番外編 1
ベッドの中で瞼を瞑ると、世界は広がる。
ショウは眠りにつくふりをしながら、日課の神眼を開いていた。夜の静けさの中で、時折微かに聞こえる風の音や、窓の外で鳴く夜の鳥の声が、彼の鼓膜に導く。意識は無数の風景をすり抜け、山を越え、海を渡り、人々の生活を覗き見る。これが彼の日常の暇つぶし──神の視点で世界を観察する、ただそれだけの夜の習慣だった。
だがその平穏な時間も長くは続かなかった。ショウの意識の中に、ひときわ強い、切迫した囁きが混じり渡る。
『助けて…神様、…助けて』
微かな、しかし切実な声。ただの呼びかけではなかった。それは祈りというより、絶望と切羽詰まった思いが込められていた。ショウは脳裏に届いたその声に気づくと、声の主を探す。世界中を見渡す力が全身に広がる。静かな部屋の中で彼は動かず、意識だけが異なる次元を彷徨い始める。
視界に広がる世界の風景の中から、異常なエネルギーを持つ場所を見つけた。それは南大陸の片隅、鬱蒼とした森の奥、小さな隠れ里、否、その残骸へと導かれる。集落は荒れ果て、無残に散らばったサキュバス族の亡骸が風に吹かれ、誰かの祈りがその中にあった。
『…惨いな』
ベッドで横になるショウの眉がわずかにひそめられる。神眼で見たその場所は、もはや絶望そのものだった。その時、再び強い感情の囁きが響く。
『神様…お願い…、お願いします』
声はさらに強く、ショウの心に巻き付く。その訴えはもはや、世界を管理する現人神として無視することができないものだった。ショウは瞳を開け、神眼を解除する。寝室の静寂が、一瞬前まで感じていた声とのあまりの違いに違和感を覚える。
布団から起き上がり、床に降り立つと、彼の姿は瞬時にその場から消え去った。転移の魔法が発動し、次の瞬間には他大陸の土を踏んでいた。
転移の光が消えた先に広がっていたのは、かつて美しい自然に包まれ幻想的だったであろう隠れ里の跡。今では、そんな面影を全く感じさせない光景が広がっていた。焼け焦げた家々、砕かれた彫刻、拭い切れない血の匂いが鼻を突く。かつてこの地で平和に暮らしていたサキュバス族の炭。桃色にひび割れた皮膚からしゅうしゅうと蒸気を吹く死体が無数に転がっており、身体の下にある血溜りから恐怖と絶望が滲み出ていた。
「何があった…?」
ショウは無言で周囲を見渡す。目に映るすべてのものが破壊されており、辺りには兵士たちの足跡が数多く刻まれていた。犯人の正体を推測するに、人族の兵士がこの里を壊滅させたのだろう。あの悲痛な呼び声も、ひょっとしたらこの状況と関係があるのかもしれない。
「何者だっ!」
ふと、風が唸る。その瞬間、ショウの背後から何者かの気配が迫る。振り向けば、均一に武装した兵士たちが次々と現れ、彼に向かって剣、槍を突きつけてきた。彼らの目には憎しみと殺気が混ざっており、どうやら略奪の続行中だったらしい。
「生き残りがいるぞ! ここで殺せ!!」
兵士たちが一斉に襲いかかる。槍を構え、斧を振り上げ、殺気をまとった刃がショウへと向かう──しかし、その動きは彼の目にはあまりにも緩慢に映った。
「あの世に向かうがよい」
ショウは軽く足を踏み出す。
その一歩と同時に、空間が軋んだ。
兵士たちの肉体が、まるで時間から切り取られたように硬直する。突進の途中で足が止まり、振りかぶった腕がそのまま固まり、開いた口からは息さえも漏れない。彼らの瞳孔には、理解できない恐怖が浮かんでいた。
「呼吸すら許さない」
淡々と呟くと、次の瞬間、兵士たちは無言で崩れ落ちた。鎧が地面にぶつかる鈍い音だけが、静かな廃村に響く。倒れた彼らの胸は微動だにせず、まるで最初から動かない人形だったかのようだ。彼にとって、これは戦いですらなかった。ただ障害物を一瞬で取り除いただけの、一部に過ぎない。
ショウは無表情で、兵士たちが倒れていく様子を見守っていたが、心の中ではある思いが湧き上がっていた。「早く、あの声の主を探さなければ」その声の主が、どこにいるのか、それを確かめるため里の中心へと歩き出す。脳に届く小さな祈りはまだ続いている。
ショウは焼け落ちた家々を一軒一軒調べていく。そして、ある半壊した住居の奥──倒れた棚の下に、ひっそりと隠された地下室への扉を見つけた。あの扉の向こうに、あの声が導いているのだと直感的に感じた。
「ここか…」
ショウは扉を開け、冷たい湿気と共に、暗闇の中に足を踏み入れた。地下室は薄暗く、かすかな呼吸の音が響いている。中に進むと、目の前に震えた幼女が膝を抱えて座っていた。彼女は涙で濡れた頬を光らせ、恐怖で大きく見開いた目でショウを見上げる。
「神様…なの?」
その声が、まるで命の最後の支えのようにショウの耳に届く。彼はゆっくり女の子に近づいて膝をつき、手を差し伸ばした。恐怖に満ちた目で彼を見上げる彼女に、ショウは人間味を帯びた穏やかな微笑みを浮かべた。
「遅くなったがもう大丈夫、もう安全だ。集落を襲った敵は俺が退治した」
少女は一瞬躊躇ったが、やがて必死にその手にしがみついた。小さな指がショウの袖を強く握り、まるで離したら消えてしまうとでも思うように。ショウはそのまま彼女を抱きかかえる。
「……お父さんも、お母さんも、お兄ちゃんも、みんな……怖い人族たちが……」
「ああ、怖かっただろう」
ショウは静かに声をかけ、少女の震える小さな背中に手を添えた。
「もう大丈夫だ。お前を守れる場所に連れて行く。俺を信じて、少し目を閉じてくれるか」
「……うん」
少女は涙で濡れた頬を袖で拭い、必死に頷く。そして、ショウの胸に顔を埋めると、その温もりにしがみつくように小さな手で彼の衣を握りしめた。ショウは優しく少女を抱き上げ、低く呟く。
「転移」
次の瞬間、淡い光が二人を優しく包み込んだ。
視界が一瞬歪み、足元の感覚が消える――そして、再び重力を感じた時、そこはもう廃墟の村ではなかった。
「ここ…どこ?」
少女がゆっくりと顔を上げると、目の前には絢爛たる王都の屋敷がそびえ立っている。大理石の柱、ダイヤモンドの輝きのような噴水のしぶき、香り立つばかりの広大な薔薇園。彼女の瞳に映る光景は、これまでの暗い記憶を一瞬で塗り替えるほど鮮やかだった。
「わぁ…!」
つい先刻まで涙で曇っていたはずの少女の瞳が、宝石のように輝きを放つ。キョロキョロと視線を巡らせ、初めて見る豪華な建物に息を飲んだ。無意識に、ショウの袖を引っ張る小さな手にも力がこもる。
「気に入ったか?」
ショウは微笑みながら、少女の驚いた様子を温かく見守った。
「(少なくとも今夜は、あの惨劇の記憶から解放されてほしい)」
少女はまだ言葉にならない感動を胸に、ショウは自分の屋敷へと向かった。重厚な玄関扉が静かに開く、屋敷の中は、いつもと変わらず静かで落ち着いている。柔らかな灯りが漏れる内部へと足を踏み入れた。
夜勤業務のメイドたちと目が合った瞬間、少女は小さく声を上げてショウの胸にしがみついた。しかし彼女の震えは次第に落ち着き、やがてショウの体温を感じるようにゆっくりと体の力を抜いていった。
「ここが君の新しい家だ」
ショウは寝室へと続く廊下をゆっくり歩きながら、そっと告げた。ドアを開くと、そこには優しいオレンジ色の光に包まれた広々とした部屋が現れた。窓辺には星形の魔導灯が浮かび、天蓋付きのベッドにはふんわりとした羽毛布団が準備されていた。壁には可愛らしい動物の絵が飾られ、小さな机の上にはまだ開封されていない絵本が置かれている。念話を通じて全貌を見てたナビリスが用意した部屋に少女は目をキョロキョロとさせながら、部屋を見渡した。
「…ありがとう、神様。」
そっと部屋の中へ踏み出した幼い彼女の口から出た感謝の言葉。床に敷かれた絨毯の感触を確かめるように裸足で歩き、ベッドの柔らかさに驚いて何度も手のひらで押してみる。そしてふと振り返り、ショウを見上げた――その瞳には、初めて本当の安らぎが宿っていた。ショウは微笑みながら、少女をベッドに座らせる。月明かりが部屋を優しく照らす中、彼はゆっくりと話を始めた。
「俺はショウ。ここは君が暮らしていた大陸をずっと北の先にあるランキャスター王国。君の名前は?」
少女は少し考え込んだ後、うつむきながら答えた。
「…フェリリシア。お母さんは…リリィって」
その名を口にした瞬間、少女の頬を一粒の涙が伝った。月明かりに照らされ、それは宝石のようにきらめいて――そして絨毯に吸い込まれていった。
「リリィか。いい名前だ」
ショウはそう言って、リリィの髪を軽く撫でた。彼女は少し照れくさそうに、でも嬉しそうに目を伏せた。その姿に、ショウはふとした懐かしさを感じた。彼女がどれほどの恐怖を味わってきたのか、神の身である彼には想像もつかない。今はただ…彼女が無事でいることが最も重要だった。
「リリィ」
声を潜め、しかし確かな響きで語りかける。
「ここは誰も傷つけられない場所だ。もう怖い人族は一生やってこない。君が望むなら、何でもしてあげるさ」
ショウはその言葉を心から伝えると、リリィは少し顔を上げ、ショウを見つめる。リリィの瞳に映るシ彼の姿は、月明かりに浮かび上がるようにくっきりとしていた。彼女はまだ言葉にできない感情を胸に、ただじっと見つめ返す。その小さな手は、自然とショウの指先を握っていた。
「……約束?」
かすかに震える声で、リリィが問いかける。その一言に、ショウは深く頷いた。
「ああ、約束だ。神は結んだ約束を破らない」
返事と共に、部屋の魔導灯がゆっくりと明るさを増していった。まるで暗闇を追い払うように、温かな光が部屋の隅々まで広がる。
「疲れただろう」
ショウは立ち上がり、ベッドの羽毛布団をめくった。
「リリィ、大丈夫だよ。君はもう一人じゃないから今夜はゆっくり休むといい。明日の事は明日に話そう」
ショウは静かにリリィの頭を撫でながら、彼女に微笑みかけた。リリィはその手のひらの温もりを感じながら布団に潜り込む。そのふかふかの感触に思わず頬をすり寄せた。しかし、ショウが離れようとした瞬間、彼女は慌てて布団から手を伸ばした。
「神様も…お願い」
リリィのお願いにショウはベッドの緑に腰を下ろすと、優しく答える。
「ああ、ここにいる。リリィが安心するまで」
ショウはリリィの手をそっと握り、彼女が安心するまで傍にいると誓った。その答えにリリィは満足そうに目を閉じる。長い睫毛が頬に影を落とし、次第に呼吸が深くなっていく。ショウはその様子を見守りながら、窓の外に広がる星空を見上げた。
「(微精霊の結界で秘匿されていたリリィの集落を襲った人族の兵士…だとすれば、裏に何かがある)」
眉をひそめ、ショウは考える。サキュバス族が無差別に襲撃された理由、そして人族の兵士があの地にいた理由――すべてが偶然とは思えなかった。
『ナビリス…少し調べて貰いたい――』
その後、ショウはリリィに王都での生活を少しずつ教え始めた。リリィは食事の仕方、街の歩き方、そして少しずつ彼女の過去を思い出しながら、新しい日常に慣れていく。
時が過ぎ、幾ばくかの季節が巡る。かつて怯えていた少女の声は、今や鈴のように明るく響く。門前に立つリリィは、夕焼けに照らされながら、買い物籠を誇らしげに掲げていた。成長したその姿は、もはやあの夜震えていた子の面影を残しながらも、誰もが振り返るほどの美しさを纏っていた。
立派なお姉ちゃん子に成長したリリィは妻エレニールとの間に生まれた長女マリアンヌに姉と慕われた。
「パパー!リリィお姉ちゃん帰ってきたのー?」
小さな足音が廊下を駆け抜けてきて、リンゴをイメージさせる赤色の髪をなびかせながらマリアンヌが姿を現す。
「マリアンヌ!」
リリィが両手を広げると、マリアンヌは笑顔で飛び込んできた。ショウはベランダでその光景を眺めながら、紅茶の湯気に目を細めた。ふと、背後で衣擦れの音がする。
「リリィ、本当にマリアンヌを可愛がってくれていますね」
エレニールが静かに傍に座り、夫の視線の先を見つめた。
「あの子は…無力で全てを守られなかった幼少期を、マリアンヌに重ねているのだろう」
ショウの言葉に、エレニールは優しく頷く。庭ではリリィがマリアンヌを抱き上げ、くるりと回転させながら笑い合っていた。その姿は、あの廃墟から救い出された夜とは別人のようだ。
立ち上がったショウは、家族のもとへ歩み寄った。ふと、娘とじゃれ合うリリィと目が合う。彼女の瞳には、あの夜の恐怖はもうない。代わりに、守るべきものを見つけた者の強さが宿っていた――。
お久しぶりです。
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