雙(ふたつ)に獨(ひとつ)を加ふる話
明治の頃の話である。
福次郎という男がいた。
それなりに裕福な農家の次男坊であったが、こつこつ働くのが大嫌い。やがて博打を覚え、借金を抱えるようになった。そして、そのことが実家にバレると、明治維新のドタバタに乗じて故郷を捨て、風の吹くままに各地を放浪した。
そんな福次郎、持ち前の口八丁手八丁でいささかの資金を集め、養蚕業に手を出し始めた。
もともと実家の副業だったため、それなりの知識は持っている。
さらには製糸業が、明治政府の殖産興業策として大々的に盛り上がっていたものだから、福次郎はアレヨアレヨと言う間に成り上がってしまった。
そうして人生の頂が見えてきた頃、彼は美しい妻を迎えた。
やがて妻が妊娠すると、福次郎はいかにも成金的思考によって、
「名士にふさわしい館へと住まいを移す」
ことを考え始めたのである。
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ほどなくして、奇妙な物件の噂が耳に入った。その地方でも一等地に建つ豪邸なのだが、なぜだかそこには人が居つかない。
馴染みの顔役にそのわけを尋ねてみると、
「大きな声じゃあ言えませんがね、出るンですよ」
彼は、そう言って両手を前に垂らしてみせる。
「およしなさい。御一新からもう何年経ったと思っているのですか」
と福次郎が笑う。
「しかし、事実なんだよ」
と顔役も引かずに、
「もちろん、こんなに良いお屋敷だ。買い手や借り手はすぐに付くんですがネ、その後がいけない。皆、一年もしないうちに逃げ出しちまう。嘘だと思うなら、○○寺の和尚さんにでも聞いてみるといい」
○○寺は、件の屋敷の近くの寺だが、そこの坊主がなぜ出てくるのか――そう問えば顔役は真面目な顔で、
「屋敷の前の前だかの住人に『近くに山門を構えていながら、化物一つも追い出せないとは何事か』と、随分と非難されたみたいだからサ」
ここまで話を聞いた福次郎は、鼻で笑った。彼は、己が文明開化の申し子であり、旧弊陋習は粉砕すべきとの思想を腹に抱いていた。
だからこそ「ならば私が住んでみるとしよう」と言い出したのも、ごくごく自然な成り行きであったと言えよう。
こうして福次郎は、身重の妻と使用人たちを引き連れて、その屋敷へと移り住むことになったのである。
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サテ、そのように息巻いて引越した福次郎であったが、当の本人は仕事が忙しくて家にほとんど居ない。
先に異常に気付いたのは、使用人たちであった。
最初は、些細なことだった。
家のあるじ――つまりは福次郎の使っている黒柿の箸が、いつの間にか一本増えていたのである。
つまり、一膳(二本)だったはずの箸が、いつの間にか三本になっている。
台所担当の女中は、首を傾げてしまった。
(もしかしたら、この箸は初めから二膳あって、そのうちの一本を失くしてしまったのかしらん?)
……いやいや、長年仕えてきたが、福次郎が同じ黒柿の箸を二膳持っていたなどという話は聞いたことがない。台所を切り回している自分が知らないということは、誰も知らないということだ。
そんな彼女の思考は、勝手口に顔を出した御用聞きによって断ち切られた。
「そう言えば、お味噌がそろそろ切れるよゥ……お願いできるかい?」
「へーい、毎度!」
余った一本の箸は、とりあえず抽斗の奥へと放り込まれ、そのまま忘れ去られた。
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下男の松蔵は、目を丸くした。
旦那御自慢の革靴が、右足の分だけ一つ増えていたのである。
舶来モノのなにぶん珍しいものであったから、別の靴と見間違えるはずはない。
それに、よくよく見れば踵のすり減り具合までもがまったく同じであった。
松蔵は、ここが化物屋敷だということをすでに耳にしていた。
何でもこの屋敷では、二つで一揃いのものが、知らぬ間に三つになっていることがあるのだとか。
その噂話をしてくれた酔っ払いは、
「なんでも、あの化物屋敷の前の前の主人は、朝起きたらテメエの金の玉が三つになっていて、慌てて屋敷から逃げ出したらしいぜ」
などとオモシロオカシク言うものだから、くだらない与太話だろうと鼻にもかけなかったのだが……
松蔵は、急に不安になって自分の股間を確かめた。
それから、増えた革靴の片方を、そっと下駄箱の奥にしまい込んだ。
(見なかったことにしよう)
彼は、己の主人がカミもホトケもタタリもモノノケも、そういったものはいっさい信じていないことをよく理解していたからである。
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そうしたある日、とうとう福次郎もこの怪異に気付くことになる。
たまに余裕のあった朝のこと、彼は屋敷で食事を取っていた。
味噌汁、ご飯に漬物、そしてアジの干物――
そこまで箸を進めて、福次郎は違和感を覚えた。
開きになったアジの眼が、ひい、ふう、みい。
サボらず描写するならば、片側の鰓に近い所に、もう一つ眼がついていたのである。
福次郎は、この屋敷に関する噂をすでに聞き及んでいたから、なんとなく嫌な
気分になり、女中に新しいものを持ってくるように告げた。
女中はすぐに台所へ向かった。
だが、待てど暮らせど戻ってこない。
しびれを切らせた福次郎は、自ら台所へ向かって行って
「おい、どうした!時間は一秒たりとも無駄にするんじゃない!」
と怒鳴りつけた。しかし女中は、おろおろするばかりでちっとも要領を得ない。
はたと気が付いた福次郎は、押しとどめる女中を振り切って、箱に収められた
干物を確かめる。
案の定、どの干物にも眼がひい、ふう、みい……
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福次郎は、家の者たちを集めて、他にもこんなことがあったか尋ねてみた。
すると――
先ほど叱られた女中が、抽斗から黒柿の箸の片割れを取り出してきた。
下男の松蔵は、増えた靴の片割れを持ってきた。
そして、遅れて書生が駆け込んできた。
手にしているのは仮名垣魯文の『西洋道中膝栗毛』。
だが、全二巻のうち、なぜか上巻が二冊に増えているという。
福次郎は、まず箸を手に取ってまじまじと眺めた。見た目はもちろんのこと、
その重みですら、毎日使い慣れているそれと寸分互いなかった。
それから靴を受け取ると、試しにそれを履いてみる。普段と変わらずしっくり足になじむのが、言いようもなく悍ましい。
最後に、書生の持ってきた『西洋道中膝栗毛』の上巻二冊を見比べた。驚くべきことに、印刷の擦れ具合や紙の細かな汚れに至るまで、ぴたりと一致している。
無言の福次郎を、家中の者が固唾を飲んで見守っている。
福次郎は下男の松蔵に、箸も靴も本も――増えたものはなにもかも、三つ揃えて火にくべてしまうよう申し付けた。
松蔵がおっかなびっくり言うとおりにすると、辺りには、髪の毛や爪を燃やしたような、嫌な臭いが立ち込めた。
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「文明開化の申し子」を自称する福次郎ではあったが、己の目で確かめた以上、怪異の存在を認めないわけにはいかなかった。
それでも彼は、屋敷を移ろうとはしない。
「何にせよ実害がないのだから、どうして出て行くことがあろうか」
それは、半ば意地でもあったのだろう。
もっとも、こうした異変に日々対峙するのは、屋敷の使用人たちである。
雨が降れば、三本角の蝸牛が壁を這い回り、洗濯物を取り込めば、シャツの背中に袖がひとつ余計に生えていたりする。
ある時、書生が飾られた掛け軸を何気なく見たところ、そこに描かれた「比翼鳥」が、いつの間にか三羽になっていた。
(夫鳥が増えたのだろうか? それとも妻鳥が増えたのだろうか?それによって、
今後の夫婦関係がだいぶ変わってくるのでは……)
書生は、そんなことを真面目に考え込んでしまった。
このように、使用人たちは日々気味の悪い思いをしていたが、何せ給金が良いものだから、暇を乞うまでには至らない。
だから、屋敷の表向きは、さしたる変化もなく過ぎていった。
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やがて、福次郎の妻が無事に出産を終えた。
それは、よりにもよって双子の女子であった。
当時の医療技術では、双子の出産は母子ともに大きな危険を伴うものだった。
それだけに、母体も無事なうえ、二人とも無事に生まれたということは、快挙であったと言ってもよい。
しかし、使用人たちは口には出さないものの、密かに心配していた。
(目を離した隙に、三つ子になっていた。そんなことがなければいいが……)
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双子のうち、姉は「雪」、妹は「花」と名付けられた。
彼女たちの誕生は、屋敷を覆っていた陰の気を一気に晴らしたようだった。
そして、時の流れとは偉大なものである。
二人が七五三を迎えるころには、家中の誰もが、あの怪異をほとんど思い出さなくなっていた。
それは何よりも、雪と花が生まれてから、屋敷の怪異がぴたりと止んだ――
そのことが大きな理由だったのだが……。
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双子の娘たちは健やかに、そして美しく成長していった。
そして、いわゆる「年頃」を迎えたわけであるが、なかなか縁談がまとまらない。
理由は二つ。まず第一に、父・福次郎が「成金」として、同じ階級の者たちから軽んじられていたこと。そして第二に、「あの双子は、いつの間にか三つ子に増えるかもしれないよ」そんな口さがない噂が広まっていたことにある。
雪と花は、まるで鏡に映したようにそっくりであった。
二人が並んで立つ姿は、その美しさも相まって、どこか人ならざる印象を周囲に
与えた。
それが、ますます世間の噂に拍車をかける。
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娘たちの行く末に頭を悩ませていた福次郎だったが、ある日、ふとしたことから、商売で重用している手代のひとりが双子であり、しかも二人とも未婚であるという事実を知った。
(それならば、二人とも一気に片をつけてしまえばよい!)
さすがは一代で財を成した福次郎、思い立ってからの動きは雷電のごとくであった。その手代を昭雄、そして昭雄の弟を治雄といったが、福次郎は彼らを家に招くと、雪と花に引き合わせた。
娘たちのまんざらでもない様子を見て取るや、福次郎はあっという間に仲人を
立て、昭雄・治雄の親と話をまとめ、さらに豪勢な結納の儀まで済ませてしまったのである。
ただ、さすがに婚礼の儀を同日に行うとまではいかなかった。
当時は「長幼の序」を重んじる風潮が今よりもはるかに強く、兄弟であれば兄、
姉妹であれば姉が先に婚姻を結ぶのが当然とされていたからである。
福次郎はそんなもの屁とも思っていなかったが、相手の家の立場もある以上、
ここは譲歩するしかなかった。
そのため、式の日取りについては、半年後に昭雄と雪の婚礼を執り行い、そのまた半年後に治雄と花の婚礼を行うことで決着がついたのであった。
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婚約が決まってからというもの、昭雄は仕事の用事を口実に、福次郎の屋敷を訪れることが多くなった。
もちろん目当ては、雪との逢引である。
とはいえ、昭雄は仕事ひとすじの男であり、雪は屋敷の奥で大切に育てられたお嬢様であるから、話が噛み合わないこともしばしばあった。
しかし昭雄にしてみれば、それもまた愛おしい。
こんな女性が、自分の妻となるのだと思えば、それだけで胸が躍った。
ある時、雪がぽつりと問いかけた。
「あなたは、私のことが恐ろしくはないのですか?」
心当たりはあるが、昭雄は「どうして?」と聞き返す。
「噂は御存知でしょう。もしかしたら明日にでも、私か花が一人増えているかもしれませんよ」
「でしたら、その三人目はなんと呼んだらいいのでしょうね」
雪は、目を丸くして言葉を失った。予想外の答えに驚いてしまったようだ。
その反応を楽しむように、昭雄は続ける。
「話を聞く限り、せいぜいものが一つ増えるだけで、誰かが怪我をしたりしたことはないのでしょう?だったら、そんなに怖がらなくてもいいのではないでしょうか」
雪は少し考えたあと、
「そうね。問題なのは、お父様が大急ぎでもう一人お婿様を探さなくてはいけなくなることくらいかしらね」
そう言って、楽しげに微笑んだ。
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儀式というものは、だいたいの出席者にとって退屈なものだ。祝詞の中身やら、
儀式の手順やらを細かく覚えている者など、まずいない。
一方で、当事者にとってはどうだろうか。慌ただしさに追われ、緊張に息を詰め、酒を無理やり飲まされて――やはり記憶なんて曖昧なものだ。
つまり、昭雄と雪の結婚式は、何事もなく終わったのである。
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披露宴が終わり、喧騒が過ぎ去った屋敷の中。
雪の母親は、手にした燭台の灯りを頼りに、ゆっくりと歩を進める。
彼女の役目は、新郎新婦を寝室へと導くこと。
だが、新婦にとってここは生まれ育った家なのだから、道に迷うはずもない。
だから、二人の足音がついて来ているかだけを耳だけで確かめ、わざわざ振り返るようなこともない。
そんな彼女の後に昭雄が続き、半歩遅れて雪が行く。
完全な静寂。
昭雄は、この時の情景を、死ぬまで忘れることは無かった。
「あなたは、私が人間でなくとも、お嫁さんにしてくださいましたか?」
昭雄は、そんな小さな声を背中で聞いた。
彼は、恥ずかしさで雪の顔を見ることもできず、正面を向いたまま囁いた。
「当然です。初めて会った時から、好ましく思っていましたから」
「でも、やっぱり、だめです」
同時に、そう言った雪の足元の辺りで、軽い物音がした。
明雄が振り向くと、そこに雪の姿は無かった。
ただ、彼女が纏っていた衣だけが、抜け殻のように床の上に残されていた。
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雪の捜索は、早々に打ち切られた。
それは父親である福次郎の意向であった。
到底納得のいかない昭雄が、義父に詰め寄る。
すると、福次郎がぽつりと言った。
「雪は消え去り、月は隠れて、花だけが残った」
真意を掴めず困惑する昭雄に、福次郎は憔悴しきった表情で告げた。
「あの子たちは、もとは三つ子だったのだ。ただ、二番目に取り上げられた子は、
すでに亡くなっていた。妻は、その子にも名前が欲しいと聞かなかった――」
それから、福次郎は昭雄の手を取ると、涙を流して「すまない」と詫びてから、
「妻の腹の中で、双子が三つ子に増えたのだろうなあ……だが、靴や箸みたいに、
火にくべてしまうわけにもいかないだろう。それに、育ててみれば、何一つおかしなところはなかった。だから私は、いつしかあの子たちを疑うのをいつしかやめてしまった……」
さらに福次郎は、雪の存在にかかわらず明雄を養子とし、家の跡継ぎにする意思があることを伝えたが、昭雄はそれを丁重に辞退した。
結局、福次郎の跡は、花を娶った治雄が継ぐこととなった。
昭雄はと言えば、店を辞め、東京へと出ていったらしい。
彼のその後のことを知る者は、誰もいない。