4 両足が揃っていた最後の日々
毎日二話更新。こちら二回目です。
痛かった。とにかく、痛かった。杭を差し込むような痛みが、常に右脚から放たれていた。少しでも足がねじれると、それが倍加される。看護師さんに場所を調整してもらうと多少は弱くなるのだが、何かの拍子にまたそれが崩れる。
それが四六時中、絶えることなく私を苛んだ。痛み止めはあったが、ほとんど効果はなかった。一度使用すると、次までには一定時間待たなくてはいけない。ほぼほぼ効果がないと分かっていても、痛みに耐えられずまたそれを求めてしまう。
切実に、回復魔法が欲しかった。ホイミでもケアルでも何でもいい。奇跡のように一瞬で、この痛みから解放されたかった。もちろん現実にそんなものはない。分かっていたがそれでもなお求めた。それほどまでに追い込まれていた。
そんなだから、当然寝ることもできない。スマホだけが、唯一の慰めだった。当時閲覧していたネット掲示板の参加者には助けられた。どんなに真夜中でも、書き込めばレスを貰えたから。改めてこの場でお礼申し上げる。本当にありがとう。
眠れたのは、本当にわずかな時間だけだった。痛みと疲労に耐えきれず、意識がわずかに落ちる。一日にほんの一時間ばかり。正直、眠気より痛みの方が大きかった。
両親は毎日見舞いに来てくれた。母がどこぞのお守りを手に持って、早く良くなるようにと祈ってくれた。右脚にはほとんど感覚が無かったのだが、そのお守りをかざされると、足先に妙な感覚が走った。磁石でも入っていたのか、それともただの勘違いだったのか。オカルトではあるまいと思っている。
包帯は毎日取り換えられた。その時はいつも目を閉じていた。右脚の状態を直視するのが怖かった。当然ながら、包帯交換の時はいつも以上に痛かった。医者の先生が傷の状態を確認するために足を動かすのだが、これまた痛い。
ある日、ついに耐え切れなくなった。痛みに耐えられないとどうなるか。泣くのだ。三十を半ばまで過ぎている大人の男が、子供のようにガン泣きするのだ。自分自身、それに驚いたほどだ。
そしてこうも思った。いつかこれをネタにしようと。というか交通事故にまつわる全てを創作の糧にしようと思っていた。この時はただの現実逃避だった。
痛みに苦しみ、傷に障るから身もだえできない日々を数えて八日目。熱が出始めた。初日は三十七度、翌日は三十八度。そして三十九度が二日続いて、医者の先生がこうおっしゃった。
傷に菌が入り込んだ。化膿し始めている。もう右脚は元のようには治らない。事故で足の神経が伸びてしまった。感覚も戻らない。
切断する必要がある、と。
それでお願いしますと伝えてから、泣いた。流石に泣いた。悪い事は考えたくない怠け者でも、この現実からは逃れられなかった。一緒にいた両親も泣いていた。
さて、私の交通事故についてここで具体的に説明しよう。……記憶が無いので周囲から聞いた話なのだが。それは自宅近くのT字路だった。朝の通勤時間で交通量の多い道路に、私はバイクで侵入しようとした。
気づいていなかったのか、相手が来る前に通り抜けられると思ったのか。右側から来た車両と衝突。その時、車体とバイクに右脚が挟まれたというわけである。開放骨折。骨が体から飛び出る大怪我だ。
初めから、完治はまず無理なレベルだった。切断も、あらかじめ分かっていた事だったという。事故初日から具体的な説明を受けていた父は、レントゲンの写真も見せてもらった。曰く、骨がせんべいみたいにぺしゃんこだったらしい。そりゃ治らんわ。
切断が決まった後、私は母に頼んで携帯で自分の写真を撮ってもらった。両足が揃っていた最後の写真である。この写真は未だに手元にあるわけで、これのために改めて見返してみた。
顔色が、悪い。右脚の先端の色合いはもっと悪い。左脚にも包帯が巻かれている。……怪我はなかったはずだがなんでだろう。思い出せない。あと、点滴も受けている。そうだ、しばらく食事もできなかったんだ。これは思い出した。ついでに当時の具体的な日付もわかった。やはり記録は取っておくものだな。
手術の日はすぐに決まった。手術室への移動中、再び涙があふれだした。どれほど辛い事を考えないようにしても、現実からは逃れられない。ずいぶんと遅い学びであり、代償は重かった。
麻酔を受けて、眠りについた。再び目が覚めれば右脚は色々な意味ですっきりとしていた。麻酔のおかげで痛みがないのもあるが、創外固定の金具がないし色が悪くなっていた足先も消えている。
滞りなく手術は成功。ひざ下十センチから先の右脚を切断した。なお骨は火葬され、しばらく実家にあったのだが今は墓に収められている。棺桶に片足突っ込んでるという言い回しはあるが。物理的に墓に片足突っ込むことになろうとは。
まあ、生きているのだから儲けものである。