で見つめる。薄暗い蛍光灯の明りが急に気持ち悪く思えてきた。


 店主はまだ戻ってこない。ドアの奥で物音とブツブツと独り言が聞こえる。鳩時計の秒針の音量が徐々に拡張していく。入口を振り返るとすっかり日が暮れていた。いつもより暗く見える外に人通りはやはりない。


 ガシャン。

 店先で音がした。

 人の気配はない。だが端に見える回転ラックの一台がゆっくりと動いている。私が印鑑を取った、赤い紙の方。

 カシャカシャカシャ……という素早い音が聞こえる。ラックから印鑑を引き抜く音だと思う。誰かが大量に印鑑を取っている。誰が――じょっけん様?

 やがて、数分続いた擦過音(さっかおん)がぴたりと止んだ。

 終わった、帰ってくれる。そう思った途端、ガラガラガラガラガラッとラックが勢いよく回転したと思うと強い力で横倒しになった。何者かの怒りを感じた。私の呼吸が詰まった。

 中に入ってくるのが予感できた。逃げ場はない。何が来るのかもわからない。首回りが苦しくなり手の平が汗でぬめる。

 入口の端に茶色っぽい毛むくじゃらの人のようなものが見えた時、背後から私の顔の横を何かが入口へ向かって飛んで行った。道に落ちたそれは向かいの店まで転がった。毛むくじゃらはそれに反応し拾い上げると、印鑑を押す前に向きを確認するような仕草をした。そして重そうな体を動かすたびにどこかに持った印鑑がジャラジャラ揺れる音を響かせて闇に去っていった。


 脂汗まみれで後ろを向くと汗だくで肩で息をする店主が椅子に座っていた。

「はぁ……はぁ……間に合ってよかったわ……」

「いま印鑑を投げたんですか」

「さっき……あんたが取った印鑑は、もう燃やした。あんたの苗字と、おんなじ藤縄の印の、別の彫ったやつを投げたんや……」

「あの、助けてくれたんですよね。よくわからないままですけど、その、すみません。ありがとうございました……あれはいったい何なんですか」

「あれやない。じょっけん様言うんや」呼吸が落ち着いてきた店主が語気を強めて答えた。

「様……神様のような?」

「みたいなもんや。わしらも、よおわからんけどな、ずっと昔からおるんよ。わしらの爺さん婆さんよりももっと前から。庚申の日におてんとさんから来る言うて、そのまんまなにもせんと皆の良い気ぃが持ってかれてまう。だからその身代わりに印鑑を置いとく」

「苗字が代わりになるんですか」

「苗字は家を表すもんやろ。昔は本名を隠しとった時代もあった。名前っちゅうのはそんくらい大切な、大事にしないかんものなんよ」

 ついさっきまで感じていた気持ち悪さはいつのまにか消えていた。

「……うちの母さんは3年前に亡くなった、息子も他所(よそ)へ行ってまった。わしもいつまで、こうやってけるかわからんが……くたばるまではやっていかなかん。最後の義務やと思っとる」

 私と視線の合わない店主の目はどこを見ているんだろう。

 静まる空気の中、私は最後に一つだけ問いかけた。

「もし、この作業をやる人がいなくなったら、どうなるんですか」

「さぁなぁ……どうなるんかはわからん。わしにはどうもできん。言い伝えられてきたことをやっとるだけだで、なんの力もないんよ。後のことは知らん。生きとるもんの問題や……人間死んだらそれで終わりよ」

 私はどう言葉を返したらいいか分からず、店主が燃やしたものの代わりに藤縄の印鑑を購入した。ケース付きで300円だった。

 店を出た時に振り返ってみると、店主はもう新聞に目を落としていた。


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