品定め
3
通常接見する犯罪者の眼球は、あらぬ箇所に固定されて焦点を失っているか、周囲を伺うように忙しなく動き続けるかだ。思考停止か、言い逃れるために脳を必死に回転させるかの違いがあるからだ。無意識の眼球動作とは、脳にある記憶を引き出す動作と同義である。よって、観察側は落ち着いて眼球の動く先を見極めればいい。それだけで、おおよその判断が付くものだ。
ところがこの男、厚沢慎二の目は違った。
その血走る目は、ひたと私の目に据えられ、そこを動こうとしない。私も、その目から視線を外せないでいた。いや、本能的に、視線を外してはいけない、と警鐘を鳴らしていた。
「なぁ〜、何で食うんだぁ?考えたこと、あるか?食うんだよぉ、肉をさぁ、毎日毎日食うわけだぁ。何も考えずに……くっくっく……せぇっかくの肉を、なぁんにも考えずに食っちまう。考えたことあんのかぁ〜?」
下品に笑いながら、気怠そうに、奴は話す。本来私の役であるはずの質問者は、奴が奪っていた。
「食う意味、食べることの意味、食べるというさぁ、行為の根源をさぁ……なぁ」
奴の専攻は哲学だ。どこに落着するかも分からぬ質問に、私は慎重に答えを探った。
「ある」正直、最近はただの栄養摂取という作業に成り下がっていたが。「自らが生き残るために、他者の命を貰う、尊い行為だ」
くそ、 これでは教授と学生だ。それでも私は真剣に、そして慎重に答えを引き出した。
ところが奴の返答はこうだった。
「あんたバカかぁ?ぷっ……くっくっく……俺はなぁいねぇ、考えたことなんて。普通は考えないんだよ、きれいごとなんてさぁ。たぁだ食えばいいのさぁ。たぁだバカみたいに食ってればいいんだよ、どぉせ分かりゃしねぇんだし、能力捨てちまってんだからさぁ」
……能力?
「俺にはあったのさ、能力がね。その能力に気付かなきゃ、食うことの意味なんて考える訳ないだろぉが」
盛大に笑い始めた奴の目は、しかし一瞬たりとも笑わずに私を見続ける。いや、私を値踏みし続け、その圧力は増すばかりだ。
「警部さん、警部さん。俺にあって、あんたらにないもの……それは奪い取る能力。食い尽くす能力……だぁっはっはっは、能力を食い尽くすことなんだよ」
奴は鼻を啜りつつ、ぐいっと顔を近付けた。
「おやおや、信じていないねバカにしているね警部さん」
その通りだ。馬鹿にしていた。与太話に付き合うほど落ちぶれてはいない。
「あんたは心理分析官だって言ったよなぁ。俺の目から何を読んだぁ。俺はあんたの目が俺を見下すのを見逃さなかったぜぇ」
「そうだ、与太話は聞くに耐えん。時間のむ……」
私は言葉を途中に、奴に胸ぐらを掴まれ引き寄せられた。抗う、という隙もなければ気力もない、なすがまま。目の前には奴の首筋があった。
「俺はさぁ、食べた生物の能力を、奪い取れるのさぁ」
「……!」
息を呑んだ。目の前、その首筋に幾本もの横皺が出来たかと思うと、一斉にゾロリと裂けた。私の顔に、鼻に、生臭い空気が触れる。
これは……生物に弱い私のボキャブラリーが、ピンポイントでそれを言い当てた。
これはエラだ。魚類のエラ。混乱と眩暈と吐き気が襲い、目頭が熱く潤った。
奴の手から解放されると直ぐ、私は机上のペットボトルを開けて飲む。が、その殆どが口を外れてスーツに沁みた。後は……むせ返り、椅子から転げ落ち、吐き、目を涙が覆った。
床に手を付く私の上で、奴の笑い声がねちっこく聴こえるばかりだ。
「落ち着いてくれよ、警部さん。話はさぁ、まだ始まってもいないんだぜぇ……くっくっく……」
空のペットボトルは床を転がって、奴の真っ赤な靴に当たって止まった。血で、今日食べた獣の血で赤黒く染まった靴に……。
「まぁ椅子に座れよ。座んなきゃ、話も出来ないだろ」
私は、人形のように素直に座った。
「俺の趣味は釣りだったんだよ釣り。新鮮な魚を捌いて食ってて、疑問に思ったのさ。これは新鮮じゃないぞ、新鮮じゃない、新鮮なんかじゃ決してない。もう死んでるじゃないか。死んでる、生きてない、死体、死体だ。じゃぁ、生きたまま食ったらもっと旨いのか?」
椅子にだらしなく座る私は、もう心理分析官などではなかった。ただ恐怖に耐え、無事話が終わるのを待つ草食動物だった。
「旨い、旨いに違いない、旨いと思う、きっと旨いんだ。鯖だ。そう鯖。あれは鯖だった。釣り上げ、船の上で暴れるあいつを抱え上げ、かぶりついた。旨い。旨いなんてもんじゃない。旨いし旨くて旨すぎて旨いんだよ。しかも食べているうちに、舌に妙な感覚が来やがった。味じゃぁない。感覚だ。丸ごと食べ終わった頃には……」奴は首筋に指を差し、エラをばたつかせた。「こいつが出来てたのさぁ」
私は恐怖で萎縮していた。しかし、記憶というものは恐怖とは無縁に、蓄積した情報を無理矢理提供する。
ファイルに羅列された動物の数々。この男は、それらを食ったということか!
人間ではない。目の前で私の目を射続けるこいつは、既に人間の倫理を壊していた。
こいつは何なんだ!
「気付いた、警部さん気付いたね、気付いたろ。食べた、食べた、計画的にね」
奴は大きく目を見開き、身を乗り出してくる。まるで、私を品定めするように、値踏みするように。蛙が蛇に、鼠が猫に睨まれると、こうなるのだろう。硬直し、この視線から逃げられない。
「エラが出来た時、そりゃぁ驚いたさ、俺でも驚く、驚いた。驚いて船から落ちた……いっひっひっひっひ、落ちた、落ちたって……ぷっ……あっはっは!落ちてもがいて足掻いて息止めて、こりゃぁ死んだと思ったらさぁ、呼吸出来るんだよぉ。まただよまた、また驚いたさ驚いたね。海中で呼吸って、笑ったよわらったわらった」
そして、奴は不意に真顔になった。
「こいつは何だ?なんだんなんだなんだ?考えたねぇ、考えたよ。原因はあれしかないだろ、鯖だよ鯖。俺は鯖のエラ呼吸ってぇ能力を食べて吸収しちまったんだよ」
奴からはかなりの興奮が見て取れた。今までの気怠い様子など微塵もない。歪んだ口角より気泡状の唾液が溢れ、ゆっくり顎を伝い出す。ところが奴はそんなことを気にしている素振りは一切なかった。私はまるで、飢えた野生の獣を前にしている気分だった。