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湯間蛍光の物語  作者: 亜門たき
1/1

雨の日

 1


 ...小池さん、ですよね?

 どこか遠くで微かに響く鈴の音色を聴いた気がした。

 振り向くと、少女は静かに佇んでいた。


 午後からの雨の予報を確認したにも関わらず、傘を持たずに出掛けた私は、少しでも雨足の弱まるのを待つ間、偶々目についた小さなカフェに身を寄せた。

 急ぎの仕事の無い日でよかった。鞄から『仏も神も』の単行本を取り出して、ゆっくり続きを読むことにする。このところ、暫く頁も繰れずにいたから、今のこの隙間時間は丁度いい。

 

 『「ですがそうして神をも名乗るあなたほどの存在が、見誤ることの是非を問うことで、一体どれ程の子羊の毎日の餌、つまりは糧を奪うことになるのか、その自覚はおありなのですか?」天使は息をまき、詰め寄らんとばかりに羽根を震わせる。折しも降り始めた雪の結晶の一欠片がそれに触れ、一瞬鈴の音を鳴らす』...


 彼女の声が偶然鈴の音に似て、心地好い響きに含まれた自分の名字が、まるで場違いな気がした。

 はなやかな茶色の髪を一つに束ね、深い萌黄色のワンピースに淡いピンクのカーディガンを羽織っている。細身、小柄、愛らしい整った顔立ち。肌は白く、二重の、丸く大きな目が強い。外見の話ばかりになるが、視線を外したくなくなる程の、優れた魅力を纏っている。

 お隣、よろしいですか?

 鳴るような声。遠慮がちに、左隣のスツールに腰を掛ける。

 横顔、耳の形、小ぶりでふっくらした唇にも、目を奪われる。


 注文したコーヒーが運ばれてくるまで、彼女は何も話さずに、窓の外に降る雨を上目遣いに眺めていた。私は読むでもなく、閉じるでもなく、指先をただ紙の上に遊ばせていた。こっそり視界の隅に捉える横顔の白さ。透き通るような、というのはあながち比喩でも無いんだな、と初めて思う。


 お好きなんですね、湯間蛍光。私もです。「青と雨」以来の、ファンなんです。


 デビュー作、読んでらっしゃるんですか...レア、ですね。

 

 特別な出来事も無く、淡々と同じ景色の中でかわされる会話があって、詳しい説明もないまま、気がつくと違う場所に連れていかれて、あれ?って思っているうちに、裸にされている、みたいな。いつのまにか物語は進んでいるのだけれど、冒頭のゆったりした...ジェットコースターって、最初の登りが長ければ長いほど、落ち始める瞬間と速度への期待が高まりますよね。いつも、そんな感じがするんです。それが、心地好くて、いつも。


 下手なだけ、なんじゃないですか?私なんかは逆に最初の1、2頁で読者をギュってひきつけるような、そんな書き出しが出来ないもんかなって、いつももどかしく思いますよ。人物の造形とか、物語の主軸とか、説明が足りなさ過ぎて...イライラするっていうか。


 私たちは暫しの時間を、湯間蛍光の作品、作風についての批評に費やす。

 この時点で、彼女に関する情報を私は何も持っていない。

 存在が透明な小柄な少女、その名前も、年齢も、職業も、彼女が私の本名を呼べた理由も、今隣に座っている目的も。それは会話の流れの中でいずれは明かされるのだろうが、その兆候は今、全く感じない。


 ああそれこそまるで湯間蛍光の書く小説のお決まりの導入部じゃないか。

 目新しいプロローグも無く、劇的なエピソードも無く、さりげない伏線も無く、淡々と交わされる会話があって、詳しいディテールの説明もないまま、ただ・・・時間だけが流れて行く。


 止む気配、ないですね。今日は一日・・・


 予報では、止むのは日付けが変わる頃、らしいですよ。それ観てたのに、傘、持たずに出てしまって。急いでたわけでもないのに、なにやってるんだろうほんとに。


 話題が天気に移った時点で、私と彼女の会話に、それ以上の進展は無くなったと知る。疑問は残ってはいる。彼女は私の顔も名前も知っていて、だからこそ声を掛け、隣に座っている。そうする目的も何かあるはずで、それは贔屓の作家について論ずることでは無い、筈だ。

 もしかすると彼女は、私が気づいている以上に、私のことを知っているのだろうか。残っている、どころか、疑問しかない。


 今日は、待ち合わせでしたか?ごめんなさい、邪魔ですよね、私。たまたまこのお店通りかかって、外からお顔見つけてあ、と思って勢いで話しかけてしまって・・・図々しかったですよね、すみません。


 相変わらず耳に遊ぶ鈴の音色は心地好く、思わず笑みを浮かべてしまう。

 風鈴、とふと浮かぶ。強く触れたら、壊れてしまいそうな。

 それでも触れてみたい...

 思いがけず、急激に突き上げてきた欲求に戸惑いながら、かろうじて口は迷惑など感じていないと彼女に伝えている。

 そんな私の欲望を見抜いての悪戯か。


 握手、していただいても良いですか?


 その手のひらに体温を覚える暇もない一瞬の握手を交わし、彼女はひらりとスツールから降り、ありがとうございました、と小さな会釈をして、小走りに店の外、まだ強い雨の中へ消えて行った。

 

 残っている、手のひらの微かな汗。

 私はたぶん、少し虚ろな目をしている。

 手のひら。微かな、汗。

 そっと、舌をはわせてみる。



 


 


 


 


 

 



 

 

 

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