父
午前。彼女が学校で期末テストを受けてる間に、彼女の父親がこっそりこの家に帰った。暑そうなスーツを着て、大きなバッグを持って、ドアチャイムを押した。
彼女の母親はドア越しに彼を見て、開けずに訊ねた。
「それはなんですか」
「今日は……誕生日。これ……ケーキ」
「施しのつもりですか」
「いや、さすがに誕生日は……と思って……」
「結構です」と、険しい顔をした母親。「私たちのことをわかろうとしない人の善人ぶりなんて」
ケーキを持った男は、玄関の前に置き去りにされた。彼は20分も待ったが、結局意気消沈したまま立ち去るしかなかった。
* * *
落ち着いて回答も書けやしない。今日の天気はめちゃくちゃで、さっきのような霧が何度も訪れた。彼女が目撃した「悪魔」たちは、霧の中を飛び回り、なにかを企んでいるように見える。他の生徒たちも、悪魔のことこそ知らないが、幽霊のせいで相当ソワソワしてる。もう幽霊に出遭ってると、クラス全員一人残らず証言した。一家族分の幽霊が泊まりに来たっていう家もある。むしろ一人しか家を入られてない彼女は幸運と言えるから、悪魔のことは黙っておいたほうがいいと彼女は心の中で決めた。
霧は消えては出て、出ては消えた。期末テストの初日が終わった頃に、彼女はもうこの鬱陶しい天気のせいで正気を失うところだった。このままだとバスは遅れるはずだが、今日の彼女は1%のリスクも冒したくないから、一刻を争ってバス停に向かった。
……が、日が暮れても、バスは来なかった。彼女はたくさんの生徒と一緒に、終バスに乗ることになった。仲間がいっぱいだから結果オーライか。それに、テレビにまで出てる幽霊が今更現れても、怖くはないだろう。
秋初め、人々が密閉空間に閉じ込められる夜。彼女は袖を引っ張られた。
もっとも予想外な場所で、もっともスリリングな距離で、彼女は白いローブの幽霊と対面した。あと少しで悲鳴を上げるとこだったが、彼女は今一番後ろの席にもたれかかっていて、体が斜めになったまま視線を窓の外から反対側の幽霊に移したばかりで、いまいち快適に悲鳴を上げられるポーズではない。
「なんでバスに乗ってるの――」顔がぶつかってもおかしくない距離のおかげで、生徒が騒ぎ立てるバスの中でも、小声で幽霊に話しかけることができた。
「バスに乗っちゃうって思われないでしょ!」と得意げに答える幽霊。
「確かに――あっ、なるほど!あのダイなんとかから逃げてるんですね!」
「『ダイ・スレイヴ』!」
「どうでもいいよ。なんであなたを捕まえるの?一人だけじゃないでしょ?今朝いっぱい見ましたよ!」
幽霊はまばたきをすると、一瞬で姿を消した。
「こら、話逸らしくらいしなさいよ!失礼な子!こらー!」
* * *
幽霊は、姿を消せる。という事実を置いといて、いま家の中には本当に自分と母しかいないと信じたい彼女。期末テストの初日はグダグダだった。でも今日は、期末テスト初日だけではない。彼女は鞄をリビングのソファに放り投げた。
「お母さん」
「なんだい?おなかすいた?」
「お父さん来てた?」
「……いいえ」
「そう」自分なりの答えを得た彼女は、階段を上った。今日は彼女の誕生日だから、父さんは来ていたはず。昔のように、この家に踏み入れようとしていたはず。母さんのリアクションは、この上ない証明だった。
部屋に入った途端、彼女はフと思い出した。あの白いローブの幽霊は、またついてきてるかもしれない。ドアを締めて、彼女は部屋の中で呟いた。「いたら姿を見せて。いたら姿を見せて。いたら姿を見せて」
幽霊は現れなかったが、窓の外からバサバサの音が聞こえた。彼女が明かりをつけたら、今朝の銀髪の悪魔が目の前にいた。今度は厚かましくも、彼女の部屋の中に入り込んできてる。
「お邪魔しま――」
「『お邪魔』じゃねーよ!」彼女は床を踏み鳴らした。「勝手にヒトの部屋に入って来ないでくれる?」
「きょ、恐縮です!ちょっと確認したいことがありまして――」
「『ちょっと確認』じゃねーよ!そんなゴミみたいな言い訳で人の部屋に侵入しても許されると思ってんの?」
「本当にすいません!失礼しました!自分はただ――」
「来てないよ!ここにはいない!」と怒鳴る彼女だが、少々自信がないようで、小声で「たぶん」と追伸した。
「いやいや――存じております。自分はただ、あの方から頼まれて、忘れ物を取りに来ただけであります」
彼女は茫然とした。
「えーと――」彼は窓から抜け出し、両手で敷居を掴んでなんとなく体を支えてる。「空色の紙切れで、おおよそ親指サイズで……いてて、手が」彼は手を離し、翼を伸ばして、バサバサと体を浮かばせた。「紙切れには文字が書いてありまして、あの方が書いた詩、とのことで……栞として愛用している物であります」
「待て待て待て。どうしてあの子はあんたに頼むわけ?」
「自分以外に誰か頼める人がいると?」と困惑顔で聞き返す彼。
「でも、あんたはあの子を捕まえに来たわけでしょ?」
「それは参りました。ごもっともであります」と、意外にも白いローブの幽霊のセリフを口にする彼。「自分はあの方を家に連れ戻しに来たのでありますが、どうしても帰れないって言われまして……自分にも、無理やり引っぱっていくことなんてできませんし……」
「家に、だって?ちょっと待て、あの子の家族なの?」
「これは失礼しました!誤解されるような言葉遣いをしてしまいまして!」と慌てて釈明する彼。「自分はただのしがない使用人であります!」
そういえば、こいつは人ん家の窓敷居を踏んだり、霧を起こしたり空を飛び回ったり、背中に黒い翼が生えたりしてるけど、悪魔だというのは終始彼女の仮定に過ぎなかった。
「じゃあ、あんたはあの子のなんなのよ」
下の階から母の声が。「ごはんだよーー」
「あんたはあの子のなんなの?」と繰り返す彼女。
「僕はあの方の家来で、あの方は当主の娘、といった感じでありまして」
「答えになってないわ!」
「ごもっともです」
「だから、もっと詳しく説明してくれない?あたしの部屋に侵入したんだし」
「いま窓の外にいますよ!」
「入ってたでしょーが!あたしの時間を無駄にしないでくれる?あんたたちが起こした霧のせいで、今日は散々だったよ。期末テスト、しくじったらあんたらのせいだからね。さっさと喋る!」
「ごめんなさい、ごめんなさい!」と頭を下げまくる彼。「我々の出来る限り、弁償させていただきます!」
「点数をどうやって弁償する気だよ。先生たちを説得して、テストをやり直しにしてもらうとか?」
「努力します!」
「アホか!そんなことやってる場合じゃないでしょーが!あんたら一体なにやってんの?」いつの間にか論点がズレてた。
「あの方を探しているだけであります、彼らは……僕が話さなかったせいで。あの、羽がちょっと疲れてきましたが、入れて頂いてもよろしいでしょうか」
「もう、まいったわ。わかったから入れよ。そこにいても目障りなんだから」
秋初め、夜、夕食直前。悪魔が、人間の許しを得て、人間のプライベート・スペースに足を踏み入れた。