一人の魔女 1
あまりにも現実離れした光景と自分の体の変化に理解が追い付かずアデルは天を仰いだ。
見えるのは真っ暗闇な木の内側……だけではない、光る胞子とキノコによる幻想的な景色。
さっきまでは腕を動かすことも、歩く事さえままならなかった。視界は常に定まることなく、どれだけ息を吸い込んでも酸素が足りず脳が痺れていたというのに、今は嘘のように何もない。
無理やり叫んだせいで腫れあがっていた喉は呼吸をするたび痛みを感じる程だったが、浄化された空気のおかげかその痛みも消え失せている。
疲労と苦痛から解放された快適な体。
その快適さが、徐々にアデルの不安を掻き立て始める。
「もしかしておれは、死んだのか?」
疑問は半ば確信めいている。
この現状があまりにも現実的ではない。
伝承でしか聞いたことのない場所にいる。しかも目を閉じて開いただけで、脅威は消え失せ苦痛も無くなっているなんて、明らかにおかしい。
周りを取り囲んでいた魔物達は一体どこへ行った?上空から雪原の魔物とヒル型の魔物を落としていた巨大蝙蝠は?
先ほどまで晒されていた殺意や魔物特有の威圧感が一切消えている。
更に、光に飲まれる前まで握っていた短剣が無くなっていた。
確かに手に持っていたはずだ。
落としたのかと辺りを見渡しても、それらしいものは見つけられなかった。
俯くとペンダントが小さく揺れて光を反射させる。
視線の高さまで軽く持ちあげた。
「お前がおれをここに連れてきたのか?」
見慣れた、いつも身に着けている歪な形をしたペンダントだ。
あまりにも似つかわしくない桃色の石が半分を占め、片手で握ると丁度窪みに指がはまる。桃色の石に沿うようにして大きさの違う穴が上部に4つ空いており、覗き込んでも先の景色が見えるだけで何もない。
眩い光を放った痕跡も、温度の変化も無い。ただ自分の体温がほんのりと移っただけで、目に見える変化は見つけられなかった。
きつく目を閉じ再び胸に押し当てる。
「おれを第3拠点まで導いてくれ、連れていってくれ、頼む、頼む、あの光をもう一度出して第3拠点までおれを導いてくれ……!」
力めば力む程丸まる背中。堪えきれずにその場で足踏みをする。
あの光の洪水の後にこのような状況になっているのだ。
このペンダントから発せられた光によってこうなっている、と考えるのが妥当だろう。
が、浮遊感も光の洪水も再びアデルを包むことは無い。
変化が訪れないことに脱力し、不安と焦燥が心の内側を撫で上げた。
今こうしている間にも、アドネルは壊滅しているかもしれない。
今こうしている間にも、騎士が命を落としているかもしれない。
フレデリック、ジーコ、ナジュ、ベヒナ、それにポッコル、ウェイト、新入生達が魔族の手によって……。
焦りや恐怖は禁物だ。判断を鈍らせる大きな要因となるため、戦場に出る騎士には自制心と強い精神力が求められる。
もちろんアデルも先人に倣い目に見えない面を鍛えてきていた。これも、錬気を使うことの出来ない己の未熟さをどうにか覆すため我武者羅に努力した結果だったが、今その努力のおかげでどうにか保てている。
それでは心もとない。
「しっかりしろ」
両手で自分の頬を強めに叩くと小気味よい音が森の中に木霊した。
腕に巻き付く黒い繊維に気付く。
「お前は消えないんだな」
短剣や体の痛み、魔物が消えたと言うのに、この黒い繊維はブルーノ森林地区の時と同じように腕に巻き付いたままだ。
よく見るとさっきまで自分がいた場所と同じように影の中にも存在している。
もしここが死後の世界であるのなら、生きていた頃の物質が変わらずまだあるなんておかしいのではないか?
いや、この際死んでいようがいまいがどうでもいい。
「任務を果たさなければ」
不意に耳が音を捕らえた。
草花が触れ合う音でも動物の鳴き声でもない。
これは人の声だ。
「望みはまだある……!」
この声の主にここが何処であるか聞くことが出来れば、第3拠点へ向かう手立てが何かわかるかもしれない。
改めて自分のいる場所を確認する。
光の中で目を閉じる寸前に見た森の中の景色から大きな変化はあったものの、似ている部分も確かに存在していた。
まずウルネルラの木、あちらでは実をつけていなかったが、生え方や根の形が先ほどまで自分がいた場所と酷似している。
つるされたランプの道は存在しないが、目に焼き付けたブルーノ森林地区の道の形に添うように背の低い草や小さな花が生い茂っていた。
しかしこの声は道の先ではなく、横から聞こえてくる。密集する木と生い茂る草の、更に奥。
無策で飛び込み、先程までいたブルーノ森林地区と似た性質を持っていたら目も当てられない。
腕から黒い繊維を解きウルネルラの木の根にしっかりと巻き付けた。
付け焼刃にもならない、心もとない命綱だがないよりはマシだろう。
アデルは糸を手に歩き始めた。
どうもこの影の中の黒い繊維は自分の腕の繊維とつながっているようだった。
繋がっていると言うことは、ここは先ほどまで自分がいた場所と同じ、ということにならないか?
疑問が更に疑問を生む。
解きながら糸を伸ばして未知の世界へと足を踏み入れていく。
草花からおおよそ出てくるとも思えない不可思議な音がそこかしこで鳴っていた。
バネのように弾む音、ぽわぽわとバブルが生み出されては消えていく音。もったりとした空気を含んだ水ものが、ゆっくりと跳ねるような奇妙な音。その奇妙な音を生み出しているのは、鮮やかな色をした花やおかしな形の草だ。
奇妙だが、美しい。普通の人間なら思わず手が伸びていたことだろう。
アデルは警戒を最大レベルに引き上げ、注意深く進んでいく。
未知の花や草には触れないよう、時々左右へ避けながら、真っすぐ声の聞こえる方角へ向かっていった。
近づくにつれて、聞こえてきた人の声が女であることが分かった。
そしてもう1つ。
「唄っている……」
聞いたことのないメロディーにのせて、言葉も無く女の声は唄い続けていた。
穏やかで、寂しい。優しいのに、悲しい。
何故だか胸がざわざわと騒ぎ始める。
(おれはこの歌を知っている気がする)
何故そう思うのかは分からない。
しかし確かに、今まで感じたことのない何かが胸の内で暴れまわっている。
自分の力だけでは抑えきれない程の、まるで竜巻のごとく回り巡って吹き上がる暴風。
泣きたいような、笑いたいような、怒りにも似た感情。
必死に平静を保ちつつ、草を掻き分け音を消しながら進むとキノコの光が途絶えている空間を見つけた。
そこから声は聞こえてきている。
草葉の際まで近づいて目を凝らし覗き込んだ。
ぽっかりと開いた空間の中に、月明かりに照らされた小さな水辺が見える。
ウルネルラの木がその一帯だけ生えておらず、どういうわけかキノコも水辺の周りには一切生えていない。
敷き詰められた短い草も水辺が近くなるにつれてフェードアウトし、黒く塗りつぶされた空間の真ん中に泉がぽつんと存在していた。
泉には大きな月が映し出され、満天の星空が水面からも分かる程煌めいて、まんまるの月を彩っている。
流れる雲がゆっくりと月を覆い隠す様まで明瞭だ。
降り注ぐ光の帯が雲の流れに合わせ徐々に細くなっていく。
光の線の先、水辺の畔に巨大な切り株があり、2つの影が寄り添い座っていた。
シルエットからでもわかる程の見事な肉体を持つ男と、その膝の上に横抱きにされた一回りも小さな女の影。
黒く長いドレスは百合の花のように地面へ向けて広がっている。
屈強な男の影は女を見つめているのか俯きがちで微動だにしないのに対し、女はゆっくりとした手つきで逞しい腕を撫でながら唄い続けていた。
逢瀬だ、と理解した途端、居心地の悪さから息が詰まった。
遠慮をしている場合ではないと分かっているが、どれほど愛し合っているかが2人の距離からも伝わってきて、この空気に慣れていないアデルは非常に戸惑ってしまう。
(いや、この悩んでる時間すら惜しいだろ、行くぞ)
意を決し勢いよく音を立てながら草葉を掻き分け一歩を踏み出した。




