13 話が違います
毎日二話更新。こちら一回目です。
暑さが全く和らぐことのない九月初め。私は就職活動を開始した。無理なく働けるところを求めて。流石に社会人生活もそれなりに過ごしていたので、求人表に書いてあることもある程度は理解できる。
見るべきはやはり、休みの日数である。かつて私は、仕事を求めるあまりそれを怠った。それが巡って事故へつながっている。疎かにできる事ではなかった。
当時でも、求人はハローワークに設置されていたパソコンで見ることができた。しかし、障害者用の求人はなぜか別で、職員さんが分厚いルーズリーフに手持ちで管理していた。もしかしたらパソコンで見る方法もあったかもしれないが、就職してしまった今となっては真実は分からない。もう八年以上経過している古い話でもある。今はもう変わっている事だろう。
で、そんなに分厚くあるほどの求人があるのだから就職も容易……とはならない。ありがたくも求人を出してくださる企業の方々にもいろいろある。労働条件、雇用条件が私の身体状況とマッチしているかは別である。
さらに言うなら、企業そのものも多種多様だ。覚えているのは、従業員三名の会社が障害者求人を出していたこと。何故そんな小さな会社が、といえば話は単純で補助が出るから。企業には障害者へ雇用の機会を与える義務があると前にも述べた。一般労働者の人数に対して2.3%の割合があることも。
これを満たしていない場合、負担金を徴収される。逆に満たしていると、そこから補助が出る。それがもらえる分、小さな企業は一人雇うだけでも違うというわけだ。私も社会復帰を志してはいるが、何処でもいいというわけではない。特に働く人が少ない会社および部署というのは、休みを安易に貰えないというのは身に染みてよく理解している。前職や、バイト時代がそうだった。
身体的および精神的、さらには各種多様な用事で休みたい日というのは確実に出てくる。自由に休めない職場に好んで入ろうとする人間はいない。できれば次の就職先は人数の多い所が良かった。なのでそういった小さな会社は選択肢から除外した。
他にも通勤の問題もある。夏の半ばころ、左足で運転できる車が納車された。当初はもちろん困惑したし、慣れるまで少々時間がかかった。しかし体が覚えれば、これほど楽な物はない。秋に入る事には移動範囲が広がった。自転車に乗れなかったショックもこれでだいぶ緩和されたように思う。
話を戻して。通勤は車を使うのはほぼ確定。距離がある為、最寄りのバス停に行くのも一苦労だからだ。大多数の企業はそれを許可してくれるだろう。しかし、通勤場所と距離が空きすぎていると別の問題が出る。
万が一の災害時を考える必要があると私は思ったのだ。何せこの体だ。何かしらの理由で車が使えなくなった場合、歩いて自宅に戻るのはかなり難しい。今なら多少の無理も効くが、当時は義足使い始めて一年弱だ。自信などなかった。
そうやって必要事項を積み重ねていくと、マッチする企業はどんどん減っていく。当然、面接回数も減っていく。なかなかここだという企業に巡り合えず、気が付けば九月の終わり。いよいよ焦りが出てきた所に、ハローワークの職員さんから一枚のチラシを見せられた。
企業の、障害者に対する合同面接会。そんなものが二つとなりの市で開催されるというお知らせだ。その参加企業の中に、地元の大きな会社があった。いくつもの店舗を持つ、従業員数三百人を超える所。外にほとんど興味を持たぬ私ですら知っている会社だった。
事前に見ることができた求人表の内容も、おおむね私の求めるものだった。ここしかない! そう思い立ったので、合同面接会への参加を決めた。
空気から湿気が薄くなり、枯れ葉が混じり始めた秋口。大きな体育館を貸し切って、合同面接会は開かれた。ホールに入って、正直驚いた。車椅子、杖、姿勢が妙、表情が妙……などなど。仕事を求めてやってきた人々は、当然ながら皆が障害者。それぞれが様々な事情と不調を抱えて参加していた。
そう。そういった状態に甘えることなく、仕事を求めてやってきている。何と前向きで行動的な事か。私はそんな人々の一人となり、求める会社への面接へ臨んだ。……のだが。
合同面接会は、多数の人々が参加している。面接も、予約では無く並んだ順番で進行していく。私が望んだ会社は中々人気であり、前に二人ばかりすでに順番待ちしていた。
そのお二人の話が、面接が長かった! うっすらと聞こえてくる話に耳を澄ませてみると、どうにも前の会社で精神が不調に陥ったのだとか。なるほど話の速度といい内容といい、なんとなく余裕のなさが伝わってくる。おだやかさが足りない。緊張しているのとは別種の危うさを感じた。
もちろん、だからといって特別変というわけではない。ここまで来れているのだから、日常生活に復帰できるレベルであるのは間違いないだろう。だが、それを差し置いても話が長かった。別に話題がループしているわけでもなかったが、アピールや話題が途切れない。
ややうんざりした気持ちでそれに耐え、やっと回ってきた私の番。これまた少々疲れた表情の面接官に対して、私は自己アピールをした。……そして、あっという間に終わってしまった。話題も弾まなかった。これは、だめかもしれない。そんなあきらめを抱いて、会場を去った。
気分を変えて別の日。私はとある工場の面接に臨んだ。事務職の募集が出ていたのだ。面接の時間を一時間間違えたのは失敗だった。まあ、遅刻ではなかったからリカバリーは出来たが。
さて、そうやって受けた面接。面接官は若い男性だった。自己紹介についてはいつも通り。特に問題なくこなすことができた、のだが……相手側が仕事の内容を話し出すと雲行きが怪しくなっていった。
「実はやってもらいたい仕事がありまして、こちらへ来てください」
そういわれて移動した先は、どう見ても工場の一角。その場では作業服に身を包んだ年配の人物が仕事にいそしんでいた。繰り返すが、私が見た求人票には事務仕事の募集が書かれていた。
「就職していただいたら、こちらの作業をやっていただきたいのです」
だというのに、面接官は笑顔でこう言ってきたのである。
「……そうですか」
本当に返したい返事は「はあ?」だった。この人は一体何を言っているんだ?
「ほかにも希望者がいたんですが、そちらの人に事務職の方についていただいたんですよ」
「……なるほど」
なんで? どうして? と聞きたかったが口には出なかった。作業の中で重いものを持つ仕事もあると言われたので、それは厳しいという話も伝えた。いったいなぜ、唐突に障害者に工場作業をさせようと思ったのだろうか。その理由は見えてこなかった。
相手側は採用確定のような様子で話を進めていたが、全く気乗りはしなかった。とりあえず面接を終えた私は、ハローワークで事の次第を伝えた。話が違うと。話を聞いてくれた職員さんはしっかり対応するとの返答をしてくれた。
さて。そんなとんでもない面接を受ける前、私の携帯電話に見知らぬ番号から連絡が入った。相手は、先日合同面接を受けたあの企業からだった。曰く、もう一度面接を受けてみないかというお話だった。なんでも、人事部の責任者が顔を合わせたいとのこと。合同面接の時は都合がつかなかったらしい。
私は二つ返事で了承した。この時は、工場に面接の予約を入れた頃。話が良い方向に行くとも限らなかったので、チャンスには飛びついていこうと考えた。ハローワークの職員さんからももっと積極的に行くべきだと発破をかけられていたのもある。……工場の面接がああなるなど、予想できなかったし。
工場の面接から数日後、私は企業の本社へ向かった。古い建物だった。建築が昭和後期なのでしょうがない。狭い部屋で、人事部と総務部の責任者と面接を受けた。かなり好印象で話が進み、こちらでの採用に希望が持てる状態で話を終えた。
で、数日後。工場から採用のご連絡を貰ったのだが……別の企業からの連絡待ちを理由に待ってもらった。まあ、今思い返すと大変失礼な振る舞いだったと思う。行く気ほとんどなかったのだから、すっぱりと断ればよかった。しかし、失業手当の給付期限も見えてきていた時期だった。滑り止めをキープしたい気持ちがあったのだ。
相手側は、これを了承した。やはり、よほどの理由があって障害者を工場作業員として雇用したかったのだろう。こっちのこんな我がままを聞き入れるのだから。
さらに数日後。無事に、企業から採用の連絡をいただいた。ほっと胸をなでおろす私がいた。就職が決まったし、あの工場にもいかなくてよくなったのだから。そうと決まったらさっそく御断りの電話を入れた。
「……というわけで、こちらの身勝手なお話を聞いていただいたにもかかわらず大変申し訳ないのですが、今回は辞退させていたきたいと」
「どうしても、だめですかね?」
おそらく、色々予定をすでに組んでいたのだろう。担当者はこの時点でもなお、私の就職を求めた。
「大変ありがたいお話なのですけど……そもそもの話、事務職で応募したのに工場で働くようにとおっしゃられて……正直、話が違うなと」
「ですよね。ええ、ハローワークからも言われました」
というやり取りがあったのちに、相手側は折れてくれた。と、このように最後まで色々あったが、何とか私も社会復帰することができた。その企業には、これを書いている今現在も務めさせていただいている。