むかしむかしのものがたり
鉄の匂いが砂塵と共に舞っている。
いつもは分厚い雲が天を覆っているのに、今はぽっかりと大きな穴が開いていた。
穴から見える空は透き通るように青く高い。
気が付けばあんなに荒れ狂っていた冬の嵐も、今は酷く凪いでいる。
雲と同じ高さに女はいた。
美しかった長い白銀の髪はざんばらでみすぼらしい。
彼女の左半身はほぼ消し飛んでいた。
断面からの出血はない。何かが塞いでいるのだ。
それでも彼女は生きていた。
かつて見惚れた紫の瞳に、暗く深い絶望と怒りを宿して。
「我は……復活する……お前の大切なものを、また奪うためにな……」
眼下の山脈の間、不自然で歪な形の巨大な氷の塊が今も尚その形を変えていた。
何重にも意志を持ち一人の男を飲み込もうとしている。
いや、それを人と呼ぶには憚られるほど異様な形を成していた。
人間の部分は頭部から胸の辺りまでしかない。
黒く分厚い硬質化した皮膚が体のほとんどを覆っており、側頭部から太く立派な角が生えている。
爪は鋭く鋭利で、脊椎から伸びる太く長い骨ばった尻尾はドラゴンを思わせる風貌だ。
彼は世界から【魔王】と呼ばれる存在であった。
あらゆるものを破壊し、人々を暗黒時代に陥れ、暴虐の限りを尽くした者。
まさにその命が封印されようとしている。
「忘れはせぬぞ、お前の……こと……を……【魔女】め」
かつては美しかったのであろう男の顔は歪み、狂気じみた笑みを浮かべたまま氷に飲み込まれていった。
彼の胸には太く巨大な氷の槍が一本突き刺さっている。
氷の中の体は散り散りで、ほとんど原型をとどめては居なかった。
流れ出た血の色は黒い。
光を反射しない氷の中をまるで根のように溶け伸びているが、すぐに冷却され異様な模様となり刻まれていく。
紫がかった不思議な色の氷はついに山と同じだけの高さとなり山脈の間に鎮座した。
まるで墓標のように。
静寂が訪れ辺りに雪が舞い始める。
分厚い雲が大きな穴を狭め始めていた。
途端に強風が吹きすさぶ。
真っ黒なボロキレと化した魔女の勝負服を身にまとい、それでも彼女の瞳は氷漬けにされた男をにらみ続けていたが、やがてゆっくりと口を開いた。
「ゆるさない」
掠れた声に圧縮された憎悪。
壮絶な戦いの痕が眼下に広がっている。
山の形も変わってしまった。
焦げ付き割れ沈んだ大地から人が居た痕跡を探すことは難しく、世界が最終決戦と定め、各国から選ばれた優秀な騎士や戦士たちは、もうそこにはいない。
一緒に戦った仲間、師、友人。
そして、彼女が唯一、愛した男。
「おまえをゆるさない」
魔王との最終決戦でたった一人、生き残った女。
その者は魔女。
【原始の魔女】の一番弟子、名を という。
魔女の勝利は世界に平和をもたらした。
王は帰りを待ち望んでいたが、戦いの後忽然と姿を消し、2度と現れることはなかった。
いつしか人々は敬意と畏怖の念をこめてこう呼ぶようになる。
魔王との戦いの 深淵を見た者
【深淵の魔女】
今から500年前の話である。
どうしても今日、物語を始めたかったので投稿しました。
少しでも楽しんでいただけますと幸いです。