閉ざされた薔薇園の追憶
夜雨が古城の高い窓を叩きつける晩秋の夜──。
銀色の稲妻が老朽の石壁を白く浮かび上がらせ、轟く雷鳴が深い闇を裂いた。
閉ざされた城門の向こうでは、かつて「氷の悪徳令嬢」と呼ばれたアドリアーナ・フォン・ヴェルデンが、ひとり窓辺に佇んでいた。
深紅のベルベットドレスは雨に濡れ、胸元の薔薇の紋章はひそやかに滴る雫を受け止めている。
十五年前の春、ここには一面の薔薇園が広がり、幼い令嬢は無垢な笑顔を振りまいた。
亡き母の遺した淡い香りが庭に漂い、父の慈しみの言葉を胸に、彼女は幼馴染の鍛冶職人ルーカスと共に花びらを集めた。
真夜中に駆け回り、手を繋いで笑い合った日々は、凍てつくほどに遠い夢となった。
政略結婚の陰謀が城に忍び寄ったのは、十五歳の誕生日の夜だった。
政敵によって捏造された証拠は嘘の罪状を紡ぎ、彼女は王宮の評議会で断罪された。
父は痛ましく俯き、幼馴染のルーカスは何も言わずに去った。
銀の薔薇はその夜、血の色を失い、彼女の心は凍結した。
断罪の翌朝、城門の扉は二度と開かれず、鋼鉄の車輪が引く輿は夜の闇を震わせながら彼女を運んだ。
絹の裾を引きずる音さえ、城壁にこだました。
アドリアーナは、冷たい決意を胸に固めた。
「私は、もう二度と傷つかない」
深紅の薔薇を棘ごと引き抜き、その手は血で染まった。
遠隔の領地に築いた暗い館で、彼女は策略と毒薬の匠となった。
政敵への密書、舞踏会の薔薇に仕込む幻覚薬、人々の秘密を暴く調査網──
誰ひとり彼女の計画からは逃れられない。
噂はやがて怪談となり、貴族たちは恐れを帯びた目で彼女を「氷の魔女」と呼んだ。
城下町は震えあがり、夜の通りは静まり返った。
だが、苛烈な勝利のたびに、アドリアーナの夜は深い闇に沈んだ。
鏡の前で微笑むたび、幼い日の自分が羽虫のように胸を去来し、胸の奥底に刺さる痛みを残した。
秘蔵の書斎には、埃をかぶったルーカスの短い手紙があり、「君が無事なら──それだけで、十分だから」という一行だけが彼女を責め立てた。
ある晩、彼女は庭園を訪れた。
凍れた薔薇の間に、一輪だけ残る薄紅の蕾を見つけた。
「真実は、氷を溶かす」
震える手で蕾を包み込むと、長い間閉ざしていた感情の扉が軋む音を立てた。
翌朝、彼女は黒いマントを脱ぎ捨て、深紅のドレスで庭園を歩いた。
視線の先には、失われた思い出とともに立つ幼馴染の姿。
ルーカスは手袋を外し、不器用に手を差し伸べた。
「私は……あなたを、裏切った」
アドリアーナは震える声で言った。
ルーカスはそっと彼女の手を取った。
その瞬間、過去の痛みと後悔が二人を包み込む。
やがて、彼は小箱を取り出し、深紅の薔薇を模した銀のペンダントを差し出した。
「君が、ずっと……笑っていてほしかった」
涙がアドリアーナの頬を伝い、彼女は答えた。
「私も、あなたと笑いたかった……」
言葉の余韻が静寂を埋め、砕け散る轟音とともに古びた薔薇園の支柱が倒れかかる。
ルーカスはとっさに彼女を抱き寄せたが、重い蔦と鉄骨が二人を押しつぶした。悲鳴が夜空に散り、深紅の薔薇の花弁と共に、二つの影は消えた。
人々は震え声で語り継ぐ──
「氷の悪徳令嬢は、最後に一輪の薔薇とともに消えた。そして、その薔薇だけが朝霧の中、いまも静かに凍える庭園に咲き続けている」
凍える薔薇の庭に、彼女の最後の微笑みだけが永遠に刻まれたまま──。